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日本を代表する七宝家の一人「並河靖之」とは
1845年-1927年
並河靖之は、日本の七宝家の一人で、明治時代に京都で活躍した人物です。
幼いころは動物好きだった
靖之は、川越藩松平大和守の家臣であり、京都留守居役京都詰め役人であった高岡九郎左衛門の3男として生まれました。
川越藩は、近江国に5000石の支配下をもっており、高岡家は代々その代官を務めていました。
靖之は幼いころ動物好きで、毎日世話役におぶってもらって近くの本能寺の馬場へ馬の匂いを嗅ぎに行っていたそうです。
並河家の家督を急遽継ぐことに
1855年、11歳になると、親せきで粟田青蓮院宮家に仕えていた並河家当主の靖全が急死してしまったため、靖之は急遽養子になることに。
並河家の家督を受け継いで、1858年に成人の儀式である元服を行い、9代目当主となりました。
なお、江戸時代の青蓮院家には、東の並河家と西の並河家の2つの並河家がありましたが、靖之が養子になったのは、西の並河家です。
家督を継いですぐに、皇族の久邇宮朝彦親王に近侍として仕え、親王が相国寺への隠居永蟄居を命じられた際や、広島藩預りになった際も、近くで仕え続けました。
靖之は、日本古典馬術の流派の一つである大坪流を修める馬術の達人であり、伏見宮や閑院宮でも馬術の手解きをしています。
明治維新後に七宝焼作りに取り組む
靖之は、親王に仕えたあと、明治維新後から七宝焼作りの取り組みを開始します。
知識や資材が不十分な中で、試行錯誤しながら技術を学んでいきます。
そして1873年、靖之の初作品となる『 鳳凰文食籠』が完成しました。
当時、七宝焼というと、主に中国でよく作られている艶のない釉薬を用いた泥七宝が日本でも主流でした。
一方、尾張七宝では、釉薬の発展が進んでおり、乳濁剤や呈色剤を使用していない透明釉をよく用いています。
靖之は、内国勧業博覧会にて見た透き通ったガラス質で艶のある尾張七宝の美しさは、泥七宝とは異なり、大きな衝撃を受けました。
すぐさま靖之は、下絵師を務めていた中原哲泉とワグネルとともに、七宝焼の研究を進めました。
熱心に研究を重ねた結果、最終的にどの七宝工房よりも釉薬の色の種類が多くなり、特に黒の透明釉薬である黒色透明釉は、大変評判が高く、現代では並河ブラックと称されています。
靖之は、国内外問わずさまざまな博覧会で多数の賞を受賞しており、七宝作家として大成功を収めています。
並河工房には、海外からも文化人が多く訪れ、靖之が製作する京都並河の七宝焼は、新聞や雑誌などを通して海外へと広く紹介されました。
並河靖之が製作する七宝焼の特徴
靖之の七宝焼は、巧みな技法と鮮やかな色使いによって一世を風靡しました。
靖之は、彫金や象嵌などの技法を七宝焼に取り入れ、自然や風景、そこで暮らす人々の生活などを作品に描きました。
豊かな色彩
靖之作品の特徴は、表面に施された鮮やかな色彩で、七宝焼全体に見られる特徴ではありますが、靖之の作品ではより顕著で、見る者の心を惹く豊かな色彩が魅力です。
細部まで手の込んだ細工
靖之が作る七宝焼は、緻密な細工が特徴の一つです。
一つひとつの作品が、細部に至るまで繊細かつ緻密に手間暇をかけて作られており、巧みな技術力が見え隠れしています。
自然の要素が豊富なデザイン
靖之が作る七宝焼には、花や鳥、風景など自然から着想を得て製作された作品が多く、自然の調和が作品に深みと生命感を与えています。
時代によって変化をみせる作風
七宝焼の研究を絶えず続けてきた靖之の作品は、生涯を通して変化し、洗練されていきました。
初期の作品では、伝統的な七宝焼の手法を用いたものが多く、徐々に独自の色彩の組み合わせやデザインが追及されるようになっていきます。
後期の作品では、大胆で豊かな色彩と自由な形状のものが増え、靖之の個性ある芸術観が作品に反映されるようになっていきました。
靖之は、七宝焼の中でも有線七宝を極めた人物で、パリやロンドン、シカゴ、バルセロナなど海外の博覧会や内国勧業博覧会に出品された花瓶や壷などの作品は、金賞を含む数多くの賞を受賞しています。
