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近代的な肖像画で知られている「アメデオ・モディリアーニ」とは
生没年:1884年-1920年
アメデオ・モディリアーニは、ユダヤ系イタリア人画家であり、彫刻家としても活躍していた人物で、前衛芸術家が集まるモンパルナスをメインに制作活動を行っていました。
顔や身体が引き伸ばされたような独特の作風が特徴で、モダニズム形式のポートレイトで有名です。
持病の結核に長年悩まされており、アルコールや薬物などに溺れ、貧しい状況を脱する前に35歳という若さで亡くなりました。
モディリアーニは、生前あまり評価されませんでしたが、死後に高く評価された芸術家の一人です。
現在では、ピカソと並び最も高額なモダニズム作家としても知られています。
幼いころからドローイングや絵画を描いていた
モディリアーニは、イタリアのリヴォルノで、 セファルディ系ユダヤ人の家庭に末っ子として誕生しました。
港町であるリヴォルノは、長い間、迫害され行き場を失ったユダヤ教徒が避難する場所として利用されており、巨大なユダヤコミュニティがありました。
モディリアーニの母ウジェニー・ガルサン は、何世紀にもわたるセルファディ系学者の家系で、父のフラミニオは、実業家であり起業家の家系です。
商才のある実業一家である父は、モディリアーニが生まれるより前に裕福な若い鉱山技師として働いていました。
そして、サルデーニャ島で会社を経営し、約3万エーカーの土地を所有するほど財力がありました。
しかし、1883年に金属価格の低下が起こり、景気が後退したことが原因で、父の仕事はうまく立ち回らなくなり、破産してしまいます。
しかし、母の ガルサンが機転をきかせ、2人の姉妹とともに立ち上げた学校ビジネスを成功させました。
そのような中生まれたモディリアーニは、幼いころから独学でドローイングや絵画を描いていました。
母は、モディリアーニが芸術へ関心を寄せていることをうれしく思い、応援します。
モディリアーニが10歳になるまでは、母が直接絵の教育を行っていました。
モディリアーニは、11歳のときに視力を脅かす危険のある強膜炎にかかり、その後もさまざまな健康問題に悩まされるように。
数年後には腸チフスにかかり、16歳のときに再発してから結核と診断され、モディリアーニは亡くなるまで結核に悩まされ続けることになるのでした。
ミシェル美術学校で絵を学ぶ
母からの後押しもあり、1898年から1900年まで、モディリアーニはミシェル美術学校で絵を学ぶことに。
学校では、19世紀のイタリア美術のテーマや作風をメインに学び、ここでモディリアーニは、初期のスタイルを形成していったといえるでしょう。
1900年、16歳で肺結核を発症してからは強制的に休学となってしまいました。
その後、1901年には、宗教や文学の劇的なシーンを描いていたローマの画家ドメニコ・モレリの作品に大変感銘を受けます。
モレリは、マッキア派と呼ばれる光の明暗を色彩のアクセントを用いて断片的に描くスタイルに影響を与えた人物で、モディリアーニは昔からマッキア派の絵画に影響を受けていたため、モレリの作品にも強く惹かれたといえるでしょう。
1902年、モディリアーニは、生涯をかけて描き続けたポートレイト絵画をより追及するために、フィレンツェのアカデミア美術館内にある裸体画自由美術学校に通いました。
しかし、1年後に結核の症状が悪化し、療養のためにヴェネツィア へ移り住んだため、アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティに入学しなおします。
モディリアーニは、ヴェネツィア ではじめて大麻を体験すると、これをきっかけに学業そっちのけで、街のあやしい場所へと出入りするように。
パリで独自のスタイルを確立させていく
1906年、パリに移り住んでからは、セザンヌやピカソの絵画から影響を受け、また、ルーマニア出身の独創的な彫刻家であるコンスタンティン・ブランクーシをはじめとした彫刻や原始的なアフリカ美術にも興味関心を寄せるようになりました。
前衛芸術の中心地であるパリでは、アカデミー・コラロッシに入学し、絵を学び始めます。
モディリアーニは、彫刻家のジェイコブ・エプスタインと親交を深めるようになり、2人は古代ギリシアの美の神殿を創造する目標を共有し、同じスタジオで制作活動を行うようになりました。
モディリアーニは、「柔らかな石柱」と呼ばれる古代ギリシア美術を題材にしたドローイングや絵画を複数描いています。
また、ピカソや詩人のアポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらとも親交を深め、モンマルトルにある貧しい芸術家が集まるアパート「洗濯船」に落ち着きます。
パリでは当初、アンリ・ド・ロートレックに影響を受けていましたが、1907年ごろからはセザンヌからの影響を強く受け、最終的に独自の作風を確立させていきました。
パリに移り住んでから1年が経ったころ、モディリアーニの生活は一変しており、スタジオはひどく荒れ果て、アルコールや薬物の摂取量も増えていたといわれています。
1914年ごろからは、さらにアルコールや薬物へ依存するようになり、酔っぱらっているときやトリップしているときに裸になり暴れることもあったそうです。
彫刻作品を制作したモンパルナス時代
1909年に彫刻家のブランクーシと出会ってからは、彫刻制作にも取り組んでいました。
モディリアーニは、1912年のサロン・ド・ドーテンヌで彫刻作品を展示しますが、その後は第一次世界大戦が勃発し、彫刻の材料が不足し入手が困難になってしまったことと、体調の悪化により体力がなくなったこと、資金不足などが重なり、彫刻作品の制作をやめて絵画制作に集中するようになりました。
モディリアーニは、アフリカ彫刻の洗練された美しさと力強さに感動し、物質を限定したり、囲んだりする輪郭に人間の本質を表現させる役割を見出し、この期間に磨いた技術や感覚は、のちの絵画制作にも活かされていくのです。
