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モーリス・ユトリロ(1883年-1955年)画家[フランス]

白の画家と呼ばれた「モーリス・ユトリロ」とは

生没年:1883年-1955年
モーリス・ユトリロとは、近代のフランス画家で、数少ないモンマルトル出身の芸術家です。
ユトリロは、素朴な都市の風景画を描く画家として知られており、パリのモンマルトル地区近郊の曲がりくねった道や路地の風景を好んで描いていました。
父が誰であるかはっきりとはわかっていませんが、ボワシーと呼ばれる若いアマチュア画家や、有名画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワールであるともいわれています。

母はアートモデルで画家志向だった

ユトリロは、パリ・モンマルトルの丘のふもとにあるポトー街8番地にて、シュザンヌ・ヴァラドンの子として生まれました。
母のヴァラドンは、ブランコの転落事故によりサーカス曲芸師をやめ、アートモデルに転向すると、ルノワールやベルト・モリゾ、アンリ・ド・トゥールズ・ロートレックなどのモデルを務めながら、自身も画家を志し絵画を学んでいました。
ユトリロは、身体が弱く情緒不安定でしたが、ヴァラドンは自身の母マドレーヌに育児を任せていたのです。
ユトリロは、学校に通うようになってからもあまり周囲となじめず転校を繰り返しています。

その後、ヴァラドンはポール・ムージスと暮らしはじめ、自宅にアトリエを構えると絵画により専念していきました。
ムージスと結婚し生活が安定すると、ユトリロは私立学校の寄宿舎に預けられ、その後オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を取得しました。
パリの中学第五学級には、ピエールフィットの祖母の家から通い、優秀な成績をおさめていましたが、最高学年で問題を何度も引き起こし退学となっています。

若くしてアルコール依存症に陥る

祖母のマドレーヌは、大のお酒好きで、ワインは健康によいと信じており、ユトリロも中学生のころからワインを飲んでいたそうです。
少年時代からの飲酒経験が、アルコール依存症を引き起こしたといえるでしょう。
1900年、ムージスの紹介で臨時雇いの外交員として働いていたユトリロですが、4カ月ほどでやめています。
ほかの仕事も長続きせず、ユトリロの気難しい性格や激情、アルコール依存症などの影響により暴力が増え、1901年に一家は、サルセルに移り住むことになりました。
しかし、ユトリロのアルコール依存は、悪化する一方で、モンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住みつくようになりました。

このころから水彩画を描くようになり、治療を担当していた医師は、興味をもったことはやりたいようにやらせるよう勧めたため、ユトリロはすぐに芸術的才能を開花させます。
しかし、アルコール依存症の症状は一向に改善されず、ムージスはユトリロを精神病院に入院させてしまいます。
その後、症状の改善がみられるようになってきたユトリロは、モンマニーへ戻り、モンマルトル周辺を拠点に絵を描き始めました。

モーリス・ユトリロが活躍した白の時代

ユトリロが、白い壁が印象的な建築物や壁そのものをモチーフにした絵を描いていた時代を「白の時代」といいます。
1908年ごろからの約6年間を指しており、ユトリロの生涯の中で最も傑作が多いと、高く評価されている時代です。

– 画商で最初の買い手はルイ・リボート
少しずつ絵を描くようになっていったユトリロの作品を、最初に購入してくれた画商がルイ・リボートです。
ユトリロは、購入してくれる人であれば誰にでも絵画を売っていましたが、画商として購入する人は、いままでいませんでした。
1909年、ユトリロは、サロン・ドートンヌに2点の作品を初めて出品しました。
このうちの一作品が、ユトリロの代表作といわれる『ノートルダム橋』です。
同年、ヴァラドンとムージスは破局し、ユトリロとヴァラドンらは、モンマニーにあるパンソンの丘の館に移り住みました。

– モンマニーに移り住み経済的困難に陥る
モンマニーに移り住んでからの一家は、誰も十分な収入を得ていなかったため経済的困難な状況に直面しました。
一時、ユトリロが石膏採掘場にて働き始めますが、大勢の前で大暴れし警察沙汰となってしまいました。
時間にゆとりのあったユトリロは、絵を描いて売ろうともしており、才能を認めていた画商リボードは、モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品を購入し、転売に成功して利益を得ています。
そのような中でも、ユトリロはアルコール依存症の影響で、泥酔した際に猥褻の罪にて起訴され、罰金刑を受けています。
ある日、ユトリロは、セザール・ゲイという一人の元警察官と出会い、ゲイが所有し、マリー・ヴィズィエが経営している「ベル・ガブリエル」によく出入りするようになりました。
飲食だけではなく、店の奥で絵を描くことを許可してもらい、完成した絵をゲイが自分の店のホールに飾るようになると、多くの人から高い評価を受けて、芸術家としてのユトリロの名は、モンマルトル一帯に知れ渡るようになっていったのです。

– ユトリロの絵画の価値が急上昇していく
1912年、ユトリロの絵画の価値が急上昇していることを知ったリボードは、専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬をユトリロに支払うように。
一家は経済的に安定しましたが、ヴァラドンらはユトリロの絵画に利益を見出そうとし、リボードと対立するようになりました。
そのような中、4月末から5月のはじめにかけてユトリロの健康状態は悪化していき、美術批評家のアドルフ・タバランが、リボードに病院へ入れるよう促しましたが、リボードはそれを拒否。
リボードとヴァラドンの関係はさらに悪化しますが、最終的にリボードはユトリロの入院費を支払うことになりました。

