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酒井田柿右衛門とは
酒井田柿右衛門とは、江戸時代から続く肥前国有田の陶芸家で、代々子孫や後継者が襲名している名称です。
柿右衛門の作品は、1640年代に初代酒井田柿右衛門が赤絵を開発し、白磁の美しさと調和性を追求し、1670年代に柿右衛門様式として確立しました。
この美意識は、以降15代にわたって現代まで途絶えることなく受け継がれてきています。
作風を確立した初期柿右衛門
初代から4代までの酒井田柿右衛門を、初期柿右衛門といいます。
初代は、乳白色の地肌に赤系統の上絵を焼き付ける柿右衛門様式という作風を確立させました。
柿右衛門様式の作品は、日本だけではなくヨーロッパにも輸出され、その人気ぶりからマイセン窯などで模倣品も制作されていたそうです。
また、磁器の発祥地ともいわれている中国の景徳鎮窯にも影響を与えており、柿右衛門様式に似せた作品を制作し、ヨーロッパに輸出されていました。
2代と3代は活動時期が重なっており、作風にも大きな変化は見られません。
初代から3代は、ともに大変技量が高かったといわれています。
高水準の量産に成功した中期柿右衛門
5代から7代までの酒井田柿右衛門を、中期柿右衛門といい、17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間活動していました。
5代は、これまでの柿右衛門と比較すると技量が劣っており、鍋島藩からの継続的な発注が差し止められてしまいます。
6代は、意匠や細工に優れていた叔父の渋右衛門の助けもあり、食器類や花器、香炉などのさまざまな磁気製品を高水準で量産することに成功し、のちに6代は中興の祖とも呼ばれるように。
また、1724年になると嘆願書を藩に提出し、臨時発注の一部を酒井田家が引き受けることになりました。
量産に成功し活躍する一方で、濁手作品は高い技術を要するとして、7代以降は制作されなくなってしまいます。
染付の磁器を製作した後期柿右衛門
8代から10代までの酒井田柿右衛門を、後期柿右衛門といい、この時代は染付の磁器をメインに制作していました。
7・8代では、四角い枠の中に福の字が入った角福と呼ばれるマークを施した作品が多く制作されています。
この作品はもともと、明清の陶磁器にあったものといわれています。
11代のころ、角福のマークの商標登録の可否をめぐって争う訴訟が発生し、一時は経済的に困窮してしまいます。
しかし、日本だけではなく海外にも積極的に輸出して耐え忍び、1919年には12代が出資をしてくれている事業家と共同で、柿右衛門合資会社を設立。
一時は美術品制作を志向する12代と会社の経営方針が合わなくなり、関係を解消し、それぞれが柿右衛門作品を制作していましたが、1969年に和解しました。
12・13代は、高い技術を要する濁手作品を復活させるべく活動に取り組んでおり、1953年に初めて濁手作品を発表します。
独自の技術である「濁手」
酒井田柿右衛門が制作する作品に活用されていた「濁手」と呼ばれる独自の技術は、柿右衛門の特徴の一つでもあります。
柔らかくもあり温かみもある乳白色の素地が特徴で、柿右衛門様式の赤絵に最も調和する素地として扱われ、1670年代にその製法が確立されました。
しかし、江戸時代の中期ごろからは、柿右衛門様式に変わって赤や金をふんだんに使う金襴手様式がメインになり、技量不足も相まって濁手の制作は、ストップしてしまいました。
その後、明治・大正と濁手が復活することはなく、昭和に入ってようやく復興の兆しが見え始めます。
12代酒井田柿右衛門と、その子である13代は、長い期間途絶えてしまっていた濁手を復活させるために、柿右衛門家に代々伝わる『土合帳』といった古文書を研究し、試行錯誤を重ねていきました。
そして1953年、ついに濁手の技法復活に成功し、国からも高く評価され、1971年には重要無形文化財に認定されました。
柔らかくて暖かみのある柿右衛門様式
柿右衛門様式は、やまと絵風の花鳥図をモチーフにして、暖色系の色彩で描かれている点と、非対称で乳白色の豊かなスペースがある構図が特徴的です。
上絵のカラーには、赤や黄色、緑をメインに、青や紫、金などが使用されています。
器の口縁には、「口銹」と呼ばれる銹釉が施されている作品も多くあります。
温かみのある柔らかい雰囲気が柿右衛門様式の魅力の一つといえるでしょう。
絵柄は、岩梅に鳥、竹に虎、粟に鶉、もみじに鹿などの典型的なパターンがよく使われています。
絵柄は時代により移り変わっていき、初期のころは明赤絵の影響を大きく受けていましたが、その後は狩野派や土佐派、四条派、琳派などの影響も受けていきました。
近年においては、写生に基づいた現代的な画風が多い傾向です。
柿右衛門を題材とした歌舞伎が作成される
陶芸家として活躍していた酒井田柿右衛門は、歌舞伎の題材にもなっています。
1912年『名工柿右衛門』と呼ばれる演目が、榎本虎彦により制作され、十一代片岡仁左衛門が主演を務めました。
仁左衛門は、11代柿右衛門と親交があり、はまり役であったと評判で、ほかの俳優が演じたころより上演回数が多かったそうです。
なお、『名工柿右衛門』の物語については、史実に基づいたものではなく、フィクションでした。
また、初代酒井田柿右衛門が、夕日に照らされる柿の実をみて赤絵磁器を作ったとする逸話を、友納友次郎が『陶工柿右衛門』、『柿の色』のタイトルで作成し、小学校の教科書にも掲載されました。
しかし、この話は柿右衛門本人のエピソードではなく、オランダにおける陶工の琺瑯彩にまつわるエピソードを柿右衛門にあてはめただけのもので、歌舞伎の『名工柿右衛門』と同様に創作の話です。
人間国宝に認定された14代目酒井田柿右衛門
14代目酒井田柿右衛門は、佐賀県立伊万里高等学校に入学後、祖父の12代柿右衛門に勧められて美術部に所属しました。
高校で絵付けの基礎を習得すると、多摩美術大学日本画科に入学し、日本画を学びます。
卒業後は、地元に戻り父に弟子入りして下積みを重ねていきます。
1982年、父が亡くなり14代目を襲名すると、翌年アメリカ合衆国のクローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフランシスコにて海外で初出品を果たし、サンフランシスコ市長から名誉市民号を授かりました。
14代は日本だけではなく、海外からも高い評価を受けたといえます。
2001年には、重要無形文化財である「色絵磁器」の保持者として、人間国宝にも認定されました。