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オディロン・ルドン(1840年-1916年)画家[フランス]
象徴主義絵画をけん引した「オディロン・ルドン」とは オディロン・ルドン 生没年:1840年-1916年 オディロン・ルドンは、フランスの象徴主義を代表する画家で、モノクロの作品が多かったことから「黒の画家」とも呼ばれていました。 ルドンの作品は、1884年にジョリス=カルル・ユイスマンスが書いた小説『さかしま』で取り上げられたことで注目を集めるようになっていきました。 15歳ごろから本格的に素描を学ぶ ルドンは、南フランスのボルドーの街で、裕福な家庭に生まれました。 身体が弱かったルドンは、その後ボルドーから30kmほど離れた田舎町ペイル=ルバードへ里子に出され育ちます。 幼いころから素描を描き始めており、10歳のときには学校で素描の賞をもらっています。 15歳のとき、地元の水彩画家であるスタニスラス・ゴランから本格的に素描を学び始めました。 絵を描くことが好きだったルドンですが、父は画家に反対し建築家になることを勧めていたため、建築家を目指すことに。 1862年、22歳の秋、ルドンはフランスの美術学校であるエコール・デ・ボザールの試験を受けますが、不合格となり建築家への道をあきらめます。 再び画家を目指し始めたルドンは、1864年に新古典派の画家ジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学びますが、アカデミックな教育があわず翌年に帰郷しました。 終戦後はパリで芸術活動を開始する 故郷のボルドーに帰ってからのルドンは、彫刻制作を始めるとともに、フランスの版画家ロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学びました。このころから「黒」のカラーがもつ無限の可能性に着目し、自身の木炭画や版画を「ノワール(私の黒)」と呼び、黒を用いた独創的な作品を描くようになっていきました。 普仏戦争が勃発してからは、芸術活動を一時中断し従軍しますが、1871年末に病気のため戦線離脱。終戦後は、素描家を目指し再びパリに移住し、芸術活動を再開させます。移住当時は、木炭を使った素描をメインに活動を進めていましたが、サロンでリトグラフの技法を学び、木炭画とリトグラフを主軸として芸術活動を進めていきました。 1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行。 発行部数は25部と少ないものですが、職業画家としての記念すべき第一歩の作品といえるでしょう。 その後、ルドンは石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として活躍の場を広げていきました。 象徴主義の画家として注目を集める 1890年代、ルドンはノワールではなく、パステル画や油彩画を好んで描くようになりました。 1894年、老舗のデュラン・リュエル画廊にて大規模な個展を開催し見事成功をおさめ、象徴主義の画家としての地位を確立させていきました。 1899年、同画廊にてナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、尊敬の意を込めてルドンを迎え、グループ展を開催し、ルドンはナビ派として紹介されます。 当時、象徴主義が注目を集めていたことから、ルドンの作品は多くの若手画家たちの心を打ち、新しい絵画の先駆者として認識されるようになっていったのです。 ルドンは、若手画家たちと交流を深めていくようになり、その影響から絵画作品だけではなく室内装飾も手がけるようになりました。 装飾絵画から抽象絵画へ変化する 1899年、ルドンはロベール・ド・ドムシー男爵から、ブルゴーニュのセルミゼルにあるドムシー・シュール・レ・ヴォルト城のダイニングルームに飾るための装飾絵画の制作を依頼されました。 この装飾絵画17枚が、ルドンが制作した作品の中でも最も先鋭的といわれるものとなり、ルドンの作品が装飾絵画から抽象絵画へ移行するターニングポイントになりました。 また、ルドンはドムシー男爵に依頼され、夫人と娘のジャンヌの肖像画も描いています。 ルドンの芸術活動の特徴 ルドンは、夢や無意識下の幻想的で不思議な世界観をもった作品を多く制作しました。 幻想的でファンタジー性のある作品たちは、ルドンの死後、シュルレアリスムの先駆けとも評価されています。 多彩な画法を使い分けていた ルドンといえば、モノクロで描かれた木炭画を想像する人が多いのではないでしょうか。 しかし、得意としていた木炭画以外にも、パステル画や油彩画などへ表現方法を広げ、多彩な作品を制作しています。作品の色合いも、モノクロから色彩豊かなものに移り変わっていきました。 仏教やヒンドゥー教にも関心があった ルドンは、仏教やヒンドゥー教をはじめとしたさまざまな宗教にも関心をもっていたといわれており、それらの世界観を融合させた作品も多く制作しています。ルドン作品の幻想性や神秘的な世界観は、宗教の思想が影響しているとも考えられるでしょう。 ルドンは、若いころから植物学者であるアルマン・クラヴォーから読書の手ほどきを受けており、アルマンはルドンの精神的指導者でもありました。 