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ピカソとともにキュビズムを創始した「ジョルジュ・ブラック」とは
生没年:1882年-1963年
ジョルジュ・ブラックは、ピカソと同じ時代に活躍したフランスの画家で、キュビズムの創始者としても知られています。
ピカソと比べると一般的な知名度は劣りますが、絵画における発明の才能は、ピカソも一目置くほどであったそうです。
少年時代は夜に絵を学びパリへ移住する
ジョルジュは、フランスのセーヌ側沿いにある町・アルジャントゥイユに生まれ、ル・アーヴルで育ちました。
ペンキ屋を経営していた父親のもとで、装飾画家の見習いをはじめ、芸術の世界に足を踏み入れていきます。
その後、ジョルジュは、1897年から1899年までル・アーヴルにある私立美術学校のエコール・デ・ボザールの夜間クラスに通い絵画を学び、18歳になるとパリに移り住みました。
パリで一番高い丘といわれているモンマルトル界隈のトロワ・フレール通りやルピック通りあたりに住んでいたといわれています。
野獣派に近い作品でデビュー
1901年から兵役に服し、1902年パリに戻ってからは私立美術学校であるアカデミー・アンベールに通い、再び絵を学び始めます。
この美術学校でジョルジュは、ダダ運動の発展に影響を与えたフランシス・ピカビアや、キュビズムの女性画家であるマリー・ローランサンと出会います。
1907年のアンデパンダン展で画家デビューを果たした当時のジョルジュは、フォービズム(野獣派)のリーダー的存在であるアンリ・マティスの影響を受けており、フォービズムに近い作品を多く制作していました。
フォービズムとは、芸術運動の一つでマティスやジョルジュ・ルオーなどの画家が代表的です。
実際に目に映る色をそのまま表現するのではなく、心が感じる色を使う作風のため、鮮やかで自由な画面構成が特徴的です。
キュビズムとは異なる派手な色使いが特徴ですが、目に見える色や形にとらわれない精神性は、近いものがあるともいえるでしょう。
ピカソとの出会いやセザンヌの作品に影響を受ける
画家デビューを果たした1907年、ジョルジュは詩人のギヨーム・アポリネール の誘いでピカソのアトリエを訪れます。
ジョルジュは、ピカソが制作していた『アビニヨン の娘たち』に大きな衝撃を受けます。
また同時期に開催されていたポール・セザンヌの大回顧展にも訪れており、印象派にも強い影響を受けることになりました。
翌年からは、南フランスのレスタックとパリを行き来しながら絵画制作を行い、『 レスタックの家々』を発表します。
セザンヌに影響を受けていたとはいえ、この作品はセザンヌとは異なる作風であり、のちにマティスから「小さなキューブ」と評価されました。
キュビズム時代の始まり
1908年から1912年ごろまでのジョルジュの作品は、幾何学的で複数の視点から同時にモチーフを観察した様子を反映したものが多く制作されていました。
ジョルジュは、セザンヌの絵画理論をベースに、光の効果や視点、技術についての研究を進め、伝統的な技法である遠近法に問題提起します。
ジョルジュの作風は、セザンヌ風から徐々に変化していき、1909年にパリのサロンに出品した2点の作品をきっかけに、世間的にもキュビズムが知れ渡るようになっていきました。
これまでもピカソやジョルジュは、キュビズム的作品を制作していましたが、画商のヘンリー・カーンワイラーが、ピカソやジョルジュを含めた前衛芸術家を囲い込み、サロンに出品しないことを約束に多額の報酬を支払い、自身の画廊のみで作品を展示していたため、世間に広まらなかったのです。
ジョルジュの友人であるアポリネール が、キュビスト同士の交流を活発化させるために働きかけたことで、ヘンリーは個人の画廊だけではなく、作品を海外でも展示する方向に転換し、キュビズム作品が世に出回るようになりました。
総合的キュビズムへの発展
1909年から1911年ごろのジョルジュとピカソの作品は、分析的キュビズムと呼ばれています。
物体を小さな切れ端の集合体として描き、統一感のある色合いを意識しモノクロに近い褐色や灰色の表現に統一されているのが特徴です。
総合的キュビズムは、セザンヌの理論を発展させたもので、自然の形態を小さな面の集まりと捉え、積み重ねることで対象を構成するという手法です。
1912年になると、ジョルジュとピカソの作品には、ステンシルによる文字や新聞の切り抜き、木目が印刷された壁紙、ロープなど、絵画とは異なるオブジェが導入されるようになりました。
この技法はコラージュと呼ばれ、紙のみを用いた手法はパピエ・コレと呼ばれました。
この技法により制作された作品は、総合的キュビズムと呼ばれ、ジョルジュはコラージュの断片を理論的に使用し、作品の大部分は写実的なのが特徴です。
ジョルジュとピカソのコラボは、1914年に第一次世界大戦が勃発するまで続きました。
第一次世界大戦で負傷し療養する
ジョルジュとピカソは長らく共同制作を続けていましたが、第一次世界大戦により出征が決まり共同制作が途絶えてしまうと、ドイツ人のカーンワイラーからの支援もなくなってしまいます。
1915年、ジョルジュはカレンシーでの戦いにより頭部に重傷を負い、一時的に失明する事態になってしまいます。
頭蓋骨に穴が開いてしまったため、絵画の制作活動を中断し、約3年間の療養期間に入るのでした。
けがから回復したジョルジュは、再び絵画制作を開始します。
