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パブロ・ピカソ(1881年-1973年)画家[スペイン]

20世紀最大の画家と称される「パブロ・ピカソ」とは

生没年:1881年-1973年
20世紀を代表するパブロ・ピカソは、美術に興味はなくとも名前と代表作を知っている人がほとんどではないでしょうか。
20歳ごろからフランス・パリで本格的に画家として活動を始め、90代で亡くなるまでに数々の代表作を生み出しました。
その作品数は、約15万点にもおよぶといわれています。

幼いころから識字障害を抱えていた

ピカソは、スペインの南部にあるアンダルシア地方、マラガ市で誕生しました。
父のホセ・ルイスは、美術学校の教授でもあり、修復家、地元美術館の学芸員としても働いていました。
ピカソは、幼いころから絵に関する芸術的才能を発揮していて、8歳で初めて油彩画を描いています。
子どものころから美術の英才教育を受けて、絵の才能を開花させていきますが、一方で、美術以外の勉強は、あまり得意ではなかったようです。

当時はまだ障害として認識されていませんでしたが、ピカソは文字の読み書きを困難に感じる識字障害であったといわれています。
そのため、ピカソは授業についていけず教室を追い出されることもあり、その時間を利用してノートにスケッチを描いていました。
字を読むのが苦手だったことが、ピカソの鋭敏な視覚的能力を発達させ、奇想天外な芸術性を生み出すきっかけになったかもしれません。

父から絵を教わり続けたピカソの腕は、日に日に上達していき、1892年には、11歳にしてラ・コルーニャの美術学校への入学を認められ、13歳のころには油絵を描き展示や販売をスタートさせました。

14歳で美術学校に入学する

1895年、ピカソ一家はバルセロナに移住し、ピカソ自身は、父の働き先である美術学校に14歳にして入学を果たします。
このときピカソは、通常は1か月の制作期間が設けられている入学制作を1週間で完成させたといわれています。
バルセロナでは、カフェに集まる前衛芸術家たちとも交流を深めるようになっていきました。

1897年、父に教わり描いた古典的な様式の絵画『科学と慈愛』が、マドリードにて開催された国立美術展で入選し、佳作を受賞して2週間ほど展示されます。
同年、ピカソはスペインで最も有名な美術学校・王立サン・フェルナンド美術アカデミーに16歳で入学。
しかし、アカデミーでの授業は、これまで習ってきたものと同様に古典的な内容であったため、新しい知識や技法などを学べないとして、ピカソはすぐに授業を休むようになりました。

ピカソは、学校ではなくプラド美術館によく通うようになり、ベラスケスやフェルメール、レンブラントなどの名画を模写し、知識や技法を吸収するようになりました。
ピカソは特に、カラヴァッジョとエル・グレコから大きな影響を受けたといわれています。

パリを行き来して個展を開催する

1900年、ピカソは個展を開催し、アール・ヌーヴォーから影響を受けた線画の作品を約150点展示しました。
また、友人で同郷の画家であるカルレス・カサヘマスと初めてパリを訪れ、2か月ほど滞在します。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』では、パリの街で繫栄を謳歌する人々が夜遊びに興じる様子を描き、明暗法を用いて描かれた、夜の街に浮かび上がるバーに集まる人々は憂いを帯びたように見えます。
画面の手前で、テーブルに肘をつきながら意味ありげな笑みを浮かべているのは、当時絵のモデルをしていたジェルメーヌ・ガルガロと呼ばれる女性です。

カサへマスは、ジェルメーヌに恋をしていましたが、想いが叶うことはなく、ピストルを使って自殺してしまいました。
友人が自殺した絶望の中ピカソによって描かれた『死んだカサヘマス』では、アップで描かれた遺体のこめかみにはっきりと銃創が残っている様子が描かれています。
なお、その後ジェルメーヌは、ピカソの愛人となりました。

パリへ移住し人生に大きな影響を与える人物たちと出会う

しばらくスペインとパリを往復する生活を送っていたピカソでしたが、1904年にパリに移り住むことを決意。
このころに出会った詩人のマックス・ジャコブが名づけた「洗濯船」と呼ばれるモンマルトルの建物に部屋を借り、パリで芸術家としての生活をスタートさせました。
ジャコブは、ピカソにフランス語を教え、詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールとピカソを引き合わせてくれた人物でもあります。

