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はがき一枚に宿る歴史と心情を探る「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」に行ってみた!
皆さんは、森鴎外(1862年-1922年)を知っていますか? 鴎外は、明治から大正時代にかけて活躍した小説家、翻訳家、評論家です。 たくさんの肩書を持っており、大変多彩な人物であったことが分かります。 また、幼少期から優れた才能を発揮しており、軍医としても活躍していました。 今回は、そんな鴎外が活躍する時代に社会へ広がっていったはがきのやり取りを展示している「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」展に行ってきました! この企画展は、森鴎外記念館で開催されています。 森鴎外記念館で開催中の特別展示「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」では、明治・大正・昭和という異なる時代を通じて、日本人の交流や文化がどのように変遷してきたのかを感じられます。 企画展では、それぞれの時代ごとに選りすぐりのはがきが展示され、背景にある人々の思いや文化的な特徴が見えてくるでしょう。 「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」は森鴎外記念館にて開催中 文京区立森鴎外記念館では2023年、江戸千家家元・川上宗雪氏から、明治から昭和にわたり文学者や美術家、ジャーナリストらが交わした貴重なはがきコレクション111点が寄贈されました。 今回の企画展では、季節の挨拶や礼状、私信ならではの本音まで、手書きでつづられたはがきに込められた書き手の個性や人間関係、社会背景が紹介されています。 著名な差出人たちが紡いだ一枚一枚の小さな物語を通じて、当時の文化や交流のあり方を体感しましょう。 森鴎外記念館内に入るための巨大な扉にも、企画展の広告が表現されていました。 また館内に入ると森鴎外の等身大パネルが出迎えてくれます。 企画展示室は地下1階にあり、ロッカーは1階にあるため、チケットを購入したら大きな荷物はコインロッカーにしまってから地下に向かいましょう。 館内は、打ち放しコンクリートを基調としたデザインで、静謐でありながらどこか温かみのある空間が広がります。 企画展示室へと続く細長く深い階段は、静かで穏やかな雰囲気をまとい、吸い込まれるような感覚を呼び起こします。 階段を降りると、そこには心を落ち着けて展示を鑑賞できる空間が広がっていました。 展示について 企画展示室では、明治時代と大正時代、昭和時代に分けて各著名人のはがきが展示されています。 日常の一部として書かれたはがきから、当時の人々の生活や文化、交流が垣間見える内容で、どの時代のものも興味深く感じられる展示です。 また、壁際には常設展示として森鴎外の生涯が紹介されており、こちらも見逃せないポイントです。 なお、企画展では展示室前にある展覧会バナーのみ写真撮影が許可されていました。 展示されているはがきや作品は撮影できませんので注意しましょう。 展示されている明治時代のはがきは27枚。 それぞれのはがきからは、青年期の夢や希望、壮年期の実直な思い、晩年の穏やかな気持ちなど、差出人や受取人の人生においてどの段階でどのような気持ちで送られたものかがうかがえます。 手紙ではなく、短文で気軽に送れるはがきだからこそ、垣間見える人々の日常や心情が味わい深いです。 いまではスマートフォンで撮影した写真を手軽に送れる時代ですが、大正時代は違いました。 はがきに描かれた風景や物事は、当時の人々にとって大切な情報や想いを共有する手段であったといえるでしょう。 旅先で見た景色や感動を誰かに伝えたい、その気持ちが丁寧に綴られたはがきから伝わってきます。 当時の人々がどのような思いで送ったのかを想像しながら眺めると、さらに楽しめますね。 昭和の時代のはがきは69枚と、全体の中でも多くを占めます。 この時代のはがきには、戦時中や終戦後の影響が色濃く反映されていました。 藤田嗣治や恩地孝四郎、永井荷風らが送ったはがきには、時代の厳しさや変化がにじみ出ています。 一方で、堀辰雄や前田青邨が友人に送った軽いメッセージは、現代と変わらない気軽な友情の一面を垣間見せてくれます。 昭和時代のはがきは全体の中で最も多い69枚。 筆書きの美しい文字が目立つものや、手描きの絵が添えられた特別な一枚など、アートのような要素が光ります。 藤田嗣治や永井荷風といった著名な文化人が送ったはがきには、戦時中や終戦後の影響が色濃く映し出されているのが印象的です。 一方で、堀辰雄や前田青邨による友人への何気ないメッセージからは、時代が変わっても人と人のつながりが変わらないことを感じさせてくれます。 なかでも印象的だったのは、肉筆の絵入りはがき。 色数は限られていてシンプルですが、その分、線描の丁寧さや差出人の思いが伝わります。 「受け取る人のためだけに描かれた」という特別感が伝わり、思わず見入ってしまいました。 展示室の壁際には、常設コーナーとして森鴎外の生涯が丁寧に解説されています。 彼の生い立ちや文学、医師としての活動、さらには軍医総監としての功績まで、幅広い人生がわかりやすくまとめられていました。 展示された写真や資料を通して、文豪・森鴎外がどのような人だったのかに触れられるのも、記念館ならではの魅力です。 絵はがきに込められた画家の思い 文章だけでなく、絵も一緒に送れる「絵はがき」は、当時の画家たちにとって表現の場でもあったといえます。 それぞれの作品には、書き手の感情や思いが溢れています。 シンプルな線描きから鮮やかな色彩で描かれたものまで、どれも受取人に特別な印象を与える一枚です。 特に、差出人が直接手を加えた肉筆画は、唯一無二の特別感があり、まさに「小さな贈り物」と呼べるでしょう。 交流の手段としての絵はがき 現代のように気軽に連絡手段が多様でなかった時代に、はがきは貴重なコミュニケーションツールでした。 著名人たちは、単にメッセージを伝えるだけではなく、自分の感性や創造性を添えることで、はがきを通じて交流を深めていました。 旅先の景色や身近な出来事を絵で伝えることで、手紙とはまた違った温もりやリアリティが生まれます。 受取人がはがきを手にした瞬間の驚きや喜びを想像するだけで、当時の温かい交流が目に浮かぶようです。 森鴎外に関連した上映 特別展示「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」では、鴎外に関連した映像プログラムも上映されていました。 上映されていたプログラムは以下の4つです。 ・よみがえる観潮楼 ・鴎外を語る ・鴎外の町 千駄木 ・舞姫を読む 映像プログラムは、鴎外の作品や生涯を視覚的に楽しめる貴重な体験です。 「111枚のはがきの世界」を鑑賞したあと、ぜひ上映プログラムも見てみましょう。 ハガキやTシャツなど多彩なグッズも 文京区立森鷗外記念館では、特別展の魅力をさらに楽しめるオリジナルグッズが多数そろっています。 展示をじっくり堪能した後には、ぜひグッズコーナーもチェックしたいものです。 展示テーマにちなんだポストカードは、はがき文化を感じるにはぴったりのグッズです。 ほかにも、クリアファイルや東京方眼図、一筆箋、鴎外Tシャツなど、さまざまな関連グッズが販売されています。 鴎外や展示内容に関連する書籍も豊富にそろっています。 歴史や文学に触れる新たな視点を得られること間違いなしといえます。 記念館グッズは、自分用はもちろん、文学や歴史好きな方へのギフトとしても喜ばれるでしょう。 展示の余韻を日常生活で楽しむためのアイテムをぜひ見つけてください。 その他ミニイベント 展示をもっと深く楽しみたい方には、学芸員によるギャラリートークもおすすめです。 会期中に複数回開催され、次回は2025年1月8日(水)に予定されています(14時~、30分程度)。 申込不要で、当日の展示観覧券があれば気軽に参加できます。 さらに、展示解説をYouTubeでも配信予定なので、遠方の方や復習したい方にも嬉しい内容です。 まとめ 文京区立森鷗外記念館で開催されている特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」は、明治・大正・昭和の三時代にわたる文学者たちの息遣いを感じられる展示でした。 はがきという小さな紙片に込められた「書く」という行為の意味と、その中に息づく作家たちの感情や生活。 電子メールやSNSでは味わえない、温かみのある交流がここにはあります。 ちょっとした挨拶の言葉や、仕事の報告、友人への感謝の一言。 その一枚一枚から、書き手や受け取り手の生活や心情が感じられるのが不思議で、なんとも魅力的でした。 展示を堪能した後は、館内1階にある喫茶室でひと休みするのもおすすめ。 庭園にある沙羅の木や「三人冗語」の石といった鷗外ゆかりの風景を眺めながら、コーヒーや紅茶、軽食を楽しむ時間は、文学の余韻に浸れる贅沢なひとときです。 運が良ければ、庭園の向こうにそびえるスカイツリーを眺められます。 ただ文学を知るだけでなく、人々が言葉を通してどうつながり、思いを伝えたのかを教えてくれる貴重な企画展。 美しい庭園と共に、その世界をぜひ味わってみてください。 開催情報 『111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力』展 場所:〒113-0022 東京都文京区千駄木1-23-4 期間:2024/10/12~2025/1/13 公式ページ:https://moriogai-kinenkan.jp/ チケット:一般600円、中学生以下無料、障害者手帳ご提示の方と介護者1名まで無料 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.26
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「日本伝統工芸展」で世界に誇る日本伝統工芸の技術に触れよう
