目次
日本最初期の前衛絵画を描いた「東郷青児」とは
東郷青児
生没年:1897年-1978年
東郷青児は、夢見るような甘い女性像を描き人気を博した日本の洋画家で、昭和の美人画家として、戦後の日本で一世を風靡しました。
絵画作品だけではなく、本や雑誌、包装紙などにも作品が使われ、多くの人に親しまれていました。
詩人画家・竹久夢二の雑貨店で働く
東郷は、鹿児島県鹿児島市に生まれ、幼いころに家族で東京に引っ越しており、小学校の同級生には洋画家の林武がいました。
東郷は、中学時代から絵画を学んでおり、中学4年のころに出会った画家で詩人の竹久夢二の作品に感動し、青山学院中等部を卒業すると画家を志すようになりました。
夢二に憧れを抱いた東郷は、17歳で夢二の雑貨店「港屋絵草紙店」で働き始めます。
このお店は、恋多き夢二が唯一籍を入れた女性、たまきのために開かれたお店で、たまきは一回り以上年の離れた東郷を弟のようにかわいがり、夢二の写しの手伝いを東郷にお願いしていました。雑貨店で写しをして技術を磨いていった東郷の美人画には、夢二の影響を受けているであろう特徴が見受けられます。その後も、東郷は女性美への探求を続けていくのでした。
前衛的なピカソ・女性的な作風のラファエロから影響を受ける
東郷が18歳のころ、東郷の才能に気づいた作曲家の山田耕筰から支援を受け、絵画の世界へと進んでいきます。耕筰は、作曲家として活動していましたが、当時のヨーロッパ絵画の最先端を研究していた人物でもありました。
その後、有島生馬に師事し、18歳のときに開催した初個展では、未来派風の前衛的な新人として注目を集めています。翌年、19歳で二科会に初出品した『パラソルさせる女』が二科賞を受賞し、才能を開花させていきました。
20代になるとヨーロッパへ留学し、東郷の作風に大きな影響を与える転機が訪れます。
東郷は、20世紀最大の画家と評されるピカソや、エコール・ド・パリの代表的な画家といわれていた藤田嗣治らと交流する機会を得て、画家として新しい学びや影響を受けました。
また、ピカソの前衛的な芸術だけではなく、ミケランジェロをはじめとした古典芸術にも深く感銘し、ヨーロッパにいる間にキュビズムや未来派、シュルレアリスムなど、さまざまな芸術を吸収し、独自のスタイルを確立させていきました。女性的で優美な作風が特徴のラファエロにも影響を受けており、東郷独自の美人画を描くベースとなったともいえるでしょう。
帰国後は、震災から復興した東京を彩るモダニズム文化の流れに乗り、絵画だけではなくさまざまな分野で活躍していきます。
1935年前後からは、洋画家の大先輩である藤田嗣治と大画面の装飾画に挑み、百貨店や画商から毎年のように個展開催の依頼がくるようになりました。
1960年代からは、二科会の交換展のために毎年世界各国を訪れるようになり、同時にこれまでのスタイルを変化させ、盛り上がった絵の具と荒々しいタッチで抽象画にようなデフォルメを取り入れていきました。
また、アフリカやアラブ諸国、南米などの風俗をモチーフに取り入れ新しいスタイルを生み出していきます。
64歳になると二科会会長に就任し、72歳のころにフランス政府から「芸術文化勲章オフィシエ」を授与されます。
さらに翌年、日本でも「勲三等旭日中綬章」を受章するなど、画家としての地位を確立させていきました。
洋菓子店の包装紙のデザインも手がける
東郷は、絵画だけにとどまらず、さまざまな分野でデザインの才能を発揮しました。
挿絵や洋菓子の包装紙、化粧品のパッケージ、マッチ箱、本の装丁など、あらゆる製品のデザインを手がけています。
東郷のアートは身近なものにも組み込まれ、多くの人に愛されました。特に、洋菓子店の包装紙はファンの間で人気が高く、ブックカバーや栞として利用する人もいたそうです。
2007年に閉店した吉祥寺の老舗喫茶店「ボア」では、包装紙だけではなくケーキの箱や店の名前、ロゴに至るまで東郷がプロデュースしたことで知られています。
また、小説家の谷崎潤一郎とコラボし、谷崎の耽美的な言葉と東郷の柔らかな曲線の美人画が融合した作品も制作しています。画業だけではなく、フランス文学の翻訳や小説の執筆など、幅広い分野で活躍を収めました。
