最高額で売るなら、
だるま3で解決!

最高額で売るなら、だるま3で解決!

アンリ・マティス(1869年-1954年)画家[フランス]

色彩の魔術師と呼ばれた「アンリ・マティス」とは

生没年:1869年-1954年
アンリ・マティスは、フランスの画家でフォーヴィスムのリーダー的存在でもあった人物です。
自然を愛する芸術家で、緑あふれる世界を描き続け、色彩の魔術師とも呼ばれました。
色彩と線を巧みに描き、抽象的かつリズミカルなスタイルが特徴です。
パブロ・ピカソやマルセル・デュシャンと並び、20世紀はじめの視覚芸術の革新的な発展に貢献したとして高く評価されています。
画家としての活動の前期は、前衛芸術家としてフォーヴィスムを推し進めましたが、1920年代以降は、一度古典絵画に回帰しています。

盲腸で時間をもて余し21歳で絵を描き始める

マティスは、フランスの穀物商人である父とアマチュアの画家として活動していた母のあいだに長男として生まれました。
母が画家をしていたこともあり、幼いころから絵を学んでいたかというと、そうではありません。
マティスは、教育熱心な父の意向により、弁護士の道を選び学んでいました。
弁護士試験に向けて勉強に励み、21歳になると弁護士事務所に就職。
しかし、盲腸にかかり手術を行うために療養が必要となり、マティスはベッドの上で暇をもて余していたそうです。
母に絵を描いてみたらどうかと勧められ、画材を受け取ったことがきっかけで画家の道に進むことに。
ベッドで絵を描き始めてからのことを「まるで天国を見つけたみたいだった」と、のちに語っています。
マティスは、絵がもつ不思議な魅力に心惹かれ、画家になることを決意するのでした。
多くの有名芸術家は、幼いころから絵を学び、才能を発揮していましたが、マティスが絵を描き始めたのは21歳からと、非常に遅いスタートであったとわかります。

ギュスターヴ・モローに基礎と自由を教わる

画家になると決意してからマティスは、美術学校のアカデミー・ジュリアンに入学し、ウィリアム・アドルフ・ブグローのもとで絵を学びますが、学校のスタイルが合わず、すぐに退学してしまいます。
その後、フランス美術学校の最高峰といわれているエコール・デ・ボザールの入試を受けますが、試験には落ちてしまいます。
エコール・デ・ボザールは、ルノワールやモネ、ドガなど数多くの有名芸術家を輩出した名門校であり、21歳から独学で絵を描き始めたマティスは、技術が足りなかったのか試験に落ちてしまうのでした。
しかし、エコール・デ・ボザールで教師を務めていた象徴主義の画家ギュスターヴ・モローが、マティスに関心をもち、アトリエに招いて個人的に絵の指導を行いました。
エコール・デ・ボザールは、厳格な教育方針で、教科書に忠実な絵を描くことを求められ、写実性が重要視されていましたが、そのような学校の中でもモローは、異端の教師で自由に描くことを重視しています。
そのため、マティスは、写実主義をベースにしながらも、のびのびと自由に絵を学び、着実に才能を伸ばしていったといえるでしょう。

ジョン・ピーター・ラッセルとの出会い

1896年、マティスが27歳のころ、もう一つ重要な出会いがありました。
この年、マティスは、オーストリアの印象派画家ジョン・ピーター・ラッセルと出会い、ゴッホの作品を紹介されます。
マティスはゴッホの絵を鑑賞し衝撃を受けるとともに、セザンヌ作品のも大きな影響を受けています。

