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後進育成にも努めた日本画家「川端玉章」とは
生没年:1842年-1913年
川端玉章は、明治時代に活躍した日本画家で、自ら作品を制作しながらも東京美術学校の教授を務め、自身の川端画学校を開設するなど、後進の育成にも励んだ人物です。
美術学校の同僚には、狩野派の画家で第一次の帝室技芸員メンバーにも選ばれている、橋本雅邦がいました。
玉章は、繊細な筆使いと、情緒あふれるモチーフを融合させて、新しい日本画の道を切り開いた芸術家として、高く評価されています。
幼いころから絵の巧さを認められていた
玉章は、京都の高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれました。
父は、蒔絵師であり俳諧をしていた芸術家で、幼いころの玉章は、蒔絵を父から教わっていました。
さらに、漢学や国学などの教養も教わり、さまざまな学びを得られる環境にいた玉章は、自然と絵画への道を歩み始めたのです。
11歳のときに、実業家の三井高喜や三井高弘などに絵の巧さを認められ、さらに絵画の基礎を固めて本格的に画家として活動していくために高喜の紹介で、円山派の絵師である中島来章から絵を学んでいきます。
貧しい生活から徐々に頭角を見せ始める
1866年には、レンズ越しに絵を覗いて鑑賞する眼鏡絵 や、錦絵 、新聞の付録などを描くようになり、1867年には江戸に移り住みます。
玉章は、江戸で苦しい生活を続けていましたが、少しずつ画家としての才能を世間に広めていったのでした。
そして、1872年ごろからは、狩野派を学び洋画家となった高橋由一のもとで油絵を学ぶようになり、1877年には第一回内国勧業博覧会で褒状を受け取り、1878年には画塾天真堂を創設しています。
1882年になると、第一回内国絵画共進会にて初入選を果たし、これをきっかけに玉章は才能を開花させていき、1884年の第二回内国絵画共進会では、銅賞を受賞しました。
東京美術学校で円山派の教師として働く
1889年、岡倉 覚三の声かけにより、玉章は東京美術学校の円山派の教師として勤務することに。
1890年には、正式に東京美術学校の教授に就任して教鞭をふるい、1912年までの22年間、写生の授業を受け持ちました。
玉章が、東京美術学校として受け入れられたのは、 覚三がみた両国の大きな書画会において、一番達者に描いていたのは河鍋暁斎でしたが、玉章の作品は図柄が他の画家とは異なり印象に残ったためといわれています。
1881年には、深川に画塾「天眞舎」を開き、そこでも若い画家たちに絵を教えていたそうです。
日本青年絵画協会設立を援助する
1891年には、玉章より一世代若い画家たちによる日本青年絵画協会の設立にあたって、玉章は川辺御楯らに働きかけ、援助しました。
1896年には、優れた美術家や工芸家が任命される帝室技芸員となり、1897年には古社寺保存会委員、1898年には日本美術院会員や文展開設 以来審査員なども務めました。
1910年ごろには、小石川下富坂町に川端画学校を開設し、さまざまな方面から後進の育成を進めていたそうです。
1913年、玉章は発作を起こし、長年悩まされていた中風により息を引き取りました。
中風とは、現在でいう脳血管障害の後遺症を指し、手足のしびれや言語障害、麻痺などが該当します。
日本画だけではなく洋画も描いていた
玉章は、若いころにチャールズ・ワグナーに洋画を学んでおり、日本画だけではなく洋画作品も多く手がけています。
円山派の技法を西洋画に融合させて、新しい写実性を生み出すことに成功しました。
新しいジャンルを確立させた玉章は、晩年には文化絵も研究しており、生涯学びの姿勢をもち、誠実で努力家な人物であったと想像できるでしょう。
川端玉章のライバル橋本雅邦
円山派から絵を学び伝統を重んじていた玉章と同じ時代に東京美術学校で教授を務めていたのが、雅邦です。
玉章と雅邦は、ライバル同士であったと評されており、玉章は円山派の流れを継承し、美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らの育成にあたったのに対して、雅邦は狩野派を受け継ぎ、横山大観や菱田春草ら日本美術院出身の画家を輩出した点で、対照的であるとわかります。
