かわいらしい画風で「仙厓ブーム」が起きるほど人気がある画家の仙厓義梵。
40歳後半からはじめたにもかかわらず、2000点以上の作品を残しています。
目次
仙厓義梵とは
生没年:1750年‐1837年
仙厓義梵は、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧で画家でもあります。
農民都井藤甚八の子として美濃国武儀郡で誕生。
11歳 のころに清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚について悟りを得て、臨済宗の僧となります。
19歳 で武蔵国久良岐郡永田の東輝庵に住する月船禅慧のもとで修行をはじめ、その後師から、その道に熟達した弟子に与える許可である印可を受けます。
月船が示寂した1781年、 仙厓が32歳 のときに同寺を出て行脚の旅にでるのです。
39歳 より博多にある聖福寺の盤谷紹適の教えを継ぎます。
住持を23年 務めて引退をし、遷化する88歳 まで、多くの洒脱、飄逸な禅画(絵画)を残しました。
40代後半から本格的に絵画を始める
仙厓が、本格的に絵を描き始めたのは、40代後半 になってからといわれています。
仙厓の禅画は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかったようです。
83歳 のときに、「絶筆の碑」を立てて断筆宣言しましたがやめられず、亡くなる間際まで絵を描いていました。
「仙厓ブーム」といわれるほど、昭和初期に仙厓の研究は熱心におこなわれました。
各地から多くの作品が発見されて、逸話や論説が乱立します。
生涯にわたって描き続けた「布袋様」
仙厓が生涯にわたって描き続けたテーマの一つに「布袋図」があります。
布袋とは、名は「契此」。
人々の喜捨ならばなんでも喜んでもらい受けて、余ったものは袋の中にしまい込む少し変わった行動で知られた人物です。
契此は、唐時代末から五代時代にかけて中国で実在した僧です。
施されたものをその場で平らげるのが一般的だが、契此は少しでも余りがあれば背負っている頭陀袋に入れて持ち帰ったといわれています。
印象的な布製の袋のイメージから「布袋」と呼ばれるようになったのです。
風変りな契此ですが、施しを受けるにあたっては、常に感謝の心を忘れない素直な気持ちの持ち主です。
優しい気持ちがいつの間にか人々を満ち足りた気持ちにさせてしまう不思議な力を持っていたともいわれています。
仙厓が描いた八通りの「布袋図」
仙厓が描いた『布袋図』は、数多くあり、以下の大きく8通りに分けられます。
・片膝を立てて座り、くつろいだ姿の布袋
・団扇を片手に踊るようなしぐさの布袋
・頭陀袋を背負い歩く姿の布袋
・頭陀袋を背負い、あるいは頭に担いで橋を渡る布袋
・頭陀袋を降ろして休息をする布袋
・両手を大きく上に伸ばしてあくびをする布袋
・月を指す布袋
仙厓の布袋図は、作画スタイルや画風、賛文が時代や年代で変化があるのです。
同じ傾向の作画スタイルには、同じような賛文がともないます。
『布袋画賛』だけでも多くの種類があり、初期のころに描かれた作品は、表情のぎこちなさがあり、表現描写が十分でないとわかります。
まだ仙厓は水墨表現を学んでいる途中だったのでしょう。
『指月布袋画賛』は、穏やかな図ですが、教えの教養や笑いの強制が一切感じられません。
教導の自由さと表現の卓越性が合体した仙厓の代表作であり、制作年代も最晩年期であることがわかります。
賛文は自らの思いを詩文の形でまとめたものであるが、老境にいたって自由さが増していく仙厓。
仙厓の生き方が反映されているように読み取れるでしょう。
「布袋図」から見た仙厓の画風の変遷
仙厓の描写方法は、ときが経つにしたがって自由になっていきます。
布袋の姿も伝説の布袋らしい姿から脱皮し、朗らかで優しい、一見すると子ども落書きのようにも見える自由さを獲得していくのでしょう。
重い荷物を背負って踏ん張っていたり、慎重に橋を渡っていたりした布袋が、いつの間にか完全にその荷物を降ろして休息に入るようになります。
そしていつの間にか眠り込んでしまうのですが、夢の中でも衆生救済の思いをめぐらせるほど、仏の道を遇進しているのです。
あるとき布袋が大きなあくびをして目を覚まし、一言、これまでの自分の苦労は無駄であったと宣言し、今後一切このようなことはしないと宣言します。
