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尾形乾山とは
生没年:1663年-1743年
尾形乾山は、江戸時代に陶工や絵師として活躍していた人物で、琳派の画家として活躍していた尾形光琳を兄にもっています。
乾山は、呉服商である雁金屋の3男として生まれました。
複数の号を持っており、深省、乾山、霊海、扶陸、逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂などがあります。
一般的には、窯の名である乾山で知られています。
琳派を代表する画家である尾形光琳を兄にもっており、乾山が制作した器に光琳が絵付けした合作もいくつか残されていて、いまもなお高い評価を受けているといえるでしょう。
勉強熱心で読書家な質素な暮らしを送る
尾形乾山は、派手好きで遊び人だった兄の尾形光琳とは正反対で、勉強熱心で質素な生活を送っていました。
乾山は、日本の三禅宗の一つである黄檗宗に傾倒しており、質素な暮らしを好んでいたそうです。
生まれは裕福な呉服屋であったため、小さなころから多彩な芸術に触れる機会があり、自由に生活しながら文化的なセンスを養っていきました。
1687年、乾山が25歳のときに父が亡くなり、遺言により屋敷や書籍、金銀などの膨大な遺産を兄と折半で譲り受けています。
しかし、莫大な遺産が手に入っても質素な生活を続けていた乾山は、2年後に洛西双ヶ岡で習静堂と呼ばれる書店を構えて隠遁し、文人生活を送りました。
本格的に陶芸を学ぶ。そして人気を集める
乾山が構えた書店の近くには、京焼の祖と呼ばれていた陶工の野々村仁清の窯がありました。
もともと多くの芸術に触れていた乾山は、陶芸の心得もあったため、仁清から本格的に陶芸を学ぶことに。
1899年、公卿二条綱平から鳴滝泉谷の山荘を授かった乾山は、窯を開いて陶工として生計を立て始めました。
窯が京都の北西である乾の方角にあったことから、窯を乾山と名付け、制作した作品の商標となり、自分自身の雅号としても使用するようになりました。
乾山は、次第に陶工として名が知られるようになっていき、仁清の意思を引き継ぎ京焼を発展させていきます。
当時、画家として本格的に活動を始めていた兄の光琳は、琳派を代表する画家として屏風絵といった作品を制作し、人気絵師としての地位を築き上げていました。
乾山は、琳派の画風を意匠化し、焼きものへ反映させることに成功し、人気を高めていきました。
兄弟合作で多くの作品を制作
1712年、尾形乾山は鳴滝泉谷の山荘近くに立てていた窯を閉じ、二条丁字尾町に移住し、共同窯を借りて多くの作品を制作するようになりました。
また、乾山が制作した器に兄の尾形光琳が絵を描いていたのもこの時期といわれています。
乾山の器は、懐石道具を中心に制作されており、素朴な味わいの中に洗練されたデザインが光る作品に、光琳の自由な絵付けが合わさり、新しい京焼の世界を生み出していました。
1716年、光琳が亡くなったころ、乾山の陶芸家としての生活も不振に陥っており、20年ほど苦しい暮らしをしていたそうです。
1731年に入ると、輪王寺の宮に紹介され江戸の入谷に移り住んだ乾山は、窯を開いて陶芸活動を続けました。
1737年、下野国佐野に招かれ、陶芸指導を行ったそうです。
乾山の陶芸指導は熱心なもので、江戸で「陶工必用」、佐野で「陶磁製方」と呼ばれる陶法伝書を執筆しています。
もともと漢詩や書を好んでいた乾山は、陶磁器に優れた書を残しておりますが、晩年は絵画にも情熱を注ぎ、風情豊かな日本画を描きました。
尾形乾山のシンプルだが魅力のある作風
尾形乾山が陶芸家として活躍していた江戸の初期は、京都で焼きものが生産され始めた時代でした。
鳴滝泉谷の窯で制作された作品には、さまざまな種類がありますが、特に印象深いのが角皿と蓋物です。
角皿そのものを四角いキャンパスに見立てており、絵画をそのまま器に表現するという自由な発想のもと制作されていました。
また、蓋物は籠や漆器から着想を得たといわれており、丸みを帯びた形状が個性的です。
外側には琳派風の装飾的なデザインが施されており、ふたを開けると対照的なモノトーンで落ち着いた色合いの意匠が表現されている特徴的な作品といえます。
尾形乾山の代表作
京焼の祖と呼ばれる野々村仁清に師事した尾形乾山の作品は、素朴ながらも洗練されたデザインが目を引きます。
また、琳派風の絵付けも特徴の一つです。
『銹絵観鷗図角皿』
『銹絵観鷗図角皿』は、尾形乾山と尾形光琳の兄弟合作作品です。
乾山が得意としていた角皿の作品であり、1984年に重要文化財に認定されています。
外側には雲唐草が、内側には枠取りした牡丹文と雲唐草が描かれています。
兄弟合作の角皿作品は、現在20点ほどが見つかっていますが、その中でも『銹絵観鷗図角皿』は光琳の軽妙な筆致が光る作品であり、裏面に大書された乾山の銘文の見事さも相まって、兄弟作品の中でも代表格の一つといえるでしょう。
『銹絵寒山拾得図角皿』
『銹絵寒山拾得図角皿』は、光琳が京都に戻ってきてから亡くなるまでの7年間のどこかで制作されたといわれています。
正四方の一対の角皿で、縁は切立縁で、底部の周縁を面取りに仕上げているのが特徴です。
2つとも見込周縁を界線で囲んでおり、中には人物図が描かれています。
また、低い立ち上がりの内側には雲唐草文、外側には中央円窓内に五弁の花文が描かれており、両側に雲唐草文が描かれている構成です。
『色絵竜田川図向付』
『色絵竜田川図向付』は、皿の上に金彩で縁取られた赤や黄色、緑などの鮮やかな紅葉が重なり合って描かれており、銹絵で竜田川の流水文が描かれている特徴があります。
鮮やかな紅葉の色彩と、躍動感ある水しぶきが見る者の目を惹きつけます。
十客すべての高台に乾山の名が記されていますが、筆跡が明らかに異なっているものもあり、複数の職人によって制作された作品ではないかとする説もあるのです。
制作時期は明らかになっていませんが、工房形式をとっていた二条丁子屋町時代の作品と想定されています。
『花籠図』
『花籠図』は、日本画作品で、江戸に移住した晩年に制作された作品といわれています。
3つの籠が墨で描かれており、ススキや菊、桔梗、女郎花などが入れられていて、鮮やかな色彩で秋の草花が描かれているのが特徴です。
空にはうっすらと暗雲が立ち込めており、寂しげな風情が感じられる作品といえます。
画面上部には、三条西実隆の和歌が秋風に吹かれたような流れる筆致で書かれており、秋の華やかさと詫びた季節を巧みに表現しています。
乾山の日本画の中でも、代表作といえるもので、重要文化財にも認定されている作品です。