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アメコミ風ポップアートで活躍した「ロイ・リキテンスタイン」とは
生没年:1923年-1997年
ロイ・リキテンスタインとは、 アンディ・ウォーホルらとともにアメリカのポップアートをけん引したアーティストです。
パロディによりコミカルに皮肉を含ませたポップアートを多く制作しており、インスピレーションの原点は、新聞に描かれている大衆漫画といわれています。
また、オリジナルではなく、既存の漫画作品の1コマをキャンバスに拡大し、独自の配色によって制作するのも一つの特徴です。
少年時代はジャズにも熱中していた
リキテンスタインは、ニューヨークにて不動産の仕事をしている父と 専業主婦の母の間に生まれました。
ニューヨークのアッパーウエストサイドで育ち、12歳までパブリックスクールに通い、神学校のドワイトスクールに進学します。
学校を通じて美術やデザインに関心をもつようになったそうです。
また、母がピアノを弾いていた影響からか、リキテンスタインは音楽にも興味をもっており、特にジャズに熱中し、ハーレムのアポロ・シアターで開催されるコンサートをよく見に行っていたそうです。
そこで、楽器を演奏するミュージシャンの姿を描くのも趣味の一つでした。
1939年、高校を卒業する前には、ニューヨークのアート・スチューデント・リーグの夏期講習を受け、パリ生まれのアメリカ人画家レジナルド・マーシュに絵の指導を受けています。
オハイオ州立大学で絵を学ぶ
1940年、リキテンスタインはニューヨークを離れ、オハイオ州立大学に入学し、スタジオコースにて美術を学び、学位を取得します。
しかし、第二次世界大戦の影響を受けて、1943年から1946年まで陸軍に入隊し、軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたりました。
危篤状態であった父を見舞うために一時的に帰国したリキテンスタインは、G.I.ビルの資格を取得して陸軍を除隊します。
その後、オハイオ州立大学の大学院に通い、のちにリキテンスタインの作品に大きな影響を与えたといわれている師匠ホイト・L・シャーマン教授のもとで美術を学びます。
リキテンスタインは、三次元空間で捉えたものを二次元に置き換えることを学び、1949年には芸術額の修士号を取得しました。
なお、リキテンスタインはのちに、OSUに出資して設立したスタジオに「ホイト・L・シャーマン・スタジオ・アート・センター」という名称をつけています。
抽象表現主義作品の個展を開催する
1951年、リキテンスタインは、自身初の個展をニューヨークのカール・バック画廊 にて開催しました。
当時は、大学講師や製図工などの仕事で生活をしながら、注目度の高かったキュビズムや抽象表現主義スタイルの作品を制作していました。
同年、オハイオ州のクリーブランドに移り住み、6年間ほど暮らしますが、その間もニューヨークには頻繁に戻っていたそうです。
1954年には、妻イザベル・ウィルソンとの間に、 現在ソングライターとして活躍する長男のデビッドが生まれ、1956年には次男のミッチェルが誕生します。
1957年、ニューヨークに戻ると再び講師として働き始め、1958年にはニューヨーク州立大学オスウィーゴ校の講師となりました。
このころから、抽象表現主義スタイルの中に、ミッキーマウスやバッグス・バニーなど漫画のキャラクターのイメージを取り入れ、作品を制作するようになっていきました。
プロト・ポップ・アートへ関心を寄せる
1960年からは、ニュージャージー州のラトガース大学で講師を務め、同じく講師として働いていたアラン・カプローのスタイルに強い影響を受けるようになっていきました。
カプローは、一般人を巻き込んだゲリラ的なパフォーマンススタイルを生み出したアーティストで、彼の影響によりリキテンスタインは、ポップアートに関心を寄せるように。
1961年、カートゥーンのイメージと商業印刷から得た技術を活用して、ポップ・ペインティングの制作を開始しました。
また、息子がミッキーマウスの本を指さし、「パパはきっとあれほどうまくは描けないよ」と言ったことをきっかけに『Look Mickey』という作品を制作しました。
このころから見られる輪郭線のはっきりしたキャラクター表現が、のちのリキテンスタイン作品の個性となっていくのです。
1962年には、ニューヨークの美術商レオ・カステリのギャラリーにて個展を開催しますが、出品した作品は、展覧会が始まる前にすべて有力なコレクターが買い占め、世間から注目を集めました。
このころからのリキテンスタイン作品は、戦争や恋愛をテーマにした漫画に触発されたものが多く、強い感情を題材に強い興味をもっていたと語っています。
彫刻や映画も制作し多彩な才能を発揮する
1964年ごろからは、彫刻作品にも強い興味をもち始め、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作しています。
また、1969年にはアッパー・ウエストサイドにあるグッゲンハイム美術館にてリキテンスタインの回顧展が開かれました。
1970年になると、ロサンゼルス・カウンティ美術館からの依頼を受けて映画制作を手がけます。
1972年から1980年の初めごろにかけては、モチーフに漫画だけではなく、果物や花瓶、花などの伝統的なものも採用するようになり、多彩なジャンルかつテーマの拡大に挑戦していたとわかるでしょう。
画家・彫刻家として国民芸術勲章を授章する
1995年、リキテンスタインは、画家・彫刻家として国民芸術勲章を受賞しました。
また同年、日本でも人気の高かったリキテンスタインは、京都賞の思想・芸術部門を受賞しています。
1997年、リキテンスタインは、肺炎による合併症によりニューヨーク大学医療センターで息を引き取りました。
73歳で亡くなるまで、熱心に制作を行っていたリキテンスタインの作品は、現在でも高い人気を誇っており、世界中の美術館にもその作品が所蔵されています。
史上最悪のアーティストと批判されることも
