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最も国宝らしくない国宝を描いた「久隅守景」とは
久隅守景は、江戸時代の前期に活動していた狩野派の絵師です。
狩野探幽の弟子であり、最も優秀な後継者ともいわれていました。
また、国宝にも指定されている『納涼図屏風』は、最も国宝らしくない国宝として、現代でも注目を集めています。
狩野探幽の弟子で優秀な後継者だった
守景は、若いころに探幽の門下となり、神足高雲や桃田柳栄、尾形幽元らとともに四天王と称されていました。
1831年に書かれた『画乗要略』では、山水と人物を得意としており、その技術は雪舟や伯仲、探幽門下で右に出るものなしとまで評価されています。
狩野派一門の逸材として活躍していた守景は、探幽の姪である国と結婚し、師匠の一字を拝領して「守信」と名乗っていました。
狩野派絵師として活躍していた当時の初期作品には、1634年に描かれた『劉伯倫図』があります。
また、1641年には探幽の弟である狩野尚信と探幽、尚信の姉婿である狩野信政とともに制作に参加した、滋賀県にある天台宗の寺院の聖衆来迎寺客殿の障壁画では『十六羅漢図』、富山県にある曹洞宗の寺院の瑞龍寺には『四季山水図襖』を描いています。
当時の守景は、探幽の画風を忠実に習い描いており、習作期間に位置づけられているのです。
子どものトラブルをきっかけに狩野派から距離を置く
結婚後、守景は1男2女に恵まれ、長女の清原雪信と長男の彦十郎は、父の守景を継いで絵師になっています。
雪信は、父の師でもある探幽に絵を学んだ狩野派随一の女性絵師で、探幽様式を忠実に習いながらも、女性らしい繊細な筆の運びや彩色で優美な作風の絵を描いていました。
作家の井原西鶴が書いた『好色一代男』にも、雪信の名前が登場していることから、当時の人気の高さがうかがえます。
高い評価を得ていた雪信でしたが、狩野門下の絵師であり尼崎の仕官の子である平野伊兵衛守清と駆け落ちをしてしまいます。
息子の彦十郎も探幽門下の絵師として活躍していましたが、悪所通いが原因となり探幽から勘当され破門、のちに師へ告げ口した同門絵師をうち果たすと口走り投獄され、佐渡へ島流しとなってしまいました。
しかし、彦十郎は佐渡でも狩野派の画風を忠実に学んだ作品を制作し続け、注文を受けて制作を行っていたそうです。
長女・長男は波乱万丈な人生を送ったといえるでしょう。
これらの問題がきっかけとなり、守景は狩野派から距離を置くようになり、金沢で制作活動を行うようになりました。
晩年まで制作活動は続けていた
狩野派と距離を置いた守景は晩年、加賀藩前田家に招かれて金沢の城下に滞在しました。
探幽の門下生として描いた瑞龍寺の襖絵は、前田利常の命によるもので、当時は加賀藩の重臣である今枝と小幡の両家にお世話になっていたそうです。
晩年の招待も、瑞龍寺の襖絵制作がきっかけであったと考えられます。
一説によると、2度目の滞在時は五代藩主・綱紀が招き、今枝、小幡の両家と町奉行の片岡孫兵衛の家にお世話になり、6年間滞在していたといわれています。
守景の代表作である『納涼図屏風』や『鷹狩図屏風』は、2度目の金沢滞在期間に描かれたと推測されているそうです。
晩年、絵を描き続けていた守景は、加賀の地でさらに飛躍的な成長を遂げたといえるでしょう。
最晩年は、京都に移住して『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』を制作しており、年を重ねても老いを感じさせない素晴らしい作品を残しています。
久隅守景が描く絵の特徴
守景が描く作品は、初期こそ探幽に習い忠実に探幽様式を再現していましたが、狩野派と距離を置いて以降は、独自の画風を確立していきました。
守景は、味わいのある墨線が魅力の一つで、耕作図といった農民の生活を描いた風俗画を多く手がけています。
探幽以後の狩野派は、守景の画風を敵対視して形式化・形骸化していきますが、守景は個性的な画風を確立していき、高く評価されていました。
また、守景は農村の人々の暮らしをよく描いており、武士が領民の暮らしを守り自らを戒める鑑戒画として知られています。
国宝らしくない国宝『納涼図屏風』
国宝らしくない国宝と呼ばれる『納涼図屏風』は、2度目の金沢滞在時に描かれたといわれています。
おぼろげな月光のもとで、筵を敷いて夕涼みする納付の親子が描かれている作品です。
地面には、細かい砂利のようなものが描かれており、近くに小川が流れているのかと想像させてくれます。
1日の労働を終えて家族で夕涼みするその様子は、くつろぎのひとときといえますが、シンプルな構成からどこかもの悲しさも感じられるでしょう。
また、くつろいでいる3人の表情からは、何気ない日常風景の詩情豊かに表現する守景の才能が見え隠れしています。
日常風景を描いたこの作品は、華やかさがなく一見地味であるとも捉えられ、国宝らしくない国宝ともいわれているのです。
しかし、すみずみまで細かく鑑賞してみると、神経の行き届いた繊細な筆使いが見受けられます。
男性側は太くはっきりとした輪郭線が描かれているのに対して、女性側は細く繊細な輪郭線が描かれています。
『納涼図屏風』は、見れば見るほどその味わい深さに魅了される作品といえるでしょう。
年表:久隅守景
西暦(和暦) | 満年齢 | できごと |
1620年代頃(元和期) | 不詳 | 生まれる。 |
1630年代(寛永期) | 10代 | 狩野探幽に師事し、狩野派四天王と称される。 |
1634(寛永11年) | 不詳 | 作品『劉伯倫図』を制作。探幽門下でその才能を評価される。 |
1641(寛永18年) | 不詳 | 『四季山水図』を知恩院にて制作。探幽や他の弟子と協力。 |
1642(寛永19年) | 不詳 | 聖衆来迎寺に『十六羅漢図』を制作。 |
1672(寛文12年) | 50代頃 | 息子の不行跡により破門。弟子たちから距離を置くようになる。 |
1700年代初頭(元禄期) | 不詳 | 死去。晩年は不明な点が多いが、後世に影響を与えた。 |