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ルイーズ・ブルジョワ(1911年-2010年)彫刻家[フランス]

巨大なクモの彫刻で有名な「ルイーズ・ブルジョワ」とは

生没年:1911年-2010年
ルイーズ・ブルジョワは、フランスのパリ出身でアメリカ合衆国を拠点に活動していたインスタレーションアートの彫刻家です。
ルイーズは、パリの郊外でタペストリーの修理工房を経営する家庭で生まれ育ちました。
パリの名門ソルボンヌ大学で数学を学びますが、芸術の道を志すようになりエコール・デ・ボザールをはじめとした複数の美術学校に通います。
その後、20世紀前半に活動したフランスの画家フェルナン・レジェのアシスタントとなりました。
1938年には、アメリカ人の美術史家であるロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住しました。
ブルジョワの作品には、幼いころのできごとからインスピレーションを受けたフェミニズム・アート作品が多いのも特徴です。

生まれてくることを望まれなかった女の子

ブルジョワは、クリスマスの日に生まれましたが、父からは歓迎されなかったといいます。
当時、父のルイが自宅の階下で家族を集めクリスマスパーティを開催しているとき、ブルジョワは産声をあげましたが、母のジョゼフィーヌは、医師から「残念です」と声をかけられたそうです。
それは、死産となり赤ちゃんが亡くなってしまったからではなく、生まれた子どもが女の子であったからです。
タペストリーの修理工房を経営するルイは、男の子の赤ちゃんを待ちわびていました。
しかし、生まれてきた子どもが女の子であったため失望し、クリスマスの家族団らんの時間に重い空気がのしかかったのでした。

第一次世界大戦の衝撃

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、父は徴兵されてすぐに戦地へ駆り出されました。
念願の長男ピエールが生まれ、家庭が落ち着きを取り戻し始めたころであったため、母は再び別の不安が襲ってきたために、ヒステリーを起こすように。
母と子どもたちは、母が生まれ育った地域に疎開し、戦地からの手紙を毎日確認していました。
戦地からの手紙が1日でも途切れると、母はヒステリーを起こしていたそうです。
また、疎開先は、自宅前の道を挟んだ向かい側には屠殺場があり、屠殺される家畜の断末魔が響き、近くの線路からは、深手を負って血まみれになった兵士たちが生死をさまよううめき声が絶えず聞こえてくる環境でした。

精神的に不安定だった母

母は父に依存しており、父がいない状態では不安定な人でした。
父が戦地から無事に戻ってくると、パリ郊外のアントニーに大きな自宅を建築し、タペストリーの修理工場を再開させました。
そこで母は、25人もの従業員をまとめ、一族経営の工場を取り仕切る優れた女性マネージャーとして活躍します。
これまで精神的に不安定だった母は、自信を取り戻し、父は母を「子を産む女」としてではなく、妻として尊重するようになったのでした。

母によって見出された絵の才能

ブルジョワは幼いころよく絵を描いており、その様子をみた母が、タペストリーのためにスケッチをするよう頼みました。
ブルジョワの存在をよく思っていなかった父を見返すチャンスだと思ったブルジョワは、タペストリーの絵の修復の下書きを行うようになりました。
このときブルジョワは10歳で、工場や依頼人からは、脚のスケッチがすばらしいと高い評判を得ていたそうです。
ブルジョワは、市立学校に通いながらも修理工場でスケッチを手伝い、一家の事業に役立てる存在になりました。

横暴な父により虐げられる

父は、横暴で、家族をコントロールし思うままにすることに喜びを感じていたといいます。
たとえば、食卓は毎日一家全員がそろわないと気が済まず、食事中に勝手に話をすると無言でソーサーを投げつけることも。
また、食事が終わったあとは、家族が一人ずつ歌や詩を強制的に披露させられることもあったそうです。
ブルジョワは、このやりたい放題の父親をよく思っていませんでした。

父に対する憎しみを作品で表現

父の横暴な態度に憎しみをもつものの、賢いブルジョワは決して歯向かわず、しかし、別の方法で憂さ晴らしをしていました。
ブルジョワは、父への憎しみが増したとき、白パンを口でぐちゃぐちゃにしたものを粘土の代わりにして、父をかたどった人形を作り、その手足をナイフで切り落としていったそうです。
のちに、この憂さ晴らしの素材はゴムに変わり、ラテックス、銅、大理石と次第に変化していき、『poupée de pain』という作品に昇華されました。