有線七宝とは、素地に文様の輪郭線となる金や銀の線を張り付け、線の間に釉薬を塗って焼成・研磨する技法によって作られた七宝焼です。
初期(1873-1880)
靖之が七宝焼を製作し始めた当初は、艶の少ない釉薬を用いた泥七宝が主流でした。
初期の中ごろから日本でも釉薬の開発が進み、艶のある透明釉薬を利用した作品も作られるようになっていきます。
初期作品は、作品全体に植線を立てて、全面に模様や図柄を施した作品が多い傾向です。
植線には、真鍮線を使用していましたが、初期の途中からは銀線や金メッキ線を用いた作品も多く見られるようになりました。
作品の図柄には、鳳凰や龍などの古代図を題材にしたデザインが施された作品が多く残されています。
第二期(1880-1890)
釉薬の開発がさらに進んでいき、使用できる釉薬の色が格段に増えたことで、作品の鮮やかさが増していきます。
またこの時期の七宝焼には、真鍮線が見られず、植線には銀線や金メッキ線が用いられていました。
初期のころ同様に、作品全体に植線を立てて全面に図柄を施していますが、一つひとつの柄の精巧さがより増しており、技術力の向上が見られます。
第三期(1890-1900)
第三期からは、植線に銀線と金線を用いるようになり、これまで黒色透明釉は、図柄や紋様部分のみに使用していましたが、背景にも利用するようになっていきました。
背景に黒色透明釉を使用した作品は、並河ブラックとも呼ばれています。
これまで紋様的な図柄の多かったのが、第三期からは写実的な図柄に変化していき、余白が生まれ、品のある空白の美しさが引き立つように。
製作技術はより洗練されており、1本の植線で太さを変えて、筆によって描かれたような表現方法が用いられています。
晩年(1900-1923)
晩年の作品は、より空白が目立つようになり、余白の美が強調されています。
有線七宝の技術は、さらに向上しており、第三期と同じように筆で水墨画を描いたような図柄が魅力的です。
多色の釉薬が利用できるようになったことで、今まで製作されてこなかったクリーム色や、紫、黄緑、ピンク、白などの素地の作品も多く作られています。
同時期に活躍した二人のナミカワ
靖之と同じ時代に活躍した七宝職人である濤川惣助は、靖之のライバルとして名が挙げられることもあり、二人のナミカワとしてよく比較されてきました。
惣助は、無線七宝と呼ばれる革新的な技法を採用して七宝焼を製作しています。
無線七宝では、釉薬を塗る前にあえて植線を取り除き、絶妙な色彩のグラデーションを生み出す技法が用いられており、写実的かつ立体感のある表現や、柔らかい表現を生み出せる特徴があります。
靖之と惣助の二人は、七宝の名匠として名を残しており、それぞれ異なるスタイルと巧みな技術で明治の七宝界をけん引しました。
年表:並河靖之
西暦 | 満年齢 | できごと |
1845年10月1日 | 0歳 | 京都柳馬場御池北入町で生まれる。 |
1855年 | 11歳 | 並河家の養子となり、並河靖之を名乗る。 |
1873年 | 28歳 | 七宝制作を開始し、処女作『鳳凰文食籠』を完成させる。 |
1875年 | 30歳 | 京都博覧会に出品し銅賞を受賞。 |
1876年 | 31歳 | フィラデルフィア万博で銅賞牌を受賞。 |
1877年 | 32歳 | 第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受賞。 |
1878年 | 33歳 | パリ万博で銀賞を受賞。 |
1879年 | 34歳 | 京都府の博覧会品評人を務める。 |
1881年 | 36歳 | ストロン商会から契約を破棄され、事業を縮小。 |
1889年 | 44歳 | パリ万博で再び受賞。 |
1893年 | 48歳 | 緑綬褒章を授与される。 |
1896年 | 51歳 | 帝室技芸員に任命される。 |
1906年 | 61歳 | 賞勲局の特命で勲章製造を開始。 |
1927年5月24日 | 81歳 | 逝去。 |