印象派の画家「クロード・モネ」とは
生没年:1840年-1926年
クロード・モネは、印象派を代表するフランスの画家で、モネが描いた代表作『印象・日の出』が、印象派の名前の由来となっています。
外光派とも呼ばれており、制作した絵画のほとんどが風景画です。
外光派とは、屋外の明るい光や鮮やかな色彩に注目し、作品を外で制作する手法を取った画家たちを指します。
モネをはじめとする印象派の多くは、外光派でもあり、モネの師匠であるウジェーヌ・ブーダンや、ギュスターヴ・クールベなどが先駆けとなり誕生しました。
幼いころから絵の才能を発揮していた
フランス・パリに生まれたモネは、食料品店を営む両親のもとで健やかに育ちました。
比較的貧しくはない家庭で育ちましたが、モネが5歳のころにお店の経営状況が悪化し、家族そろって親戚を頼り、ノルマンディーの港町であるル・アーヴルに移り住みます。
ル・アーヴルには、貿易船が停泊する大きな港があり、活気のある町でした。
モネは少年時代をル・アーヴルで過ごしましたが、学校に対してはあまり興味が湧かず、サボりを繰り返していたそうです。
しかし、少年時代から絵の才能はあったといわれており、16歳のときには有名人の特徴を誇張して描くカリカチュアと呼ばれる日本でいう風刺画のようなものを販売し、一財を築いていました。
カリカチュアを描き販売し続けていたことで、のちにモネの師匠となる海の風景画を得意としたブーダンとの出会いが生まれたのです。
モネの師匠「ウジェーヌ・ブーダン」との出会い
ブーダンは、風景画の巨匠であるクールベから「空を知っているのは君だけだ」といわれるほど、風景画における空を美しく描いた人物です。
モネの類まれなる絵の才能を見抜いたのは、このブーダンでした。
ブーダンは、画材店に置かれていた16歳のモネが描いたカリカチュアを見て、モネの存在を知るとともに、絵のうまさに目を惹きつけられました。
画家としての才能を見出されたモネですが、当初はブーダンから絵の手ほどきを受けることを快く思っていなかったそうです。
しかし、ブーダンの熱心な教えに押され、一緒にスケッチに出かけると、モネに大きな気づきが生まれ、決定的な変化が生じます。
ブーダンとの屋外でのスケッチにおいて、外の空気を吸って光を全身で感じながらその瞬間を絵に描いていく手法を、モネは生涯追い求め続けるようになるのです。
モネはのちにブーダンのことを「ブーダンと出会い画家としての人生が始まった。画家になれたのはブーダンのおかげである」と語っています。
モネは19歳になると、本格的に絵を学ぶためにパリへ行き、制作活動を続けていきます。
パリに移住後は兵役を務める
パリで絵を学びたいと考え始めたモネが両親にそのことを伝えると、父は強く反対。
しかし、モネ自身が描いたカリカチュアを販売して稼いだ2000フランでパリに行くと伝えるとようやく許され、1859年パリへ移ることになりました。
パリにてルーブル美術館を訪れた際、古典巨匠の絵画をその場で模写する画家たちを目にして衝撃を受け、制作道具を持っていたモネは、窓辺に座って自分が見た風景を描き始めたのです。
1861年になると、モネは兵役によりアルジェリアのアフリカ騎兵隊の第一連隊となり、7年を過ごす予定でした。
父は、モネの徴兵免除券を購入できる立場でしたが、モネが絵をやめることを拒否したために購入しなかったといわれています。
アルジェリアに滞在している中で、モネはアルジェリア旧市街地のカスバ建築や風景、さまざまな軍人の肖像画など、スケッチを積極的に行っていましたが、それらの作品は現在消失してしまいました。
約1年の兵役を務めたとき、腸チフスを患い病床に伏せてしまいます。
その後、美術学校の学位取得を条件に、モネの叔母がモネを除隊させるよう働きかけてくれたおかげで、モネは2年で除隊となったのです。
サロン・ド・パリで入選し画壇デビューする
1862年から、美術学校に入学し絵を学びますが、アカデミックな美術が肌に合わず、パリで画塾を開いていたシャルル・グレールのもとで絵を学ぶようになりました。
グレールの画塾には、のちに印象派として活躍するピエール=オーギュスト・ルノワールや、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、アルフレッド・シスレーなどもいました。
モネは画塾でできた新しい仲間と芸術的価値観を共有しあい、点描画法やあえて筆の跡を残す手法、光を効果的に表現する絵などを制作し、のちに印象派と呼ばれるように。
1865年のサロン・ド・パリでは、海景画を2点出品し、見事2点とも入選を果たします。
同年、パリ・サロンでの出品を拒否されたマネと同じ主題「草上の昼食」の制作を開始しますが、作品のサイズが非常に大きかったため期日までに完成させられませんでした。
パリ・サロンには、代わりに『緑衣の女』を出品し、小さな風景画『シャイイの道』とともに展示されました。
印象派誕生のきっかけは芸術アカデミーからの出品拒否
1860年代後半ごろから、モネと似た美術的価値観をもつ画家たちは、サロン・ド・パリで開催される展示会を運営する保守的な芸術アカデミーから、出品を拒否されてしまいます。