アルマンから文学をはじめとし、最先端の科学や世界の多種多様な思想などを教わったことがきっかけで、東洋の思想にも強い興味を抱いたと考えられます。 20世紀はじめごろの10年間では、さまざまな宗教絵画が一つの作品に混ざりあった神秘的な作品を描いています。 代表的な作品には、『釈迦の死』、『釈迦』などがあり、東洋の宗教に強い影響を受けていることがわかりますね。 幻想的な世界観 ルドンが描く作品の大きな特徴は、無意識下を投影した幻想的な世界観をもっている点です。 当時、心理学者フロイトが唱えていた無意識の存在が世の中に広まっており、精神世界を投影したルドンの不思議な世界観の作品は、広く受け入れられたのです。 また、ルドンの画風は、19世紀後半のパリで巻き起こっていた反物質主義的な運動に後押しされ、写実主義や印象派へのアンチテーゼとしての評価も受けています。 退廃的な雰囲気 ルドンが制作した作品には、退廃的で暗い印象を受けるものも多くあります。その中でもとくに、モノクロのリトグラフ作品では、不安や絶望を思わせる印象の作品が多く残されています。 しかし、モチーフの表情をよく見てみると、どこか愛嬌のあるキャラクターに見えることも。 不穏な空気感を抱かせながらも、どこか人間としての温かみも感じられる不思議な世界観が、多くの人の心を惹きつけているのでしょう。 目と花をよく描いていた ルドンは、目と花に着目した作品をよく描いていました。 目に重きをおいた代表作の一つに『キュクロプス』があります。 キュクロプスとは、ギリシャ神話において卓越した鍛冶技術をもつ隻眼巨人として登場する下級神。凶暴で人を食らう恐ろしい人物像で知られていますが、ルドンが描くキュクロプスは、どこか寂しげな表情に見えます。 まるで、ルドン自身の内向的な性格をキュクロプスに反映しているかのようにも感じられるでしょう。 ルドンがよく花の絵を描いていたのは、若いころに植物学者アルマンのもとで学んでいたことがきっかけで、よく植物観察をしていたためともいわれています。 息子の死と誕生により作品に変化が ルドンは、若いころからモノクロのリトグラフや鉛筆画を多く制作していました。 しかし、49歳で次男のアリが誕生したころから、カラフルな作品も増えていったといわれています。 ルドンは、長男を半年で亡くしており、アリの誕生は大変喜ばしいことであったと考えられるでしょう。 アリの成長がルドンの生きがいになり、人生にも彩が生まれ、そのような色彩豊かな作品が増えていったのではと想像させてくれます。 しかし、アリも第一次世界大戦で生死不明となってしまい、76歳だったルドンはアリの行方を探すために各地を訪ねて回りました。 ルドンは、アリを探して回るなかで、風邪をこじらせ1916年にパリの自宅でその生涯に幕を閉じました。 ルドンが描いた色鮮やかな世界観は、息子アリをきっかけに始まり、終わったといえるでしょう。 [年表]オディロン・ルドン 西暦 満年齢 できごと 1840年 0歳 4月20日、フランスのボルドーで生まれる。本名はベルトラン=ジャン・ルドン。 1851年 11歳 ボルドー近郊の町ペイル=ルバードで、少年期を過ごす。 1860年 20歳 植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に影響を受ける。 1864年 24歳 パリでジャン=レオン・ジェロームに入門するも、数か月で辞め、ボルドーに戻る。 1870年 30歳 普仏戦争に従軍。 1872年 32歳 パリに定住。 1879年 39歳 初の石版画集『夢の中で』を刊行。植物学者アルマン・クラヴォーに捧げる。 1880年 40歳 クレオールの女性、カミーユ・ファルテと結婚。 1882年 42歳 新聞社ル・ゴーロワで木炭画と版画の個展を開催。石版画集『エドガー・ポーに』を刊行。 1886年 46歳 長男ジャンが誕生するが、半年後に夭折。 1889年 49歳 次男アリが誕生し、画風が明るい色彩を使うスタイルに変わる。 1904年 64歳 レジオンドヌール勲章を受章。 1913年 73歳 アーモリーショーにて1室を与えられ展示を行う。 1916年 76歳 7月6日、パリの自宅で死去。直前に消息不明だった次男アリの捜索に奔走していた。
2024.09.10
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バンクシー(生年月日未公表-2000年代ごろから活動)アーティスト、政治活動家[イギリス]
神出鬼没で謎の多いグラフィティアーティスト「バンクシー」とは バンクシーは、正体を明かすことなく、世界中の壁やストリート、橋などさまざまな場所にメッセージ性の強いグラフィックを描き話題を集めました。 神出鬼没で、本名や年齢、性別など多くの情報が謎に包まれており、初期の活動場所がイギリス中心であったことから、イギリス人ではないかと推察されています。 バンクシーの作品は、いつどこで描かれているのか分からず、夜が明けてみるといつの間にか壁に作品が描かれていたというものがほとんどです。 中学を退学になりグラフィティ活動を開始する バンクシーがグラフィティ活動を始めたのは、中学校を退学したことがきっかけであったといわれています。 