玉章のライバルといわれている雅邦は、狩野派の技法をベースに他流派や西洋画などの技法も柔軟に取り入れ、近代的な新しい日本画スタイルを生み出しました。
山水画や故事人物画などの漢画系のモチーフを得意としており、雄大な山水画は多くの人を魅了しました。
一方、玉章は花鳥山水画や風景画を得意としており、さらに絵を仕上げるのが早かったことでも知られています。
絵を描き始めると終始机に向かって絵を描き続け、その集中力は常軌を逸するとまでいわれていました。
古い伝統だけに固執せず、西洋画の写実技術を学び、新たな日本画のジャンルを築き上げていきました。
川端玉章の弟子たち
玉章は、自ら日本画の新しいスタイルを確立させていくだけではなく、新たに活躍していくであろう若手画家の育成にも努めていました。
東京美術学校で教鞭をとりながらも、同美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らを育成した点も、玉章の大きな功績といえるでしょう。
平福百穂
生没年:1877年-1933年
平福百穂は、玉章の内弟子の一人で、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。
川端塾で絵を学び、塾生の先輩であった結城素明に勧められて東京美術学校にも入学しています。
卒業後は、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を研究し、制作していきました。
1916年ごろからは、中国の南画や画像石や画巻などに関心を示し古典回帰がみられます。
その後、自然主義的写生画と古典を融合させて新たな作品を作り出していきました。
結城素明
生没年:1875年-1957年
結城素明は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。
東京で酒屋を営んでいた森田周助の次男として誕生し、10歳のころに親類の結城彦太郎の養嗣子となりました。
覚三の勧めで玉章の画塾に入門して学びつつ、東京美術学校の日本画科にも入学。
いつも墨斗と手帖をもっており、目に留まったものや気になったものは何でも写生したそうです。
川端玉章の代表作
玉章の代表作の一つが『四時 軍花図』と呼ばれる油彩画で、第一回内国勧業博覧会に出品された作品です。
玉章はいくつも油彩画を制作していたといわれていますが、現存する作品は『四時 軍花図』のみです。
また、ほかにも『唐人お吉』という作品は、人物の半身像という珍しいモチーフを描いた作品で、玉章の手がけた作品の中でも異彩を放っています。
年表:川端玉章
西暦 | 満年齢 | できごと |
1842年4月18日 | 0歳 | 京都高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれる。 |
1853年 | 11歳 | 三井家で丁稚奉公に出て、三井高喜や三井高弘らに絵の才能を認められ、中島来章に入門。 |
1867年 | 25歳 | 江戸に移住する。 |
1872年 | 30歳 | 高橋由一に油絵を学び、三井家の依頼で三囲神社に『狐の嫁入り』扁額を描く。 |
1877年 | 35歳 | 第一回内国勧業博覧会で褒状を受ける。 |
1878年 | 36歳 | 画塾「天真堂」を創設。 |
1879年 | 37歳 | 龍池会設立に関与。 |
1881年 | 39歳 | 深川に画塾「天眞舎」を開く。 |
1882年 | 40歳 | 第一回内国絵画共進会で銅賞を受賞。 |
1884年 | 42歳 | 第二回内国絵画共進会で再び銅賞を受賞。 |
1890年 | 48歳 | 東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、主に写生を担当。 |
1891年 | 49歳 | 日本青年絵画協会設立を援助。事務所を自邸に置く。 |
1896年 | 54歳 | 帝室技芸員に任命される。 |
1897年 | 55歳 | 古社寺保存会委員に任命される。 |
1898年 | 56歳 | 日本美術院会員に選出され、文展開設以来の審査員を務める。 |
1909年 | 67歳 | 小石川下富坂町に川端画学校を開設。 |
1913年2月14日 | 70歳 | 中風のため死去。東京都港区高輪2丁目と、東京芸術大学中庭に顕彰碑が建てられる。 |