その後、アポリネールを通じてジョルジュ・ブラックとも出会い、ピカソとジョルジュの2人は近代美術に大きな影響をもたらしていくのでした。
ピカソは、絵画作品がパリで早くから注目を集めており、当時はシャルル・ボードレールに影響を受けた現代生活を描くスタイルと象徴主義の夢想を融合させた作品を描いていました。

親友カサヘマスと青の時代

親友カサへマスの死により、ピカソは独自のスタイルを確立させ、青の時代に入っていきます。
当時、パリで失恋して落ち込んでいたカサへマスを励まそうと、ピカソは故郷のマラガにカサへマスを連れ帰りますが、心の傷を癒すことはできませんでした。
ジェルメーヌへの未練を募らせたカサへマスは、1901年に再びパリを訪れジェルメーヌに銃を突きつけます。
ジェルメーヌに向けて発砲した後、カサへマスは、自らのこめかみに銃口を押し当て命を絶ったのでした。
幸い、ジェルメーヌには、銃弾は当たっていませんでした。

カサへマスの死により、深い悲しみと大きなショックを受けたピカソは、その後1904年までの数年間、陰鬱な青の色彩をベースにした絵を描き続けます。

バラ色の時代への移り変わり

1904年、青の時代から一変し、ピカソは暖色をメインに使用する絵画作品を描くようになり、バラの時代へと突入していきます。
この時期の作品では、ピンクや赤、オレンジなどの暖色がよく使われており、モチーフにはサーカス団員をよく採用していました。
色彩やモチーフのテーマは明るいものに変化していきましたが、描かれている曲芸師やピエロ、空中ブランコ乗りなどの表情をよく見てみると険しい顔つきをしているのがわかります。
当時、サーカスには、社会に適合できなかった変わった人たちを受け入れる場所という側面があり、青の時代もバラの時代もスタイルは変化しましたが、どちらにもピカソの社会に対する思いが込められていたのかもしれません。

バラの時代、作風の変化とともに、ピカソの生活にも大きな変化が起きており、この時代にピカソはモンマルトルの洗濯船と呼ばれる建物で、本格的なアトリエを構えています。
また、絵のモデルで芸術家のフェルナンド・オリヴィエと恋に落ち、以後7年間、不安定ではありますが、関係が続いていきました。

ピカソとガートルード・スタイン

バラの時代が終わりを迎える1906年、ピカソは小説家や詩人、劇作家として活躍していたガートルード・スタインの肖像画を描きました。
スタインは、前衛芸術のコレクターでもあり、裕福なユダヤ人家庭に生まれ育っていたため、その財力によってピカソのパトロンにもなっていました。
スタインは、ピカソが尊敬する数少ない女性の一人で、お互いに歴史に名を残したいと大きな野心を抱いており、出会ってすぐに意気投合したそうです。

スタインの肖像画は、ピカソが描きたいと申し出て制作されたもので、納得がいくまでスタインは、90回近くモデルとしてピカソの前に座らされたといわれています。
結局、ピカソは1906年にモデルなしで肖像画を完成させたそうです。

アフリカの原始美術から大きな影響を受ける

ピカソは、アフリカの原始美術からも大きな影響を受けており、それが色濃く反映されている作品が、1907年に制作された『アビニヨンの娘たち』です。
当時、アトリエで作品を描いていたピカソは、トロカデロ民俗学博物館を訪れ、フランスが植民地から持ち帰ったとされているアフリカ部族の仮面を見て作品に反映させることを考え付きます。
もともと『アビニヨンの娘たち』には、5人の女性のほかに2人の男性が描かれていましたが、ピカソは男性を消し、3人の女性の顔に儀式用で使うような仮面を描いたのでした。

この作品には、アフリカの原始美術の影響だけではなく、さまざまなスタイルや色彩が融合されています。
例えば、色彩は青の時代とバラの時代の特徴を併せ持っており、絵の具の使い方はセザンヌの影響がうかがえます。
しかし、セザンヌの絵を参考にしつつもピカソは、三角形やひし形などの図形のような校正で人物と背景を描いており、さまざまな角度から見たモチーフを一つの画面で表現しているのが特徴です。

この時代、ピカソはアフリカ美術のコレクションもしており、その後3年間でアフリカ美術の影響を大きく受けた作品をいくつも生み出しています。
1909年ごろからは、ジョルジュの影響もありアフリカ美術から離れてさらに新しいアプローチで絵画制作を進めていくのでした。

