浦上玉堂は、墨で描く山水画を好んで描いていました。
構図や筆法が豊富であったわけではありませんが、同じモチーフを繰り返し描き、水墨表現を少しずつ変化させています。
表現方法を試行錯誤する中で、中国文人画の本質に迫っていったといえるでしょう。
玉堂が亡くなったあと、京都嵯峨野の法輪寺境内に玉堂琴士之碑が建てられました。
川端康成が愛蔵している『東雲篩雪図』は、国宝にも指定されています。
目次
エリート藩士で画家の「浦上玉堂」とは
生没年:1745年-1820年
浦上玉堂は、江戸時代後期に活躍した南画家です。
備中鴨方藩の武家の家系に生まれています。
早くに父が病死してしまったため、玉堂は7歳で家督を継ぎました。
仕官中に、何度も江戸を往来しており、琴や詩、絵を学んでいました。
藩士として務めを果たす中、50歳前後で官を辞し、脱藩しています。
異色の経歴を持つ浦上玉堂が描く作品は、繊細な筆使いが特徴的で、透明感のある彩色表現が目を引きます。
武士の家系に生まれ藩士となる
父が病死し、7歳で家督を継いだ浦上玉堂は、16歳で一つ年上の鴨方藩主池田政香に謁見する初御目見をし、江戸幕府の役職の一つである御側詰として、忠誠をつくしました。
政香と玉堂は、厚い信頼関係で結ばれており、周囲からは「水魚の交」と謳われるほどでした。
玉堂は政香に仕える中で、順調に昇進していきますが、政香は25歳という若さで病死してしまいます。
その後、玉堂は31歳で参勤交代の支度を任される御供頭として、37歳で大目附役になるなど、重職に昇進していきました。
芸術分野への興味を強く持っていた
浦上玉堂は、藩士としての務めを果たしながらも、芸術分野に強い興味を持っていたといわれています。
儒学や医学、薬学などの学術に励む一方で、詩作や音楽などの芸術分野にも関心を示していました。
中でも、七絃琴に力を入れており、演奏家としてだけではなく作曲家や琴を作る造琴家としても活躍しています。
また、35歳のときに中国明の七絃琴を江戸で手に入れた玉堂は、琴に刻まれていた琴銘「玉堂清韻」にちなみ、玉堂琴士と名乗るようになったといわれています。
2人の息子、春琴・秋琴の名からも、七絃琴に対する熱い想いが伝わってくるでしょう。
40代を過ぎてから画業に取り組む
浦上玉堂は、藩士として務めていたため、若いころから画業に専念していたわけではありませんでした。
30代のころは、参勤交代で江戸在勤中に谷文晁らと交流しており、中国画の模写を行い絵を学んだと考えられています。
本格的に画業に取り組み始めたのは40代を過ぎてからといわれています。
当時は、まだ自身の画風を確立していなかったこともあり、「気ままに描いているため画人と名乗るのは恥ずかしい」と語っているのです。
のちに、独自の絵の境地に達しますが、本人は職業として画人と呼ばれることを好まず、その姿勢を貫きました。
50歳にして脱藩を決意し画業に専念する
画業への取り組みを本格化していった浦上玉堂は、1794年に息子の春琴・秋琴を連れて岡山を発ちました。
そして、滞在先の但馬国城崎から藩に対して脱藩届を送りました。
玉堂は、50歳にして長年続けてきた藩士を辞める決意をしたのです。
武士としての地位や名誉、キャリア、故郷などを手放す脱藩は、玉堂にとって大きな決断だったことでしょう。
脱藩の明確な理由はわかっていませんが、主君の死により世に対する不満が生まれた、母や妻が亡くなり娘も嫁いだため面倒を見る人たちがいなくなった、幕府の学びの規制に対する反発などが挙げられます。
しかし、岡山は武士の脱藩に寛容な地域であったため、玉堂の行動により一族に処分が下されることはありませんでした。
浦上玉堂の2人の息子
浦上玉堂には、2人の息子がいます。
春琴・秋琴どちらも玉堂と同様に絵を制作していました。
浦上春琴
浦上春琴は、江戸時代後期に文人画家として活躍しました。
浦上玉堂の長男として備前岡山城下にて生まれました。
幼いころから詩画の才能を発揮しており、16歳で父の脱藩にあわせて岡山を発ち、その後は京都を拠点に活動しています。
春琴は、写生をベースにした山水画や花鳥画を好んで描いています。
洗練された気品のある画風は、関西でも人気を集めました。
晩年、父の玉堂とともに暮らし、頼山陽や田能村竹田、小石元瑞などの文人たちとも交流を図っています。
春琴は68歳で亡くなりましたが、生涯精力的に画筆を執り作品の制作をしていました。
浦上秋琴
浦上秋琴は、江戸時代後期に活躍した日本画家です。
浦上玉堂の次男として備前岡山城下に生まれ、父の脱藩に伴い、10歳で岡山を後にしています。
脱藩の翌年、玉堂が会津藩の招へいに応じて会津に向かったとき、秋琴もついていきました。
父が土津神社の神楽を再興した功績により、秋琴は11歳で会津藩士となったのです。
秋琴は、会津藩の中では詩画を嗜み、23歳になると雅楽方頭取となるなど、音楽面の活動を中心に行っていました。
70歳で官職を辞めた後は、会津戦争終戦を機に備前藩の兵士とともに岡山へ戻りました。
このとき、秋琴は85歳です。
その後も画筆を執り制作を続け、87歳で亡くなりました。
浦上玉堂の生き方に惹かれた芸術家たち
藩士として活躍し、大きな決断をして文人画家となった浦上玉堂の生き方は、多くの人の心を打ちました。
文人画家の田能村竹田や、日本を代表する小説家である川端康成、ドイツ人建築家のブルーノ・タウトなども玉堂から影響を受けた人物の1人です。
田能村竹田
文人画家であり文筆家の田能村竹田は、浦上玉堂と大阪の持明院で40日間同居をしていました。
田能村竹田は、当時最高作といわれた画論書『山中人饒舌』の中で、玉堂画を高く評価しており、玉堂を最もよく理解していた一人ともいえます。
また、玉堂の長男である春琴とも親しく交流をしていました。
川端康成
小説家の川端康成は、浦上玉堂の作品を近代的なさびしさの中に古代の静かさを感じられると表現しています。
亡霊のように生きている64歳のユトリロという言葉と写真を美術書で見かけたとき、康成は寒気を感じたといいます。
そして、とっさに玉堂の『東雲篩雪』という絵を心に浮かべたそうです。
ブルーノ・タウト
ドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、浦上玉堂のことをヴィンセント・ヴァン・ゴッホに匹敵すると述べています。
また、近代日本が生んだ最大の天才とも称しています。
自然をそのまま再現するのではなく、自然を自分の中に取り込み解釈し、自然の形態をもって表現していると評価しているのです。