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ポップアートの巨匠「アンディ・ウォーホル」とは
生没年:1928年-1987年
アンディ・ウォーホルは、漫画の1コマを拡大したアメコミ風の作品を制作していたロイ・リキテンスタインと並び、アメリカのポップアートをけん引したアーティストとして知られています。
銀髪のカツラがトレードマークのウォーホルの作品は、絵画だけではなく、彫刻や版画、映像、音楽など多彩なジャンルで制作されており、ウォーホルは 58歳で亡くなるまで、常に新しいチャレンジをし続けたアーティストでした。
また、亡くなった後もウォーホルの作品は世界中で人気を集め、遺品や骨董品がオークションにかけられた際は、売り上げが2000万ドルに到達したそうです。
幼いころは身体が弱かった
ウォーホルは、小学3年生のころ、顔や手足にけいれんが生じるシデナム舞踏病という精神疾患に苦しみました。
身体の色素が抜けてしまい、同時に自身の体調に極度の不安を感じ、重篤な病気にかかっているのではないかと思い込み続けてしまう心気症にも悩まされていました。
病にかかってからは学校へ登校しなくなり、家にひきこもると、ラジオを聞いたり好きな映画スターの写真を集めたりして楽しむとともに、絵も描いていたそうです。
このころの家での過ごし方が、美術家としてのウォーホルを形成する基盤となったと、のちにウォーホル自身が語っています。
また、ウォーホルは早くに父を亡くしており、家庭は経済的に苦しい状況にもありました。
1945年には、奨学金を利用して ピッツバーグ大学へ入学し、美術教師を目指しますが、途中で退学してしまいます。
その後は、カーネギー工科大学に入学し、商業美術やデザインについて学び、商業美術の魅力に気づかされました。
ニューヨークで初の個展を開催する
大学を卒業した後は、1950年ごろから商業イラストレーターとして活動をスタートさせ、独自のにじみを活かした「ブロッテド・ライン・スタイル」と呼ばれる技法を用いて、自動車や靴などの商業的な製品をモチーフにした作品を多く制作しました。
次第に、芸術家としての道を進みたいと思い始めていたウォーホルは、1952年にニューヨークの画廊で初の個展を開催し、新聞広告美術部門でアート・ディレクターズ・クラブ賞を受賞しました。
このときの個展には、トルーマン・カポーティーの小説をテーマにしたドローイングを15点出品し、はじめてアンディ・ウォーホルを名乗っています。
セルフプロデュースにも力を入れ始めたウォーホルは、のちにトレードマークとなる銀髪のカツラを被るようになりました。
代表作を次々に生み出していく
1962年には、32点ものキャンベルスープ缶を描いたキャンバスを展示した個展を開催します。
個展会場には、キャンベルスープ缶が描かれた高さ20cm×幅16cmの32枚のキャンバスが反復して展示されており、商業的で機械的な雰囲気が表現されています。
この個展が、ポップ・アーティストとしてのデビューであるといわれており、ここから次々に代表作となる作品を生み出していきました。
その後、ニューヨークで初開催した個展では『狙撃されたマリリン』や『100ドル紙幣』、『100個のスープ缶』、『死と惨事』シリーズなどの作品が展示されました。
代表作の一つ『狙撃されたマリリン』は、アメリカの人気女優マリリン・モンローが1962年に亡くなった直後に制作されており、ウォーホルの死への意識が大きく表現されていた作品といえます。
ウォーホルは、モンローをセクシーな女性像として作品で表現し、偏って強調されたイメージが大衆の中で一人歩きしていることを伝えています。
スタジオ「ファクトリー」を創設する
1960年代、30代半ばになったウォーホルは、人気ハリウッドスターをモデルに作品を制作するようになっていきました。
そこで、自身のスタジオ「ファクトリー」を創設し、アトリエをそこに移しました。
