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安井曾太郎(1888年-1955年)洋画家[日本]

清爽堅実で写実的な洋画家「安井曾太郎」とは

安井曾太郎
生没年:1888年-1955年

安井曾太郎は、大正から昭和にかけて活躍した洋画家で、梅原龍三郎と並んで称された人物です。
自分自身が絵を描くだけではなく、新文展の審査員や東京美術学校の教授、帝室技芸員、蕨画塾の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注ぎました。
また、1952年には文化勲章を受章しており、1955年、肺炎で療養している折に、心臓麻痺を引き起こし亡くなりました。

幼いころから画家への道を志す

曾太郎は、京都市中京区にて安井元七、よねのあいだに5男として生まれました。
父の元七は、木綿問屋「安井商店」の2代目と資産家であり、貧しくないむしろ裕福な家庭ではありましたが、中京商家の昔からの習わしもあり、曾太郎は質素な生活を送ったといわれています。
また、生家の隣にある扇屋「藤田団扇堂」には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係性もあり、藤田の家にも気兼ねなく出入りしていたそうです。
無口で実直な性格だった曽太郎からすると、生家にはいつも客が出入りしており、応対する番頭や小僧も多かったため、にぎやかで落ち着く場所がないと感じていました。
しかし、藤田の家は扇屋という商売柄もあって静かであったため、曾太郎はよく出入りをしていたといえます。
また、藤田家の祖母の熟練した筆使いにより描かれる京扇の模様が大変美しく、曾太郎の心を惹きつけていたことも、長居をしてしまう大きな理由の一つといえるでしょう。
曾太郎は、祖母に習いさまざまな模様を描かせてもらい、絵を描くことへの好奇心を高めていきました。
このころのできごとが、のちの画家への礎となり、絵描き思考が形成されていったと考えられます。

その後、4年制の尋常小学校を卒業すると、親の希望もあって商家の子らしい堀川通りにある京都市立商業学校に入学。
しかし、画家として暮らしていく道をあきらめきれずに本科1年を終了したころに学校を中途退学します。
退学前、父に画家を志していることを打ち明けたところ、もちろん反対にあいましたが、長兄の彦三郎が曽太郎の気持ちをくみ父を説得し、画家を目指すことを許されました。
子どものころの曾太郎がなぜ洋画に強く惹かれたのかはっきりとした理由は記録に残っていませんが、中学校の図画教師であった平清水亮太郎の影響や、珠算が苦手であったこと、商人に向かない性格などが関係していると考えられます。
商業学校を中退した曾太郎は、京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でもある亮太郎の家に1年間ほど通い、デッサンや水彩画を学びました。

ライバルとの出会いとパリ留学

1903年ごろから画業に専念するようになりましたが、これまで本格的に絵を学んだことがなかった曽太郎は、焦る気持ちを抑えながら、絵の技術を磨く日々を過ごしました。
そのような中、曾太郎が西大谷にある蓮池で写生をしていたとき、一人の若い画家と出会います。
その画家が描いていた絵は斬新かつ軽妙で大変うまく、内気な性格の曾太郎は声をかけるのをためらいましたが、この機会を逃してはいけないと思い切って声をかけました。
声をかけた画家が、洋画家で教育者の浅井忠に師事している中林僊という洋画家でした。
曾太郎は、僊の紹介により浅井忠が開いている聖護院洋画研究所に入門し、さらに本格的に絵を学んでいきます。
この出会いと入門がきっかけとなり、のちによき友人でありライバルとなる、日本画壇を支えていく梅原龍三郎との出会いにもつながっていくのです。
また、忠と鹿子木孟郎などの適切な指導のおかげもあり、曾太郎は絵描きに没頭していきます。
入門してから3年後の19歳のとき、同じく聖護院洋画研究所にて学んでいた津田青楓とともにフランス・パリへ留学します。
パリに到着した2人は、鹿子木の紹介によりアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ、写実を学んでいきました。
曾太郎はアカデミーで早々に頭角を現していき、ローランスの教室で毎月開催されていた油絵を木炭画のコンクールでは、ほとんどの賞を曾太郎が独占します。
曾太郎は、自宅宛ての手紙にて人には内緒だと伝えながら次のように記しました。
「ジュリアンで賞を取るのは思っているより名誉なことではない。美術学校内も同様で見なヘタな絵ばかりだ。」と批評しています。
そのころの曾太郎が描いた木炭デッサンを見てみると、筆調が冴えているかつ精妙で、自身でも成長を感じられ、初めて見るフランスンの景色や初めて学ぶ知識などが目の前に無限に広がっていた興奮が見て取れます。