入院中、ユトリロは外出を許可され、ルヴェルテガ博士の勧めにより多くの絵を描きました。
治療の効果が見え始め、一家の友人であるリッシュモン・ショドワの提案により、ブルターニュのウェサン島で2カ月以上を過ごします。
ユトリロは休暇中も絵を描きますが、リボードから1カ月に6枚以上は描かないというルールを設けられており、それに従い12枚以下の風景画と2点の小さなカルトンしか描かなかったそうです。

– 入院生活を送りながらサロンへ出品
パリに戻ったユトリロは、サロン・ドートンヌに『サノワの通り』と『コンケの通り』の2点を出品しますが、12月に再び健康状態が悪化し、再入院します。
1913年の大半を病院で過ごす一方、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにもユトリロの作品が出品されました。
その後、ユトリロは家族とともにコルシカ島に向かい、コルシカ高地のベルゴデールで過ごし、20点ほどの作品を描きました。

– 治療をしながらも絵を描き続ける
コルシカ島から戻ってきた直後に、ユトリロは、ヴァラドンの紹介により画商のマルセイユと出会います。
マルセイユは、リボードとは異なりユトリロにとって好条件な契約を提案し、ユトリロはすぐに契約を交わしました。
収入を得たユトリロは、モンマルトルの丘の酒場を回るようになり、結果的にルヴェルテガ博士の診療所で再び治療を受けることになってしまいます。
治療後は、後軍隊に志願しますが、医学的理由で兵役を免除されてしまい、ユトリロはまた酒場に入り浸るようになっていきました。
この時代に描かれた作品は、数百点にのぼり、白を基調としていたことから白の時代と呼ばれるようになりました。

色彩の時代への移行

白の時代のあと、ユトリロの作風は、黒い輪郭線で空間を構成し、幾何学化によりモチーフ同士のバランスを保つような色彩の時代に移っていきました。
ユトリロは、ゲイの店の奥を借り、色彩の調和を探求していきました。
1915年ごろからは、1年中絵を描きながら酒を飲み続け、騒ぎを起こすようになったため、再び病院へ入院するようになり10カ月以上も監禁生活を送ることに。
退院後の1917年、ベルナイム=ジュヌの画廊で開催されたグループ展では、数枚の作品を出品し、高く評価されるようになっていきました。

モーリス・ユトリロの作風

ユトリロの描く風景画には、独特の哀愁があり多くの人の心を惹きつけました。
精神的に不安定で、生涯アルコール依存症に悩まされ続けたユトリロが描く作品は、どこか不安げな雰囲気のある建築物が印象的です。

白の画家の由来となる白を多用

白の時代と呼ばれるユトリロ初期の作品には、色彩があまりなく、白をベースとした風景画が多いのが特徴です。
これは、ユトリロの心の中に、生まれ故郷であるモンマルトルの風景が強く残っているからと考えられるでしょう。
モンマルトルには、レンガや漆喰の階段が多くあり、ユトリロは幼いころからその町中を遊びまわっていたそうです。
そのため、白は、ユトリロにとって身近な色であり、大切な思い出の色でもあるのかもしれません。

温かみのある色彩による表現

白の時代が終わり、アルコール依存症と精神的な不安定さに回復の兆しがみられたころ、ユトリロの作風は、変化していきました。
心の状態を表すかのように、温かみのある色彩で満ちた作品を描くようになりましたが、晩年に近づくにつれ、再び精神的に不安定な状態に陥り、生活は荒廃していきました。
しかし、色彩への探求心はもち続け、絵画の制作には打ち込み続けます。
そして、現在でも高く評価されるような作品を数多く残しました。

 

年表:モーリス・ユトリロ

西暦 満年齢 できごと
18831226 0 パリ・モンマルトルのポトー街8番地でシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。
1890年頃 7 スペイン人画家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスに認知され、「モーリス・ユトリロ」と改姓。
1894年頃 11 精神病のため母シュザンヌに病院へ連れて行かれる。
1896 13 母シュザンヌがポール・ムージスと結婚し、モンマニーに転居。ユトリロはピエールフィットのモランという私立小学校に預けられる。
19002 17 ムージスの紹介で外交員として短期間の職を得るが、4か月で辞職。
1901 18 アルコール依存症の悪化により、サルセルに転居。
1902 19 モンマルトルのコルトー街2番地に住み着き、水彩画を描き始める。
1904年初頭 21 サン=タンヌ精神病院に入院し、症状の改善を見せる。
1905年頃 22 『モンマニー風景』などの作品を制作。
1906 23 『屋根』を制作。
1907-1908 24-25 シスレーの回顧展の影響を受け、画面の奥行きや堅牢さを追求。
1909年春 26 ルイ・リボートが画商となり、ユトリロの作品が初めて展覧会に出品される。
1909 26 サロン・ドートンヌに出品。ヴァラドンとムージスが破局。モンマニーに移住。
1911 28 ユトリロが泥酔して起訴され、罰金刑を受ける。
1912 29 リボードとの専属契約を交わし、経済的安定を得る。ドリュエ画廊で6点の作品を展示。
1913 30 ウジェーヌ・ブロ画廊で初の個展を開催。展示会は失敗し、ユトリロの多作が原因とされる。
1914 31 コルシカ島に出発し、20点ほどの作品を制作。
1915-1916 32-33 第一次世界大戦中、フランスの軍需工場で働く。
1917 34 リボードとの契約が終了し、経済的に困窮。
1920 37 「白の時代」の作品が評価され、商業的に成功を収める。
1930 47 サロン・ドートンヌで大規模な回顧展を開催。
1950 67 フランス政府から芸術家としての評価を受け、名誉ある賞を受賞。
1955115 71 死去。モンマルトルの墓地に埋葬される。

 

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