ファクトリーは、生産工場のように作品を効率よく制作する意図で建設され、各界の著名人やセレブ、放浪者など幅広い層の人々がアトリエを訪れては交流を深めていきます。
ファクトリーの内装全体を銀色で覆っていたことから、別名「ザ・シルバーファクトリー」ともいわれていました。
多くの名作が生まれたファクトリーですが、やがてウォーホルのパトロンや若い芸術家とともに、麻薬密売人も招き入れられるようになり場は乱れていき、ウォーホルがファクトリー常連の女性に発砲されたことをきっかけに閉鎖されてしまうのでした。
映画制作にも取り組む
ウォーホルの芸術性は、映画の制作でも発揮されました。
ファクトリーに出入りしていた著名人たちは、ほぼ全員がウォーホルの映画作品に出演しているともいわれています。
ウォーホルは、精力的に映画制作を行い、『カウチ』や『ヴィニール』、『チェルシー・ガールズ』など、60本を超える映画作品を制作しました。
中でも、チェルシーホテルでの女性のライフスタイルをストーリーにしたドキュメンタリー映画『チェルシー・ガールズ』は、公開後全米で大ヒットし、商業的に成功した最初の映画作品といわれています。
シルクスクリーン作品を再び制作する
ファクトリーが閉鎖されてからは「オフィス」という仕事場で作品の制作を続けました。
1970年代から1980年代にかけては、有名人の肖像画をシルクスクリーンにより多く制作しています。
写真を活用したシルエットに、鮮やかな背景を組み合わせて表現する手法による作品の代表作として『毛沢東の肖像画』があります。
また、ウォーホルは、1970年にアメリカの人気雑誌『ライフ』にて、1960年代にもっとも影響力のあった人物として、ビートルズとともに取り上げられ、世界中から注目を集めました。
作品が冬季オリンピック・サラエボ大会のポスターに採用
1983年、ウォーホルは、1984年に開催される冬季オリンピック・サラエボ大会のポスター『スピードスケーター』を手がけています。
1980年代は、テレビをはじめとした公の場にも多く出演するようになり、キース・へリングやジャン=ミシェル・バスキアなど当時の若手アーティストとも交流を図っています。
1987年、ウォーホルは、胆のう手術後の合併症が原因となり、生涯現役として制作を続けた芸術家人生に幕を下ろしました。
ウォーホルの訃報は、すぐに世界中へ広がり、多くの著名人がウォーホルの葬式に参列しました。
過激派フェミニストの襲撃を受けたことも
1968年、ウォーホルは、ファクトリーの常連であり、過激派フェミニストであったヴァレリー・ソラナスという女性からの襲撃にあいました。
ソラナスは、美術批評家のマリオ・アマヤとウォーホルに向かって3度発砲しましたが、大きなけがはなく、ソラナスは殺人未遂と暴行、銃の不法所持により起訴され、有罪判決が下されました。
ソラナスは、一時ウォーホルに才能を認められたと勘違いをし、その後のウォーホルの態度から裏切られたと思い、銃撃におよんだといわれています。
この銃撃事件をきっかけに、ファクトリーは、出入りや行動に厳しい制限がかけられるようになり、閉鎖となってしまいました。
アンディ・ウォーホルが興味を寄せたポップアートとは
ポップアートとは、現代アートの一つで、第二次世界大戦後の大量生産や大量消費などをシニカルな表現を用いて表現した作品を指します。
風景や人物などをテーマにしたこれまでの絵画とは一線を画し、身近な商品や有名人が作品のテーマとして取り扱われているのが特徴の一つです。
戦争が終わってからの欧米諸国をはじめとした先進国では、大量生産や大量消費が盛んに行われるようになり、テレビでは毎日企業の商品が宣伝され、人々はよりよい暮らしを求めるように。
そのような環境に違和感を覚えたアーティストたちは、自身の作品によってその心情を表現するようになり、ポップアートが誕生したといわれています。
ポップアートは、美術館に飾られているような美しい絵画とは異なる特徴をもっており、広告デザインのような親しみやすさも兼ね備えています。
そのため、大衆からも受け入れられやすく、アートに対して興味がなくても、ポップアートを見かけたことがある人は多いでしょう。