中学生のころ、大けがを負ったクラスメイトの事故の犯人であると疑われ、濡れ衣を着せられて地元ブリストルの中学校を退学になってしまったそうです。 そして、14歳ごろからグラフィティ活動をスタートさせました。 当初は、フリーハンドで作品を描いていましたが、街中の壁やストリートに絵を描く行為は違法であるため、スピーディに作品を完成させ警察に捕まらないよう、途中からステンシルを使うようになったそうです。 社会を風刺した鋭いメッセージ性のある作品 バンクシーは、消費社会や戦争など、政治や資本主義的な社会を痛烈に風刺する作品を多く残しています。 人々に議論を促し、社会問題に目を向けさせることがアートの役割であると、バンクシーは語っており、グラフィティアートを通じて、現代社会の在り方に問題提起をし続けているのです。 バンクシーは、積極的にチャリティ活動を行っており、地元のブリストルでは展覧会を開催して現地経済を活性化させたり、多くの慈善団体や施設に寄付や作品の寄贈を行ったりしています。 『The Son of a Migrant from Syria』は、フランスの難民キャンプがあるカレー地区にある作品で、古いパソコンと大きな袋を手に持つスティーブ・ジョブズが描かれています。この作品は、難民支援を訴えかけているといわれており、難民の受け入れをしなければ、未来のスティーブ・ジョブズの可能性を奪うかもしれないというメッセージが込められているのです。 実は、スティーブ・ジョブズは、シリア移民の息子であったのです。 移民の受け入れは自国の負担を大きくし、資源を枯渇させてしまうと不安視されていますが、シリア移民の息子であったジョブズが創設したアップルは、世界で最も高い利益を上げている企業であり、年70億ドル以上もの税金を国に納めています。 アップルがこれほどまでに大きな企業になったのは、シリアの移民を受け入れたからだと、訴えかけています。 『Shop Until You Drop』は、ロンドンの高級ショッピング街のビルの高層部分に描かれた作品です。 ショッピングカートを押す女性が落下する様子が描かれており、消費社会への風刺を描いているといわれています。 買い物に夢中で足元を見ずに踏み外してしまったのか、高価な買い物をし続け人生から転落してしまったのか、どちらにせよ消費することで経済を回す資本主義に対する痛烈な批判ともとれる作品です。 バンクシーの作風:3つの特徴 バンクシーが制作される作品の主な特徴は、グラフィティアート・ステンシルアート・ネズミのモチーフです。 グラフィティアートを多く手がける グラフィティは、落書きの意味を持ち、グラフィティアートとは、1960年代末から1970年代のニューヨークの街や地下鉄、高架下などの壁面に描かれるようになった絵を指しており、ストリートアートとも呼ばれています。 バンクシーは、公共の壁面にスプレーで作品を描いていることから、グラフィティアートの一つといえるでしょう。 ステンシルアートを用いている バンクシーのグラフィティアートには、ステンシルアートが用いられています。 ステンシルアートとは、ステンシル(切り抜き版)を利用して描くアートのことで、あらかじめ描きたい絵の形にくり抜いた型に、ペイントやスプレーをかけ作品を制作していく手法です。 型を準備しておけば、壁面に設置してスプレーを吹きかけるだけで描けるため、神出鬼没で誰にも見つからないように描かなければいけなかったバンクシーにぴったりの手法といえます。 このステンシルアートは、バンクシーが開発したものではなく、パリのグラフィティアーティストであるブレック・ル・ラットによって、1980年代にはすでに取り入れられていました。 ブレックは、ステンシルアートの父とも呼ばれており、ラットをはじめとした動物をモチーフにしていたこともあり、バンクシーは彼に影響を受けていたとも考えられています。 ネズミのモチーフをよく描いている バンクシーは、世界中のあらゆる場所にネズミをモチーフにした絵を描いています。 ネズミはさまざまなパターンで描かれており、例えば、落書きのための筆やスプレー缶をもったネズミ、ローラーやペンキ缶をもったネズミ、メッセージが書かれたプラカードを掲げるネズミ、傘をさすネズミ、ラジカセで音楽をかけるネズミなどがあちこちに描かれています。 街中に潜むネズミは、ゴミにまみれ、地下を走り回って病原菌をまき散らす厄介な存在でもあり、そのネズミを文明開化された都市から切り離された人々、いわゆるマイノリティな存在と重ね合わせて社会へ訴えかけていると考えられるでしょう。 また、ネズミはバンクシー自身を表しているともいわれています。 グラフィティアートは、本来禁止されている場所に作品を制作するため、都市の中に身を潜め、人目を忍んで描きます。夜の街に突如として現れて作品をこっそりと制作する自分自身を、ネズミに重ね合わせているともいえるでしょう。 そのため、街中に描かれているネズミの多くは、グラフィティを描くための道具を持っているとも考えられます。 バンクシーが起こした4つの大事件 謎の多いバンクシーは、グラフィティアートを使った前代未聞の事件をいくつも起こしています。 複数の有名美術館で作品を勝手に展示 バンクシーは、有名美術館に自分の作品を勝手に展示するという、異例の大事件を起こしています。 世界中の美術ファンが訪れるロンドンのテート・ブリテン美術館。 