日本伝統工芸展とはどのような展覧会? 日本伝統工芸展は、日本が誇る伝統工芸技術を次世代に継承し、その価値を広く伝えることを目的とした毎年恒例の公募展です。 この展覧会は1954年に始まり、現在では国内でも最も大規模で権威のある伝統工芸の展示会として知られています。 主催者は公益社団法人日本工芸会で、朝日新聞社をはじめとする関係団体も協力して開催されています。 日本の伝統的な技術と美意識が反映された作品が一堂に会する展覧会は、職人たちの情熱と技術を間近で体感できる貴重な機会です。 公益社団法人日本工芸会が主催 日本伝統工芸展は、公益社団法人日本工芸会が主催する展覧会です。 この団体は、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝を中心に、伝統工芸の作家や技術者たちによって構成されています。 現在、約1,200名の正会員が所属し、その中には日本の伝統工芸を代表する数多くの専門家が名を連ねています。 日本工芸会は文化庁やNHK、朝日新聞社とともに「日本伝統工芸展」を毎年開催しており、1954年(昭和29年)の初回以来、伝統工芸の保護と育成を目的に活動を続けています。 この展覧会は、文化財保護法の理念にもとづき、日本の伝統的な技と美が結集する場として知られ、全国の工芸家たちが作品を応募する公募展形式で開催されるのが特徴です。 また、日本工芸会は展覧会の主催にとどまらず、人間国宝を講師に迎えた技術の伝承事業や記録保存活動にも注力しています。 こうした取り組みにより、無形文化財である工芸技術の保存や公開を推進しており、日本の伝統文化の継承において他に類を見ない重要な役割を果たしています。 伝統工芸技術の保護と継承を目的としている 日本伝統工芸展は、貴重な伝統工芸技術を守り、その価値を未来へと受け継ぐことを目的とした展覧会です。 この展覧会では、陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形など、さまざまなジャンルの工芸品が一堂に会します。 全国各地の工芸作家たちは、自身の技術や創意工夫を凝らした作品を応募し、入選を目指して技を競い合うのです。 展示される作品は、専門家による厳格な鑑査と審査を経たものばかりであり、日本伝統工芸の高い水準を示すものとして評価されています。 これにより、ただ作品を鑑賞するだけでなく、日本の伝統工芸技術の奥深さやその重要性を広く知る機会にもなっています。 こうした取り組みは、伝統文化の価値を共有し、次世代に継承していくために欠かせないものです。 展示される主な工芸技術作品 日本伝統工芸展では、日本各地に受け継がれるさまざまな工芸技術を駆使した作品が展示されます。 それぞれの分野で卓越した技と美が追求され、伝統工芸の多様性と奥深さを感じられます。 陶芸 陶器や磁器といった土を素材とする作品が展示されます。 各地域特有の焼き物文化が反映されたこれらの作品は、技術とともに日本の風土や歴史を物語っています。 染織 絹や綿などの繊維を染めたり織ったりして作られる作品です。 着物や帯に見られる繊細な模様や鮮やかな色彩は、匠の技が息づいています。 漆芸 漆を使った工芸品は、その耐久性と艶やかな美しさが特徴です。 漆器や装飾品には、幾重にも塗り重ねられた技術と、デザインへのこだわりが表現されています。 金工 金属を素材とする工芸品で、装飾品や器具、茶道具などが含まれます。 金や銀を用いた精巧な細工は、実用性と芸術性を兼ね備えています。 木竹工 木材や竹を使った家具や日用品、装飾品が展示されます。 素材の自然な風合いを活かしたデザインが特徴で、実用性と伝統の美が融合した作品が並びます。 人形 雛人形や五月人形、こけしなど、日本の伝統的な人形制作の技術を用いた作品が見どころです。 表情や衣装に職人の技術と創意が光ります。 その他の工芸 ガラス工芸や皮革工芸など、上記以外の分野に属する作品も展示されます。 それぞれの工芸技術の魅力が一堂に会する貴重な機会です。 これらの作品は、厳しい審査を経て選ばれたもので、伝統工芸の美しさと技術の高さを広く知ってもらうための重要な展示となっています。 日本伝統工芸展の歴史 日本伝統工芸展の始まりは、文化財保護法の施行に遡ります。 1950年(昭和25年)に制定されたこの法律は、歴史的または芸術的価値の高い工芸技術を国として保護し、育成することを目的としました。 その理念にもとづき、1954年(昭和29年)、文化財保護法の改正に伴う重要無形文化財指定および重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」の認定制度が開始された同年に、第1回日本伝統工芸展が開催されました。 日本伝統工芸展は、その後も毎年開催され、国内外に日本の伝統工芸の価値を発信する重要な場として成長を遂げてきました。 文化財保護法の趣旨を受け継ぐ形で、この展覧会は単なる展示会の枠を超え、日本の伝統工芸技術の継承と発展を支える重要な役割を果たしています。 日本伝統工芸展は、その歴史とともに、日本の工芸文化の未来を担う作家たちの創造の場として、これからも進化し続けていきます。 日本伝統工芸展に出展(受賞)した有名作家・作品 日本伝統工芸展では、毎年多くの優れた作品が発表され、伝統工芸の分野で輝かしい功績を残した作家たちが数多く登場しています。 その中でも特に注目されるのが、日本工芸会総裁賞を受賞した作家たちの作品です。 以下に、代表的な受賞作品を紹介します。 原智『鐵地象嵌花器』金工(第71回展) 原智氏は、黒い鉄の器に蝶の羽のりん粉をイメージした模様を施した『鐵地象嵌花器』で、日本工芸会総裁賞を受賞しました。 この作品は、金工の伝統技術を活かし、精緻なデザインと美しい表現が印象的です。 鉄という素材に繊細な象嵌技法を駆使し、優雅な美しさを見せています。 松本達弥『遥かに』漆芸(第70回展) 松本達弥氏は、故郷である香川県から見える瀬戸内海をモチーフにした『遥かに』で日本工芸会総裁賞を受賞。 乾漆の素地に彫漆技法で波を表現し、白漆と青漆を重ねることで透明感を出しています。 波頭には金平目や玉虫貝、真珠を使い、波の煌めきを美しく表現したこの作品は、作者の想いが込められた力作です。 河野祥篁『朝露』木竹工(第70回展) 河野祥篁氏の『朝露』は、木竹工の分野で日本工芸会総裁賞を受賞しました。 自然の美しさと力強さを表現し、木材の温もりと竹のしなやかさを活かした見事な作品です。 小林佐智子『青海』染織(第69回展) 小林佐智子氏の『青海』は、染織の技術で海の青さと広がりを表現した作品で、見事に染織の美を表現しました。 自然界の色彩を織り込む技術は、非常に高く評価されました。 須藤靖典『氷壁』漆芸(第68回展) 漆芸の分野で受賞した須藤靖典氏の『氷壁』は、麻布の上から漆を重ねて塗る乾漆技法を用いて作られた箱です。 平文や螺鈿の技法を駆使して蒔絵で飾り付け、岩場の雪化粧を再現しています。 これらの作品は、それぞれの分野で日本伝統工芸の技術を極め、作品に込められた作家の思いや精緻な技術が光るものばかりです。 日本工芸会総裁賞を受賞した作家たちの作品は、毎年日本伝統工芸展の中で注目され、多くの人々に伝統工芸の美しさと技術を伝えています。
2024.12.26
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歴史ある日本の公募展「再興院展(院展)」とは
日本画の伝統を受け継ぎつつ、新たな表現を追求する場として広く知られる「再興院展(院展)」は、日本美術院が主催する公募展として1914年に始まりました。 その後100年以上にわたり、日本画の魅力を発信し続けているこの展覧会は、歴史ある作品とともに、革新性あふれる新しいアプローチを持つ作品が一堂に会する特別な場です。 日本美術の伝統的な価値観を守りながらも、次代の画家たちによる挑戦的な試みが息づく再興院展。 その見どころと長い歴史に触れ、日本美術の奥深さを感じてみましょう。 再興院展 (院展)はどのような展覧会? 再興院展は、日本美術院が主催する歴史ある日本画の公募展で、1914年の創設以来、100年以上にわたり日本画の発展と普及を支え続けています。 この展覧会は、毎年9月の東京展を皮切りに全国を巡回する形式で行われ、多くの地域で日本画の魅力を伝える場として親しまれています。 神奈川県・横浜での開催は注目されており、岡倉天心の出身地であることから、日本美術院との深い縁が感じられる重要な開催地です。 この地は、山海の自然が織りなす豊かな風土と文化的な深みを背景に、多くの芸術家たちがアトリエを構え、創作活動を行ってきました。 平山郁夫や松尾敏男、伊藤髟耳などの著名な画家たちも、神奈川と縁のある作家として知られています。 再興院展は、伝統と革新が交錯する日本画の世界を次代の画家たちへとつなぐ役割を果たしており、その魅力は今も広く支持されています。 新たな取り組みをしている作品が多くある 再興院展は、伝統的な日本画に新たな視点や技法を加える場としても注目されています。 その始まりは1914年、岡倉天心の死去後、横山大観や下村観山を中心とした芸術家たちによって再興日本美術院が結成されたことにさかのぼります。 この展覧会では、当初から日本画だけでなく、洋画や彫刻などのジャンルを取り入れ、幅広い芸術表現を追求してきました。 日本画部では、小川芋銭や安田靫彦、速水御舟、今村紫紅らが「新南画」と呼ばれる独創的なスタイルを生み出し、既存の枠にとらわれない表現が注目されました。 一方、洋画部では、小杉未醒や村山槐多、柳瀬正夢らが表現主義的な作品を発表し、近代日本美術の新しい可能性を示しています。 また、彫刻部では平櫛田中がその名を広め、多様な芸術の融合が見られる場となりました。 戦後においては、小倉遊亀や平山郁夫などの作家たちが、再興院展を通じて一般の人々にも親しまれる作品を発表し、展覧会の大衆的人気を高めました。 これらの歴史を背景に、再興院展は現代においても伝統を大切にしながら、新たな挑戦を続ける作品が多く集まる場として、進化し続けています。 再興院展 (院展)の歴史 再興院展は、1898年に岡倉天心を中心として設立された日本美術院が主催する、日本画の伝統を受け継ぐ展覧会です。 設立当初の日本美術院は、日本画の革新を目指すために活動していましたが、経済的な困難などにより一時活動を停止しました。 その後、1914年に横山大観らの尽力により再興され、この年から再興院展がスタートします。 再興院展は100年以上にわたる歴史を持ち、近代日本画の発展を牽引してきました。 明治以降に誕生した新しい日本画の潮流を形作るうえで、歴代の名だたる画家たちがこの展覧会を舞台に多くの傑作を発表してきました。 その結果、再興院展は日本画の技術や美意識を深めるだけでなく、後進の育成や伝統の継承にも大きな役割を果たしています。 現在も年に一度開催される再興院展は、日本美術の豊かな歴史と未来をつなぐ場として、多くの芸術愛好家から支持されています。 再興院展 (院展)に出展(受賞)した有名作家・作品 再興院展(院展)は、100年以上の歴史を持つ日本画の展覧会であり、その舞台からは数多くの著名な画家と名作が誕生しています。 日本画の伝統を守りつつも新たな表現を追求するこの展覧会は、多くの作家たちにとって自身の才能を示し、評価を受ける重要な場です。 横山大観や菱田春草など初期の巨匠から、平山郁夫や小倉遊亀など戦後の人気作家に至るまで、歴代の受賞作や出展作品は、日本美術の進化と多様性を物語っています。 小川芋銭 小川芋銭は、1868年に江戸で生まれ、1938年に亡くなった日本画家であり、河童の絵で知られています。 小川は本多錦吉郎の画塾で洋画を学び、その後独学で日本画を習得しました。 素朴でユーモアにあふれたスタイルが特徴で、特に水辺の風物や河童をテーマにした作品が多く残されています。 再興第1回院展では、『水魅戯』を発表しています。 安田靫彦 安田靫彦は、日本画の伝統を受け継ぎながらも、独自のスタイルを確立した重要な作家の一人とされています。 14歳のときに小堀鞆音に師事し、1898年には日本美術院展に初めて出品しました。 古典的なテーマをベースにしながらも、現代的な感覚を取り入れた作品が特徴的です。 再興第28回院展にて『黄瀬川陣』を出品し、朝日文化賞を受賞しています。 今村紫紅 今村紫紅は、日本画の革新を目指し、独自のスタイルを確立した重要な作家の一人です。 伝統的な日本画の技法を用いながらも、印象派の色彩感覚や南画の要素を取り入れた新しいスタイルが特徴です。 再興第1回院展において代表作『熱国之巻』を出品しており、大胆な構成と明快な色調が評価され、彼の芸術の頂点を示すものであるともいわれています。 速水御舟 速水御舟は、14歳のときに松本楓湖のもとで日本画を学び始めました。 その後、今村紫紅らと共に「紅児会」を結成し、新しい日本画のスタイルを模索しました。 彼の作品は、細密描写と象徴的な表現が特徴です。 再興第1回院展に『近村』を出品しており、院友に推挙されています。 再興院展を通じて日本画の革新に貢献し、彼の作品は今なお多くの美術館に所蔵され、評価されています。 