父と愛人に対する憎悪

ブルジョワが11歳になったころ、英語の教師として18歳の女性サディ・ゴードンが自宅にやってきました。
そして、なんと父は母を寝室のベッドから追いやり、サディを寝室に招き入れたといいます。
ブルジョワと7歳しか違わない少女は、父の愛人として生活するのでした。
母は受け入れていましたが、ブルジョワは男性の身勝手さや世間の風評により傷つき、家庭内には不穏な雰囲気が溢れていたそうです。

名門ソルボンヌに入学すると手のひらを返す父

1929年、ブルジョワはパリの名門ソルボンヌ大学に入学します。
すると、あれだけ自分を嘲笑し蔑んできた父が、手のひらを返したようにブルジョワを尊重するようになったのでした。
父は、ブルジョワが姉や弟よりも能力が高かったことに対して、敬意を払ったといいます。
大学に進学したブルジョワは、父の歓心をさらに買うために数学の研究に没頭しました。

芸術の道を進む決意

大学で数学を研究していたブルジョワでしたが、自分が興味をもって進めているわけではない勉学への情熱は少しずつ冷めていき、それと同時にボヘミアンで開放的な雰囲気をもつアートシーンに興味や憧れを抱くようになっていきました。
そして1932年、ブルジョワは芸術学校の名門であるエコール・デ・ボザールに入学しました。
ブルジョワが美術学校に入学すると同時に、父は一家の役に立たない勉強だとして仕送りを打ち切ります。
ブルジョワはルーブル美術館で働きながら学校に通い、稼いだお金で小さなギャラリーを開きました。
のちに、ギャラリーに訪れたアメリカ人学生のロバート・ゴールドウォーターと結婚し、1938年にパリからアメリカに活動拠点を移しました。

亡き母に捧げたクモの彫刻『ママン』

六本木ヒルズに飾られている大きなクモの彫刻を見たことがある人も多いのではないでしょうか。
この彫刻はブルジョワが制作した『ママン』と呼ばれる作品です。
ママンはフランス語で母を意味しており、ブルジョワが亡き母に向けた愛情をクモの姿で表現したといわれています。

本質に突き刺さるメッセージ性

晩年になってもブルジョワは、制作活動を続けて新作を発表し、生涯現役を貫きました。
ブルジョワにとってアートは言語の一種で、コミュニケーション手段の一つでした。
ブルジョワは、作品を通して「私たちはみな一人ではない。共通の要素をもっている」という安心感や帰属意識を、見る者に伝え続けてきたのです。

表現主義でありフェミニスト芸術家でもある

ブルジョワは、感情を大切にする表現主義の芸術家として知られています。
性的なモチーフを取り扱っている作品も多く、背景を知らずに鑑賞した人は、そのインパクトに驚くかもしれません。
西洋美術における写実性や美しさとは、遠く離れた価値観ではありますが、作品には強い感情が込められており、見る者の心を揺さぶります。
また、1982年のニューヨーク近代美術館で開催された回顧展をきっかけに、ブルジョワの作品はジェンダーやフェミニズムの視点からも評価されるようになりました。

ルイーズ・ブルジョワがもつ芸術的感性

ブルジョワは、アートシーンは男性のものであるという感覚があり、男性中心の美術とは距離を置いて、独自の感覚で官能的で触覚的な立体作品を制作するようになったと語っています。
約70年という長い芸術家人生の中で、ブルジョワは絵画やドローイング、彫刻、インスタレーションなど、さまざまなジャンルの芸術を用いて、男性と女性、意識と無意識、受動と能動など、対をなす事象の関係を探求し、作品の中に共存させていきました。

 

年表:ルイーズ・ブルジョワ

西暦 満年齢 できごと
19111225 0 フランス・パリ郊外で生まれる。
1929 18 ソルボンヌ大学で数学を学ぶが、美術の道を志し、エコール・デ・ボザールなどの美術学校で学ぶ。フェルナン・レジェのアシスタントとなる。
1938 27 アメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住。
1982 72 ニューヨーク近代美術館で個展が開催され、再評価される。
1993 81 ヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ館の展示を担当。
1995 83 ドキュメンタリー映画が制作される。
1999 87 高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門を受賞。
2010531 98 心臓発作のため、マンハッタンで亡くなる。
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