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鏑木清方(1878年-1972年)画家[日本]

品格のある美人画で名を広めた鏑木清方。
はじめは挿絵画家として活動を始めたのち、肉筆画の技術も高めていきます。
浮世絵をベースとしたはっきりとした姿や明るい色彩の美人画を手がけていきました。
清方は、繊細な美人画を得意としていましたが、自身が慣れ親しんだ庶民の暮らしや町並み、そこで暮らす人々、文学などさまざまなジャンルの作品も描いています。

美人画の名手「鏑木清方」とは

生没年:1878年-1972年
鏑木清方は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。
93歳で亡くなるまで、生涯絵を描き続けました。
上村松園と並び、美人画の名手として称され、最後の浮世絵師とも呼ばれています。
美人画以外にも、多くの風俗画や文学作品も手がけています。
どこか懐かしさを覚える作品は、庶民から大きな共感を得ました。
また、挿絵画家としても活動しており、泉鏡花や尾崎紅葉などの文豪たちとも親交がありました。

作風に苦悩する日々を送る

鏑木清方は、東京の神田に生まれました。
父の条野栽菊は、やまと新聞や東京日日新聞の創刊に携わった明治初期のジャーナリストです。
下町育ちであることや、父の仕事の関係上、清方は小さなころから噺家や浮世絵師などの文化人とかかわりがありました。
特に縁の深かった噺家・三遊亭円朝の勧めで、13歳のころに無残絵で有名な月岡芳年の弟子である浮世絵師の水野年方の門下となりました。

水野年方は、43歳で亡くなり短命ではありましたが、浮世絵の技術を生かし日本画壇でも高い評価を得ています。
清方は、のちに15歳で年方より「清方」の号を授かります。
年方は、17歳ごろからやまと新聞に掲載されている落語の口述筆記の挿絵画家としてデビューしました。
23歳のころ、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家の泉鏡花の『三枚續』の口絵と装幀を依頼され、清方と鏡花は親交を深めていきます。
これがきっかけで清方自身も文学への造詣を深めていき、随筆集を手がけています。

日本画への興味も高まり、文学から着想を得た日本画を多く制作しました。
25歳ごろには、文芸界で有名な文藝倶楽部の口絵を飾るまでになり、挿絵画家としての土台を固めていきます。
しかし、当時挿絵は、芸術とは認められていませんでした。
浮世絵の地位もさほど高くなかったため、絵画芸術とは何であるかに苦悩する日々を送っていました。

日本画壇で精力的に活動する

鏑木清方は、画壇にて積極的に作品を出展し、精力的な活動を続けていました。
37歳のときには、第9回文部省美術展覧会に『霽れゆく村雨』を出品。
みごと最高賞を受賞しています。

49歳のときには、帝国美術院展へ出品した『築地明石町』が、審査員から高い評価を受けて、帝国美術院賞を受賞しました。
この作品をきっかけに、清方の名が世に広まったといえるでしょう。

52歳のときには、第11回帝展に恩人である噺家を描いた『三遊亭圓朝像』を出品。
この作品は、2003年に重要文化財にも指定されました。
画家として活躍する一方、清方は審査員としても画壇に貢献していました。
41歳のころには、第1回帝展の審査員を、59歳では帝国芸術院会員、68歳で第1回日本美術展覧会の審査員を務めるなど、のちの画家を育てる取り組みにも積極的に参加しています。

鏑木清方の画風

鏑木清方は、気品あふれる美しい美人画が有名ですが、風俗画や文学にかかわる作品も制作していました。
優れた画力をもつ清方の作品は、繊細で美しい描写が魅力的です。

美人画の大家として人気を博す

鏑木清方は、美人画を得意とする画家でもあります。
西洋文化の影響を受け、新しい風俗や絵画表現も取り入れています。
浮世絵に見られる江戸時代の女性美を研究し、独自の風俗美人画を確立させました。
清らかで優美かつ、艶のある品格を備えた美人は、多くの人を魅了しています。
清方は、高い画力を兼ね備えていたため、繊細な筆致で女性の内面を引き出すような描写を実現できたといえるでしょう。

清方は、幼いころから多くの文化人に囲まれて育ったため、充実した教養を受けていたと考えられます。
その教養があったからこそ、洗練された気品のある女性を描けたのではないでしょうか。

地域や文学を題材にした作品も多く手がける

鏑木清方は、美人画だけではなく風俗画や文学を題材とした作品も多く手がけています。
芸術を模索し続ける中で、自分が生まれ育った江戸の下町の町並みや、庶民の暮らし、人情や風情などの日常も描きました。
また、関東大震災以後に失われつつあった明治の町並みを題材にした作品も多く制作しています。
挿絵を担当していたこともあり、文豪の泉鏡花とも親交があり、そこからつながり多くの小説家と交流を重ねていました。
愛読していた樋口一葉をはじめ、文学を取材して手がけた作品も多くあります。

ついに発見!鏑木清方の3部作

鏑木清方は、『築地明石町』を制作したのちに、姉妹作として『新富町』と『浜町河岸』の2作品を発表しており、全3部作として親しまれていました。

『築地明石町』

『築地明石町』は、3部作の中で最初に制作された作品です。
帝国美術院展にて帝国美術院賞を受賞している作品で、清方の名を日本を代表する画家として広めた作品でもあります。
1975年以降、所在がわかっていませんでしたが、2019年に東京国立近代美術館の捜索によって発見され、所蔵されました。

『築地明石町』に描かれている女性のモデルは、清方夫人の女学校時代の友人である江木ませ子です。
背景には、水色のペンキが塗られた洋館の垣根や朝顔が描かれています。
また、着物ではありますが髪をイギリス巻きにしている様子から、明治20年代から30年代の人々の生活の様子が目に浮かぶ作品です。

『新富町』

『新富町』は、『築地明石町』から2年後に描かれた作品です。
前作と同じく美人画で女性の全体像を描いています。
モデルは、つぶし島田の髪型から芸者であると推測できます。
新富町は、関東大震災が発生する以前までは、府内有数の三業地の一つでした。
そのため、町中は歌舞伎小屋があり賑わっていたそうです。

作品に描かれている女性は、雨が降る中、斜めに雨傘を差し、うつむき加減で歩いています。
うなじや雨傘を差す所作からは、上品な色気を感じさせてくれます。

『浜町河岸』

『浜町河岸』には、浜町河岸で暮らしているであろう庶民の娘が描かれています。
娘が扇を手に持っていることから、稽古の帰りの様子を描いたと考えられるでしょう。
銀杏返しの髪型に、白足袋と日和下駄。
振袖の文様はシンプルで町娘にふさわしい雰囲気で描かれている作品です。

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