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生きているかのような『十二の鷹』を作った「鈴木長吉」とは
生没年:1848年-1919年
鈴木長吉は、日本の金工技術を海外に広め、人気を高めた金工師の名工です。
日本の工芸品を積極的に海外へ輸出し、伝統的な美と技術を広めるとともに、日本の発展にも寄与しました。
18歳で独立し江戸で開業する
現在の埼玉県坂戸市である武蔵国入間郡石井村で生まれた長吉は、比企郡松山を代表する岡野東流斎から蝋型鋳金を5年間学んでいます。
鋳金とは、高熱で溶かした金属を鋳型に流し込んで、鋳型の空間にあわせて形を作る技法で、鋳型を蝋で製作するのが蝋型鋳金です。
その後、18歳で鋳物職人として独立を果たし、江戸で開業しました。
1874年には、明治政府が西洋諸国に対抗するために始めた政策の一つ殖産興業の一環として、日本の工芸品を西洋へ積極的に輸出する取り組みが動き始めました。
長吉は、輸出を目的に設立された起立工商会社の鋳造部監督を務め、2年後には工長となり、退社する1882年までの間、多くの大作を手がけて国内外の博覧会へ出展を行い、高い評価を得ています。
明治のはじめごろは、まだ機械工業が未発達であったため、高い技術によって作られた精巧な工芸品は、日本にとって貴重な外貨取得手段でした。
また、幕府解体により廃刀令や廃仏毀釈が出された影響で、職を失いつつあった当時の金工家にとって、工芸品を輸出する目的で設立された数々の企業は、生計を立てるための貴重な仕事場でした。
西洋人好みの作品を製作する
長吉は、西洋事情に詳しい日本の美術商・林忠正の監修のもと、西洋人好みの作品を製作していきました。
その一つが『十二の鷹』で、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つです。
また、同じ博覧会に出品された『鷲置物』は、2001年に重要文化財に指定されました。
長吉自身は、1896年に高い技術力が国に認められ、鋳金家として帝室技芸員に任命されました。
機械工業の発達により工芸品製作は下火に
日本の工芸品を製作する職人たちが活躍していく中、明治後期に入ると日本の機械工業が日に日に発達していき、手間や時間のかかる工芸品の製作は、下火になっていきました。
また、日本の工芸品が粗製乱造や過度な西洋趣味に偏ってしまっていたことも相まって、工芸品に対する評価が落ちてしまっていたのでした。
精緻かつ写実的で美しい装飾を大量に施す長吉のスタイルは、アール・ヌーヴォーの盛り上がりが収まっていくにつれて時代の流行とマッチしなくなっていきます。
晩年、長吉は養子を迎えて金剛砥石業に転職し、1919年、腎臓病にて自宅で亡くなりました。
高い技術と才能が認められて帝室技芸員にまでのぼりつめた、工芸界にとって重要な人物ではありますが、晩年の詳しい活動は明らかになっていません。
鈴木長吉の代表作
長吉は、数々の名作を残しており、展覧会にて受賞歴のある作品も多数存在します。
『十二の鷹』
『十二の鷹』は、1893年に製作されており、長吉はこの作品を製作するために実際に鷹を飼い、写生を繰り返して製作までに3年の月日を費やしたそうです。
江戸時代に発展した卓越した金工技術を用い、さまざまな姿の鷹をまるで生きているかのように表現しています。
『十二の鷹』は、1893年のシカゴ万博に出品され、紀念賞を受賞しました。
徳川幕府の時代、鷹が生息する48の地域から若い鷹を60羽近く集め、その中から将軍の鷹狩りのために選りすぐりの12羽を選定する儀式があり、その儀式にちなみ12羽の鷹が製作されました。
『孔雀大香炉』
『孔雀大香炉』は、1876年から1877年にかけて製作され、1878年のパリ万国博覧会に出展し、金賞を受賞しています。
構想は、フィラデルフィア万国博覧会の直後から練られ、渡辺省亭や山本光一に図案を作成してもらい、若井兼三郎が構図を作成、長吉が鋳造を担いました。
製作当初は、香炉の上に鳩が5羽いたそうです。
アール・ヌーヴォーの名を生み出した美術商のサミュエル・ビングは、この作品を「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と褒め称えました。
ヴィクトリア&アルバート博物館は、多額の予算を投じてビングから作品を購入し、現在博物館に所蔵されています。
『青銅鷲置物』
『青銅鷲置物』は、図案を山本光一が手がけ、鋳造を長吉が担当した作品で、1885年にニュルンベルク府バイエルン工業博物館にて開催された金工万国博覧会で金賞牌を授かり、博物館長が作品の美しさに驚き、会場で一番目立つ円形広間に移動させたそうです。
『水晶置物』
『水晶置物』は、1876年に御嶽山で採取された水晶玉の原石を用いて作られた作品で、第2回内国勧業博覧会に出品されました。
1893年に、美術館が水晶玉の寄贈を受けると、その後水晶にあわせてカスタムメイドの台座の製作を山中商会に依頼し、1500ドルが支払われたそうです。
『銅鷲置物』
『銅鷲置物』は、1893年に製作された作品で、岩上から獲物を狙う鷲の姿を写実的に表現した青銅製の置物です。
羽の一本一本が精密に作られており、足の肌合いまでもが本物のように表現されています。
鷲は、頭部・胴部・両翼・脚部を蝋型鋳造で作って接合し、接合部はたがねやのみを使って整えてあります。
鷲本体は黒褐色で、くちばしと爪は茶褐色で表現され、両目の眼球は彫った溝に純金を埋め込む金象嵌の技法が施されているのが特徴です。
年表:鈴木長吉
西暦 | 満年齢 | できごと |
1848年9月12日 | 0歳 | 武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれる。 |
1866年 | 18歳 | 岡野東流斎に蝋型鋳金を学び、独立して江戸で開業。 |
1874年 | 26歳 | 起立工商会社の鋳造部監督に就任。 |
1876年 | 28歳 | 『孔雀大香炉』を制作。フィラデルフィア万国博覧会に出品。 |
1882年 | 34歳 | 起立工商会社を退社。 |
1885年 | 37歳 | 『青銅鷲置物』でニュルンベルク府バイエルン工業博物館の金工万国博覧会で金賞を受賞。 |
1893年 | 45歳 | 『十二の鷹』『鷲置物』をシカゴ万国博覧会に出品。『十二の鷹』は高い評価を受ける。 |
1894年 | 46歳 | 『百寿花瓶』を制作。 |
1896年 | 48歳 | 帝室技芸員に任命される。 |
1899年 | 51歳 | 『岩上双虎ノ図置物』を制作し、翌年のパリ万国博覧会に出品。 |
1903年 | 55歳 | 『水晶置物』を制作。ボストン美術館に収蔵。 |
1919年1月29日 | 72歳 | 東京の自宅にて、腎臓病のため逝去。 |