第一次世界大戦の開始と体調不良により帰国

アカデミー・ジュリアンで3年間学んだあと、曾太郎はアカデミーをやめて自分のアトリエをもち、自由な研究や制作を進めていくようになりました。
パリ滞在中は、ミレーやピサロ、セザンヌ、エル・グレコ、ギリシャ彫刻などに関心をもち、影響を受けるようになっていきます。
中でも、セザンヌの作風に興味を抱き、それまで暖かく情緒的な色調であった曾太郎の作品は、セザンヌ作品によく見られる青黒く理知的な作風に変化していきました。

そして、留学を始めてから7年後の1914年、第一次世界大戦が勃発したのとあわせて患っていた胸部疾患が悪化したため、長谷川昇や天文学者の福見尚文に身体を支えられながら、45点の作品とともに帰国の途につきました。
帰国後、1915年の新年を親兄弟とともに京都の生家で迎えることになります。
病は、帰国途中の船上にて回復傾向に向かっていましたが、まだ全快とはいえず、療養が必要な状態でした。
しばらくは、紀州の湯崎温泉に滞在したり、関西美術院で指導にあたったりして過ごしました。
その後、留学中に親友となった青楓が二科会の創立に携わり、誘いを受けた曾太郎も会員となり、10月に開催された第2回二科会展ではパリ留学中に描いた44点の作品を特別出品し、一躍日本画壇に名を知らしめました。
しかし、フランスと日本の風土の違いに苦しめられ、その後10年ほどが自分の作風を模索し続け、低迷期に入っていくのでした。
そして、1930年に発表した『婦人像』を皮切りに、曽太郎は独自の日本的な油彩画を確立させていき、龍三郎とともに第二次世界大戦後の昭和期を代表する洋画家として高く評価されるようになっていきます。
1944年には、東京美術学校の教授となり、1952年に文化勲章を受賞するなど、功績が日本画壇に認められ、画家としての成功をおさめるのでした。

 

安井曾太郎が描く作品の特徴

曾太郎が描く絵からは、シンプルな線と鮮やかな色彩が織りなす、いきいきとしたモチーフたちがうかがえます。
またモチーフにするものからは、日本的な落ち着いた趣を感じられるのも特徴の一つです。

ありのままを描き出すリアリズム感

曾太郎は、意図的に省略や強調、変形を用いて構成を行い、写真のような絵ではなく、対象のそのままの特徴を、あるがままに描き出すのが特徴です。
この曾太郎のリアリズム感は、多くの作品から見て取れます。
静物画の中でも『九谷鉢と桃』は傑作といわれており、この作品を制作した当時の曾太郎は、セザンヌをはじめとしたヨーロッパで学んだ西洋技術を自分の中に落とし込み、日本人の油彩画、さらに深堀りすると曾太郎自身の画風を成立させたといえるでしょう。

人物画に定評がある

日本を代表する洋画家の曾太郎は、人物画にも定評があり、いきいきとした様子が描かれた人物を好む人も多くいます。
曾太郎はデッサンが得意であったこともあり、鑑賞した人が感心してしまうほど巧みに描かれています。
中でも『座像』は、物静かな雰囲気を醸し出す婦人が描かれており、静かな雰囲気の中に意志の強さを感じさせる強いまなざしが特徴です。

 

年表:安井曾太郎

西暦(和暦) 満年齢 できごと
1888(明治21年) 0 京都市中京区で生まれる。商家の五男として育つ。
1903(明治36年) 15 京都市立商業学校を中退し、聖護院洋画研究所で浅井忠に師事して絵を学び始める。
1907(明治40年) 19 渡仏し、アカデミー・ジュリアンで学ぶ。特にセザンヌの影響を受け、ヨーロッパ各国を旅行する。
1914(大正3年) 26 第一次世界大戦の勃発により日本に帰国。翌年、二科会会員に推挙される。
1930(昭和5年) 42 代表作『外房風景』を発表し、独自の画風を確立する。
1944(昭和19年) 56 帝国芸術院会員に任命される。
1955(昭和30年) 67 東京で死去。晩年まで日本洋画界を牽引し、後世に大きな影響を残す。
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