2003年、第七展示室を映し出す監視カメラには、つばの広い帽子とオーバーコート身につけた一人の男の姿が映っていました。男性は、ある壁面の前で立ち止まり、紙袋から額装と絵を取り出すと、なんと美術館の壁面に絵を勝手に飾り始めたのです。 そして、壁に絵を飾り終わると、何食わぬ顔で美術館を後にしました。 この飾られた作品がバンクシーのものであると判明したのは、絵の横に貼られた作品解説ラベルにバンクシーと書かれていたからでした。 勝手に飾り付けられた作品は、2時間半後に絵が自然に落ちるまで、誰も展示に気付かなかったそうです。 バンクシーは、大英博物館、ロンドン自然史博物館、ルーヴル美術館、ニューヨーク近代美術館、ブルックリン美術館など世界規模のミュージアムでも同じように自分の作品を勝手に展示しています。 美術品を盗難するのではなく、自分の作品を展示品として飾る行為は、前代未聞の事件として話題を集めました。 動物園の檻の中に侵入し作品を描く 美術品の展示事件を起こしたころと同じ時期に、バンクシーは動物園にも侵入して作品を制作しています。 バンクシーは、バルセロナの動物園の象が入っている檻に侵入し、壁一面に縦に棒を4つ並べ、横線を1本引いた記号を壁一面に描きました。 まるで遭難者が、遭難してから何日が経過しているかを記録しているようなこの作品は、動物園の存在意義を問いかけているようです。 ブリストルやロンドン、メルボルンなどの動物園の檻にも不法侵入し、作品を制作しています。 檻の中のサルが「おいらはセレブだってば。ここから出せよ」と手書きされた段ボールを手にしていたり、ペンギンの暮らす囲いの壁面には「魚ばっかりで飽きちゃったわ」というセリフがペイントされていたり、まるで動物園の囚われた動物たちの声を代弁しているようなアートを残していったのでした。 期間限定「ディズマランド」を開園 バンクシーが「悪魔のテーマパーク」というコンセプトで開園させたのが、ディズマランドです。 2015年8月から5週間の期間限定でオープンしたディズマランドは、ロンドンから電車で2時間ほどの距離にあるウェストン・スーパー・メアという地域に作られました。 この場所はバンクシーの出身地とされているブリストルからもほど近い場所にあります。 ディズマとは「陰鬱」「不愉快」などの意味をもっており、「Amusement Park」ではなく、「Bemusement(困惑) Park」と銘打っています。 17か国、約50人の現代アーティストによる作品があちこちに飾られているのが見どころです。 また、入口のセキュリティからユーモアが溢れており、入管・税関、保安検査場のように見せている入場ゲートは、すべて段ボールで作られています。 テーマパーク内には、風刺を利かせたさまざまな作品が展示されていて、子どもが楽しむというよりも大人が考えさせられるパークであったといえるでしょう。 世界中を驚愕させたサザビーズのシュレッダー事件 世界を驚愕させた有名な大事件といえば、シュレッダー事件を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 2018年10月5日のロンドンで開かれたサザビーズオークションで、バンクシーの『風船と少女』の落札が行われました。 100万ポンドの値がつき、落札された直後、額縁の下部に隠されていたシュレッダーによって作品が裁断されてしまったのです。 作品の半分ほどが切り刻まれたところでシュレッダーは止まり、作品はスタッフによって運び出され会場を後にしました。 バンクシー本人のSNSでも切り刻まれる瞬間の様子が動画で投稿されており、衝撃を受けた人も多いでしょう。 シュレッダーにかけられたのち、『風船と少女』は『愛はごみ箱の中に』とタイトルが変更されました。 『風船と少女』を落札した人物は大変驚いたそうですが、このできごとにより価値が高まったとし、そのまま『愛はごみ箱の中に』を購入したそうです。作品は、落札者のもとへ送られる前に、サザビーズのギャラリーで2日間展示されたのち、ドイツのフリーダー・ブルダ美術館にて1か月間展示されました。 年表:バンクシー バンクシーはその正体が分からず、年齢なども不明のため、主なできごとを中心に年表にまとめました。 西暦 できごと 2001 メキシコ・チアパス州で壁画を描く。 2003 ゲリラ個展『ターフ・ウォー』をロンドンで開催。バンクシーの名前がイギリス中に広まる。 2005 大英博物館に『ペッカム・ロック』を無断で陳列。ヨルダン川西岸地区の分離壁に9つの絵を残す。 2006 ブリストルで裸の男がバスルームの窓からぶら下がる壁画を描く。パリス・ヒルトンのデビューアルバムのフェイクを制作し、レコードショップに無断で陳列。 2007 ヨルダン川西岸地区ベツレヘムで分離壁にステンシル画を描く。 2009 『Banksy versus Bristol Museum』を開催し、注目を集める。 2010 『ザ・シンプソンズ』のオープニングアニメーションを演出。 2013 ニューヨークでアーティスト・イン・レジデンス『ベター・アウト・ザン・イン』を開催。 2015 ガザ地区にて破壊された家の残骸にグラフィティを描く。『ディズマランド』をオープン。 2017 ベツレヘムに『ザ・ウォールド・オフ・ホテル』を開業。 2018 サザビーズオークションにて『赤い風船に手を伸ばす少女』がシュレッダーで切断される。 2019 兵庫県洲本市でバンクシー作とみられるネズミの絵が発見される。 2020 新型コロナウイルスと戦う医療従事者をテーマに『Game Changer』を発表。 2021 『愛はごみ箱の中に』が再び競売にかけられ、過去最高額で落札される。 2022 ウクライナにてロシア軍によって破壊された都市で7点の作品を発表。 2023 スコットランド・グラスゴーで14年ぶりの公式個展『CUT&RUN』を開催。 2024 イギリス・フィンズベリー・パークで新たな作品を発表。