フィンセント・ファン・ゴッホから受けた影響

ゴッホの描く作品で特徴的な要素の一つが色彩であり、色覚異常であったゴッホは、独特な色合いで絵画を描いていました。
影を、黒やグレーなどではなく緑や青で描いたり、明るく鮮やかなオレンジを目一杯使ったりした作品などもあります。
マティスは、ゴッホの色彩感覚に衝撃を受け、このころからマティスの描く絵の色彩が変化していったそうです。
また、当時マティスは、印象派画家の作品を借金してまでも買い集めていたといいます。
印象派は、色彩を重要視するスタイルであり、絵の具を混ぜ合わせるのではなく、単色を隣同士に置くことで目の錯覚を起こさせる筆触分割と呼ばれる技法を用いて絵を描いていました。
マティスは、印象派の作品を買い集め、この色彩感覚を研究していたとも考えられるでしょう。

ポール・セザンヌから受けた影響

マティスは、印象派作品の中でも特にセザンヌの絵を気に入っていたといいます。
セザンヌが描く絵画の特徴といえば、木の幹を円柱状に描いたり、オレンジやリンゴを球体に描いたり、山を円錐に描いたりする抽象化です。
セザンヌは、モチーフを極端にデフォルメした作品を多く描いており、目で見たものを直接描くのではなく、頭の中で再構築して抽象化するのが得意でした。
マティスは、セザンヌの作品に共感するとともに大きな影響を受け、作風が大きく変化していきます。
これまでのマティス作品は、古典的な技法を用いて描かれた絵画が多くありましたが、次第に抽象度が高まっていき、色彩感覚も鮮やかでビビットなものに変わっていきました。

フォーヴィスムのスタイルを確立する

印象派画家の作品から、色彩感覚や抽象化を学びスタイルを変化させていったマティスは、のちにフォーヴィスムと呼ばれる、独自の作風を確立させていきます。
フォーヴィスムといえば、原色を使用した大胆な色彩表現や荒々しい筆のタッチが特徴的なスタイルです。
マティスの作品にフォーヴィスムのスタイルが見え隠れしてきた最初の作品は、1904年に制作された『豪奢、静寂、逸楽』です。
この作品は、新印象派であるポール・シニャックに影響されて描いた点描画で、フォーヴィスムの要素が加わり始めたといわれています。
なお、マティスは点描派であったわけではなく、この時期に点描画にはまっていただけといわれています。
この作品が制作されたころ、まだフォーヴィスムの名称は誕生しておらず、当時はフォーヴと評価されていました。

フォーヴィスムの名が生まれたのは、1905年にパリで開催された第2回サロン・ドートンヌ展がきっかけで、展示されていたマティスやアンドレ・ドランの作品をみた批評家のルイ・ヴォークセルが、「なんだこれは、野獣の檻にいるドナテッロのようじゃないか」と洒落たレビューをし、フォーヴィスムの名が広まりました。
なお、ドナテッロとは、ルネサンス期に活躍したイタリアの彫刻家です。

秩序ある作風は第一次世界大戦がきっかけ

フォーヴィスムときくと、真っ先にマティスを思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、実は、フォーヴィスムスタイルの作品を描いていたのは、1905年からのわずか3年間ほどなのです。
フォーヴィスムは、自身の絵を探求するマティスにとってあくまで通過点でしかなかったといえるでしょう。
1910年代ごろからは、フォーヴィスムから一変し、おとなし目で理知的な作品を多く描くようになりました。

そのような中、1914年に第一次世界大戦が勃発。
1914年から1918年まで続いた戦争の時代、芸術家たちは秩序への回帰と呼ばれる動きを見せるようになりました。
これまで多くの画家が前衛的な作品を描いてきましたが、混沌とした戦争を目の当たりにして、安定感のある昔の絵を好むようになったのです。
マティスも同様に、前衛的な表現からは離れ、古典回帰をはかります。
1917年ごろから1930年ごろまでを、マティスが拠点にしていた場所にちなんで、ニースの時代と呼んでいます。
フォーヴィスム時代とは異なり、写実的な作品も多くなっていき、抽象度やシンプルさはなくなっていきました。
しかし、1930年以降はまたフォーヴィスムスタイルの表現に戻り、『ルーマニアのブラウス』や『眠る女と静物』などの、抽象度の高い作品を制作しています。