画商の友人の依頼でヌード画を描く
モディリアーニは、画商であり友人のレオポルド・ズボロフスキーから依頼を受けて、ヌードシリーズを1916年から1919年の間で数十点制作しています。
ズボロフスキーは、モディリアーニのためにアパートを貸したり、画材を提供したり、ときにはモデルを紹介したりと、芸術活動を全面的に支えていました。
また、生活のために毎日15~20フランを支払っていたそうです。
ジャンヌ・エビュテルヌとの出会いと悲劇
モディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌの出会いは、1917年のはじめごろのことでした。
ロシアの彫刻家であるチャナ・オルロフは、フランスの画家であり彫刻家でもある藤田嗣治のモデルをしていた19歳の美大生ジャンヌ・エビュテルヌを紹介します。
エビュテルヌは、モディリアーニの芸術性に惹かれていき、2人は恋人関係に。
保守的なカトリック家系であるエビュテルヌの両親は、2人の交際に強く反対しますが、エビュテルヌは、モディリアーニと暮らすことを選びます。
ノートル=ダム・デ・シャン通りのアトリエで同棲をはじめ、モディリアーニはエビュテルヌをモデルにした絵画を制作し始めます。
1920年、モディリアーニが結核性の髄膜炎や薬物濫用により合併症を引き起こし亡くなると、エビュテルヌの家族は彼女を家に連れ戻そうとしました。
しかし、エビュテルヌは錯乱状態に陥っており、モディリアーニが亡くなった次の日にアパートの5階から投身自殺をしてしまいます。
このとき、エビュテルヌは妊娠8か月でした。
もともと2人の交際に反対していたエビュテルヌの家族はモディリアーニを非難し、2人は別々の場所に埋葬されたそうです。
そして、10年後、ようやく2人はパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されました。
顔と首が長い独特な肖像画スタイルが特徴
モディリアーニが描く肖像画は、顔と首が長い独特なスタイルが特徴です。
また、彫刻制作時代に受けた影響により、目には瞳を描かないことが多く、独自の雰囲気をもつ作品が多くあります。
モディリアーニが描いた絵画作品の多くは、油彩の肖像と裸婦です。
肖像画では、モデルとなる人物の心理や画家との関係を表現しており、裸体画では、女性ならではの造形美を表現しています。
アメデオ・モディリアーニはお酒好き?
モディリアーニは、アルコールと薬物に依存していたといわれています。
カフェで近くに座った客の似顔絵を勝手に描き、無理やり売りつけてお金を稼いでは、酒代にして夜の街を徘徊していたそうです。
それを同棲していた恋人のエビュテルヌが、一晩中探し回ることもあったといいます。
裸婦画を展示して警察が踏み込む騒動に
モディリアーニが後にも先にも一回きりとなる初個展をベルト・ヴァイル画廊にて開催したとき、裸婦画を展示したことで開催がスタートしてからわずか数時間で警察が踏み込む騒ぎとなりました。
モディリアーニは、すぐに裸婦画を撤去するか没収されるかのどちらかを選べと警察に迫られたそうです。
その後、個展は1日で強制的に中止されたというエピソードもありますが、実際には裸婦画を撤去して継続されていたそうです。
年表:アメデオ・モディリアーニ
年号 | 満年齢 | できごと |
1884年7月12日 | 0 | イタリア王国トスカーナ地方のリヴォルノに生まれる。 |
1898年 | 14 | 風景画家グリエルモ・ミケーリのアトリエにてデッサン指導を受ける。 |
1899年 | 15 | アトリエにて最良の友オスカル・ギリアと出会う。 |
1900年 | 16 | 結核を患う。 |
1901年 | 17 | 母ウジェニー・ガルサンと、ナポリ、アマルフィア、ローマなどを旅行し、転地療養を目的とした旅をする。そこでイタリア美術に興味を持ち始める。 |
1902年 | 18 | フィレンツェで裸体画教室を学ぶ。 |
1903年 | 19 | ヴィネツィアに移住し、美術の学校に入学する。学校では、カルパッチョ、ベリーニ、シエナ派の研究を行う。 |
1905年 | 21 | 伯父であるアメデ・ガルサンの死去により、援助が受けられなくなり、パリへの移住が先延ばしとなってしまうが、母からの資金援助によりパリに向かう。 |
1906年 | 22 | パリへ移住し、アカデミー・コラロッシに入学する。アパート洗濯船からほど近いモンマルトルに、アトリエを借り活動を開始する。パブロ・ピカソらと交流を深める。 |
1907年 | 23 | サロン・ドートンヌに出品した際、ポール・セザンヌを知り、強く衝撃を受ける。 |
1909年 | 25 | モンパルナスに移り、ルーマニア出身の彫刻家であるコンスタンティン・ブランクーシと交流を深める。各国の民族美術から影響を受けた彫刻作品を作るが、資金不足や健康の悪化などにより続けられなくなる。 |
1914年 | 30 | ポール・ギヨームと出会う。また、イギリス人女性ベアトリス・ヘイスティングスとアとも知り合い、交際を始めるが、2年間で終わる。 |
1915年 | 31 | ポール・ギヨームらの勧めで、絵画に専念し、画業を始める。 |
1916年 | 32 | 愛人となるシモーヌ・ティローと出会うが、1年で終わる。 |
1917年 | 33 | アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと出会い、同棲をする。唯一の個展をベルト・ヴァイル画廊で開催する。 |
1918年 | 34 | ニースに滞在を始める。妻ジャンヌ・エビュテルヌとの間に、長女ジャンヌが生まれる。母と同じ名前である。 |
1920年1月24日 | 35 | 結核性髄膜炎により死去。妻ジャンヌも翌日自宅のアパートから飛び降り自殺した。 |