2024.08.17
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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864年-1901年)画家[フランス]
19世紀後半のパリの賑わいを描いたロートレックとは アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 生没年:1864年-1901年 南フランスの歴史ある名門貴族に生まれながらも、画家の道を志したロートレック。19世紀後半にポスター画家として人気を博し、パリを一世風靡した人物でもあります。 カラフルな色彩が特徴の一つで、ポール・セザンヌやファン・ゴッホ、ゴーギャンなどと一緒に後期印象派の代表的な画家としても知られています。 少年時代に足を骨折し下半身の成長が止まる ロートレックは、南フランスの最も古い貴族家系である父アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵と、名門タピエ・ド・セレイラン家出身の母アデルの間に生まれました。大勢のいとこたちに囲まれのびのびと育ったロートレックは、自由奔放で活発的なふるまいが周囲の人々を魅了し、「小さな宝石」と呼ばれ可愛がられていました。 人懐っこい性格は、大人になり画家を志してからも変わらず、多くの友人に恵まれた画家人生を送っています。 ロートレックの父は、元騎馬連隊の騎手をしており、乗馬や狩猟が趣味でした。 一方、母は読書が趣味で穏やかな生活を送っていました。 ロートレックと父はそりがあわず、弟の死をきっかけに父と母は別居し、ロートレックは母のもとで生活を送るようになります。 ロートレックが8歳のときに、フォンテーヌ中学に入学するためにパリに移り住み、このころからデッサンを描き始めています。 手帳やノートには、馬や犬、周囲の人々のスケッチが溢れていたそうです。 成績優秀な生徒でしたが、1875年に健康上の問題によりアルビに戻り、母は医者にロートレックの身体の成長について相談をしていました。 1878年、13歳だったロートレックは、椅子から立ち上がろうとした拍子に転び、右大腿骨骨折してしまいます。また、14歳のときにも右大腿骨上部を骨折しており、通常よりも治りが遅かったそうです。そして、もともと遺伝性の骨格の病気を患っていたこともあり、骨折以降両足が萎縮する障害を抱えることになり、15歳のときには下半身の成長が止まり、身長も152cmほどで止まってしまいました。遺伝性の病の原因としては、両親がいとこ同士の近親結婚であったことが考えられています。 この病をきっかけに、ロートレックはさらに絵画制作に没頭するようになっていきました。 パリのモンマルトルで画家を目指す 画家になることを決意したロートレックは、家族の友人である動物画家ルネ・プランストーのアトリエに通うようになり、本格的に絵画の道を歩み始めました。 1882年、ロートレックの才能を高く評価していた師のプランストーは、よりアカデミックな教育を受けさせるために、肖像画で人気を集めていたレオン・ボナにロートレックを紹介し、4月からボナの画塾に通うように。画家を目指すほかの若き才能とともに古典技法を学びデッサンを続けましたが、ボナがロートレックの才能を認めることはありませんでした。 その後、ボナが国立美術学校の教授になりアトリエは閉館、そこから1887年まではフェルナン・コルモンのアトリエで絵を学びました。コルモンもアカデミックな作品をメインに制作していましたが、新しい芸術様式を受け入れる寛容さがあり、ロートレックはコルモンのもとでエミール・ベルナールやフィンセント・ファン・ゴッホなどと切磋琢磨しながら、自身の才能を開花させていきます。 当時のロートレックは、印象派の作品に関心を寄せており、時間があれば展覧会や美術館を巡り歩く生活を送っていました。 また、コルモンのもとで絵を学ぶようになってからパリの街を歩き回るようになったロートレックは、モンマルトルの売春婦をはじめとしたその街で生きる人々をよく描くようになっていきました。 ポスター画家として頭角を現す 1880年代、パリのモンマルトルは、娯楽文化の中心地となっていました。 街のあちこちにキャバレーやバー、ダンスホールなどが建ち並び、ロートレックをはじめとした若い画家たちも、煌びやかで華々しい雰囲気に魅了されていったのです。中でも、1889年に開店したムーラン・ルージュと呼ばれるキャバレーは、華やかで大変人気があり、多くの人々が夜な夜なショーを観に集まっており、ロートレックもその観客の一人でした。 画家として絵を描いていたロートレックは、ある日ムーラン・ルージュからポスター制作の依頼を受けます。 