キュビズムの創始者となる

『アビニヨンの娘たち』を皮切りに、ピカソは平面的な作品を多く描くようになり、さらにはモチーフを小さく分解し再構築する技法が用いられるようになり、分析的キュビズムと呼ばれるようになりました。
分析的キュビズムでは、色彩は黒や褐色、灰色などのモノトーンで統一されているのが特徴で、モチーフになっている人物や静物は、画面に何が描かれているのか解説なしでは判別が難しいほど、複雑な構成で制作されています。

分析的キュビズムを経て、ピカソは自分が何を描いているのか疑問を持つようになり、絵画と現実を結び付けようとの考えに至ります。
この絵画に現実を貼り付ける考えが、のちに総合的キュビズムと呼ばれるようになったものです。
総合的キュビズムでは、新聞紙や壁紙などの素材をキャンバスに貼り付けるコラージュと呼ばれる技法が生み出され、色彩も豊かになっていきました。

初めての結婚と新古典主義の誕生

第一次世界大戦が勃発すると、ピカソはスペインを離れイタリアを旅行します。
フィレンツェとローマなどを訪れ、初期や盛期ルネサンス時代に活躍したラファエロやミケランジェロ、ベルニーニなどのバロックを代表する画家の作品を鑑賞し、さらにはポンペイやヘルクラネウムで、ローマ時代のモザイク画やフレスコ画に触れ、ピカソは大きな刺激を受けたのでした。

ピカソが新古典主義スタイルの作品を制作し始めたのには、イタリアでのオルガ・クローヴァとの出会いも関係しているといわれています。
オルガは、バレエダンサーで、当時ピカソはバレエの衣装と舞台装置をデザインしており、親交を深めていった2人は1918年に結婚しています。
最初の妻となったオルガから、私だとわかるように描いてほしいといわれ、キュビズムから古典主義スタイルに移り変わっていったという説もあるのです。
またピカソは、オルガを通じて上流階級の人々と交流を持つ ようになり、その結果新古典主義を取り入れるようになったともいわれています。

シュルレアリスム時代への移行

古典回帰した作品を多く描いたピカソは、その後、シュルレアリスムに影響を受けていきます。
シュルレアリスムとは、フランスで発生した芸術運動で、超現実主義とも呼ばれています。
シュルレアリスムでは、目で見て捉えられる意識的な現実世界ではなく、人が無意識の中にもっている世界観を描くスタイルの芸術です。
シュルレアリスムの代表的な画家には、サルバドール・ダリやルネ・マグリットなどがいます。
ピカソは、シュルレアリスムに関心を抱き、非現実的なイメージで人物を描くようになり、独自の世界観をさらに広く展開していきました。

またこの時期、ピカソと妻のオルガとの関係は悪化しており、精神的な不安定さが非現実的なイメージの作品を生み出したのではないかともいわれています。
ピカソ作品には珍しく、淡い色彩で描かれている作品も多く、異様な雰囲気が感じられます。

ヴァロリス期と晩年

1946年、第二次世界大戦が終わったころ、ピカソは自然豊かな南フランスの街ヴァロリスを訪れます。
ヴァロリスでは、昔から陶器製造が行われており、ピカソは毎年開催されている陶器市を訪れたのでした。
陶器の絵画とは異なる美しさに魅了されたピカソは、自ら土を成形して陶器作品を制作しました。
これをきっかけに、1947年ごろから彫刻や陶芸なども行うようになり、特に陶器づくりに没頭したピカソは、1947年~1948年の2年間で、数百点の陶器作品を制作したそうです。

1968年、晩年のピカソは、性をモチーフにした作品を347点以上制作しており、「この年齢になってやっと子どもらしい絵が描けるようになった」と語っています。
晩年に描かれたピカソのスタイルは、新表現主義に大きな影響を与えたといわれており、先駆けとなったピカソは、1973年、91歳で芸術家人生に幕を下ろしました。

ピカソの本名は長い!そして2種類ある?

ピカソの名前は、とても長いことでも有名で、さらには2種類の名前を持っているともいわれています。
役所の記録では、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」とされており、教会の洗礼名では、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ」とされているのです。
非常に長く覚えるのが大変なため、多くの場合「パブロ・ピカソ」と略されています。

ピカソがモナリザを盗んだとして逮捕されていた?