そのため、1873年の後半ごろからは、モネやルノワール、シスレー、ピサロなどを中心に「画家、彫刻家、版画家らの無名美術協会」を結成し、独立した展示会を企画し始めました。
展示会は、サロン・ド・パリの展示会が開始される2週間前から1か月間を期間とし、パリ・キャピュシーヌ大通りにある写真家ナダールの写真館にて、第1回目が開催されました。
のちに第1回印象派展と呼ばれる展示会で、30人の画家が参加し、展示作品は165点にものぼったそうです。
印象派の名前の由来となったモネの『印象、日の出』も、このときに展示されました。
開催から10日ほどが経ったころ、ル・シャリヴァの紙上で美術批評家のルイ・レロイが印象派展という名前を付け、展覧会をレビューしました。
評価は酷いものでしたが、レビュー掲載がきっかけとなり、印象主義や印象派の名前が世間に知られるようになったのです。
普仏戦争をきっかけに2人の巨匠を研究する
1870年、普仏戦争が勃発すると、モネは家族と一緒にイギリスに避難し、ロマン派の伝統を引き継ぐジョン・コンスタブルやロマン主義を代表する画家ウィリアム・ターナーの風景画の研究を始めます。
コンスタブルが描いた雲の風景やターナーが描いた霧の風景は、移ろいゆく自然や光を新しい感性で観察し描かれているとして、モネや印象主義の発展に大きな影響を与えました。
その後、1871年にはロンドンを離れ、オランダのザーンダムに移り住むと、25枚の絵画作品を制作しました。
同年秋にはフランスにもどり、1878年までパリ北西に位置するアルジャントゥイユ村で過ごすように。
1873年、水上アトリエとして利用するための小型ボートを購入し、風景画やエドゥアール・マネ、妻の肖像画を制作しました。
妻・カミーユの死を描く
1876年、妻のカミーユ・モネが結核にかかってしまいます。
2年後には子どもが生まれますが、同年モネたちはヴェトゥイユ村に移り住み、デパート経営者であり美術コレクターでもあるエルネスト・オシュデと共同生活を送るようになりました。
しかし、カミーユは子宮がんの診断を受け、1879年に32歳という若さで亡くなりました。
モネは、妻の死顔を油彩で描いた『カミーユ・モネの死の床』を制作しています。
のちにモネは友人のジョルジュ・クレメンソーに「最愛の妻の死顔をみたとき、無意識のうちに頭の中で光量の割合の設定や、色味を設定していることに気づいた」と語っています。
印象派グループの解散
長年、パリ・サロンに反発して印象派展と呼ばれる独立した展示会を開催してきたモネでしたが、10年後の1880年に再びパリ・サロンに作品を出品するように。
出品のきっかけは、前年のパリ・サロンにてルノワールの作品が高い評価を得ていたことだそうです。
また、経済状況が思わしくなく、パリ・サロンに入賞すれば画商のジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待があったことも理由の一つと考えられます。
出品した2点のうち、比較的伝統的な作風で描いた作品のみが入選を果たしました。
パリ・サロンに出品する一方で、モネは第5回印象派展への出品を拒否し、のちに印象派グループは解散する方向に進んでいきました。
同時期、ルノワールが伝統的な作風に回帰し、セザンヌやシスレーとともにパリ・サロンに出品していたこともあり、当時は印象派グループ内でそれぞれスタイルの変化が生じていたとわかるでしょう。
画商ポール・デュラン=リュエルの支援を受ける
モネは、長年にわたって画商ポール・デュラン=リュエルから支援を受けており、1883年にルマンディー地域のジヴェルニーに引っ越しする際の費用の援助やサポートもリュエルから受けています。
リュエルは、もともと印象派の画商で、印象派グループが制作する作品を積極的に購入していました。
第1回印象派展は、批評から酷評を受け経済的に失敗していたにもかかわらず、第2回印象派展では、自分の画廊を会場として提供し、第7回印象派展でも会場確保に努めたそうです。
1886年、リュエルはニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開催し、モネの作品を40点以上出品しました。
展覧会は大好評をおさめ、モネをはじめとした印象派の画家らは、アメリカで認知されるようになり、経済的にも安定するきっかけとなりました。
2人目の妻・アリスの死と晩年
1911年、モネの2人目の妻であったアリスが亡くなります。
息子のジェーンは、モネが気に入っていたアリスの娘ブランシェと結婚し、アリスが亡くなったあとは、白内障にかかりはじめていたブランシェがモネの介護を行ったそうです。
第一次世界大戦時は、息子のミシェルが兵役を務め、友人でありモネの協力者でもあるクレマンソーがフランス軍を指揮しました。
モネは、フランスの戦没者に敬意を示すために、シダレヤナギの絵画シリーズを描きます。
1923年に2度の白内障手術を受けており、白内障で視力に問題が生じていた時期に描かれたとされる作品は、全体的に赤身を帯びているものが多くあります。
モネとカミーユの出会い
