目次
19世紀後半のパリの賑わいを描いたロートレックとは
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
生没年:1864年-1901年
南フランスの歴史ある名門貴族に生まれながらも、画家の道を志したロートレック。19世紀後半にポスター画家として人気を博し、パリを一世風靡した人物でもあります。
カラフルな色彩が特徴の一つで、ポール・セザンヌやファン・ゴッホ、ゴーギャンなどと一緒に後期印象派の代表的な画家としても知られています。
少年時代に足を骨折し下半身の成長が止まる
ロートレックは、南フランスの最も古い貴族家系である父アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵と、名門タピエ・ド・セレイラン家出身の母アデルの間に生まれました。大勢のいとこたちに囲まれのびのびと育ったロートレックは、自由奔放で活発的なふるまいが周囲の人々を魅了し、「小さな宝石」と呼ばれ可愛がられていました。
人懐っこい性格は、大人になり画家を志してからも変わらず、多くの友人に恵まれた画家人生を送っています。
ロートレックの父は、元騎馬連隊の騎手をしており、乗馬や狩猟が趣味でした。
一方、母は読書が趣味で穏やかな生活を送っていました。
ロートレックと父はそりがあわず、弟の死をきっかけに父と母は別居し、ロートレックは母のもとで生活を送るようになります。
ロートレックが8歳のときに、フォンテーヌ中学に入学するためにパリに移り住み、このころからデッサンを描き始めています。
手帳やノートには、馬や犬、周囲の人々のスケッチが溢れていたそうです。
成績優秀な生徒でしたが、1875年に健康上の問題によりアルビに戻り、母は医者にロートレックの身体の成長について相談をしていました。
1878年、13歳だったロートレックは、椅子から立ち上がろうとした拍子に転び、右大腿骨骨折してしまいます。また、14歳のときにも右大腿骨上部を骨折しており、通常よりも治りが遅かったそうです。そして、もともと遺伝性の骨格の病気を患っていたこともあり、骨折以降両足が萎縮する障害を抱えることになり、15歳のときには下半身の成長が止まり、身長も152cmほどで止まってしまいました。遺伝性の病の原因としては、両親がいとこ同士の近親結婚であったことが考えられています。
この病をきっかけに、ロートレックはさらに絵画制作に没頭するようになっていきました。
パリのモンマルトルで画家を目指す
画家になることを決意したロートレックは、家族の友人である動物画家ルネ・プランストーのアトリエに通うようになり、本格的に絵画の道を歩み始めました。
1882年、ロートレックの才能を高く評価していた師のプランストーは、よりアカデミックな教育を受けさせるために、肖像画で人気を集めていたレオン・ボナにロートレックを紹介し、4月からボナの画塾に通うように。画家を目指すほかの若き才能とともに古典技法を学びデッサンを続けましたが、ボナがロートレックの才能を認めることはありませんでした。
その後、ボナが国立美術学校の教授になりアトリエは閉館、そこから1887年まではフェルナン・コルモンのアトリエで絵を学びました。コルモンもアカデミックな作品をメインに制作していましたが、新しい芸術様式を受け入れる寛容さがあり、ロートレックはコルモンのもとでエミール・ベルナールやフィンセント・ファン・ゴッホなどと切磋琢磨しながら、自身の才能を開花させていきます。
当時のロートレックは、印象派の作品に関心を寄せており、時間があれば展覧会や美術館を巡り歩く生活を送っていました。
また、コルモンのもとで絵を学ぶようになってからパリの街を歩き回るようになったロートレックは、モンマルトルの売春婦をはじめとしたその街で生きる人々をよく描くようになっていきました。
ポスター画家として頭角を現す
1880年代、パリのモンマルトルは、娯楽文化の中心地となっていました。
街のあちこちにキャバレーやバー、ダンスホールなどが建ち並び、ロートレックをはじめとした若い画家たちも、煌びやかで華々しい雰囲気に魅了されていったのです。中でも、1889年に開店したムーラン・ルージュと呼ばれるキャバレーは、華やかで大変人気があり、多くの人々が夜な夜なショーを観に集まっており、ロートレックもその観客の一人でした。
画家として絵を描いていたロートレックは、ある日ムーラン・ルージュからポスター制作の依頼を受けます。
当時、画家にとってポスター制作は商業絵画の仕事として見下されていましたが、ロートレックは快く引き受けたそうです。
このポスターをきっかけに、ロートレックの名は広く知れ渡るようになりました。
