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ジョルジョ・デ・キリコ(1888年-1978年)画家・彫刻家[イタリア]

形而上絵画の創立者「ジョルジョ・デ・キリコ」とは

名前:ジョルジョ・デ・キリコ
生没年:1888年-1978年
ジョルジョ・デ・キリコは、イタリアの画家であり彫刻家で、形而上絵画を創立してのちのシュルレアリスムに大きな影響を与えました。
第一次世界大戦以後は、古典的な手法に興味をもち、新古典主義や新バロック形式を取り入れた作品を多く制作しています。
そのため、シュルレアリスムとして活躍していた画家からは、非難を受けることもあったそうです。

アテネで絵を学びドイツへ移住

キリコは、ギリシアのヴォロスにて、ジェノバ生まれの母とシチリア生まれの父との間に誕生しました。
父のエヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の線路を敷く工事を指揮する技師でもありました。
1900年、キリコはアテネにてギリシャの画家であるジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂのもとで美術を学び、1906年には両親とともにドイツに移り住み、ミュンヘンにある美術学校に入学します。
学校では、思想家であり古典文献学者であるフリードリヒ・ニーチェや、哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアー、オーストリアのユダヤ系哲学者であるオットー・ヴァイニンガーなど、19世紀に活躍したドイツ哲学者たちや、アーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーなどの象徴主義の画家が描いた絵画から大きな影響を受けました。

精神的衰弱になりイタリアへ戻る

1909年の夏、キリコはイタリアへ戻り、イタリア北部に位置するミランで6か月のときを過ごします。
精神的衰弱状態であったキリコは、ニーチェの思想や、ギリシアやイタリアへのノスタルジア、啓示の幻覚などに悩まされながらも、何の変哲もない日常生活と並行して、神秘的かつ不条理な世界観を描いていきました。
1910年には、ミランを発ちフィレンツェに移り住み、ベックリンの作品をベースに最初の形而上絵画となる『Metaphysical Town Square』シリーズを制作。
シリーズの中では、キリコがサンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描いたとされる『秋の午後の謎』や『時間の謎』、『神託の謎』、『自画像』が有名です。

トリノで形而上学の建築に衝撃を受ける

1911年、パリへ行く途中キリコは、イタリア北部に位置するピエモンテ州の首都であるトリノで数日間過ごします。
キリコは、形而上学と呼ばれるトリノの広場やアーチ状の建築に、大変衝撃を受け心動かされます。
また、トリノはキリコが敬愛するニーチェの故郷でもあったため、さまざまな思いを馳せたことでしょう。

パリに移住した後は、劇作家や作曲家として活動した弟のアンドレアと合流し、弟を通じてサロン・ドートンヌの審査員を務めていたピエール・ラプラドと出会います。
そして、キリコは『午後の謎』『神託の謎』『セルフ・ポートレイト』の3作品を出品しました。
1913年には、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどにも作品を出品し、これがきっかけでピカソやアポリネールがキリコに興味をもち、初めて作品が売れたのです。
1914年、キリコはアポリネールの紹介により画商のポール・ギョームと売買契約を交わしました。

形而上絵画を確立させる

第一次世界大戦が開戦すると、キリコはイタリアへ戻り徴兵されますが、体力不足と判断されフェラーラ病院に配属されました。
配属先の病院では、絵を描く時間が取れたため、空いた時間を使って絵画制作を続けていきました。
配属先では、かつて未来派と呼ばれていたイタリアの画家カルロ・カッラと出会い、2人は自分たちの絵を「形而上的」と呼ぶように。

形而上的とは、つじつまが合わない、納得がいかない、不思議な、などの意味として用いられており、一種の幻想画ともとれるでしょう。
形而上的な絵画には、不自然なほど誇張された遠近表現、非日常的で幻覚のような強い光と影のコントラスト、古代的なモチーフと現代的なモチーフの融合などの特徴があります。
また、現実ではありえないモチーフの組み合わせとすることから、シュルレアリスムの先駆けともなりました。

古典的な手法に回帰する

第一次世界大戦が終わり、1919年ごろにキリコは、イタリアとフランスで発行されている「ヴァローリ・プラスティチ」と呼ばれる美術誌に、「職人への回帰」という記事を出し、古典的な手法と図像学への回帰を発表しました。
キリコは、ラファエルやシニョレッリなどのイタリアの巨匠から影響を受け、古典的な手法により絵画制作を行うようになり、現代美術とは相対するものとなったのです。

1920年のはじめ、フランスの詩人であるアンドレ・ブルトンは、ある日バスに乗っているときに、パリのポール・ギョーム画廊に展示されていたキリコの『子どもの脳』が視界に入り、衝撃を受けて思わずバスを降りてしまったそうです。
また、ブルトンと同じ思想をもつ画家のイヴ・タンギーも、キリコの『子どもの脳』をバスの車窓から見かけてバスを降りてしまったといいます。
タンギーはじめ、キリコの作品に関心をもった多くの若き芸術家たちは、ブルトンを中心にグループを結成し、パリのシュルレアリスムを築き上げていきました。