同時に、布袋は年を取りすぎたと嘆いたのです。
今や七福神の福神として信抑されている神様である布袋を、仙厓はあえて年を取らせてしまうのです。
「布袋図」は仙厓の自画像のように変化し続けていったのでしょう。
仙厓義梵の代表作
仙厓は、生涯にわたって2,000点 にも及ぶ作品を残したといわれています。
禅画の枠を超えた「やわらかくて、かわいらしい」世界観で多くの人々を魅了し続けました。
『指月布袋画賛』
『指月布袋画賛』は、子どもたちと戯れる布袋様の心和む情景のような図です。
しかし、「月」を暗示する賛文「を月様幾ツ、十三七ツ」の存在により、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図であることがわかります。
月は円満な悟りの境地を、示す指は経典を象徴しています。
しかし、月が指の遥か彼方の天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習では容易に到着できず、厳しい修行を通して習得するものであると説いているのです。
『座禅蛙画賛』
こちらを向いて、にやりと笑っている一匹の蛙の絵です。
坐禅をしているような姿勢で日々を過ごしている蛙を題材に、禅のなんたるかを説いています。
「坐戦そて人か佛になるならハ」の賛文のとおり、坐禅という修行の形式にばかりこだわり、求道の精神を見失っているようでは、悟りは一向に訪れないと説きます。
形式ばかりにとらわれていた当時の弟子に向け発せられた、仙厓のほほえましくも手厳しい警鐘です。
『〇△▢』
「〇」「△」「▢」の図形のみを描いたシンプルな絵です。
左端には、「扶桑最初禅窟(日本最古の禅寺)」聖福寺の仙厓を描いたとする落成款識のみしかありません。
画中のに作品解釈の手がかりとなる賛文がなく、仙厓禅画の中では最も難解な作品とされています。
「〇」が象徴する満月に円満な悟道の境地にいたる修行の階梯を図で示したとも、この世の存在すべてを3つ図形に代表させ、「大宇宙」を小さな紙に凝縮させたともいわれているのです。
『〇△▢』の解釈には、諸説があります。
『一円相画賛』
丸い円を描くことは円満な悟りの境地の表明であるとして、古来より禅僧の間で好んで描かれてきました。
しかし、「これを茶菓子だと思って食べよ」という賛文から、大切な円相図をたやすく捨て去ってしまおうとする仙厓の態度が読み取れます。
禅においては、常により高い悟りの境地を求め続けるべきとあり、画賛の完成は、さらに深い悟りの追及へのスタートでもあるのです。
『一円相画賛』は、禅僧・仙厓の真摯な求道精神を現しています。
『堪忍柳画賛』
『堪忍柳画賛』には、しなやかに枝を風になびかせる柳の大木を描き、その横に「堪忍」の大きな文字が隣に並んでいます。
吹き抜ける風の中には、耐え難い風もあるでしょう。
柳はどのような風もすんなり受け流してやり過ごします。
仙厓は、柳の姿にも人生の手本としての教訓を読み取り、我慢できないこともじっと耐え忍ぶことの肝要を説く図としてまとめあげました。
処世訓だけでなく、禅の修行にも重要な忍辱の教えに通じる仏教の根本の押絵でもあります。
『老人六歌仙画賛』
『老人六歌仙画賛』は、年を重ねると日ごろの立ち振る舞いの特徴や、口うるさい言動などが顕著になる老人たちを、「歌仙」に例えて詠んだ先人の歌を、仙厓流に再構成して賛にまとめています。
「老い」は仕方ないと諦めずに、輪廻の長い流れからするとほんの一時の辛抱でしかないと肯定的にとらえて、「老い」を謳歌することを提案した仙厓流の「老い」への指南書です。
描かれている老人たちは皆おおらかで、のびのびとしてほほえましい様子です。
『鶴亀図』
『鶴亀図』は、福岡県指定されている仙厓最大の描幅作品です。
気迫あふれる書は、「益子」「論語」「老子」「韓非子」といった中国の古典から引用されています。
また、「世間の書画は人に笑われることを嫌うが、ワシ仙厓の画は人に笑ってほしい」という言葉も書かれています。
亀は、「亀は死んで占いに使われるより、亀として生きたほうがよい。高い地位で束縛されるより、貧しくても自由なほうがよい」、鶴は「鶴の長い脚を切断し、カモの短い脚に継ぎ足せばいいと思うのは、人間の我が儘。鶴もカモも喜ばない。自然に手を加えてはならない」といった老荘思想が念頭にあったようです。