多くの人々の視線を集め人気を博していたリキテンスタインですが、過去には史上最悪のアーティストと批判されたこともあります。
1961年、リキテンスタインの作品は、美術商レオ・カステッリの目に留まり、注目の新人として世間に紹介されるようになりました。
1964年、アメリカの人気雑誌『ライフ』は、注目されていたリキテンスタインを取り上げ、アメリカ史上最悪のアーティストだと長い批評を掲載したのです。
しかし、リキテンスタインは褒められたりけなされたりすることにいちいち動じることなく、黙々と自分のアートを表現することに集中していました。
結果的には、人気雑誌に名前が掲載されたことでさらに注目が集まり、存在や人気を押し上げていったのでした。
戦争と暴力性に訴えかける作品
リキテンスタインの作品には、ミッキーマウスやヒーローキャラクター、典型的な金髪美女などがよく登場しており、第二次世界大戦参加の経験により戦闘シーンや戦車などが登場することも。
『takka takka』には、マシンガンが描かれており、言葉の暴力や攻撃性などが作品に表現されています。
原色を用いてカラフルかつコミカルな見た目でありながら、作品内に表現されたアクションにより鑑賞するものを攻撃しているともとれるでしょう。
リキテンスタインは、コミカルで一般大衆にも受け入れられやすいポップアートと擬音語を通して、戦争といったリアルな争いや言葉の暴力に訴えかけていたアーティストといえます。
ロイ・リキテンスタインが制作する作品の特徴
リキテンスタインは、漫画のコマを大きく拡大したようなスタイルが特徴的なポップアーティストです。
リキテンスタイン作品の特徴を知ることで、より作品の鑑賞が楽しくなるでしょう。
漫画風のアート
ポップアートのテーマは、一般的に大量生産や大量消費社会、大衆文化などから取り入れられます。
リキテンスタインは、量産される新聞から漫画をモチーフにポップアートを制作しました。
息子にミッキーマウスの絵を描いてあげたときに、これまでの芸術としての絵画よりも漫画のほうが強いインパクトや表現力をもっているのではと気づいたリキテンスタインは、漫画の1コマを拡大したような作品を次々に制作するようになりました。
余白のドット
リキテンスタインは、グレイスケールやカラー画像を、色数を限定して小さな点のパターンで表現する手法を作品に取り入れていました。
ドットの大きさや密度により陰影を表現しているのが特徴です。
遠目からは、塗りつぶされているように見えますが、近くで見るといくつものドットが密集していることに気づきます。
インパクトのある輪郭線と三原色
リキテンスタインの作品に登場する人物やモチーフは、太い輪郭線で囲まれており、原則として三原色を用いた油彩で表現されているのが特徴です。
白と黒のモノクロと、赤・青・黄の三原色と、限られた色彩により描かれていますが、シンプルでありながらも原色の色合いによって強烈なインパクトを与えてくれます。
また、後期には三原色以外の色彩も用いるようになり、表現の幅が広がっています。
平面を強調した表現
漫画のように平面を強調した画面構成も特徴の一つで、リキテンスタインは、モネやピカソなどの名画をオマージュして、平面的に描いたり、油彩で絵の具を分厚く塗って立体的にする筆触の手法で描かれた作品も平面で表現したりしています。
ロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル
リキテンスタインとアンディ・ウォーホルは、どちらも1960年代当時のニューヨークで全盛期を迎えていたポップアートを代表するアーティストです。
同時期に活躍していた2人は、お互いに意識しあっていたといいますが、中でもリキテンスタインの作品は、ウォーホルのスタイルにも影響を与えたといわれています。
ウォーホルは、32歳のころ『スーパーマン』や『バットマン』などのアメリカンコミックをモチーフにした作品を手がけていましたが、リキテンスタインの制作したアメコミ風作品の完成度の高さを目の当たりにして、漫画をテーマにした作品制作から手を引いたといわれているのです。
リキテンスタインの色のない部分を細かなドットで表現するアイティアを自分では思いつけなかったと、ウォーホルは悔しさをあらわにしたといいます。
その後、ウォーホルは、お互いの競争を避け、漫画風の作品制作は行わず、シルクスクリーン作品の『 キャンベルのスープ缶』をきっかけに、世界で注目されるポップアーティストに登り詰めていくのでした。
年表:ロイ・リキテンスタイン
西暦 | 満年齢 | できごと |
1923年10月27日 | 0歳 | ニューヨークで生まれる。父は不動産勤務、母は専業主婦であった。 |
1940年 | 17歳 | ニューヨークを離れ、オハイオ州立大学美術学部に入学。 |
1943年~1946年 | 20歳~23歳 | 第二次世界大戦のため兵役に就く。軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたる。 |
1949年 | 26歳 | オハイオ州立大学で美術の修士号を取得。大学に残り、1951年まで講師を務める。同僚であったイザベル・ウィルソンと結婚する。 |
1951年 | 28歳 | ニューヨークのカール・バック画廊で初の個展を開催。 |
1954年 | 31歳 | 長男のデビットが生まれる。 |
1956年 | 33歳 | 次男のミッチェルが生まれる。 |
1960年 | 37歳 | 漫画のコマを拡大したポップアート作品を発表し、注目を集める。 |
1961年 | 38歳 | 『Look Mickey』を制作。 |
1964年 | 41歳 | 彫刻作品に関心を持ち、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作。 |
1965年 | 42歳 | 離婚する。 |
1969年 | 46歳 | グッゲンハイム美術館で、回顧展が開催される。 |
1995年 | 72歳 | 京都賞思想・芸術部門(美術分野)を受賞。 |
1997年9月29日 | 73歳 | 肺炎による合併症で亡くなる。 |