1924年、キリコがパリを訪れるとシュルレアリスム派の芸術家たちに歓迎されますが、シュルレアリスム派は、1918年以前の形而上絵画を高く評価しており、1919年以降の古典回帰後の作品には批判的でした。
シュルレアリスム派の芸術家たちとは、うまく関係が築けず、パリで開催したキリコの個展で展示した新しい作品たちは、非難の的となってしまったのです。

自己模倣作品を販売し批判を受ける

1939年、ルーベンスの影響を受けていたキリコの作風は、ネオバロック形式に変化していきます。
さまざまな批評に対して怒りをあらわにしていたキリコ自身は、後期作品こそ成熟した素晴らしい作品だと感じていました。
しかし、形而上絵画以降の作品は、それ以上に高い評価を得られませんでした。
キリコは、形而上絵画により得た成功や利益を再び得ようと、過去に描いた自分の作品の模倣を制作し、販売したのです。
自己模倣作品の多くは、公共や民間のコレクションに入っていたため、キリコは非難を浴びることになりました。

1948年、ヴィネツィア・ビエンナーレに贋作を展示したとしてキリコは抗議を受けます。
キリコは、1910年代に描いた形而上絵画のレプリカをたくさん制作し、レプリカには実際の制作年とはずらした過去の年号を書き入れていたそうです。

 

キリコは頑固で気難しい性格だった?

キリコは、頑固で気難しい性格であったといわれています。
「ゴーギャンは画家として偽物」「ダリの不快な色彩には吐き気がする」「セザンヌの風景画は稚拙」「マティスの絵はカタチにすらなっていない」など、同時代に活躍していた有名な芸術家を、痛烈に批判する言葉をいくつも残しているのです。

また、キリコはトラブルメーカーとしても知られています。
昔に描いた自分の作品を自ら否定し価値を下げさせたり、自分の描いた作品を贋作だと主張し、美術館から撤去するよう命じたりと、さまざまなトラブルを起こしていたようです。

 

独自の世界観にあふれる作品たち

キリコ独自の世界観には、不思議な感覚があふれており、理解しようとするほど深い迷宮にはまってしまうような特徴があります。
作品に小さく人間や影が描かれることもありますが、基本的には無機物で構成されており、描かれた空間の静けさが伝わるのが特徴です。
『アリアドネ』は、恋人のテセウスによりナクソス島に捨てられたアリアドネの神話をモチーフに制作されており、当時パリにいたキリコの孤独感を反映しているといわれています。
『愛の歌』では、壁に巨大な彫刻の顔と外科医が使う手袋が貼り付けられ、画面の下側に緑色のボールが描かれています。
背景には蒸気機関車が走る様子が描かれており、関連性のないモチーフが組み合わさり、夢を見ているような感覚になる作品です。

 

キリコが生み出した形而上絵画とは

形而上絵画とは、空間や時間を意図的にずらして作品を構成する手法です。
キリコの描く作品では、画面の左右で異なる遠近法構造をもっている作品も多く、現実の空間を無視して描かれている背景が、独特で不思議な世界観を生み出しています。
また、彫刻やマネキンなどの異質な静物をモチーフにした作品が多いのも特徴です。

 

ゲームのパッケージデザインに影響を与えた作品も

1911年にキリコが描いた『無限の郷愁』は、ゲームのパッケージデザインにも影響を与えました。
この作品には、古代ギリシア風の建築物とイタリアでよく見られるモダンな都市が融合した不思議な景観が描かれており、コントラストの大きい影と光により郷愁を感じられます。
作品に描かれている大きな塔は、トリノにあった世界で一番高い博物館モーレ・アントネリアーナから着想を得ています。
塔の下の広場には小さな人と影が描かれており、時間が止まってしまっているかのような静けさを感じられる作品です。
この作品の構成を参考に、ゲームクリエイターの上田文人が制作したゲームのパッケージイラストもあります。

 

年表:ジョルジョ・デ・キリコ

西暦 満年齢 できごと
1888 0 ギリシャのヴォロスにイタリア人の両親のもとに誕生。
1900 12 アテネの理工科学校に通い、この頃最初の静物画を描く。
1905 17 父エヴァリストが死去。
1907 19 ドイツのミュンヘン美術アカデミーに入学。ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。
1910 22 フィレンツェに移住し、最初の形而上絵画を手がける。
1911 23 パリに移住。
1913 25 パリのアンデパンダン展で注目を浴び、アポリネールと親交を結ぶ。
1915 27 第一次世界大戦中にイタリア軍に召集され、フェッラーラに駐屯。
1917 29 フェッラーラでカルロ・カッラと知り合う。
1919 31 ローマで個展を開くが、美術史家ロベルト・ロンギに酷評される。ジョルジョ・モランディと知り合う。
1920 32 「形而上芸術について」、「技法への帰還」を出版。
1924 36 14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1926 38 パリへ移住し、シュルレアリストたちとの決別を表明。
1929 41 小説『エブドメロス』を出版。
1938 50 イタリアへ帰還し、ローマに短期滞在後ミラノへ移住。
1978 90 ローマで心臓発作のため没。
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