その後も、ムーラン・ルージュをはじめとしたナイトクラブのポスターをいくつも制作し人気を集め、このころのポスター作品が現在でもロートレックの代表作として多くの人々に親しまれています。
ロートレックは、キャバレーの看板娘であるラ・グールーやジャンヌ・アヴリルなどのダンサーや、キャバレーの舞台裏、客席など、パリ・モンマルトルの夜を彩っていたさまざまな人物やシーンを描き続けました。
アルコール依存や梅毒に苦しみ、若くして死去
パリ・モンマルトルの夜の街に繰り出すとき、常に酒を持ち歩くほどロートレックはアルコールに依存していました。
お酒は、足の障害による痛みや、身体的障害に対する好奇の視線・蔑みなどから逃げるためのものでもあったのではないでしょうか。
1890年代、ポスター画家として人気を博し、経済的に安定した暮らしを送っていたロートレックでしたが、モンマルトルで大量に摂取し続けたアルコールによって身体と精神はボロボロになり、画家としての制作活動は続けていましたが、アルコールが原因と思われる奇怪な行動が目立つようになっていきました。
1897年には、アルコール依存症の中毒症状が出始めたため、心配した友人たちの手によって半強制的に精神病院へ入院することに。入院生活中も、ロートレックを元気づけようと友人が依頼した画集の制作を精力的に行い、39枚のサーカスのポートレイトを描きました。
退院後は、パリに戻りフランス全土を友人とともに旅するようなりましたが、1900年にアルコール依存症や梅毒が原因で、再び体調が悪化。
1901年、パリの自宅を引き払い母のもとへ戻ると、邸宅であるマルロメ城にて両親に見守られる中、脳出血により生涯の幕を閉じました。
ロートレックが描いた作品の特徴
ポスター画家として有名なロートレックですが、初期のころには馬や犬などの動物を描いています。
また、パリ・モンマルトルに出入りするようになってからは、多くの人々で賑わう夜の街で生きる人々を描くようになっていきました。
初期は馬や犬などの動物を多く描いた
画家として絵を学び始めたころのロートレックは、馬や犬などの動物を多く描いていました。
貴族のたしなみとしてのイメージが強い馬に関連したレクリエーションは、伯爵家に生まれたロートレックにとっては身近な存在でした。
また、ロートレックの師匠であるルネ・ブランストーは、動物画家で騎馬像が有名だったため、自然とロートレック初期作品にも馬が多く描かれているのではないでしょうか。
馬と人が一体となり動き出すその瞬間を捉える術をロートレックは身につけており、この素描で表現されている「時をつかむ線」が、その後描いていくダンサーや芸人の特徴を捉えた魅力的な作品を生み出していったといえるでしょう。
パリ・モンマルトルで生きる人々を描く
パリに移り住んでからのロートレックは、モンマルトルのキャバレーやカフェによく通うようになり、そこで活躍するダンサーや芸人などショーを彩る人々の舞台上から舞台裏まで、さまざまな表情を描いていきました。
また、ロートレックは、モンマルトルで働く娼婦をモチーフにした作品も多く制作しています。
ロートレックは、娼婦ならではの艶やかな表情やシーンを描くのではなく、働く娼婦たちの普段の生活の様子を描いているのが印象的です。
娼婦の生活を描くために、ロートレックは住み込みで働く娼婦たちと数か月にわたって共同生活を送りました。
この体当たりな制作方法により、娼婦たちの生きる美しい姿を描いた作品がいくつも生まれたのです。
年表:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
西暦 | 満年齢 | できごと |
1864 | 0 | 南仏アルビにトゥールーズ=ロートレック家の伯爵家に誕生。 |
1872 | 8 | 両親が不仲となり、母親と共にパリに移住。絵を描き始める。 |
1877 | 13 | 左の大腿骨を骨折。 |
1878 | 14 | 右の大腿骨を骨折。これにより脚の成長が停止。 |
1882 | 18 | パリに出てレオン・ボナの画塾で学び始めるが、画塾が閉鎖。 |
1885 | 21 | フェルナン・コルモンの画塾に移り、ファン・ゴッホやエミール・ベルナールと出会う。 |
1891 | 27 | リトグラフ制作を開始し、ポスター『ムーラン・ルージュ』を発表。 |
1892 | 28 | ポスター『ディヴァン・ジャポネ』を発表。 |
1893 | 29 | 絵画モデルのシュザンヌ・ヴァラドンを画家として支援。 |
1897 | 33 | アルコール依存や梅毒の影響で健康が悪化。 |
1901 | 36 | 母親のもとへ戻り、ジロンド県で脳出血により死去。 |
1922 | – | 死後、アルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立。 |