最高額で売るなら、
だるま3で解決!

最高額で売るなら、だるま3で解決!

「日展」の歴史と日展に出品した有名作家・作品

日展とはどのような展覧会?

日展は、毎年秋に開催される日本の代表的な美術団体展で、東京の上野公園にある東京都美術館で長年行われてきました。
現在は、六本木の国立新美術館に場所を移し、より多くの観客にその魅力を伝えています。
日展は、単に絵画作品が集まるだけでなく、「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸美術」「書」の5つの部門が同時に展示されるのが特徴です。

公募展としても知られ、広く一般から出品が募集され、応募者の中から入選や特選が選ばれ、会員作家の作品とともに並べられます。
出品者の年齢層は広く、20代の若者から、100歳を超えるベテラン作家まで、さまざまな世代の作品が集まるのが特徴です。
毎年約3000点もの作品が展示され、ひとつの会場にこれほど多くの新作が一堂に会する機会は、他の展覧会ではなかなか体験できません。

子どもから大人まで美術鑑賞を楽しめる

日展では、さまざまな年齢層の人々が美術鑑賞を楽しむ姿が見られます。
多くの小学生や中学生も、学年やクラス、部活動の一環として鑑賞に訪れています。
日展では、作品を鑑賞するだけでなく、出品した作家自身が会場にバッジをつけていることが多く、来場者は直接作家に質問できるのです。
例えば、「どのようにして作品を作るのか」「どれくらいの時間をかけて完成させるのか」といった疑問をその場で聞くことができ、子どもたちにとっても大きな学びの場となっています。
このように、日展は幅広い世代に美術の魅力を届ける、教育的な側面も強い展覧会です。

日展の歴史

日展は、長い歴史を誇る日本の美術展であり、その起源は1907年に開催された「文展」に遡ります。
文展は、日本の美術界における新たな試みとして誕生し、その後数十年にわたって日本の美術を牽引する存在となりました。
戦後に「日展」として再開し、今でも毎年開催される重要な美術展となっています。

明治に「文展」として開催される

日展の始まりは、1907年に開催された「文展」にあります。
この展覧会は、当時の内閣総理大臣であった西園寺公望や文部大臣の牧野伸顕をはじめ、帝国大学の教授や東京美術学校の校長など、当時の日本の文化界の有力者たちによって実現されました。
特に、美学者の大塚保治や画家の黒田清輝などがその開催に尽力し、文展の開催が日本の美術界に大きな影響を与えました。
文展は、日本画や洋画などの美術作品を幅広く展示し、絵画や彫刻の枠を超えて多様な美術分野を取り入れた展覧会として注目を集めました。

審査委員の選考で苦戦する

「文展」の開催を受け、当初は日本の美術界が活気づき、国の支援を受けたことに対する期待感が高まりました。
しかし、審査委員の選考を巡る対立という深刻な問題が浮かび上がります。
文展の審査委員の選考には、当時の有力な美術家たちが関わり、最初に名前が挙がったのは、日本画の大家・橋本雅邦でした。

しかし、橋本は審査委員の打診を受けた際に、岡倉天心が参加するのであれば自らも受けるとの条件をつけました。
岡倉天心はその才能により、東京美術学校で排斥運動を起こしていたこともあり、審査委員の選考にはかなりの波乱が予想されました。
この段階で、岡倉天心を支持する意見と反対する意見が交錯し、選考は難航します。

岡倉天心が審査委員に参加することを条件に、さらに下村観山や横山大観といった重要な日本画の作家も名を連ねることとなり、審査委員の選考は混乱を極めます。
その結果、各地の派閥が対立し、審査委員選考が長引いたことは、後の文展の解散につながる一因ともなりました。

第1回文展は元東京勧業博覧会美術館で開催

第1回「文展」は、1907年(明治40年)10月25日から11月20日まで、上野公園内にある元東京勧業博覧会美術館で開催されました。
初開催となる文展では、日本画、洋画、彫刻の3部門にわたる出品があり、各分野で注目を集める作品が数多く出品されました。

日本画部門では、京都の竹内栖鳳が六曲一双の屏風『雨霽』を、東京の下村観山が『木の間の秋』という二曲一双の屏風、さらに、寺崎広業の『大仏開眼』なども出展されており、大変好評を得たそうです。