小杉未醒 小杉未醒は、洋画から日本画に転向し、水墨画や淡彩画を描いていたことで知られています。 1914年に日本美術院が再興されると、彼は同人として参加し、洋画部を牽引しました。 自然や風景をテーマにしたものが多く、特に水墨画や淡彩画において独自の境地を切り開いています。 再興第1回院展に『飲馬』を出品し、洋画部同人として活動を開始しています。 村山槐多 村山槐多は、短い生涯の中で、独自の画風を確立し、大正時代の美術界において重要な存在となった日本の洋画家であり詩人です。 若いころから絵を描くことに興味を持ち、14歳で画家を志して上京しました。 その後、小杉未醒のもとに下宿し、高村光太郎の工房にも出入りしています。 再興第2回院展に『カンナと少女』を出品し、院賞を受賞しています。 柳瀬正夢 柳瀬正夢は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本の洋画家であり、漫画家でもあります。 1925年には、日本プロレタリア文芸連盟に参加し、同年創刊された「無産者新聞」に政治漫画を掲載しています。 彼の作品は、社会問題や戦争に対する批判をテーマにしており、民衆の視点を大切にしたものでした。 15歳のとき、再興第2回院展に『河と降る光と』を出品して入選しています。 小倉遊亀 小倉遊亀は、日本を代表する日本画家であり、女性として初めて日本美術院の同人に推挙され、また日本美術院の理事長を務めたことでも知られています。 細密な描写と豊かな色彩が特徴で、特に静物画や人物画において高い評価を受けています。 再興第39回院展に出品した『裸婦』は、芸術選奨美術部門文部大臣賞を受賞しました。 平山郁夫 平山郁夫は、日本画家として活躍した人物で、仏教やシルクロードをテーマにした作品で知られ、戦後の日本画壇において重要な役割を果たしました。 平山は15歳のときに広島で原爆投下を経験しています。 この経験が彼の作品に深い影響を与え、平和を祈るテーマを持つ作品を描くきっかけとなりました。 再興第46回院展に出品した『入涅槃幻想』は、日本美術院賞(大観賞)を受賞しています。
2024.12.26
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「創画展」に行けば新しい日本画が体験できます
創画展は、日本画の新しい表現を追求する場として知られる公募展で、創画会が主催する芸術展です。 伝統的な日本画の技法を重んじながらも、現代的な感覚や自由な発想を取り入れた作品が毎年展示され、多くの作家や芸術愛好家から注目を集めています。 春秋にわたる展覧会の開催を通じて、日本画の多様な魅力を発信し続ける創画展。 その歩みや特徴を深掘りすることで、この展覧会が現代日本画において果たしてきた役割とその意義がより鮮明に見えてくるでしょう。 創画展とはどのような展覧会? 創画展は、日本画を中心とした芸術表現を広く発信するために設けられた公募展で、創画会が主催する展覧会です。 そのルーツは1948年(昭和23年)に設立された「創造美術」にさかのぼります。 その後、新制作派協会との統合を経て、1974年に「創画会」として独立を果たし、創画展の開催が本格化しました。 創画展は、日本画の可能性を追求する作家たちの表現の場として、毎年多彩な作品が展示されます。 さらに、春季創画展も開催されており、季節を通じて日本画の多様な魅力を発信しています。 伝統を受け継ぎつつも、自由な発想と創造性を重視しているため、幅広い世代の作家が集い、現代的な視点を取り入れた新たな表現に挑戦しているのが特徴です。 創画展 創画展は、創画会の正会員全員が審査と企画運営に携わることで実現する公募展です。 作品の選考から展覧会の構成まで、作家たちが主体的に関与することで、展覧会全体に一体感と独自性が生まれています。 この展覧会は毎年秋に開催され、メイン会場として東京都美術館が使用されるほか、選抜展示として京都市京セラ美術館でも開催されています。 秋の創画展は、伝統と革新が調和する創画会の理念を象徴する場となっており、多くの芸術愛好家や関係者にとって見逃せないイベントの一つです。 作品を通じて日本画の現在地と未来への可能性が提示され、創画会が掲げる「自由と創造」の精神が鮮やかに表現されています。 春季創画展(東京春季創画展、京都春季創画展) 春季創画展は、創画会が毎年春に開催する展覧会で、東京と京都の2つの会場に分かれて実施されます。 正会員が審査や企画運営を担い、各地の美術愛好家に日本画の新しい表現を届ける重要な機会です。 この展覧会は、東京春季創画展と京都春季創画展の両方に出品することも可能ですが、それぞれ独立した審査基準と運営体制が設けられています。 会期や会場、そして募集要項も異なるため、出品者にとっては選択肢が広がるとともに、挑戦の場も増える展覧会です。 東京と京都という異なる地域で行われることで、多様な観客層に触れる機会を提供し、創画会の活動をより広範囲にアピールする役割も果たしています。 創画展の歴史 創画展は、日本画の新たな表現を追求する場として長い歴史を歩んできました。 その始まりは昭和23年(1948年)に結成された「創造美術」にまでさかのぼります。 時代の変遷とともにその活動内容や組織体制を変えながらも、「自由と創造の精神」を軸に多くの作家を育成し、現代日本画の発展に寄与してきました。 1948年(昭和23年)に創造美術が結成される 1948年(昭和23年)、日本絵画の新たな地平を切り開くことを目指し、「創造美術」が結成されました。 結成時に掲げられた理念は、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」という力強い宣言。 この団体は、在野精神を重んじ、既存の枠にとらわれない自由と独立の美学を基盤に、真に普遍的な価値を持つ日本画の創造を目指しました。 創立メンバーは秋野不矩、上村松篁、奥村厚一、加藤栄三など、後に日本画の発展に大きく貢献する13名の画家たちで構成されました。 同年9月、東京都美術館で第1回創造展を開催。 その後も京都や大阪で展覧会を行い、日本美術界に鮮烈な印象を与えるスタートを切りました。 創造美術の結成は、現代日本画の自由な表現を追求する歴史の礎となりました。 1949年(昭和24年)に春季展を新たに始める 1949年(昭和24年)、創造美術は新たな取り組みとして、春季展を東京と京都で開催することを決定。 春季展は、会員および前年度の受賞者による作品を中心に展示され、創造美術の活動を広く一般に公開する貴重な機会となりました。 これにより、創造美術の活動の幅がさらに広がり、全国的な注目を集めることとなります。 同年には第2回創造美術展が、東京・京都・大阪・名古屋の主要都市で開催され、さらに創造美術の認知度が高まりました。 また、春季展と並行して、毎月東京および京都で創造美術研究会を開催することが決まり、会員同士の意見交換や研鑽の場として、より一層の発展を目指しました。 創画展に出展(受賞)した有名作家・作品 創画展は、その長い歴史の中で、多くの有名な日本画家が出展し、またその才能を広く世に示す場となってきました。 創画会の創立時から関わった作家たちをはじめ、その後も新たな才能が次々と登場し、現代日本画の可能性を切り開いています。 秋野不矩は、日本の著名な女流日本画家であり、創画会の創立会員の一人です。 彼女は、伝統的な日本画の技法をもとにしながらも、現代的な表現を追求し、新しい日本画の創造を目指しました。 秋野の作品は、特に人物画や自然をテーマにしたものが多く、伝統的な日本画の枠を超えた力強い表現が評価され、現代日本画の発展に大きく寄与しました。 上村松篁は、日本の著名な日本画家であり、創画会の創立会員の一人です。 彼は、母である上村松園から受け継いだ美術の伝統をもとに、独自の花鳥画を追求し、現代日本画の発展に寄与しました。 自然の美しさを捉え、古典的な技法を用いながらも現代的な感覚を取り入れるとともに独自の色彩感覚を持つ作品を数多く残しています。 奥村厚一は、日本の著名な日本画家であり、創画会の創立会員の一人です。 彼は主に風景画を得意とし、特に京都の自然や風景を題材にした作品で知られています。 1949年からは京都市立美術専門学校、後の京都市立芸術大学で教員を務め、1970年に退任するまで多くの学生を指導しました。 菊池隆志は、日本画家の菊池契月を父に持ち、芸術的な環境で育ちました。 創画会の創立会員の一人であり、花鳥画や風景画を得意とし、独自のスタイルで知られています。 彼の作品は、写実的な描写と独自の色彩感覚が特徴です。 自然の美しさを繊細に表現し、みるものに深い感動を与える作品を数多く残しました。 山本丘人は、創画会の創立会員の一人であり、自然や風景をテーマにした作品を多く残しています。 自然の厳しさや美しさをテーマにしたものが多く、力強い造形やロマン性、象徴性にあふれています。 彼の作品は、伝統的な日本画の技法を用いながらも、現代的な感覚を取り入れたものが特徴です。
2024.12.26
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「二科展(二科美術展)」とは?日本の洋画や新たな芸術作品を鑑賞できる貴重な展覧会
二科展(二科美術展)とはどのような展覧会? 二科展(または二科美術展)は、公益社団法人二科会が主催する重要な美術展で、日本の美術界において長い歴史を誇ります。 二科会は、1914年に新進の作家たちによって創設され、当時の主流であった「文展(文部省美術展)」に対抗する形で誕生しました。 創設当初から掲げられた理念は、「流派にとらわれず、新しい価値を尊重し、創造者の制作の自由を守る」といったもので、これにもとづいて二科展が始まりました。 二科展は、単なる展示会にとどまらず、日本の洋画や新しい芸術表現の発展を支える重要な役割を果たし続けています。 その特徴的な活動の一環として、作家たちに自由な表現を提供し、従来の枠に縛られない斬新な作品を展示することを推進しています。 これにより、二科展は日本の美術界において、現代美術の先駆けとして重要な地位を確立しているのです。 毎年秋に開催されている 二科展は毎年秋に開催され、今年で100回以上の歴史を誇る伝統的な美術展です。 毎年9月から10月にかけて開催され、これまでに数多くの美術愛好者に親しまれてきました。 初回の開催は上野竹の台陳列館で行われ、第2回から三越や東京府美術館など、さまざまな場所で展示が行われました。 2007年からは、東京・六本木にある国立新美術館での開催が定番となり、その規模と影響力はますます大きくなっています。 また、東京展の後には全国各地で巡回展が開催されるのも大きな特徴です。 東海、関西、北陸などの都市を巡り、大阪、富山、京都、広島、鹿児島、福岡など、各地で多くの人の目に触れる機会を提供しています。 二科展の持つ魅力は全国各地で広がり、毎年多くの人々に新しい芸術の可能性を感じさせています。 部門は4つ用意されている 二科展は、広く一般からの作品公募を行い、会員による熟練した作品の発表の場としても重要な役割を果たしています。 展覧会には、絵画や彫刻などの作品が展示され、参加者の幅広い表現を促進しています。 二科展は、通常の秋の展示に加えて、会員や新進作家のために春季展も開催され、こちらは会員による実験的な作品発表や、若手作家の育成を目的としているものです。 展覧会は、主に絵画・彫刻・デザイン・写真の4つの部門に分かれており、これにより多様な芸術形式が集約されます。 これらの部門は、各作家が表現するテーマや技法に応じた多様な視点を提供し、観客にとっては幅広い選択肢が魅力です。 