1911年、ルーブル美術館に展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』が盗まれる大事件が発生しました。
その容疑者として名前が挙がったのが、まだ若き日のピカソの名だったのです。
当時、ピカソはジャコブ、アポリネール、ブラックとともに反逆的芸術集団「ラ・バンド・ドゥ・ピカソ」として活動していました。
過激な活動も行っていたため、ピカソとアポリネールが窃盗の犯人ではないかと容疑をかけられてしまったのです。

身に覚えのない犯行に対して必死に無実を訴え、何とか釈放されましたが、名画『モナリザ』は、2年もの間行方不明のままでした。
事件発生から2年後、盗難品の販売を持ちかけられた画商が警察に通報し、ようやく真犯人が判明しました。
『モナリザ』を盗んだのは、当時モナリザの展示用ガラスの取り付けを行っていたガラス工だったのです。

『ゲルニカ』は政府の依頼を受けて描かれた

代表作『ゲルニカ』をピカソが手がけ始めたのは、1937年1月のことでした。
同年5月に開催されるパリの万国博覧会で、スペイン館に飾るための絵の制作を共和国政府から依頼されます。
当時、ピカソが壁画に描こうとしていた題材は、政治とは無関係のものでしたが、同年4月にドイツ空軍の支援を受けた反乱軍が、バスク地方にある小さな街ゲルニカを無差別爆撃し、多くの市民が亡くなった事件を知り、ゲルニカをテーマに作品制作にとりかかったのでした。

また、『ゲルニカ』制作後、第二次世界大戦時にナチス占領下であったパリに住んでいたピカソは、ある日『ゲルニカ』の作品を見たドイツの役人に、「これはお前が描いたのか?」と聞かれ、「ちがう、お前たちがやった。」と返答したそうです。

ピカソに影響を与えた10人の女性

偉大な芸術家ピカソは、多くの女性を魅了し、90代で亡くなるまでの人生の中で多くの女性とかかわりをもってきました。

1人目:オデット

ピカソが初めてパリに出て雇ったモデルが、オデットです。
当時19歳だったピカソとオデットは、パリで同棲していたといわれています。
この時代のピカソは、デッサン力の高さが評価されていました。

2人目:ジェルメーヌ

ジェルメーヌは、親友カサへマスが恋をし、無理心中を図るほどに愛していた女性です。
カサへマスの死後、ジェルメーヌはピカソの描く作品にたびたび登場しており、確証はありませんが、愛人関係にあったのではと考えられています。

3人目:フェルナンド・オリヴィエ

1904年、モンマルトルに移り住んだピカソは、絵画モデルをしていたオリヴィエと出会い、同棲を始めました。
オリヴィエは人妻で、当時夫からDVを受けてパリに逃げ込み、絵画モデルをしていたところ、ピカソに出会ったといわれています。

4人目:エヴァ・グエル

1911年、30歳になったピカソは、スタイン兄妹の家で4歳年下のエヴァ・グエルに出会い惹かれあいます。
グエルもまた夫と別居している人妻で、ピカソと出会った当時は、彫刻家マルクーシの愛人でもあったそうです。
ピカソとグエルの関係は4年ほど続きましたが、1915年にグエルは結核により亡くなってしまいました。

5人目:ガブリエル

ガブリエルは、7歳年下の人妻で、グエルが亡くなる直前から親しい仲になっていたといわれています。
ガブリエルも結婚しており、さらには夫と暮らしている中、ピカソとも関係を持つようになったとされています。

6人目:オルガ・

オルガは、ピカソの初めての妻となったロシア人のバレエダンサーです。
踊り子をしていたオルガに一目ぼれしたピカソは、ロシア貴族のお嬢様であった彼女を射止めるために婚約を交わし、1918年に結婚しました。

7人目:

1927年、オルガと結婚したピカソでしたが、45歳にして17歳のマリーと愛人関係になります。
2人はオルガに隠したまま関係を続け、ピカソはマリーが芸術の霊感をもたらしてくれる女神として、彼女をモチーフにした絵をいくつも制作しています。

8人目:ドラ・マール

ドラ・マールは、ピカソが54歳のときに愛人関係になった女性で、当時マールは28歳で写真家をしていました。
マリーとの関係が解消されていない状況でマールとも関係を持ち、2人がアトリエで鉢わせてしまい、喧嘩になることもあったそうです。
ピカソはそのような2人の様子を見ても止めることはせず、なすがままにしていたといわれています。