洋画部門では、まだ20代半ばだった和田三造が『南風』で最高賞にあたる2等賞を受賞しました。
和田自身も、その受賞に戸惑い、雑誌のインタビューでは「このような責任を負うのは将来が不安だ」とコメントを残しています。

審査員の分裂により戦後に日展として再開

文展は、美術界を活性化させ、多くの傑作を世に送り出した重要な展覧会でしたが、審査員間での分裂が深刻化し、1918年(大正7年)に一度その歴史を閉じました。
その後、1919年(大正8年)には、文部大臣の管理のもと、帝国美術院が主催する「帝国美術院展(帝展)」がスタート。
帝展では、審査員が帝国美術院によって推薦され、内閣によって任命された中堅作家が中心となって選考を行う形式が採られました。

1937年(昭和12年)からは、新たに文部省が主催する「新文展」が開催されましたが、太平洋戦争の影響で1943年(昭和18年)には中断を余儀なくされました。
戦後、1946年(昭和21年)に「日本美術展覧会(日展)」として再開され、日展はその後も組織の改編や体制の変化を経ながら、毎年秋に日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門を対象に開催されています。

日展に出展(受賞)した有名作家・作品

日展は、数多くの優れた作家たちがその舞台に立ち、名作を発表してきた重要な展覧会です。
日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の各部門で優れた作品が登場し、その後の美術界に多大な影響を与えました。
日展に出展した作家たちは、独自のスタイルを築き上げ、現代に至るまでその功績は語り継がれています。

日本画:東山魁夷

東山魁夷は、昭和の時代を代表する風景画家として広く知られています。
彼の作品は、過酷な戦争体験や個人的な悲しみに根ざしており、その背景には深い感受性と共感が感じられます。
特に、彼が戦後に発表した『残照』や『道』は、荒廃した時代を乗り越えた人々の心情を代弁するかのような温かみを持ち、見る者に大きな感動を与えました。
日展においては、『白馬の森』を出展し、透明感のある空気とともに夢幻的でメルヘンチックな世界を描き、観る者を幻想的な風景へと誘いました。

洋画:黒田清輝

黒田清輝は、日本の近代洋画の礎を築いた巨星であり、教育者や美術行政家としても重要な役割を果たしました。
フランス留学時の印象派の影響を受け、彼は「外光派」と呼ばれる新しいスタイルを日本に導入。
日展においては、『赤小豆の簸分』を出展し、洋画に日本画的な要素を取り入れた独自の作風を披露しました。
その作品は、広がりを持った空間構成と奥行きのある表現が特徴で、まさに黒田清輝らしい作品となっています。

彫刻:山崎朝雲

山崎朝雲は、日本の近代彫刻界を代表する作家であり、特に木彫における写実的な表現で知られています。
彼は、伝統的な技法をもとにしながらも、新たな彫刻表現を追求しました。
日展に出展した『大石良雄』は、力強い木彫によって人物の力感や表情をリアルに表現しており、その写実的な技法は今なお高く評価されています。

工芸美術:板谷波山

板谷波山は、近代日本の陶芸界において非常に大きな影響を与えた作家であり、陶芸を芸術の領域へと昇華させた先駆者です。
アール・ヌーヴォー様式の装飾を取り入れたその独自のスタイルは、陶芸の世界に新しい風を吹き込み、近代日本の陶芸を芸術の一部として確立させました。
日展に出展した『花卉文彩磁瓶』は、工芸技術を芸術に昇華させた作品であり、その繊細で美しいデザインが広く称賛されました。

書:尾上柴舟

尾上柴舟は、書道家としてその名を広く知られ、近代的な書道の技法を切り開いた人物です。
若いころから平安時代の古筆に興味を持ち、大口周魚に師事して書道を学びました。
書道教育にも力を入れ、文部省の試験委員を務めるなど、後進の育成にも尽力しています。
日展では『櫻』を出展し、その作品は、かな書道の美しさと力強さを兼ね備え、書道界をリードする存在として高く評価されました。
また漢字と仮名の調和体は、かな書道に新たな流れを生み出し、書道界に大きな影響を与えました。

人気の買取業者はこちら 人気の買取業者はこちら

人気骨董品買取業者はこちら

あなたのお家にある “骨董品、高く” 売りませんか?

買取業者を探す