当時、画家にとってポスター制作は商業絵画の仕事として見下されていましたが、ロートレックは快く引き受けたそうです。 このポスターをきっかけに、ロートレックの名は広く知れ渡るようになりました。 その後も、ムーラン・ルージュをはじめとしたナイトクラブのポスターをいくつも制作し人気を集め、このころのポスター作品が現在でもロートレックの代表作として多くの人々に親しまれています。 ロートレックは、キャバレーの看板娘であるラ・グールーやジャンヌ・アヴリルなどのダンサーや、キャバレーの舞台裏、客席など、パリ・モンマルトルの夜を彩っていたさまざまな人物やシーンを描き続けました。 アルコール依存や梅毒に苦しみ、若くして死去 パリ・モンマルトルの夜の街に繰り出すとき、常に酒を持ち歩くほどロートレックはアルコールに依存していました。 お酒は、足の障害による痛みや、身体的障害に対する好奇の視線・蔑みなどから逃げるためのものでもあったのではないでしょうか。 1890年代、ポスター画家として人気を博し、経済的に安定した暮らしを送っていたロートレックでしたが、モンマルトルで大量に摂取し続けたアルコールによって身体と精神はボロボロになり、画家としての制作活動は続けていましたが、アルコールが原因と思われる奇怪な行動が目立つようになっていきました。 1897年には、アルコール依存症の中毒症状が出始めたため、心配した友人たちの手によって半強制的に精神病院へ入院することに。入院生活中も、ロートレックを元気づけようと友人が依頼した画集の制作を精力的に行い、39枚のサーカスのポートレイトを描きました。 退院後は、パリに戻りフランス全土を友人とともに旅するようなりましたが、1900年にアルコール依存症や梅毒が原因で、再び体調が悪化。 1901年、パリの自宅を引き払い母のもとへ戻ると、邸宅であるマルロメ城にて両親に見守られる中、脳出血により生涯の幕を閉じました。 ロートレックが描いた作品の特徴 ポスター画家として有名なロートレックですが、初期のころには馬や犬などの動物を描いています。 また、パリ・モンマルトルに出入りするようになってからは、多くの人々で賑わう夜の街で生きる人々を描くようになっていきました。 初期は馬や犬などの動物を多く描いた 画家として絵を学び始めたころのロートレックは、馬や犬などの動物を多く描いていました。 貴族のたしなみとしてのイメージが強い馬に関連したレクリエーションは、伯爵家に生まれたロートレックにとっては身近な存在でした。 また、ロートレックの師匠であるルネ・ブランストーは、動物画家で騎馬像が有名だったため、自然とロートレック初期作品にも馬が多く描かれているのではないでしょうか。 馬と人が一体となり動き出すその瞬間を捉える術をロートレックは身につけており、この素描で表現されている「時をつかむ線」が、その後描いていくダンサーや芸人の特徴を捉えた魅力的な作品を生み出していったといえるでしょう。 パリ・モンマルトルで生きる人々を描く パリに移り住んでからのロートレックは、モンマルトルのキャバレーやカフェによく通うようになり、そこで活躍するダンサーや芸人などショーを彩る人々の舞台上から舞台裏まで、さまざまな表情を描いていきました。 また、ロートレックは、モンマルトルで働く娼婦をモチーフにした作品も多く制作しています。 ロートレックは、娼婦ならではの艶やかな表情やシーンを描くのではなく、働く娼婦たちの普段の生活の様子を描いているのが印象的です。 娼婦の生活を描くために、ロートレックは住み込みで働く娼婦たちと数か月にわたって共同生活を送りました。 この体当たりな制作方法により、娼婦たちの生きる美しい姿を描いた作品がいくつも生まれたのです。 年表:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 西暦 満年齢 できごと 1864 0 南仏アルビにトゥールーズ=ロートレック家の伯爵家に誕生。 1872 8 両親が不仲となり、母親と共にパリに移住。絵を描き始める。 1877 13 左の大腿骨を骨折。 1878 14 右の大腿骨を骨折。これにより脚の成長が停止。 1882 18 パリに出てレオン・ボナの画塾で学び始めるが、画塾が閉鎖。 1885 21 フェルナン・コルモンの画塾に移り、ファン・ゴッホやエミール・ベルナールと出会う。 1891 27 リトグラフ制作を開始し、ポスター『ムーラン・ルージュ』を発表。 1892 28 ポスター『ディヴァン・ジャポネ』を発表。 1893 29 絵画モデルのシュザンヌ・ヴァラドンを画家として支援。 1897 33 アルコール依存や梅毒の影響で健康が悪化。 1901 36 母親のもとへ戻り、ジロンド県で脳出血により死去。 1922 - 死後、アルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立。
2024.08.17
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ジョルジョ・デ・キリコ(1888年-1978年)画家・彫刻家[イタリア]