二科展は、各部門が互いに刺激し合い、芸術の発展を後押しする場としても機能しており、参加する作家にとっては重要な発表の機会となっています。 二科展(二科美術展)の歴史 二科展は、1914年に誕生した「二科会」によって主催され、現在に至るまで長い歴史を持つ日本の重要な美術展です。 日本の洋画壇の黎明期は、1889年に創立された「明治美術会」や、1896年に東京美術学校に設置された洋画科の発展に始まりました。 この時期、フランスに留学していた新進の芸術家たちが帰国し、文部省展覧会(文展)の審査において、従来の価値観と新しい価値観が衝突するようになりました。 新旧の価値観を分ける必要性が求められたものの、政府の対応は遅れ、結局却下されてしまいます。 その後、1914年には、文展の洋画部に対抗して、新進作家たちによって「二科会」が結成され、芸術の自由と新しい美術の確立を掲げて活動を開始しました。 「流派の如何にかかわらず、新しい価値を尊重し、創造者の制作上の自由を擁護する」という理念のもと、二科会は1世紀にわたる歩みを続けています。 二科会は、常に時代の新しい傾向を取り入れ、数多くの著名な芸術家を輩出し、革新的な美術を牽引してきました。 二科展は、現在、絵画・彫刻・デザイン・写真の4部門で開催されており、絵画部と彫刻部は1979年に法人化され、社団法人二科会として発足しました。 2007年からは、上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に会場を移し、新たな歩みがスタートします。 そして、2012年には公益社団法人として認定され、広く社会に貢献する活動を続けています。 また、春には東京都美術館で開催される春季展が、会員による実験的な作品発表と新進作家の育成の場として注目されているのです。 一方、秋の二科展は、全国から広く作品を公募し、会員が研鑽を重ねた完成度の高い作品を発表する場として、年々多くの来場者を集めています。 さらに、東京展の後には主要都市を巡回し、全国の美術愛好者に新しい芸術を届けています。 二科展(二科美術展)に出展(受賞)した有名作家・作品 二科展は、数多くの才能ある芸術家が自身の作品を発表する舞台であり、美術史に名を刻む作品を生み出してきた展覧会です。 その長い歴史の中で、国内外で高く評価される多くの著名作家がこの展覧会にかかわり、新しい表現の可能性を切り開いてきました。 岸田劉生 岸田劉生は、日本の近代美術を代表する画家の一人であり、その芸術は西洋と東洋の美の融合によって独特の境地を切り開きました。 後期印象派に影響を受けながらも、のちに決別してからは写実性を追求するようになります。 彼の描く写実は単なる現実の再現にとどまらず、モチーフが持つ内なる神秘や存在感を引き出すことを重視したものでした。 東洋美術にも深く影響を受けており、京都や奈良を訪れた経験を通じて、東洋の美が持つ奥深さに魅了され、独自の美的概念である「卑近美」という言葉でその特質を表現しました。 東洋の美の隠れた部分に渋さや神秘、厳粛さを内包していると考え、それを自身の作品に反映させています。 岸田劉生が二科展に出展した作品の一つには『静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)』があります。 藤田嗣治 藤田嗣治は、フランスを拠点に活動しながら、日本と西洋の技法を融合させた独自の画風を確立した画家です。 彼はキュビズムやシュルレアリスムなど、当時フランスで流行していた前衛的な美術運動に触発されるとともに、日本画の伝統技術を油彩画に取り入れるという斬新な試みを行いました。 その結果、彼の作品は独自性を増し、「エコール・ド・パリの寵児」と称されるほどの成功を収めます。 二科展への出展作品には『メキシコに於けるマドレーヌ』があります。 藤田嗣治は、日本美術の伝統と西洋美術の革新を巧みに融合させ、国内外で高く評価される作品を数多く残しました。 その中で二科展での発表は、彼の才能が広く認められる契機の一つとなり、現代でもその影響を感じさせるものです。 東郷青児 東郷青児は、「青児美人」や「東郷様式」と呼ばれる独自の美人画スタイルを確立し、日本の近代美術界で大きな影響を与えた画家です。 彼の美人画は、艶やかな曲線や洗練された色使い、シンプルながらも印象的な構図で知られています。 限られた色数を用いながらも豊かな表現力を発揮し、女性像に独特の魅力を与えました。 大胆なフォルムや構図には、ピカソの影響も見られますが、そこに日本的な繊細さを加えることで独自のスタイルを築き上げました。 二科展に出品した作品の一つに『超現実派の散歩』があります。 東郷青児の作品は、女性の魅力をただ写実的に描くだけでなく、そこに時代性や独自の美学を加えることで、唯一無二の世界観を作り上げています。 岡本太郎 本太郎は、絵画のみならず彫刻やパフォーマンス、建築デザインなど多岐にわたる分野で活躍し、日本の近代美術史に強烈な印象を残した芸術家です。 彼の作品には一貫して反骨精神が息づいており、既成概念や権威に挑む姿勢がその根底にあります。 二科展に出展された『重工業』は、岡本太郎の初期の活動を象徴する作品の一つです。 また、岡本はその後も『森の掟』や『明日の神話』など、強烈なメッセージ性を持つ作品を発表。 岡本太郎は、「芸術は爆発だ」という彼の名言に象徴されるように、見る人に衝撃と問いを投げかける作品を生み出しました。 萬鉄五郎 萬鉄五郎は、日本近代洋画の発展において重要な役割を果たした画家の一人です。 『裸体美人』や『もたれて立つ人』といった作品で知られ、その表現力や視点の独自性が高く評価されています。 彼の作品は、単なる西洋絵画の模倣にとどまらず、独創的な手法で日本美術の可能性を広げました。 西洋美術の動向にも敏感だった鉄五郎は、ポスト印象派やフォーヴィスム、キュビスムなど当時最先端の芸術潮流からも刺激を受けました。 しかし、それらの影響に満足することなく、自らの価値観を反映した独自のスタイルを確立しています。 二科展に出展された『もたれて立つ人』は、鉄五郎の創作姿勢を象徴する一作です。 萬鉄五郎の作品は、伝統と革新、西洋と日本という異なる要素を内包しながら、新しい美術の可能性を追求したものです。 その革新的な姿勢は、二科展をはじめとする発表の場を通じて、多くの人々に刺激を与え続けています。
2024.12.26
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「院展(日本美術院展覧会)」とは?有名作家の作品も展示されていた
院展(日本美術院展覧会)とはどのような展覧会? 院展(日本美術院展覧会)は、日本美術院が主催する日本画の公募展として、その名が広く知られています。 毎年秋に東京都美術館を舞台に開催される展覧会では、日本美術院の同人が手がける作品と、全国から応募された作品の中から厳選された入選作が展示されます。 広々とした会場には、新進気鋭の若手作家から熟練のベテランまで、多様な視点と表現を持つ日本画が一堂に会し、訪れる人々を魅了するのが特徴です。 繊細な筆遣いとともに現代の日本画が持つ奥深さを堪能できる貴重な機会といえるでしょう。 春に開催される院展もある 春の院展は、1945年11月に日本橋三越で開催された「日本美術院小品展」を起源としています。 その後、1959年には「日本美術院春季展覧会」と名を改め、1970年からは現在の「春の院展」として定着しました。 秋の院展が大作中心であるのに対し、春の院展では比較的小さなサイズの作品が多く並びます。 会場は春の訪れを感じさせる色鮮やかな作品群で満たされ、訪れる人々に温かな雰囲気を届けています。 東京都美術館で開催される再興院展 再興院展は、毎年9月上旬に東京都美術館で約2週間にわたり開催されることから始まります。 その後、約1年をかけて全国10か所以上を巡回し、多くの地域で作品が展示される公募展です。 この展覧会では、出品される作品の規定サイズが非常に大きいため、作家が作品を分割して運搬する場面も見受けられます。 また、小型作品は春の院展で扱われるのが通例であるため、再興院展では規定サイズを大幅に下回る作品が出品されることはありません。 迫力ある大作が一堂に会するこの展覧会は、観客に日本画の壮大さと技術の深さを感じさせる場となっています。 院展は全国各地を巡回する 院展と春の院展は、東京での開催が終了した後、全国各地の主要都市を巡回し、幅広い観客に作品を披露します。 巡回先では、その地域にゆかりのある在住作家や出身作家の作品が特に注目されることが多く、地域に根ざした独自の展示構成が見どころの一つです。 この巡回展は、地元の美術ファンや初めて日本画に触れる観客にとって、新たな感動や発見を提供する貴重な機会となっています。 院展(日本美術院展覧会)の歴史 院展(日本美術院展覧会)は、日本美術の伝統を守りつつ新たな可能性を追求する場として、長い歴史を誇る展覧会です。 その起源は明治時代にさかのぼり、当時の日本画の革新と発展を目指して設立された日本美術院とともに歩んできました。 多くの画家たちの情熱や革新の意志を背景に、院展は時代とともに発展し、現在もその精神を継承し続けています。 日本美術院が明治31年に開催 日本美術院が初めて展覧会を開催したのは、明治31年のことです。 岡倉天心が東京美術学校長を退任した後、新しい時代の美術教育と発展を目指して設立した団体により開催されます。 岡倉は、美術学校に「大学院」のような高等研究機関が必要だと考え、橋本雅邦や横山大観、菱田春草、下村観山らとともに日本美術院を創設しました。 この団体は、新しい日本美術の礎を築くべく、展覧会の開催だけでなく、地方展覧会の実施や美術雑誌の発刊、研究会の運営、さらには古社寺の国宝修復にも取り組みました。 そのような幅広い活動の中で、日本絵画協会と共同で開かれた展覧会は、日本画の発展に大きな影響を与えていきます。 岡倉天心逝去後も横山大観らに受け継がれる 1953年9月、岡倉の死去により日本美術院は大きな転機を迎えます。 しかし、岡倉の理念は大観を中心とする画家たちによって受け継がれました。 大正3年には、現在の公益財団法人日本美術院が位置する谷中上三崎南町に研究所が設立され、これを機に日本美術院は再興されます。 新たな組織には日本画のほか、洋画部や彫刻部も設置され、芸術分野を広げた活動が行われました(後に洋画部は脱退、彫刻部も解散)。 再興を記念し、同年10月には日本橋三越本店旧館で「日本美術院再興記念展覧会」が開催されました。 この展覧会が、今日の「院展」として知られる展覧会の第1回目に該当します。 その後、第二次世界大戦中の1944年と1945年を除き、毎年秋に開催される伝統は現在まで引き継がれています。 継続的な取り組みにより、院展は日本美術界における重要な展覧会の一つとして確固たる地位を築いてきました。 院展(日本美術院展覧会)に出展(受賞)した作品たち 横山大観『蓬莱山』 横山大観は日本美術院の中心的な存在であり、彼の作品『蓬莱山』は、院展において高く評価されました。 この作品は、幻想的な風景を描いたもので、色彩の使い方や構図が特に称賛されています。 菱田春草『月下牧童』 菱田春草の『月下牧童』は、月明かりの中で牛を飼う少年を描いた作品で、彼の代表作の一つです。 この作品は、光と影の表現が見事で、春草の独特な画風を示しています。 速水御舟『名樹散椿』 速水御舟の『名樹散椿』は、重要文化財に指定されている作品で、院展での評価も非常に高いです。 この作品は、細密な描写と幻想的な色彩が特徴で、御舟の技術の集大成ともいえる作品です。 下村観山『不動明王』 下村観山の『不動明王』は、力強い表現で不動明王を描いた作品で、院展での受賞歴があります。 この作品は、観山の独自のスタイルと技術が際立っています。 小林古径『清姫』 小林古径の『清姫』は、彼の代表作の一つで、古典的な題材を現代的に解釈した作品です。 この作品は、院展で高く評価され、古径の名声を確立する要因となりました。 これらの作品は、日本美術院展覧会において特に評価され、今なお多くの人々に愛されています。 院展は、毎年多くの優れた作品が出品される場であり、これからも注目される展覧会です。