アンディ・ウォーホルがもつ世界観
ウォーホルは、スープ缶やコカ・コーラの瓶、アメリカで販売されていた石鹸付きのたわしであるリブロの箱など、大量生産される製品を、絵画や彫刻を用いてアートとして表現しました。
また、多くの人が知っている有名人の姿をシルクスクリーンの技法を用いて、作品自体を大量生産するなどの制作活動も行っています。
ウォーホルが生み出す世界は、古典的で難しい芸術ではなく、あくまで身近なアートでした。
芸術に大衆性を持ち込みポップアートを確立させたウォーホルの世界観と作品たちは、富や幸福の象徴として、人々を魅了しました。
アンディ・ウォーホルの代表作
ウォーホルは、芸術家の中でも多彩で多作であるといわれています。
絵画や彫刻だけにとどまらず、映画やCDジャケット、ポスターの制作など、幅広い分野でその才能を発揮していました。
『キャンベルスープ缶』
『キャンベルスープ缶』は、ウォーホルの初期作品の中でも傑作といわれています。
幼いころによく飲み親しんだスープ缶を題材にした作品で、1962年に制作されたこの作品には、キャンベル社が販売する32種類のスープ缶が描かれています。
『マリリン・モンロー』
『マリリン・モンロー』は、モンローが薬物の過剰摂取により亡くなった直後に制作された作品で、 大量消費社会や人間の死に興味をもっていたウォーホルならではの作品といえます。
ウォーホルがモンローのファンであったこともあり、1967年に制作された作品以降も、モンローはさまざまなバリエーションのシルクスクリーン作品のモチーフとなっています。
『毛沢東』
1973年に制作された『毛沢東』は、天安門広場にある毛沢東の肖像画をコピーして作られたものです。
ウォーホルは、1950年代後半から神格化されていった毛沢東のプロパガンダに嫌悪感を抱いていたため、派手な配色で落書きのようなデザインを施したといわれています。
死後、コラボ商品も販売されている
ウォーホルが亡くなった後、自身の生前の希望によりアンディ・ウォーホル美術財団が設立され、作品の著作権や商標を取得した財団は、さまざまな企業とコラボレーションしています。
たとえば、化粧品ブランドのSK-Ⅱでは、アンディ・ウォーホルが手がけたテレビ番組を象徴する色鮮やかなカラーバーがデザインされたコラボ商品を販売していました。
また、ユニクロでは、ウォーホルをはじめバスキアやキースなどとのコラボレーションアイテムを販売しています。
『キャンベルスープ缶』や『ブリロ・ボックス』がデザインされたTシャツは、多くの大衆から人気を集めました。
年表:アンディ・ウォーホル
西暦 | 満年齢 | できごと |
1928 | 0 | アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグで誕生。ルース・バスカおよびアンドレイ・ウォーホラの三男。 |
1945 | 17 | カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)に入学し、商業美術を学ぶ。 |
1949 | 21 | 卒業後、ニューヨークに移住し、商業イラストレーターとして働き始める。 |
1962 | 34 | 『キャンベルスープ缶』を制作。ポップアート運動の中心的存在となる。 |
1964 | 36 | ファクトリー(スタジオ)を設立。ここでシルクスクリーン技術を使った大量生産的作品を制作する。 |
1968 | 40 | フェミニスト活動家ヴァレリー・ソラナスにより銃撃を受け、一命を取り留めるも後遺症に苦しむ。 |
1972 | 44 | 『毛沢東』を制作。政治的な人物像をテーマにした作品が注目される。 |
1980年代 | 50代 | 映画制作、テレビ番組のプロデュース、雑誌『Interview』の発行など、多岐にわたる活動を展開。 |
1987 | 59 | 胆嚢手術後に合併症で死去。ニューヨークで葬儀が行われ、ピッツバーグに埋葬される。 |