9人目:フランソワーズ・ジロー

ピカソは、62歳になっても女性に対する興味を失っていませんでした。
1943年、ピカソは当時22歳で画家を志していたフランソワーズ・ジローと知り合います。
40歳の年齢差があったため、すぐには恋愛関係に発展しませんでしたが、交流を深めるうちにフランソワーズの知性に魅了され、1946年から同棲生活をスタートさせたのでした。

10人目:ジャクリーヌ・ロック

1953年、71歳のピカソは、26歳で離婚経験のあるジャクリーヌ・ロックに恋をし、口説き落としました。
ジャクリーヌとの関係を知ったフランソワーズは、ピカソと別れパリで画家として自立することを決意します。
フランソワーズ側から別れを告げたことに激怒したピカソは、彼女の画家としての道を邪魔しようとし、画家リュック・シモンと結婚したフランソワーズに復縁をもちかけ離婚させ、シモンと離婚した直後にピカソは、ジャクリーヌと結婚してしまうのでした。
その後、ジャクリーヌとの結婚生活は、ピカソが亡くなるまで続きました。

パブロ・ピカソが世界に与えた影響

ピカソは、20世紀の芸術界において、最も影響力のある画家の一人といわれています。
独特の世界観をもったスタイルや技法は、同時代の芸術家だけではなく、後世の芸術家にも大きな影響を与えました。
キュビズムの創始は、その後の抽象芸術に発展していき、世界中の芸術家を新たな表現方法の世界へ導きました。
現代でもピカソの作品は、高い評価を受けており、美術教育の現場においても重要な役割を担っています。
また、美術界だけではなく文化全体にも大きな影響をおよぼしており、ピカソのスタイルや作風は、ファッションや広告、デザインなどあらゆる分野で参考にされています。
奇想天外な発想による独自の作品は、美術界だけではなく一般の人々からも受け入れられ、今日まで多くの人々やものに影響を与えているのです。

 

年表:パブロ・ピカソ

年号 満年齢 できごと
1881年10月25日 0 スペイン南部アンダルシア地方・マガラ市に長男として誕生。
1892年 11 ラ・コルーニャの美術学校に入学。
1895年 14 バルセロナに移住し、美術学校に入学。
1897年 16 『科学と慈愛』がマドリードの国立美術展で入選。その後、マガラの地方展で金賞受賞。
1897年 16 王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ入学するも翌年中退。
1899年 18 バルセロナのカフェ「四匹の猫」へ通い、芸術家たちとの交流を持つ。自身初の個展を開催するなど、徐々にピカソへの注目が集まりはじめる。
1900年 19 個展開催。パリを初訪問し、その後はバルセロナとパリを行き来する。
1901年 20 親友であるカサへマスが自殺。この頃は「青の時代」と呼ばれ、無機顔料のプロシア青を基調とした作品を多く描いている。
1907年 26 『アビニヨンの娘たち』製作。
1911年 30 ルーブル美術館で『モナ・リザ』が盗難に遭い、容疑者として逮捕(1週間後に釈放、真犯人はのちに判明)。
1918年 31 バレエダンサーである、オルガ・コクローヴァと結婚。この頃のピカソは舞台衣装や装置の製作に多く携わっている。
1927年 46 マリー・テレーズ・ワルテルと出会う。ピカソは妻・オルガと離婚を考えるも断念。婚姻関係はオルガが亡くなるまで続く。
1930年 49 『ピカソ婦人像』がカーネギー賞を受賞。
1935年 54 マリー・テレーズとの間に娘が誕生。この年には妻・オルガとは別居している。
1937年 56 『ゲルニカ』製作。この頃、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係に。ドラは『ゲルニカ』の製作過程を写真に記録するなど、ピカソの芸術への理解者でもあった。
1943年 62 画学生であるフランソワーズ・ジローと出会い、のちに2人の子が誕生。
1951年 70 『朝鮮の虐殺』製作。
1952年 71 『戦争と平和』製作。
1955年 74 妻のオルガが死去。
1956年 75 撮影に協力した映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』(監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)が第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。1984年にフランス国宝に指定される。
1958年 77 『イカルスの墜落』製作。
1961年 80 ジャクリーヌ・ロックと再婚。
1964年 83 日本、カナダで回顧展を開催。
1966年 85 パリ(グラン・パレ、プティ・パレ)で回顧展を開催。
1967年 86 巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』をシカゴで公開。
1970年 89 バルセロナにピカソ美術館が開館する。
1973年4月8日 92 肺水腫によって91歳で死去。ピカソの死後、2人目の妻であるジャクリーヌは自殺している(1986年)。
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