形而上絵画の創立者「ジョルジョ・デ・キリコ」とは 名前:ジョルジョ・デ・キリコ 生没年:1888年-1978年 ジョルジョ・デ・キリコは、イタリアの画家であり彫刻家で、形而上絵画を創立してのちのシュルレアリスムに大きな影響を与えました。 第一次世界大戦以後は、古典的な手法に興味をもち、新古典主義や新バロック形式を取り入れた作品を多く制作しています。 そのため、シュルレアリスムとして活躍していた画家からは、非難を受けることもあったそうです。 アテネで絵を学びドイツへ移住 キリコは、ギリシアのヴォロスにて、ジェノバ生まれの母とシチリア生まれの父との間に誕生しました。 父のエヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の線路を敷く工事を指揮する技師でもありました。 1900年、キリコはアテネにてギリシャの画家であるジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂのもとで美術を学び、1906年には両親とともにドイツに移り住み、ミュンヘンにある美術学校に入学します。 学校では、思想家であり古典文献学者であるフリードリヒ・ニーチェや、哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアー、オーストリアのユダヤ系哲学者であるオットー・ヴァイニンガーなど、19世紀に活躍したドイツ哲学者たちや、アーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーなどの象徴主義の画家が描いた絵画から大きな影響を受けました。 精神的衰弱になりイタリアへ戻る 1909年の夏、キリコはイタリアへ戻り、イタリア北部に位置するミランで6か月のときを過ごします。 精神的衰弱状態であったキリコは、ニーチェの思想や、ギリシアやイタリアへのノスタルジア、啓示の幻覚などに悩まされながらも、何の変哲もない日常生活と並行して、神秘的かつ不条理な世界観を描いていきました。 1910年には、ミランを発ちフィレンツェに移り住み、ベックリンの作品をベースに最初の形而上絵画となる『Metaphysical Town Square』シリーズを制作。 シリーズの中では、キリコがサンタ・クローチェ聖堂で啓示を受けて描いたとされる『秋の午後の謎』や『時間の謎』、『神託の謎』、『自画像』が有名です。 トリノで形而上学の建築に衝撃を受ける 1911年、パリへ行く途中キリコは、イタリア北部に位置するピエモンテ州の首都であるトリノで数日間過ごします。 キリコは、形而上学と呼ばれるトリノの広場やアーチ状の建築に、大変衝撃を受け心動かされます。 また、トリノはキリコが敬愛するニーチェの故郷でもあったため、さまざまな思いを馳せたことでしょう。 パリに移住した後は、劇作家や作曲家として活動した弟のアンドレアと合流し、弟を通じてサロン・ドートンヌの審査員を務めていたピエール・ラプラドと出会います。 そして、キリコは『午後の謎』『神託の謎』『セルフ・ポートレイト』の3作品を出品しました。 1913年には、サロン・ド・インデペンデントやサロン・ドートンヌなどにも作品を出品し、これがきっかけでピカソやアポリネールがキリコに興味をもち、初めて作品が売れたのです。 1914年、キリコはアポリネールの紹介により画商のポール・ギョームと売買契約を交わしました。 形而上絵画を確立させる 第一次世界大戦が開戦すると、キリコはイタリアへ戻り徴兵されますが、体力不足と判断されフェラーラ病院に配属されました。 配属先の病院では、絵を描く時間が取れたため、空いた時間を使って絵画制作を続けていきました。 配属先では、かつて未来派と呼ばれていたイタリアの画家カルロ・カッラと出会い、2人は自分たちの絵を「形而上的」と呼ぶように。 形而上的とは、つじつまが合わない、納得がいかない、不思議な、などの意味として用いられており、一種の幻想画ともとれるでしょう。 形而上的な絵画には、不自然なほど誇張された遠近表現、非日常的で幻覚のような強い光と影のコントラスト、古代的なモチーフと現代的なモチーフの融合などの特徴があります。 また、現実ではありえないモチーフの組み合わせとすることから、シュルレアリスムの先駆けともなりました。 古典的な手法に回帰する 第一次世界大戦が終わり、1919年ごろにキリコは、イタリアとフランスで発行されている「ヴァローリ・プラスティチ」と呼ばれる美術誌に、「職人への回帰」という記事を出し、古典的な手法と図像学への回帰を発表しました。 キリコは、ラファエルやシニョレッリなどのイタリアの巨匠から影響を受け、古典的な手法により絵画制作を行うようになり、現代美術とは相対するものとなったのです。 1920年のはじめ、フランスの詩人であるアンドレ・ブルトンは、ある日バスに乗っているときに、パリのポール・ギョーム画廊に展示されていたキリコの『子どもの脳』が視界に入り、衝撃を受けて思わずバスを降りてしまったそうです。 また、ブルトンと同じ思想をもつ画家のイヴ・タンギーも、キリコの『子どもの脳』をバスの車窓から見かけてバスを降りてしまったといいます。 タンギーはじめ、キリコの作品に関心をもった多くの若き芸術家たちは、ブルトンを中心にグループを結成し、パリのシュルレアリスムを築き上げていきました。 1924年、キリコがパリを訪れるとシュルレアリスム派の芸術家たちに歓迎されますが、シュルレアリスム派は、1918年以前の形而上絵画を高く評価しており、1919年以降の古典回帰後の作品には批判的でした。 