2024.12.26
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「日展」の歴史と日展に出品した有名作家・作品
日展とはどのような展覧会? 日展は、毎年秋に開催される日本の代表的な美術団体展で、東京の上野公園にある東京都美術館で長年行われてきました。 現在は、六本木の国立新美術館に場所を移し、より多くの観客にその魅力を伝えています。 日展は、単に絵画作品が集まるだけでなく、「日本画」「洋画」「彫刻」「工芸美術」「書」の5つの部門が同時に展示されるのが特徴です。 公募展としても知られ、広く一般から出品が募集され、応募者の中から入選や特選が選ばれ、会員作家の作品とともに並べられます。 出品者の年齢層は広く、20代の若者から、100歳を超えるベテラン作家まで、さまざまな世代の作品が集まるのが特徴です。 毎年約3000点もの作品が展示され、ひとつの会場にこれほど多くの新作が一堂に会する機会は、他の展覧会ではなかなか体験できません。 子どもから大人まで美術鑑賞を楽しめる 日展では、さまざまな年齢層の人々が美術鑑賞を楽しむ姿が見られます。 多くの小学生や中学生も、学年やクラス、部活動の一環として鑑賞に訪れています。 日展では、作品を鑑賞するだけでなく、出品した作家自身が会場にバッジをつけていることが多く、来場者は直接作家に質問できるのです。 例えば、「どのようにして作品を作るのか」「どれくらいの時間をかけて完成させるのか」といった疑問をその場で聞くことができ、子どもたちにとっても大きな学びの場となっています。 このように、日展は幅広い世代に美術の魅力を届ける、教育的な側面も強い展覧会です。 日展の歴史 日展は、長い歴史を誇る日本の美術展であり、その起源は1907年に開催された「文展」に遡ります。 文展は、日本の美術界における新たな試みとして誕生し、その後数十年にわたって日本の美術を牽引する存在となりました。 戦後に「日展」として再開し、今でも毎年開催される重要な美術展となっています。 明治に「文展」として開催される 日展の始まりは、1907年に開催された「文展」にあります。 この展覧会は、当時の内閣総理大臣であった西園寺公望や文部大臣の牧野伸顕をはじめ、帝国大学の教授や東京美術学校の校長など、当時の日本の文化界の有力者たちによって実現されました。 特に、美学者の大塚保治や画家の黒田清輝などがその開催に尽力し、文展の開催が日本の美術界に大きな影響を与えました。 文展は、日本画や洋画などの美術作品を幅広く展示し、絵画や彫刻の枠を超えて多様な美術分野を取り入れた展覧会として注目を集めました。 審査委員の選考で苦戦する 「文展」の開催を受け、当初は日本の美術界が活気づき、国の支援を受けたことに対する期待感が高まりました。 しかし、審査委員の選考を巡る対立という深刻な問題が浮かび上がります。 文展の審査委員の選考には、当時の有力な美術家たちが関わり、最初に名前が挙がったのは、日本画の大家・橋本雅邦でした。 しかし、橋本は審査委員の打診を受けた際に、岡倉天心が参加するのであれば自らも受けるとの条件をつけました。 岡倉天心はその才能により、東京美術学校で排斥運動を起こしていたこともあり、審査委員の選考にはかなりの波乱が予想されました。 この段階で、岡倉天心を支持する意見と反対する意見が交錯し、選考は難航します。 岡倉天心が審査委員に参加することを条件に、さらに下村観山や横山大観といった重要な日本画の作家も名を連ねることとなり、審査委員の選考は混乱を極めます。 その結果、各地の派閥が対立し、審査委員選考が長引いたことは、後の文展の解散につながる一因ともなりました。 第1回文展は元東京勧業博覧会美術館で開催 第1回「文展」は、1907年(明治40年)10月25日から11月20日まで、上野公園内にある元東京勧業博覧会美術館で開催されました。 初開催となる文展では、日本画、洋画、彫刻の3部門にわたる出品があり、各分野で注目を集める作品が数多く出品されました。 日本画部門では、京都の竹内栖鳳が六曲一双の屏風『雨霽』を、東京の下村観山が『木の間の秋』という二曲一双の屏風、さらに、寺崎広業の『大仏開眼』なども出展されており、大変好評を得たそうです。 洋画部門では、まだ20代半ばだった和田三造が『南風』で最高賞にあたる2等賞を受賞しました。 和田自身も、その受賞に戸惑い、雑誌のインタビューでは「このような責任を負うのは将来が不安だ」とコメントを残しています。 審査員の分裂により戦後に日展として再開 文展は、美術界を活性化させ、多くの傑作を世に送り出した重要な展覧会でしたが、審査員間での分裂が深刻化し、1918年(大正7年)に一度その歴史を閉じました。 その後、1919年(大正8年)には、文部大臣の管理のもと、帝国美術院が主催する「帝国美術院展(帝展)」がスタート。 帝展では、審査員が帝国美術院によって推薦され、内閣によって任命された中堅作家が中心となって選考を行う形式が採られました。 1937年(昭和12年)からは、新たに文部省が主催する「新文展」が開催されましたが、太平洋戦争の影響で1943年(昭和18年)には中断を余儀なくされました。 戦後、1946年(昭和21年)に「日本美術展覧会(日展)」として再開され、日展はその後も組織の改編や体制の変化を経ながら、毎年秋に日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門を対象に開催されています。 日展に出展(受賞)した有名作家・作品 日展は、数多くの優れた作家たちがその舞台に立ち、名作を発表してきた重要な展覧会です。 日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の各部門で優れた作品が登場し、その後の美術界に多大な影響を与えました。 日展に出展した作家たちは、独自のスタイルを築き上げ、現代に至るまでその功績は語り継がれています。 日本画:東山魁夷 東山魁夷は、昭和の時代を代表する風景画家として広く知られています。 彼の作品は、過酷な戦争体験や個人的な悲しみに根ざしており、その背景には深い感受性と共感が感じられます。 特に、彼が戦後に発表した『残照』や『道』は、荒廃した時代を乗り越えた人々の心情を代弁するかのような温かみを持ち、見る者に大きな感動を与えました。 日展においては、『白馬の森』を出展し、透明感のある空気とともに夢幻的でメルヘンチックな世界を描き、観る者を幻想的な風景へと誘いました。 洋画:黒田清輝 黒田清輝は、日本の近代洋画の礎を築いた巨星であり、教育者や美術行政家としても重要な役割を果たしました。 フランス留学時の印象派の影響を受け、彼は「外光派」と呼ばれる新しいスタイルを日本に導入。 日展においては、『赤小豆の簸分』を出展し、洋画に日本画的な要素を取り入れた独自の作風を披露しました。 その作品は、広がりを持った空間構成と奥行きのある表現が特徴で、まさに黒田清輝らしい作品となっています。 彫刻:山崎朝雲 山崎朝雲は、日本の近代彫刻界を代表する作家であり、特に木彫における写実的な表現で知られています。 彼は、伝統的な技法をもとにしながらも、新たな彫刻表現を追求しました。 日展に出展した『大石良雄』は、力強い木彫によって人物の力感や表情をリアルに表現しており、その写実的な技法は今なお高く評価されています。 工芸美術:板谷波山 板谷波山は、近代日本の陶芸界において非常に大きな影響を与えた作家であり、陶芸を芸術の領域へと昇華させた先駆者です。 アール・ヌーヴォー様式の装飾を取り入れたその独自のスタイルは、陶芸の世界に新しい風を吹き込み、近代日本の陶芸を芸術の一部として確立させました。 日展に出展した『花卉文彩磁瓶』は、工芸技術を芸術に昇華させた作品であり、その繊細で美しいデザインが広く称賛されました。 書:尾上柴舟 尾上柴舟は、書道家としてその名を広く知られ、近代的な書道の技法を切り開いた人物です。 若いころから平安時代の古筆に興味を持ち、大口周魚に師事して書道を学びました。 書道教育にも力を入れ、文部省の試験委員を務めるなど、後進の育成にも尽力しています。 日展では『櫻』を出展し、その作品は、かな書道の美しさと力強さを兼ね備え、書道界をリードする存在として高く評価されました。 また漢字と仮名の調和体は、かな書道に新たな流れを生み出し、書道界に大きな影響を与えました。
2024.12.26
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モネが晩年に描いた壮大な装飾画と彼の芸術への情熱に触れる『モネ 睡蓮のとき』展
フランス・パリで生まれ、「印象派」という美術運動の創始者としてあまりに有名な画家・クロード・モネ(1840年-1926年)。 自然の光と色彩を描くことに情熱を注ぎ、同じモチーフを異なる時間帯や天候で繰り返し描く「連作」という手法を用いた作品を多く残しています。 今回は、国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展に行ってきました! この企画展では、晩年のモネが情熱を注いだ大装飾画『睡蓮』をメインに、印象派として活躍した彼の世界に浸れる贅沢な内容が詰まっています。 パリのマルモッタン・モネ美術館の全面協力により、国内外から選りすぐりの名品が集結している点も見どころです! さらに、楕円形の地下展示室では壁面に配置された『睡蓮』の大作に囲まれる体験ができ、まるでモネの庭に足を踏み入れたような感覚を味わえます。 「モネ 睡蓮のとき」展は国立西洋美術館にて開催 国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展は、その注目度の高さから平日でも多くの来場者で賑わっていました。 平日に訪れましたが、お昼過ぎであったこともあり、チケット売場には長い列ができていました。 モネの「睡蓮」という普遍的な人気を持つテーマが多くの人々を惹きつけているともいえますね。 午後の時間帯は、観覧チケットの購入だけでなく、ミュージアムショップのグッズ購入でも列ができ混雑しているため、空いている時間を狙うならなるべく午前中の早い時間がよさそうです。 「モネ 睡蓮のとき」展では、アンバサダーを務める石田ゆり子さんが音声ガイドを担当しています。 音声ガイドでは、モネの人生や作品にまつわるストーリーを彼女の温かな声で解説してくれます。 まるで彼女の案内でモネの世界を散策するような、特別な時間を楽しめるでしょう。 当日貸出価格:650円(税込) およそ50点!日本初公開も含めた、モネの名品がずらり 今回のモネ展では、世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館から、日本初公開となる作品を含む約50点のクロード・モネの作品が展示されています。 さらに、日本国内の美術館が所蔵するモネの名品も加わり、晩年におけるモネの創作活動を多角的に掘り下げる試みがなされています。 モネの人生後期に焦点を当てたこの展示は、彼が追い求めた光と色彩の世界を存分に味わえる内容です! なお、企画展は基本的に撮影が禁止されています。 ただし、地下展示室に展示されている3章の作品は写真撮影が可能です。 