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無線七宝で活躍した「濤川惣助」とは
生没年:1847年-1910年
濤川惣助は、無線七宝を開発した七宝作家で、七宝を工芸品から芸術のレベルまで高めた人物でもあります。
東京の濤川、京都の並河と称され、国内外問わず高い評価を受けています。
1893年の、 シカゴ万博に出品された『七宝富嶽図額』は、2011年に重要文化財に指定。
1910年、63歳で肺炎にかかり亡くなるまで、七宝を研究し続け新たな道を切り開き続けた人物といえるでしょう。
貿易商から七宝家の道を目指す
惣助は、現在の千葉県旭市である下総国鶴巻村にて、農家の次男として誕生しました。
その後、陶磁器などを取り扱う貿易商となり働いていましたが、1877年に開催された第1回内国勧業博覧会で鑑賞した七宝焼に目を奪われ、七宝家の道を目指す決意をしました。
同じ年に、塚本貝助をはじめとした尾張七宝の職人たちが働いている、東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を、惣助は買収。
2年後となる1879年に、革新的な技術を用いて無線七宝を確立させました。
国内外の博覧会で賞を受賞
当時は、まだまだ機械工業が未発達であった日本では、伝統工芸品の輸出が貴重な外貨を得るための手段でした。
明治政府は、欧米で定期的に開催されていた万国博覧会に伝統工芸品を出品し、輸出を盛んに行おうとしていたのでした。
惣助は、この伝統工芸品を輸出する流れに乗って、国内外の博覧会に自身が手がけた無線七宝焼作品を出展し、次々に賞を受賞していきます。
1881年に開催された第2回内国勧業博覧会では、名誉金牌を授かり、1883年のアムステルダム万博では金牌、1885年のロンドン万博でも金牌、1889年開催のパリ万博では名誉大賞を受賞するなど、目覚ましい活躍をみせていました。
技術を磨き高い評価を受け順調に七宝家の道を歩んできた惣助は、1887年にはアーレンス商会と同様に尾張七宝の職人が働いている名古屋の大日本七宝製造会社の、東京分工場までも買収しています。
濤川惣助が生み出した無線七宝とは
無線七宝とは、有線七宝と同様に金属線を使用して模様を作り、釉薬を塗って焼成する前に金属線を取り除く技法により制作された作品です。
金属線を除去することで、釉薬の境界部分が混ざり合い、柔らかく滲んだような色合いが表現できます。
無線七宝は、釉薬の絶妙な色彩のグラデーションを生み出し、写実的で立体感がありつつも柔らかな表現ができる革新的な技法です。
また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝の技術を融合させることで、遠近感や水面に浮かぶ影の表現も可能としました。
濤川惣助が制作した32面の七宝額
1909年に東京御所として建設され、日本で唯一のネオ・バロック様式を用いた宮殿建築物である迎賓館赤坂離宮には、惣助が制作した七宝額が飾られています。
七宝額は、高度な技術と技法により制作されており、七宝を日本の伝統的な芸術品として世界に広めた作品といえるでしょう。
惣助の七宝焼は、これまで主流であった有線による表現ではなく、絵画のような滲みを巧みに表現した無線七宝の技法によって作られています。
赤坂離宮には、惣助がその巧みな技術と革新的な技法を用いて制作した七宝額が、花鳥の間に30面、小宴の間に2面の合計32面が飾られており、下絵は渡辺省亭が担っています。
帝室技芸員として活躍した二人のナミカワ
無線七宝を生み出し数々の賞を受賞した惣助と、有線七宝の巧みな技法と鮮やかな色彩により活躍した並河靖之は、どちらも七宝家であるとともに帝室技芸員でもありました。
帝室技芸員とは、日本の伝統的な美術工芸の技術を帝室で保護し、未来に継承・発展させるために定められた制度です。
二人のナミカワが帝室技芸員に任命されたのは、どちらも技術と人柄の両者において優れた美術工芸家であり、技術を磨き続けるとともに後進の育成に努めていたためです。
有線七宝を制作した並河靖之とは
靖之は、日本を代表する七宝家の一人で、有線七宝により活躍をおさめました。
彫金や象嵌などの技法も取り入れ、花や鳥、風景など自然から着想を得た図柄や、そこで暮らす人々の生活などを七宝焼に描きました。
これまで、図柄や紋様部分がメインで使用されていた黒色透明釉を、背景にも使用するようになり、そのような作品を「並河ブラック」と呼ぶことも。
鮮やかで独特な色彩の組み合わせや自由なデザインが海外でも高く評価され、海外の博覧会でも数多くの賞を受賞しています。
万年自鳴鐘の七宝台座を制作
万年自鳴鐘は、江戸時代の機械式置時計の傑作として知られており、七宝台座部分は、惣助が手がけています。
1851年に、田中久重が万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の6面部分はブリキ製であり、七宝による装飾はされていませんでした。
初代久重が亡くなったあと、2代目久重の依頼により万年自鳴鐘の大修理が実施され、その際に6角形の台座にある側面6面に七宝の装飾が施されたのです。
修理が無事終了した万年自鳴鐘は、日本初の時の記念日である1920年6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された時の博覧会にて展示されました。
6面には、それぞれ日本画が表現されており、岩礁や波、草木などと一緒に亀や鶏、太鼓、ウサギなどの動物も描かれています。
年表:濤川惣助
西暦 | 満年齢 | できごと |
1847年 | 0 | 下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれる。 |
1877年 | 30 | 第1回内国勧業博覧会を観覧し、七宝に魅了され七宝家に転進。塚本貝助ら尾張七宝の職人を擁するドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収。 |
1879年 | 32 | 革新的な無線七宝技法を発明。 |
1881年 | 34 | 第2回内国勧業博覧会で名誉金牌を受賞。 |
1883年 | 36 | アムステルダム万博で金牌を受賞。 |
1885年 | 38 | ロンドン万博で金牌を受賞。 |
1887年 | 40 | 大日本七宝製造会社の東京分工場を買収。 |
1889年 | 42 | パリ万博で名誉大賞を受賞。 |
1893年 | 46 | シカゴ万博に『七宝富嶽図額』を出展し、高評価を得る(後に重要文化財に指定)。 |
1896年 | 49 | 帝室技芸員に任命される(七宝分野では濤川惣助と並河靖之のみ)。 |
1910年2月9日 | 62 | 平塚の別荘で静養中、感冒から肺炎を併発し、死去。 |