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20世紀が生んだ偉大な彫刻家「イサム・ノグチ」とは
生没年:1904年-1988年
イサム・ノグチは、日系アメリカ人アーティストで、彫刻や造園、インテリアデザイナー、舞台芸術などさまざまな分野で活躍した人物です。
特に彫刻作品への探求心が強く、社会における彫刻の役割は何かを常に考え、その在り方を追い求め続けました。
イサムが制作した作品は、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館やニューヨークのイサム・ノグチ美術館などをはじめ、世界中で所蔵されています。
また、イサムは、彫刻を身近な存在として扱っており、作品を間近で体感したり触れたりできるアートスポットも、国内外に多く存在しています。
晩年は、石彫に情熱を注ぎ、周囲の環境と調和した自然彫刻を制作していました。
アメリカで生まれ日本で孤独を味わう
イサム・ノグチは、アメリカのロサンゼルスにて、詩人の野口米次郎とアイルランド系アメリカ人で作家のレオニー・ギルモアの間に誕生しました。
父の米次郎は、18歳のときに渡米して放浪生活を送った後、大学で講師を務めていた詩人を目指すレオニーと知り合い、交流を深めていきます。
21歳のとき、英語で書いた詩文をアメリカの文壇で発表すると、高い評価を受けて詩人として注目を集めるようになり、25歳という若さでニューヨークにおいて一躍有名になりました。
アメリカとイギリスで高い評価を受けた米次郎は、その後日本に帰国します。
しかし、このときすでにレオニーは、米次郎との子・イサムを身ごもっており、父が不在のままアメリカで出産しました。
イサムが3歳になると、レオニーは日本にいる米次郎に会うために2人で日本を訪れますが、すでに米次郎は日本人女性と結婚していました。
レオニーは、イサムとともに正妻のいる家に居候しますが、イサムと住むための家を神奈川県の茅ケ崎に建てて、3か月ほどで米次郎のもとを去ります。
その後、米次郎はレオニーとイサムに会いにくることはなかったそうです。
イサムは、日本の小学校に入学しますが、日本人とアメリカ人のハーフであることで好奇のまなざしを向けられ、いじめを受けることもあったといいます。
イサムは、父との確執や、ハーフであるゆえに日本とアメリカどちらにも帰属できない孤独感を抱え幼少期を過ごしました。
医師と彫刻の勉強を並行する
イサムは、13歳になると全寮制学校へ進学するために単身渡米しました。
入学した学校は、わずか1か月で閉鎖されてしまいますが、イサムはその学校で「木彫りの天才少年」と呼ばれていたそうです。
その後、エドワード・ラムリーが保護者代わりとなり支援を行い、無事に高校を卒業します。
コロンビア大学へ進学し医師を目指す一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間クラスに通い、彫刻家オノリオ・ ルオットロから彫刻を学びました。
彫刻の才能を開花させたイサムは、入学から3か月で個展を開催し、彫刻家としてのキャリアをスタートさせたのでした。
世界各地を旅して得た経験を作品に投影
彫刻家として活動を始めたイサムは、20代でパリへ留学し、彫刻の巨匠と呼ばれるブランクーシと出会い、その後の制作活動に大きな影響をおよぼしました。
その後、日本や中国、イタリアなど世界各地を旅して周り、さまざまな国々で得た体験や技術を自身の作品に反映していきました。
また、第二次世界大戦後の日本において、庭園や伝統技術を見て触れたことは、庭園作品やAKARIシリーズ誕生のきっかけになったといえるでしょう。
イサムは、繊細かつ大胆であり、伝統的な芸術とモダンを融合させた独自の世界観で作品を制作し、唯一無二のアーティストとなりました。
その後も活躍の場を広げ、1982年には芸術へ生涯にわたって貢献した人物へ贈られるエドワード・マクダウェルメダルを受賞しています。
1986年には、日本にて京都芸術賞を、1987年には、アメリカにて国民芸術勲章を、1988年には、再び日本政府から瑞宝章を授かるなど、数多くの賞を受賞しました。
石の声を聞き、心をみる
晩年は、石彫へと制作意欲が回帰していき、安息の地として選んだ香川県の牟礼町では、生涯右腕として活躍する和泉正敏と出会います。
イサムは「石を割る行為は愛と暴力どちらの意味も備えており、また侵入でもある」と語っており、和泉は「山神である石の命をいただく行為」と考えていました。
同じ価値観を共有した2人は、のちにイサム・ノグチ庭園美術館となる場所にて、石彫に没頭していきます。