第1章:セーヌ河から睡蓮の池へ 1890年代後半、モネが繰り返し描いた主要なモチーフは、3年連続で訪れたロンドンの風景、そして彼の画業を通じて最も身近な存在であったセーヌ河の風景でした。 この時期に描かれたセーヌ河沿いの水辺の風景は、水面に映り込む鏡像が重要なテーマとなっています。 鏡のように穏やかな水面に映る光や景色を巧みに捉えたこれらの作品には、のちの代表作『睡蓮』を予見させる要素が随所に見られます。 反映された像が揺らぎながらも形を成すその表現には、彼の「見る」という鋭い観察眼と、自然の一瞬の美を捉えたいという情熱が感じられますね。 第1章では、そんなロンドンやセーヌ河を描いた名作が展示されており、モネがどのようにして『睡蓮』の世界観を築き上げていったのかを、時間を追いながら楽しめます! セーヌ川の支流であるエプト川を舞台にした作品『舟遊び』。 モネは、この川辺の風景を繰り返し描きながら、水面に映る光とその反映像の美しさを探求し続けました。 晩年に手がけた「睡蓮」のような、画面全体を水で覆う大胆な構図の片鱗がこの作品からも感じられますね。 らに、このセーヌ川を描いた他の作品も多く展示されており、それぞれ異なる「表情」を楽しめます。 寒色を基調とした作品は、空気の冷たさや透明感を巧みに表現し、暖色が差し込むものは陽光の温かさを感じさせてくれます。 同じセーヌ川を題材にしながらも、瞬間ごとに移ろいゆく光と空気を見事に捉えたモネの視点に驚かされるばかりです! また、モネはロンドンを訪れた際、テムズ川に架かるチャーリング・クロス橋を何度も描いていたようです。 この橋を題材とした一連の作品は、時間や天候、光の変化による風景の多様性を鮮やかに捉えています。 たとえば、朝日が昇りきり、川や空気が柔らかな黄色の光に包まれる情景。 モネは、光が水面をどのように照らすか、そして川辺の空気がその光をどのように拡散するかを細やかに表現しています。 一方、朝焼けや夕焼けのころ、川と煙が赤みを帯びた光に染まる作品も。 モネの、一瞬の移り変わりを見逃さない観察眼と光をどれほど巧みに操っていたかを間近で感じられる作品たちでした。 モネは、日本の美学に深く共感し、その影によって物の存在を暗示し、断片によって全体を感じさせる表現方法に強く影響を受けました。 その象徴的な作品が『睡蓮』であり、彼の作品の中ではしばしば、影や反射が重要な役割を果たしています。 『睡蓮』というと淡い色合いで幻想的な風景のイメージをもつ人も多いでしょう。 今回の展示では、赤をメインとした睡蓮の作品もいくつか鑑賞しました。 なかには、水平方向に広がる水面をあえて縦型のキャンバスに収めることで、黄昏時の赤く染まる空気と、その光の反射が水面に広がる様子を強調した作品も。 モネが追い求めた光や色の奥深さの新たな一面を見れたように感じます。 第2章:水と花々の装飾 大の園芸愛好家として知られるモネ。 彼の庭は、まるでキャンバスに絵具を載せるように、色鮮やかな花々で彩られていました。 その美しい庭は、彼の創作活動に大きなインスピレーションを与えた場所でもあります。 モネが構想しながらも実現することのなかった幻の装飾画に登場する植物たち。 池に架けられた太鼓橋を覆うように這う藤棚と、岸辺に咲くアガパンサスの花々が、この計画で重要な役割を担っていました。 紫や白の藤が揺れる橋と、青紫のアガパンサスが並ぶ風景は、モネが愛した自然そのものであり、彼が追い求めた色彩の世界を象徴する存在です。 また、モネが「睡蓮」に次いで多く描いた植物、それがアイリスです。 そのなかでも、作品番号25の『黄色いアイリス』はユニークな視点で描かれており、解説をみて驚きました。 この作品では、アイリスの花が真横から描かれ、その背後に広がる空と雲が水面に映り込んでいます。 一見すると、アイリスの花を下から見上げ、空と雲を同時に捉えているように感じられます。 しかし、解説を見ると、この作品は真横からアイリスを見た視点と、水面に反射する空と雲を上からみた視点の2つで構成されているとのことでした! まるで、モネが寝転がりながら花を見上げて描いたかのような自然な構図の中に、計算された構図の妙がありますね。 モネの庭に咲く植物たちは、彼の作品の重要なモチーフとなり、「アイリス」以外にも「アガパンサス」や「藤」なども題材にされています。 それぞれが異なる視点や光の演出で描かれており、植物を通して自然の豊かさや多様性を感じ取れます。 モネの作品は、単なる植物画を超え、その花々がある場所や時間の空気感までも描き出している点に、何度も引き込まれてしまいますね。 第3章:大装飾画への道 第3章では、まるでパリのオランジュリー美術館にある楕円形の部屋を彷彿とさせるような特別な空間が広がっています。 白を基調としたシンプルな楕円形の展示空間では、鑑賞者が睡蓮の池に囲まれるような感覚を味わえます。 水面に映り込む木々や空の柔らかな表現が、まるでその一部になったかのような没入感を与え、ただ「見る」だけでなく、「感じる」絵画体験を楽しめるでしょう。 また、旧松方コレクションの『睡蓮、柳の反映』も今回の企画展で注目したい作品の一つです。 モネが生前に唯一売却を認めた4メートルを超える巨大な装飾パネルであり、そのスケール感と芸術性に圧倒されます。 しかし、2016年に再発見された際には、上部の大半が欠損している状態だったとのこと。 今回の企画展では、この作品とともに、欠損前の姿を想像させる類似の作品も並べて展示されています。 これにより、かつての『睡蓮、柳の反映』がどのような壮麗な姿をしていたのかに思いを馳せることができますね。 失われた部分を想像しながら鑑賞する体験は、モネの創作の背景や彼が求めた芸術の理想に触れる貴重な機会となりました。 なお、企画展のなかで第3章は唯一写真撮影が可能な空間です。 ぜひ、モネが描いた『睡蓮』を写真に収め、後から余韻に浸るのもまたよいでしょう。 また、地下展示室を抜けるとサシャ・ギトリによるドキュメンタリーも放映されていました。 モネをはじめ、同時代に活躍したオーギュスト・ロダンやピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガといった著名な芸術家たちを記録した貴重な無声の映像作品です。 また、当時の舞台女優サラ・ベルナールや作曲家カミーユ・サン=サーンスなども登場し、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化的な空気感がリアルに伝わってきます。 中でも印象的なのは、立派な白ひげを蓄えた貫禄あるモネの姿。 タバコのようなものをくわえながら、パレットから色を取り、力強くキャンバスに向かうその姿は、まさに芸術家そのものでした。 モネがどのような思いで自然と向き合い、色を重ねていったのか、その一端を垣間見ることができる貴重な映像作品です。 第4章:交響する色彩 第4章では、モネが晩年に大装飾画の制作と並行して描いた小型の連作群が展示されています。 彼の庭に架けられた日本風の太鼓橋や、バラが咲き誇るジヴェルニーの庭が描かれ、モネが愛した自然の一部が色鮮やかに表現されているのが特徴的でした。 モネの晩年の作品には、白内障の影響が色濃く反映されています。 そのころの色彩は以前に比べて濃く、原色に近い鮮やかな色合いが多く見られ、暖色系が頻繁に使われるようになったと感じられました。 たとえば、作品番号49の『日本の橋』では寒色が中心でありながらも、そのトーンは深く、濃密な色彩が印象的です。 白内障という視覚障害を抱えながら、モネが何を思い絵筆を握っていたのか。 これまでのような繊細な色使いができなくなったことに対する失望や、描きたいものを思うように表現できない無念さがあったのかもしれません。 それでもなお、彼は新たな作品を生み出し続けました。 その中で、過去の自分とは異なる表現を模索し、新たな芸術の境地に挑戦していたのではないかとも考えられます。 作品番号65の「ばらの庭から見た家」では、白内障を患う中で描かれたとは思えないほど淡い色調とともに、ピンクや紫が幻想的に溶け合い、まるで夜の夢の中の風景を切り取ったかのようです。 視覚の制限を超えて、モネが自らの心に映る情景を描き続けたことが伝わってきます。 そして、実はこの作品は、モネが白内障の手術を受けた後に描かれたものだそうです。 白内障の手術を受けた後、モネの視界は片目は寒色系を認識できるようになったものの、もう片目はこれまで通り白内障の影響で暖色系に見えるという状態だったのです。 このような複雑な視覚の条件下で生まれた作品だからこそ、現実とモネ自身の内面が交錯した独特の色彩が生まれたのかもしれません。 白内障という逆境の中で、モネは新たな視点と色彩を見出しました。 それは、彼の芸術家としての情熱が尽きることなく、むしろハンデを乗り越えて新しい芸術の可能性を切り開いた証といえるのではないでしょうか。 モネが追い求めたものは、変わりゆく自然の美しさだけではなく、自らの限界を超えた先にある新たな表現の世界だったのかもしれません。 彼の晩年の作品を通じて、私たちは「見ること」「描くこと」の深い意味をあらためて考えさせられます。 エピローグ:さかさまの世界 1914年、モネは〈睡蓮〉を含む大装飾画の制作に着手しました。 同年、第一次世界大戦が始まり、人々が未曽有の悲劇に直面していた最中のことです。 そんな時期に彼はこう綴っています。 「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです。」 モネが筆を取り続ける理由、それは単なる絵画制作を超えた、生きるための行為であり、苦難の中にあって自身を保つための術だったのかもしれません。 モネが目指したのは、鑑賞者が無限の水の広がりに包まれ、静かに瞑想できる空間。 その発想は、西洋絵画の伝統である遠近法を否定し、人間中心主義的な視点から脱却しようとする挑戦ともいえるものでした。 これを「森羅万象が凝縮されたさかさまの世界」と称したクレマンソーは、モネの死後も彼の志を支え続け、1927年に大装飾画がオランジュリー美術館に設置される運びとなったそうです。 うっとりするようなデザインのグッズがあるのは、モネ展ならでは 「モネ 睡蓮のとき」展では、モネの世界観を五感で体験できるユニークなグッズが充実しています。 企画展の記念やお土産としてぴったりなアイテムをいくつかご紹介します。 食べてひたるモネ:ヴォヤージュサブレ Sablé MICHELLEが手がける焼き菓子「ヴォヤージュサブレ」。 美味しいだけでなく、缶には大人気の《睡蓮》がプリントされています。 この特製缶は食べ終わった後も使えるので、展覧会の思い出として長く楽しめます。 触れてひたるモネ:シュニール織ハンカチ 歴史と伝統あるFEILER(フェイラー)がデザインしたシュニール織ハンカチは、グリーンとピンクの2色展開。 柔らかな手触りと上品なデザインが特徴で、今回の企画展だけの特別なアイテムです。 普段使いはもちろん、ギフトとしてもおすすめ。 歩いてひたるモネ:オールスター スニーカー 「White atelier BY CONVERSE」が手がけたオールスターは、左右の外側とタン部分に『睡蓮』をプリントしたデザインが特徴的。 鮮やかな色彩で描かれたこのスニーカーは、履くたびにモネの世界を感じられる特別な一足です。 展覧会限定のこれらのグッズは、モネの名画をさまざまな形で楽しめる貴重なアイテムばかりです。 この機会に、ぜひお気に入りを見つけてみてください。 モネの『睡蓮』と彼が紡ぎ出した芸術の世界を体感できる「モネ 睡蓮のとき」展 同じ場所でも、一秒たりとも同じ景色は存在しない。 それを感じさせてくれたのが、今回の企画展で展示されていたモネが描き続けたセーヌ川や睡蓮の風景です。 水面に映る光と影、風の動きや空の色。 絵画を通じて、時間の流れを感じつつも、その一瞬の尊さを教えてくれるモネの作品は、日常の何気ない景色すら特別に思えるきっかけを与えてくれるでしょう。 ぜひ、企画展に足を運んで、モネの『睡蓮』を間近で感じてみてください。 水面に映る美しい風景とともに、あなた自身もその絵画の一部となったような感覚を楽しめるはずです。 開催情報 『モネ 睡蓮のとき展』 場所:国立西洋美術館 住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園7番7号 期間:2024年10月5日~2025年2月11日 公式ページ:https://www.nmwa.go.jp/jp/ チケット:一般2,300円、大学生1,400円、高校生1,000円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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草間彌生の死生観を辿る「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展