モネは、1865年に10代でモデルをしていた7歳年下のカミーユと出会い、彼女をモデルにして多くの絵画を制作しました。
次第に交際を始めた2人でしたが、モネの叔母と父はカミーユとの交際を認めておらず、モネはカミーユとの関係を隠していました。
1867年に、カミーユはパリで長男のジャンを出産しますが、このときモネは叔母の田舎の屋敷で仕送りをもらいながら生活していたそうです。
1868年からは、モネとカミーユと息子のジャンは一緒に暮らすようになりましたが、父と叔母には2人の存在を隠し続けました。
1878年には、次男のミシェルが誕生しますが、カミーユは体調を崩し、1879年結核により亡くなりました。
なお、カミーユはモネの絵画のモデルだけではなく、ルノワールやマネなどのモデルも務めていたそうです。
モネはジャポニズムの影響を大きく受けた画家
モネは、ジャポニズムの影響を大きく受けていた画家の一人で、浮世絵を収集していたことでも有名です。
モネがジャポニズムに影響を受けて制作した代表的な作品に『ラ・ジャポネーズ』があります。
妻である金髪のカミーユが鮮やかな赤色の着物を羽織り、振り向くような構図で描かれた作品で、手には扇子を、背景にはうちわが描かれているのが特徴です。
モネの大作『睡蓮』シリーズ
モネの代表作に生涯でおよそ250枚描いた『睡蓮』シリーズと呼ばれるものがあります。
連作とは、同じモチーフを何度も描く手法のことで、季節や天候、時間帯などによって移り変わる光の効果を捉え、何枚もの作品を描いているのが特徴です。
『睡蓮』シリーズは、1895~1900年に描かれた第1シリーズと、1903年以降に描かれた第2シリーズに分けられています。
第1シリーズでは、日本を思わせるような橋を建築したジヴェルニーの自宅の庭をモチーフにしており、池や枝垂柳を光の移り変わりとともに描いているのが特徴です。
第2シリーズでは、水面とそこに映る樹木や空の反映、水面に浮かぶ睡蓮などが複雑に交錯した構図が特徴です。
『睡蓮』制作を支えたのは親友のクレマンソー
モネの大作『睡蓮』シリーズの制作を支えたのは、親友のクレマンソーであるといわれています。
フランスのオランジュリー美術館にある円形の展示室「睡蓮の間」には、モネが国に寄贈した『睡蓮』の大装飾画が展示されています。
この展示を勧めたのが、モネの古くからの友人で首相でもあったクレマンソーだったのです。
当時、モネは印象派グループ仲間の最後の生き残りであったルノワールが亡くなり、さらには自身も白内障にかかるなど、精神的にも肉体的にも満身創痍な状態でした。
そんなモネに対してクレマンソーは、白内障の手術に耐えてまた『睡蓮』を描いてほしいと励まし、モネは手術を決意し、最後の力をふり絞って大装飾画の『睡蓮』を描いたのでした。
年表:クロード・モネ
年号 | 満年齢 | できごと |
1840年11月14日 | 0 | パリで次男として生まれる。 |
1845年 | 5 | ノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごす。 |
1858年 | 18 | 風景画家ブータンと出会い、油絵制作を教わる。 |
1859年 | 19 | パリに戻り、絵の勉強をきっかけに、画塾時代の仲間と出会う。 |
1861年 | 21 | アルジェリアのアフリカ騎兵隊の第1連隊となる。 |
1865年 | 25 | サロン・ド・パリに初入選。 |
1869年 | 29 | サロン・ド・パリで落選。カミーユ・ドンシューとの交際が始まり、長男が生まれる。父親からの援助が絶たれる。 |
1870年 | 30 | 2年連続、サロン・ド・パリで落選を経験する。普仏戦争が始まり、兵役を避けるためロンドンに渡る。パリに戻り、アルジャントゥイユにアトリエを構えた。 |
1874年 | 34 | 第1回印象派展を開催。その後、第2回、第3回も参加。 |
1878年 | 38 | エルネスト・オシュデとその妻のアリス・オシュデの家族との同居生活が始まる。 |
1879年 | 39 | 結核で妻のカミーユが死去。アリスとの関係が深まる。 |
1881年 | 41 | ポワシーに移り住む。 |
1883年 | 43 | ジヴェルニーに移り、生涯をここで暮らす。 |
1890年代 | 50 | 『積みわら』、『ポプラ並木』、『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組む。 |
1892年 | 52 | アリスを2人目の妻とする。 |
1893年 | 53 | 自宅前の土地に日本庭園を造園する。 |
1895年~1900年 | 55~60 | 『睡蓮』の連作が始まる。第1シリーズと呼ばれており、太鼓橋を中心に睡蓮の池と枝垂れ柳が光の変化に従って描かれている。 |
1901年 | 61 | 睡蓮の池を拡張する工事を実施。連作が中断する。 |
1903年 | 63 | 『睡蓮』の連作を再開する。 |
1911年 | 71 | 2人目の妻・アリス死去。 |
1926年12月5日 | 86 | 86歳で死去。 |
1927年 | 『睡蓮』が展示された が一般公開される。 |