晩年は切り絵を制作

マティスは、60代後半ごろからガンを患い、72歳のときに腸閉塞手術を行っています。
車いすとベッドを行き来する生活となり、体力の衰えを感じたマティスは、自身の芸術表現を絵画から切り絵へとシフトしていきました。
マティスは、切り絵の線で区切らなくてよいことや、いきなり色彩で描けることを気に入っていたそうです。
切り絵は、輪郭線を引く必要がないため、より色彩に集中して制作活動ができ、色彩に強いこだわりをもっていたマティスにとってはやりたいことが実現できる、相性のよい芸術であったといえるでしょう。
マティスが制作した切り絵の代表作といえば『かたつむり』です。

また、晩年には絵画制作だけではなく、南フランスのヴァンスにあるドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の、内装デザインを手がけました。
当時制作していた切り絵をモチーフにしたステンドグラスや、フォーヴィスムをけん引したマティスらしい大胆な線で描かれた聖母子像などが目を引きます。
礼拝堂の内装デザインは、マティスの集大成といえるほどの完成度を誇っており、20世紀を代表するキリスト教美術作品となったのです。
そして、マティスは1954年に84歳で、その生涯に幕を下ろしました。

アンリ・マティスが描く作品の特徴

フォーヴィスムをけん引し、独自の色彩感覚で描いた作品が、多くの人々を魅了しているマティス。
色の魔術師と呼ばれるマティスの作品の特徴を知り、時代背景や絵画に込められた思いなどにも目を向けていきましょう。

単純化された形体

画家として活動し始めた当初のマティスは、一般的な写実表現を用いて自然を描いていました。
しかし、ラッセルから紹介されたゴッホの作品をはじめ、多くの印象派作品に触れる中で、形体を単純化して描くようになりました。
この形体の単純化は、色彩表現にも影響を与え、形体よりも色彩を描くマティスのスタイルが確立されていったといえるでしょう。

直感的な色彩感覚

マティスは、色の魔術師と呼ばれるほど色彩表現が豊かで、大胆な色使いで多くの作品を描きました。
自然を愛していたマティスは、自然の風景から多くのインスピレーションを受け、そのときの感覚や感情を、直感的に色彩で表現していました。
同じ時代に活躍したピカソが、芸術界において形体の表現に革命を起こした人物だとすると、マティスは、色彩表現を現実のものから解放し、色による表現に革命を起こした人物といえるでしょう。
一度は、古典回帰したものの、色彩については研究を重ね単純化させていき、色彩を追及し続けていました。
晩年には、その色彩感覚を切り絵によって表現しました。

 

年表:アンリ・マティス

年号 満年齢 できごと
18691231 0 フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジに生まれる。
1887 18 父の命により、カトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得る為に、パリで法律を学び始める。
1888 19 法科資格試験に合格。その後、サン・カンタンの法律事務所の書記として働き始める。
1889 20 盲腸炎の療養中に、アマチュア画家として活躍していた母から画材が贈られ、絵画に興味を持ち、画家に転向する決意をする。
1891 22 パリの私立美術学校アカデミー・ジュリアンに入学。
1896 27 国民美術協会のサロンに4点出品し、うち1点が国家買上げとなる、
1898 29 アメリー・パレイルと結婚。印象派の画家であるカミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーと研究する。
1905 36 『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』を発表。
1909 40 『ダンスI』を発表。大胆な色彩を特徴とした作品を多く制作する。
1917 48 南フランスのニースを制作の場とし、活動を始める。
1951 81 東京・上野国立博物館で「マティス展」が開かれる。
1954113 84 ニースで心臓発作の為、死去。
人気の買取業者はこちら 人気の買取業者はこちら

人気骨董品買取業者はこちら

あなたのお家にある “骨董品、高く” 売りませんか?

買取業者を探す