皆さんは、草間彌生(1929年-)を知っていますか? 1957年に渡米した彼女は、自己消滅をテーマにした網目模様の絵画で注目を集めました。1960年代には水玉模様を人体に描くパフォーマンスで生命の美を反戦と絡めて表現。 1970年代に帰国後、死をテーマにした暗い作品が中心となりますが、80年代後半には輪廻転生や永劫回帰を描き始めます。 2000年代以降は、迫り来る死への意識を創作のエネルギーに変え、生きる喜びをカラフルに描き続けています。 今回は、草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を運びました! この展覧会では、1940~50年代の戦争の影響が反映された絵画から、近年の最新作に至るまで、多様な作品を通して草間彌生の死生観の変化を感じ取れる内容となっています。 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は草間彌生美術館にて開催中 新宿区弁天町に位置する草間彌生美術館。 外観は縦長で、白を基調としたシンプルかつ洗練されたデザインが特徴的です。 カラフルで独創的な草間作品とは正反対の印象を受けました。 今回の企画展「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」は、日時指定の完全予約制(各回90分)でゆっくり鑑賞できるのがうれしいポイントです。 入口でQRコードを提示すればスムーズに入館できます。 今回、訪れた際は海外からの観光客が多く、国際的な人気を感じる空間でした。 館内1階には荷物を預けるロッカーがありますが、その数が少ないため混雑時には利用できない可能性があります。 大きな荷物は避け、身軽な状態で訪れると安心です。 また、展示会場は1~5階の全5フロアに分かれています。 一つの階ごとにテーマが分かれており、スムーズに鑑賞が進められる工夫がされています。 1~3階では写真撮影が禁止されているため、作品を心でしっかり楽しむことに集中しましょう。 一方、4階の映像作品と5階屋上の「かぼちゃ」の作品は撮影OKです。 屋上のかぼちゃは、草間ワールドの象徴ともいえる作品で、多くの人が記念撮影を楽しんでいました。 生命力あふれる作品に圧倒される展示が… 草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を踏み入れると、まず1階のエントランスから大きな作品が私たちを迎えてくれました。 生命力を感じさせる立体作品『生命(REPETITIVE VISION)』(1998)と、草間が生と死をテーマにした絵画シリーズ「わが永遠の魂」からの2点、『永遠に生きていきたい』(2017)と『自殺の儀式』(2013)が展示されています。 『生命(REPETITIVE VISION)』は、黒地に黄色の水玉模様が描かれ、植物のように上へ上へと伸びようとする姿が印象的です。 この作品は、草間が60年代に性的な強迫観念を表現したソフト・スカルプチュアの延長ともいえる作品です。 しかし、強迫観念からくる抑圧的な印象を超えて、生命が力強く伸びようとする力強さを感じさせます。 どこか生命のエネルギーを感じるこの作品に、思わず息を呑んでしまいました。 また、後方に展示された2点の絵画『永遠に生きていきたい』と『自殺の儀式』も印象的です。 この2つの作品は、生と死という相反する感情を常に持ち合わせながら創作に向かった草間の姿勢を感じさせ、彼女がどれほど内面的な葛藤を抱えながら作品を生み出してきたのかを想像させてくれるような作品です。 2階では、1950年代から80年代にかけて、さまざまな方法で死に向き合いながら生まれた草間の作品が並び、彼女の創作における真摯な探求心が感じられます。 まず、注目すべきは初期の代表作『残夢』(1949)。 赤く荒れ果てた大地に枯れたひまわりが描かれており、戦争の死の記憶が生々しく残る当時の空気を感じさせます。 この作品には、草間が生きた時代背景と、戦争がもたらした深い影響が色濃く反映されているのでしょう。 続いて、草間が1957年に渡米し、60年代に「自己消滅」というテーマのもとで創作した作品やヌード・パフォーマンスにも注目したいところです。 ベトナム戦争を背景にした反戦運動と呼応する形で生み出された草間のパフォーマンス作品は、死と向き合わせることで生まれた芸術的表現の一端を垣間見ることができます。 そして、70年代に恋人や父などの身近な人の死や心身の不調に直面して帰国した草間は、より直接的に死をテーマにした作品に取り組むように。 フロアの中央に展示された『希死』(1975-76)は、生命力に満ち溢れた1階の作品『生命(REPETITIVE VISION)』とは正反対の印象を与えるソフト・スカルプチュアです。 冷たく輝く銀色のファルスが死のイメージを強く印象付けます。 無機的な表現が、草間が直面した深い絶望と向き合う姿勢を象徴しているかのように思えました。 また、草間自身の言葉による詩も強く印象に残っています。 帰国後の彼女の作品には、死への強い意識が表れたものが多くあります。 詩とともに展示されている作品が、草間の内面的な葛藤や創作への情熱をより一層深く感じさせてくれるでしょう。 3階では、最新作のインスタレーション『再生の瞬間』(2024)が展示されています。 この作品は、天井まで伸びる樹木のような巨大な構造で、生命の力強さを感じさせてくれます。 筒状に縫い合わせた水玉模様の布に綿を詰めたその形は、まるで枝を四方に伸ばしているようで、周囲に広がる生命のエネルギーをイメージさせるものです。 インスタレーションとセットで展示されているのが、1988年の平面作品『命の炎―杜甫に捧ぐ』です。 背景の赤いキャンバスに描かれた白い無数の水玉模様にはしっぽのようなものが生えており、まるで精子のようにも見え、生命の根源的な存在を象徴しているようにも感じられます。 ほかの平面作品からも生命の動的な力が感じられ、2階の展示とは対照的に、展示室全体にあふれる生の躍動感が伝わってきました。 4階に展示されている、2010年制作のヴィデオ・インスタレーション『マンハッタン自殺未遂常習犯の歌』は、視覚的にも感覚的にも非常に強い印象を残す作品です。 こちらは草間彌生自身が出演する映像作品で、詩を歌う姿が強く印象に残っています。 映像が合わせ鏡によって無限に増殖していくという構造も特徴的でした。 詩の内容は、死というテーマに深く根ざしており、「去ってしまう」「天国への階段」「自殺(は)てる 現在は」といった言葉が散りばめられています。 これらのフレーズには、草間自身の内面の葛藤や死への衝動がにじみ出ているように感じられます。 一方で、「花の煩悶(もだえ)のなかいまは果てなく」「呼んでいるきっと孤空(そら)の碧さ透けて」といった清涼さがあり、どこか永遠を感じさせる言葉も見受けられました。 草間は死と向き合いながらも、それを単なる終わりとして捉えることなく、むしろ新たな何かを生み出す力として表現しているのだと感じられました。 この映像作品で詠われている詩の両義的な言葉は、見る者の心に強く訴えかけ、死というテーマの深さを改めて考えさせられます。 5階にある屋外ギャラリーでは、最新作の「かぼちゃ」をモチーフにした作品『大いなる巨大な南瓜』(2024)が展示されています。 草間の代名詞ともいえるアイコニックな作品で、美術や芸術に詳しくない人も見たことがあるのではないでしょうか。 展示全体を通じて、草間の死生観を感じたあとに最新作の「かぼちゃ」を鑑賞すると、生命の象徴としての力強さが伝わってきます。 屋外ギャラリーでの作品鑑賞後、観賞者はエレベーターで1階のロビーに戻る順路になっていますが、この動線自体が、生と死の輪廻を思わせるようでした。 美術館限定のグッズやあの水玉模様のグッズまで 草間彌生美術館のショップスペースでは、草間彌生の作品を象徴する水玉模様や網目模様のグッズがずらりと並んでいます。 例えば、アイコニックな水玉デザインの缶が目を引く「プティ・ゴーフル」は、上野風月堂とのコラボレーションで、サクサクの生地にバニラ風味のクリームがサンドされています。 さらに、「かぼちゃ缶」のプティ・シガールは、ヨックモックとのコラボ商品で、美術館限定アイテムとして大人気です。 どちらも美術館限定の商品なので、アート鑑賞を楽しんだ後はぜひお土産として手に入れてください。 また、企画展の図録も販売されているため、草間彌生の世界観にいつでも触れていたいという方は、購入を検討するのもよいでしょう。 死と生を見つめる『私は死を乗り越えて生きてゆきたい』展 草間彌生美術館で開催されている「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は、草間彌生がどのように創作によって「死を乗り越えてきたのか」というテーマに迫る展覧会です。 草間の作品は、死を意識させるものもあれば、逆に色彩豊かでエネルギッシュな作品が並び、命の力強さを感じさせます。 その両面を見つめることで、彼女がどのように内面的な葛藤を創造的なエネルギーに変えてきたのか、少しだけその答えに触れることができるかもしれません。 展示空間自体も非常に魅力的で、外観と内観、そして作品の大胆さと繊細さが見事に融合しています。 アートに包まれるような感覚を味わえるだけでなく、美術館そのものが一つのアート作品のような印象を与えてくれます。 草間の作品を観賞するだけでなく、美術館全体の雰囲気を楽しむことができるので、ぜひ一度足を運んでみてください。 開催情報 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展 場所:草間彌生美術館 住所:〒162-0851 東京都新宿区弁天町107 期間:2024/10/17~2025/03/09 公式ページ:https://yayoikusamamuseum.jp/ チケット:一般 1,100円、小中高生 600円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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竹久夢二のスタート地点を鑑賞する「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」に行ってみた!