古代から現代までにいたる東西の彫刻は、石を彫り進めて自分の表現したい形に近づけていくことが一般的でした。
しかし、イサムは自分の主張を石で表現するのではなく、自然石の声を聞き彫り進めていくスタイルを貫いていました。
石本来が持つ要素や性質を活かそうとするイサムの姿勢が作品に反映され、人々を惹きつける唯一無二の作品が生み出されていったといえるでしょう。
イサム・ノグチの代表作
イサムのアトリエは、アメリカのニューヨークと、香川県の牟礼町の2か所にあり、日本でも数多くの名作を残しています。
また、間近に見て触れられるスポットもあるため、イサムの作品を自分の目で見たい方は、各地にあるアートスポットを訪れてみてはいかがでしょうか。
『モエレ沼公園』
札幌市にある観光名所としても有名な『モエレ沼公園』は、イサムが基本設計を手がけたとして有名です。
公園のシンボルであるガラスのピラミッドや、海辺をテーマにしたモエレビーチ、札幌市内を見渡せて夜景がきれいなモエレ山、カラフルな遊具で子どもたちから人気のサクラの森など、見どころが満載です。
子どもも大人も楽しめる公園全体が、イサムの大地の彫刻になっています。
『ブラック・スライド・マントラ』
『ブラック・スライド・マントラ』は、札幌市の大通公園に設置されているすべり台であり、彫刻作品です。
伸びやかな美しいフォルムが印象的で、真っ黒なその姿は圧倒的な存在感があります。
真っ白な雪で覆われる冬景色や、夏場の新緑など、季節に合わせて溶け込むよう、調和が意識された作品です。
イサムは「このすべり台で遊ぶ子どもたちの尻が作品を完成させる」と語っており、普段は子どもがのびのびと楽しめる憩いの場となっています。
『AKARI』シリーズ
『AKARI』シリーズは、岐阜提灯をモチーフにデザインされたランプで、35年にわたって200種類以上も制作しています。
イサムは、この作品を単なる提灯ではなく「光の彫刻」であると考えており、和紙がもたらす柔らかい光や優れたデザイン性は、和洋さまざまなインテリアになじみ、自然に調和します。
年表:イサム・ノグチ
西暦 | 満年齢 | できごと |
1904年11月17日 | 0歳 | ロサンゼルスで日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家レオニー・ギルモアの間に生まれる。 |
1907年 | 3歳 | 母レオニーと共に来日、父米次郎と同居、森村学園付属幼稚園に通園。 |
1918年 | 13歳 | アメリカへ単身渡航、インターラーケン校に入学。後にラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業。 |
1923年 | 18歳 | コロンビア大学(医学部準備過程)に入学し、同時にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間彫刻クラスに通う。 |
1925年 | 20歳 | 日本人舞踏家伊藤道郎の仮面を制作し、初の演劇関連のデザインを手がける。 |
1927年 | 22歳 | グッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事。 |
1930年 | 25歳 | 日本に渡航、京都・奈良などを周遊し、陶芸を学ぶ。 |
1947年 | 42歳 | ジョージ・ネルソンの依頼で『ノグチ・テーブル』をデザイン・制作。 |
1950年 | 45歳 | 再来日し銀座三越で個展を開き、丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。 |
1951年 | 46歳 | 山口淑子と結婚(1956年に離婚)。広島平和記念公園のモニュメントのデザインが選ばれるが、後に選考から外れる。 |
1961年 | 56歳 | ニューヨーク州のロング・アイランド・シティにアトリエを構え、IBM本部に庭園を設計。 |
1968年 | 63歳 | ホイットニー美術館で大々的な回顧展を開催。 |
1984年 | 79歳 | ロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。 |
1986年 | 81歳 | ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出。日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞。 |
1987年 | 82歳 | アメリカにて国民芸術勲章を受章する。 |
1988年12月30日 | 84歳 | 勲三等瑞宝章を受勲。心不全によりニューヨーク大学病院で逝去。 |