療養中に知り合ったキュビズムの画家であるフアン・グリスの紹介により、新たに画商と契約を交わし、数多くの絵画や彫刻、版画などを制作しました。
これまでキュビズムではモノクロに近い色合いに統一された作品を制作してきましたが、『アトリエ』シリーズを経て、装飾的で温かみのあるモチーフも描くようになっていきました。
晩年は油彩画と距離を置く
晩年の1940年以降は、絵画だけではなく、書籍や絵本、楽譜なども手がけるようになり、次第に油彩画からは距離を置き始めるようになりました。
しかし、絵を描くこと自体はやめることなく続け、繰り返し鳥のグラフィックを制作していたそうです。
また、装飾の分野でも活躍を見せ、ルーヴル美術館の天井装飾やジュエリーのデザインなども手がけました。
ジョルジュ・ブラックが創始したキュビズムとは
キュビズムとは、20世紀に起こった芸術運動や、この様式を用いて作品を制作する一派を指した言葉です。
古くから西洋画は、写実的に描くことが重要視されてきましたが、キュビズムでは、モチーフを幾何学的に変化させ、再構築する手法により、抽象的な表現で描かれている特徴があります。
これまでは、一点透視法により絵の構造を写実的に捉えるのが一般的でしたが、キュビズムでは、モチーフを複数の視点から観察し、単純化による抽象的な表現で描写されました。
分析的キュビズム
分析的キュビズムは、セザンヌの影響を受けて拡大していった表現様式で、キュビズムの中でも初期段階の手法として扱われています。
セザンヌの画風から引き継いだ、モチーフを円筒や円錐、丸として描いたり、遠近法や一点透視法を使わなかったりする描き方が特徴です。
統一感を図るために、色合いは灰色や褐色、黒などのモノクロで統一されています。
総合的キュビズム
総合的キュビズムは、キュビズムの後期段階の手法として扱われています。
コラージュと呼ばれるステンシルによる文字や新聞の切り抜き、木目が印刷された壁紙、ロープなどのオブジェを導入した手法が誕生しました。
絵画とは異なるオブジェを取り入れ、絵画作品の表現の幅を広げた手法といえるでしょう。
キュビズムは日本美術にも影響を与えた
ジョルジュとピカソを中心に生み出されたキュビズムは、日本美術界にも大きな影響を与えています。
キュビズムは、1910年代から1920年代ごろに日本へ伝わり、キュビズムの探求に力を入れた萬鐵五郎や、パリ留学を経験した東郷青児、キュビズムを独自に解釈した坂田一男、前田寛治などの作風に影響をおよぼしました。
一度は注目を集めたキュビズムでしたが、フォーヴィスムやシュルレアリスムと比較すると大きな広がりには発展せず、一度は縮小してしまいます。
しかし、1951年に東京と大阪で開催されたピカソの展覧会をきっかけに、再びキュビズムが注目を集めました。
キュビズムが日本美術界に与えた影響は、洋画界のみならず日本画や彫刻、工芸などさまざまな芸術分野にまでおよびました。
ジョルジュ・ブラックの盟友ピカソ
ピカソは、ジョルジュとともにキュビズムをけん引した芸術家で、絵画の常識を覆すような作品を多く制作し、のちの芸術家に大きな影響をおよぼしました。
ジョルジュとピカソは、1907年に知り合って以降、お互いのアトリエを訪ねるほど親交を深めていき、共同制作も行っています。
キュビズム時代、ピカソはコラージュの断片をつじつまのあわない使い方で制作を行う方法を楽しんでおり、一つの物を別のものに転化させたり、新しくつなぎあわせて思いがけない意味を引き出したり、画期的な制作活動を行っていました。
年表:ジョルジュ・ブラック
年号 | 満年齢 | できごと |
1882年5月13日 | 0 | フランス北部のアルジャントゥイユで生まれる。 |
1890年 | 8 | ル・アーヴルに移る |
1897年頃 | 15 | 家業のペンキ屋で装飾画家の見習いをしながら、ル・アーヴルにある私立美術学校エコール・デ・ボザールで絵を学ぶ。 |
1900年 | 18 | パリに移り住む。 |
1902年 | 20 | 2年の兵役を終え、ハンバート美術大学に入学。 |
1908年 | 26 | 『レスタックの家々』や『家と木』などの風景画を残す。キュビズムへと発展していく。 |
1909年 | 27 | 同じくキュビズム絵画に力をいれていたピカソと共同作業が始まる。キュビズム絵画はいい意味でも悪い意味でも名声を得る。 |
1911年 | 29 | 色彩を抑えた難解な分析的なキュビズム作品の製作が始まる。葡萄の房やバイオリンが登場する作品が多数製作される。 |
1912年頃 | 30 | 後のコラージュやパピエ・コレに通ずる作品を製作し、最初のパピエ・コレの作品『果物皿とグラス』を製作する。 |
1914年 | 32 | ピカソとパリで作品を製作していたが、第1次世界大戦が勃発し、出征してしまうとピカソとの共同作業が途絶える。 |
1917年 | 35 | 帰国後、製作を再開する。軍属でもあった画商レオンス・ローザンベールと契約する。 |
1919年 | 37 | レオンス・ローザンベールの画廊で個展を開く。 |
1920年 | 38 | サロンが復活。大戦以前のキュビズム絵画ではなく、落ち着いた静物画を多数製作する。 |
1918年頃~1942年 | 36~60 | 小型円形テーブルの連作の中で、幾何学的な絵画から色彩豊かなスタイルへ進展していく。 |
1952年 | 70 | フランス美術館総局長だったジョルジュ・サールから依頼を受けてルーヴル美術館の天井画を製作する。 |
1963年8月31日 | 81 | パリで死去。 |