皆さんは、「大正ロマンの画家」と呼ばれる竹久夢二(1884年-1934年)という画家を知っていますか? 夢二は、その独特な画風と美人画で広く知られていますが、彼のキャリアは画家だけにとどまりません。 実は、1907年の4月に読売新聞に入社し、記者としての道を歩んでいたのです。 22歳の彼が手掛けた瑞々しい時事スケッチや紀行文の連載は、紙面を彩り、読者を魅了しました。 今回は、竹久夢二美術館で開催されている「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展に行ってきました! 企画展では、記者としての夢二の仕事や、当時の読売新聞の記事も紹介されています。 夢二がいかにして社会に影響を与えたか、その軌跡をたどっていきましょう。 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」は竹久夢二美術館にて開催 竹久夢二美術館は、大正ロマンの画家として知られる竹久夢二の作品を中心に展示する美術館で、東京都文京区弥生に位置しています。 夢二の描いた女性像「夢二式美人」をはじめ、挿絵やデザイン、詩作など多岐にわたる彼の活動を紹介しています。 また、美術館の隣には明治・大正・昭和の挿絵画家に関連する展示を行う弥生美術館もあり、入場券が共通のため1枚で両方の美術館を楽しめるのが魅力です。 開催中の展覧会「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」は、竹久夢二の生誕140年と読売新聞の創刊150周年を記念して開催されています。 なお、竹久夢二美術館内は、写真撮影が禁止されています。 展示会場の出口にあるフォトスポットのみ撮影が可能です。 竹久夢二展の見どころ 竹久夢二美術館で開催中の「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展は、夢二が記者として活動していた時代に焦点を当てた、これまでにない新たな取り組みによる展覧会です。 若き日の夢二が描いた新聞記事や挿絵、スケッチを通じて、アーティストとしての彼の初期の足跡をたどれます。 夢二展史上初めての試みで、彼の多才ぶりと成長の過程を深く知れる貴重な機会となるでしょう。 夢二は読売新聞を退社後、画家や詩人、デザイナーとして活躍し、文化界で広く注目される存在となりました。 今回の企画展では、夢二が新聞記者から取材対象となり、紙面にたびたび登場するようになった様子も紹介されています。 夢二が文化人として時代を彩った軌跡が、読売新聞との関係を通して鮮やかに浮かび上がります。 さらに、夢二が活躍した当時の銀座に関連する展示も見どころの一つです。 当時、読売新聞社は銀座に本社を構えており、夢二が手掛けた銀座千疋屋や資生堂ギャラリーのデザイン仕事を通じて、彼と銀座の関わりを再発見できるでしょう。 戦前の銀座を中心とした夢二の活動を知ることで、彼の芸術が時代の商業デザインや文化にどのように影響を与えたのかがわかります。 新聞記者としても活躍した竹久夢二 竹久夢二の記者時代の足跡をたどる貴重な作品が展示された企画展のスタート地点ともいえるのが、劇作家・島村抱月が読売新聞の社会部長である小剣に宛てた手紙です。 手紙の中で、抱月は夢二の才能を高く評価し、特に「小さい写生画が得意で文も書ける」という点が新聞記者として適していると推薦していました。 抱月の後押しがあって夢二が新聞記者としてのキャリアを歩み始めることになったのです。 入社後に夢二が初めて掲載した作品「江戸川のさくら」は、彼の記者活動の象徴ともいえる一枚です。 また、入社時期が4月ということもあり、花の名所を巡って描いたスケッチも多数並んでいます。 春の息吹を感じさせる作品群は、夢二の新たな挑戦に対する情熱が伝わってくるようです。 また、夢二が東京勧業博覧会を取材した際のスケッチも展示されています。 この一連の作品は、当時の人々の様子を風刺を交えつつユーモラスに描いており、彼の観察力と表現力が光ります。 シンプルな線で描かれていながらも、一目で情景が分かる巧みさは、夢二の特徴ともいえるでしょう。 夢二は大人向けの記事だけでなく、子ども向け新聞にも多くの挿絵を提供していました。 動物や少年少女を描いたこれらの作品は、親しみやすさと温かみを持ち、子どもたちの心を掴む魅力に溢れています。 これらの挿絵は、夢二が記者としてだけでなく、画家としても多才であったことをあらためて感じさせてくれますね。 展示室内には、竹久夢二が読売新聞社での記者活動と並行して手掛けていた雑誌のイラストも展示されています。 これらのイラストは、彼の画家としての出発点を示す大切な作品群です。 夢二は美術学校に進学していないにもかかわらず、その独自の感性とタッチで雑誌に寄稿したイラストが読者の間で人気を博しました。 夢二独特の柔らかい線や淡い色彩で描かれた人物や情景は、多くの人々の心を掴み、画家としての名声を築くきっかけとなったのです。 雑誌イラストの人気が高まる中で、夢二の活躍の場は次第に広がり、やがて彼の画風は「夢二式美人」として多くの人々に認知されるようになりました。 このように、雑誌というメディアが彼のキャリアを大きく後押ししたことが、今回の展示からもはっきりと伝わります。 今回の企画展では、竹久夢二が描き続けた「夢二式美人」の魅力も存分に堪能できます。 彼の妻である岸他万喜らをモデルにした作品が多数展示されており、夢二が抱く理想の女性像が感じられる内容となっていました。 彼が描く女性たちは、優しそうなまなざしやもの憂いげな表情が特徴的で、その繊細な表現は見る人を惹きつけます。 空想から生まれた美しい娘たちを表現することに注力した夢二の女性像が、どのように発展していったのかをたどれる魅力的な展示でした。 夢二の才能が発揮されたのは女性像をメインにした絵だけにとどまりません。 彼は松井須磨子や浅草オペラの関連作品を手掛け、楽譜や歌劇の絵を担当するなど、多岐にわたる芸術分野に携わりました。 また、大正時代に注目された「モダンガール」のイメージを描いた夢二の作品群も展示されています。 婦人グラフの表紙や少女世界の口絵などの商業作品では、当時の女性たちの新しい生き方や価値観を表現しており、夢二のアーティストとしての柔軟さと時代感覚が光ります。 夢二が読売新聞社を退社してからの活動には、日本画やデザイン、詩作など幅広い分野があります。 新聞時代の延長線上にある寄稿活動も行っており、読売新聞の文芸欄や婦人欄では、彼の絵画論や女性美への考察、さらには生活を豊かにする趣味についてのエッセイが展開されました。 これらの寄稿から、夢二がどれほど多才で視野が広かったかがうかがえますね。 また、今回の特別展示として油彩画「モントレーの丘から」も展示されていました。夢二が海外旅行中に描いた風景画で、彼の色彩感覚や異国への憧れが感じられる一枚です。 普段はあまり見られない油彩技法による作品は、彼の新たな一面を知る絶好の機会といえるでしょう。 夢二のデザインセンスは、商業広告にも顕著に現れていました。 なかでも千疋屋の広告は、シンプルでモダンなデザインが目を引きます。 夢二のデザインは洗練された都会的なセンスを持ち合わせており、その新しさが際立ちます。 また、今回の展覧会で初公開となる日本画『白桃や』と『南枝王春』は、見どころの一つです。 友人への贈答品として描かれた日本画で、どちらも大変丁寧に描かれたことが分かる色使いや仕上げが目を引きます。 レトロモダンでかわいいグッズも見逃せない 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展を楽しんだ後は、ぜひミュージアムショップにも立ち寄ってみてください。 ショップでは、夢二をはじめ、大正ロマンを象徴する中原淳一や竹久夢二の商品が多数揃っています。 商品ラインナップ ・ポスター(B3サイズ・カラー):展示作品を自宅で楽しむのにぴったりです。 ・絵はがき:夢二の繊細なタッチが手軽に楽しめるアイテム。 ・ぽち袋やクリアファイル:日常使いに便利で、実用性も高いアイテムが揃っています。 ・マグネットやタオル:夢二のデザインが生活に彩りを添えてくれる雑貨も人気です。 ・メモ帳やレターセット:夢二の世界観を手紙やメモに活かせます。 ミュージアムショップの受付時間は、10:30~16:30です。 展示を楽しんだ後の余韻に浸りながら、ぜひお気に入りの商品を手に入れてください。 夢二の功績とその道筋を堪能しよう 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展では、新聞記者としての夢二がどのようにして文化の旗手へと成長していったのか、その道筋を堪能できる貴重な機会が提供されています。 新聞記事や取材スケッチを通じて、夢二の行動力や好奇心に満ちた姿が浮かび上がり、歴史とアートの交差点に立つような知的なひとときを楽しめます。 新聞記者としての夢二がどのようにして文化の旗手へと成長していったのか、その道筋を楽しむことができる展示となっています。歴史とアートの交差点に立つような、知的好奇心を満たすひとときが待っています! 展覧会を満喫した後は、美術館併設のカフェ「港や」でひと休みするのもおすすめです。 このカフェの名前は、竹久夢二が大正3年に開店した「港屋絵草紙店」にちなんで名づけられました。 コーヒーや紅茶、ケーキセットやカレーなど、アート鑑賞の余韻に浸りながら楽しめるメニューがそろっています。 竹久夢二の新しい一面に触れ、彼の作品世界に深く浸れる本展。 アートファンや歴史好きな方だけでなく、夢二を知らなかった方にとっても、新たな発見が待っていることでしょう。 開催情報 『竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~』 場所:竹久夢二美術館 住所:〒113-0032 東京都文京区弥生2-4-2 期間:2024/09/28~2025/01/26 公式ページ:https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/outline.html チケット:一般1,000円、高校生900円、中・小学生500円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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