シュルレアリスム派の芸術家たちとは、うまく関係が築けず、パリで開催したキリコの個展で展示した新しい作品たちは、非難の的となってしまったのです。 自己模倣作品を販売し批判を受ける 1939年、ルーベンスの影響を受けていたキリコの作風は、ネオバロック形式に変化していきます。 さまざまな批評に対して怒りをあらわにしていたキリコ自身は、後期作品こそ成熟した素晴らしい作品だと感じていました。 しかし、形而上絵画以降の作品は、それ以上に高い評価を得られませんでした。 キリコは、形而上絵画により得た成功や利益を再び得ようと、過去に描いた自分の作品の模倣を制作し、販売したのです。 自己模倣作品の多くは、公共や民間のコレクションに入っていたため、キリコは非難を浴びることになりました。 1948年、ヴィネツィア・ビエンナーレに贋作を展示したとしてキリコは抗議を受けます。 キリコは、1910年代に描いた形而上絵画のレプリカをたくさん制作し、レプリカには実際の制作年とはずらした過去の年号を書き入れていたそうです。 キリコは頑固で気難しい性格だった? キリコは、頑固で気難しい性格であったといわれています。 「ゴーギャンは画家として偽物」「ダリの不快な色彩には吐き気がする」「セザンヌの風景画は稚拙」「マティスの絵はカタチにすらなっていない」など、同時代に活躍していた有名な芸術家を、痛烈に批判する言葉をいくつも残しているのです。 また、キリコはトラブルメーカーとしても知られています。 昔に描いた自分の作品を自ら否定し価値を下げさせたり、自分の描いた作品を贋作だと主張し、美術館から撤去するよう命じたりと、さまざまなトラブルを起こしていたようです。 独自の世界観にあふれる作品たち キリコ独自の世界観には、不思議な感覚があふれており、理解しようとするほど深い迷宮にはまってしまうような特徴があります。 作品に小さく人間や影が描かれることもありますが、基本的には無機物で構成されており、描かれた空間の静けさが伝わるのが特徴です。 『アリアドネ』は、恋人のテセウスによりナクソス島に捨てられたアリアドネの神話をモチーフに制作されており、当時パリにいたキリコの孤独感を反映しているといわれています。 『愛の歌』では、壁に巨大な彫刻の顔と外科医が使う手袋が貼り付けられ、画面の下側に緑色のボールが描かれています。 背景には蒸気機関車が走る様子が描かれており、関連性のないモチーフが組み合わさり、夢を見ているような感覚になる作品です。 キリコが生み出した形而上絵画とは 形而上絵画とは、空間や時間を意図的にずらして作品を構成する手法です。 キリコの描く作品では、画面の左右で異なる遠近法構造をもっている作品も多く、現実の空間を無視して描かれている背景が、独特で不思議な世界観を生み出しています。 また、彫刻やマネキンなどの異質な静物をモチーフにした作品が多いのも特徴です。 ゲームのパッケージデザインに影響を与えた作品も 1911年にキリコが描いた『無限の郷愁』は、ゲームのパッケージデザインにも影響を与えました。 この作品には、古代ギリシア風の建築物とイタリアでよく見られるモダンな都市が融合した不思議な景観が描かれており、コントラストの大きい影と光により郷愁を感じられます。 作品に描かれている大きな塔は、トリノにあった世界で一番高い博物館モーレ・アントネリアーナから着想を得ています。 塔の下の広場には小さな人と影が描かれており、時間が止まってしまっているかのような静けさを感じられる作品です。 この作品の構成を参考に、ゲームクリエイターの上田文人が制作したゲームのパッケージイラストもあります。 年表:ジョルジョ・デ・キリコ 西暦 満年齢 できごと 1888 0 ギリシャのヴォロスにイタリア人の両親のもとに誕生。 1900 12 アテネの理工科学校に通い、この頃最初の静物画を描く。 1905 17 父エヴァリストが死去。 1907 19 ドイツのミュンヘン美術アカデミーに入学。ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。 1910 22 フィレンツェに移住し、最初の形而上絵画を手がける。 1911 23 パリに移住。 1913 25 パリのアンデパンダン展で注目を浴び、アポリネールと親交を結ぶ。 1915 27 第一次世界大戦中にイタリア軍に召集され、フェッラーラに駐屯。 1917 29 フェッラーラでカルロ・カッラと知り合う。 1919 31 ローマで個展を開くが、美術史家ロベルト・ロンギに酷評される。ジョルジョ・モランディと知り合う。 1920 32 「形而上芸術について」、「技法への帰還」を出版。 1924 36 第14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。 1926 38 パリへ移住し、シュルレアリストたちとの決別を表明。 1929 41 小説『エブドメロス』を出版。 1938 50 イタリアへ帰還し、ローマに短期滞在後ミラノへ移住。 1978 90 ローマで心臓発作のため没。
2024.08.13
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