芸術のデパートと呼ばれる芸術家ジャン・コクトーが書いた小説『恐るべき子供たち』は、翻訳から挿絵、装丁まで東郷が担いました。
東郷青児が描く美人画の特徴
東郷の描く美人画は、「青児美人」や「東郷様式」などと呼ばれ、独自のスタイルを確立していました。
ヨーロッパ留学を得てさまざまな経験と刺激を受け、西洋絵画の伝統技法を融合させ時代の先駆けとなる、新しい女性の理想像を表現しました。
デフォルメされた艶やかな曲線や、限られた色数のみを用いたシンプルな色彩が、青児美人の大きな特徴といえます。
大胆な構図やフォルムは、ピカソからの影響を受けており、自信のある色以外は使わないという教えのもと、東郷は独自のセンスで女性を表現していきました。
東郷は、流行りのファッションにも敏感で、女性が着用しているトレンドアイテムを絵画に取り入れていました。
東郷の描く女性像には、着物から洋服、当時フランスで流行っていたモード系、世界各国の伝統衣装など、さまざまな衣装が着せられ、東郷の繊細な美意識が表現されています。
年表[東郷青児]
西暦(和暦) | 満年齢 | できごと |
1897年(明治30年) | 0歳 | 4月28日、鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町に生まれる。 |
1914年(大正3年) | 17歳 | 青山学院中等部を卒業。この頃、竹久夢二の「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う。 |
1915年(大正4年) | 18歳 | 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所で制作。日比谷美術館で初個展を開催。有島生馬に師事。 |
1916年(大正5年) | 19歳 | 第3回二科展に『パラソルさせる女』を出品し、二科賞を受賞。 |
1920年(大正9年) | 23歳 | 永野明代と結婚。 |
1921年(大正10年) | 24歳 | フランスに留学。国立高等美術学校に学ぶ。長男志馬が誕生。 |
1924年(大正13年) | 27歳 | ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く。 |
1928年(昭和3年) | 31歳 | 帰国し、第15回二科展に留学中の作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。西崎盈子と関係を持つ。 |
1929年(昭和4年) | 32歳 | 愛人の西崎盈子と心中未遂事件を起こす。事件後、宇野千代と同棲。 |
1930年(昭和5年) | 33歳 | ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳し、白水社より刊行。 |
1931年(昭和6年) | 34歳 | 二科会に入会。 |
1933年(昭和8年) | 36歳 | 宇野千代と別れ、みつ子と同棲開始。 |
1934年(昭和9年) | 37歳 | 麻雀賭博の容疑で警視庁に検挙される。 |
1939年(昭和14年) | 42歳 | みつ子との間に長女たまみ誕生。 |
1951年(昭和26年) | 54歳 | 歌舞伎座用の緞帳を制作。 |
1957年(昭和32年) | 60歳 | 日本芸術院賞を受賞。 |
1960年(昭和35年) | 63歳 | 日本芸術院会員に就任。 |
1961年(昭和36年) | 64歳 | 二科会会長に就任。 |
1969年(昭和44年) | 72歳 | フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与される。 |
1970年(昭和45年) | 73歳 | 勲三等旭日中綬章を受章。 |
1976年(昭和51年) | 79歳 | 勲二等旭日重光章を受章。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設される。 |
1978年(昭和53年) | 80歳 | 4月25日、急性心不全により熊本市で死去。正四位、文化功労者追贈。 |