-
鈴木長吉(1848年-1919年)金工師[日本]
生きているかのような『十二の鷹』を作った「鈴木長吉」とは 生没年:1848年-1919年 鈴木長吉は、日本の金工技術を海外に広め、人気を高めた金工師の名工です。 日本の工芸品を積極的に海外へ輸出し、伝統的な美と技術を広めるとともに、日本の発展にも寄与しました。 18歳で独立し江戸で開業する 現在の埼玉県坂戸市である武蔵国入間郡石井村で生まれた長吉は、比企郡松山を代表する岡野東流斎から蝋型鋳金を5年間学んでいます。 鋳金とは、高熱で溶かした金属を鋳型に流し込んで、鋳型の空間にあわせて形を作る技法で、鋳型を蝋で製作するのが蝋型鋳金です。 その後、18歳で鋳物職人として独立を果たし、江戸で開業しました。 1874年には、明治政府が西洋諸国に対抗するために始めた政策の一つ殖産興業の一環として、日本の工芸品を西洋へ積極的に輸出する取り組みが動き始めました。 長吉は、輸出を目的に設立された起立工商会社の鋳造部監督を務め、2年後には工長となり、退社する1882年までの間、多くの大作を手がけて国内外の博覧会へ出展を行い、高い評価を得ています。 明治のはじめごろは、まだ機械工業が未発達であったため、高い技術によって作られた精巧な工芸品は、日本にとって貴重な外貨取得手段でした。 また、幕府解体により廃刀令や廃仏毀釈が出された影響で、職を失いつつあった当時の金工家にとって、工芸品を輸出する目的で設立された数々の企業は、生計を立てるための貴重な仕事場でした。 西洋人好みの作品を製作する 長吉は、西洋事情に詳しい日本の美術商・林忠正の監修のもと、西洋人好みの作品を製作していきました。 その一つが『十二の鷹』で、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品された全作品の中で最も高い評価を得た作品の一つです。 また、同じ博覧会に出品された『鷲置物』は、2001年に重要文化財に指定されました。 長吉自身は、1896年に高い技術力が国に認められ、鋳金家として帝室技芸員に任命されました。 機械工業の発達により工芸品製作は下火に 日本の工芸品を製作する職人たちが活躍していく中、明治後期に入ると日本の機械工業が日に日に発達していき、手間や時間のかかる工芸品の製作は、下火になっていきました。 また、日本の工芸品が粗製乱造や過度な西洋趣味に偏ってしまっていたことも相まって、工芸品に対する評価が落ちてしまっていたのでした。 精緻かつ写実的で美しい装飾を大量に施す長吉のスタイルは、アール・ヌーヴォーの盛り上がりが収まっていくにつれて時代の流行とマッチしなくなっていきます。 晩年、長吉は養子を迎えて金剛砥石業に転職し、1919年、腎臓病にて自宅で亡くなりました。 高い技術と才能が認められて帝室技芸員にまでのぼりつめた、工芸界にとって重要な人物ではありますが、晩年の詳しい活動は明らかになっていません。 鈴木長吉の代表作 長吉は、数々の名作を残しており、展覧会にて受賞歴のある作品も多数存在します。 『十二の鷹』 『十二の鷹』は、1893年に製作されており、長吉はこの作品を製作するために実際に鷹を飼い、写生を繰り返して製作までに3年の月日を費やしたそうです。 江戸時代に発展した卓越した金工技術を用い、さまざまな姿の鷹をまるで生きているかのように表現しています。 『十二の鷹』は、1893年のシカゴ万博に出品され、紀念賞を受賞しました。 徳川幕府の時代、鷹が生息する48の地域から若い鷹を60羽近く集め、その中から将軍の鷹狩りのために選りすぐりの12羽を選定する儀式があり、その儀式にちなみ12羽の鷹が製作されました。 『孔雀大香炉』 『孔雀大香炉』は、1876年から1877年にかけて製作され、1878年のパリ万国博覧会に出展し、金賞を受賞しています。 構想は、フィラデルフィア万国博覧会の直後から練られ、渡辺省亭や山本光一に図案を作成してもらい、若井兼三郎が構図を作成、長吉が鋳造を担いました。 製作当初は、香炉の上に鳩が5羽いたそうです。 アール・ヌーヴォーの名を生み出した美術商のサミュエル・ビングは、この作品を「アーティストの手になる最も優れたブロンズ作品」と褒め称えました。 ヴィクトリア&アルバート博物館は、多額の予算を投じてビングから作品を購入し、現在博物館に所蔵されています。 『青銅鷲置物』 『青銅鷲置物』は、図案を山本光一が手がけ、鋳造を長吉が担当した作品で、1885年にニュルンベルク府バイエルン工業博物館にて開催された金工万国博覧会で金賞牌を授かり、博物館長が作品の美しさに驚き、会場で一番目立つ円形広間に移動させたそうです。 『水晶置物』 『水晶置物』は、1876年に御嶽山で採取された水晶玉の原石を用いて作られた作品で、第2回内国勧業博覧会に出品されました。 1893年に、美術館が水晶玉の寄贈を受けると、その後水晶にあわせてカスタムメイドの台座の製作を山中商会に依頼し、1500ドルが支払われたそうです。 『銅鷲置物』 『銅鷲置物』は、1893年に製作された作品で、岩上から獲物を狙う鷲の姿を写実的に表現した青銅製の置物です。 羽の一本一本が精密に作られており、足の肌合いまでもが本物のように表現されています。 鷲は、頭部・胴部・両翼・脚部を蝋型鋳造で作って接合し、接合部はたがねやのみを使って整えてあります。 鷲本体は黒褐色で、くちばしと爪は茶褐色で表現され、両目の眼球は彫った溝に純金を埋め込む金象嵌の技法が施されているのが特徴です。 年表:鈴木長吉 西暦 満年齢 できごと 1848年9月12日 0歳 武蔵国入間郡石井村(現在の埼玉県坂戸市)で生まれる。 1866年 18歳 岡野東流斎に蝋型鋳金を学び、独立して江戸で開業。 1874年 26歳 起立工商会社の鋳造部監督に就任。 1876年 28歳 『孔雀大香炉』を制作。フィラデルフィア万国博覧会に出品。 1882年 34歳 起立工商会社を退社。 1885年 37歳 『青銅鷲置物』でニュルンベルク府バイエルン工業博物館の金工万国博覧会で金賞を受賞。 1893年 45歳 『十二の鷹』『鷲置物』をシカゴ万国博覧会に出品。『十二の鷹』は高い評価を受ける。 1894年 46歳 『百寿花瓶』を制作。 1896年 48歳 帝室技芸員に任命される。 1899年 51歳 『岩上双虎ノ図置物』を制作し、翌年のパリ万国博覧会に出品。 1903年 55歳 『水晶置物』を制作。ボストン美術館に収蔵。 1919年1月29日 72歳 東京の自宅にて、腎臓病のため逝去。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
木谷千種(1895年-1947年)日本画家[日本]
大阪を拠点に活躍した「木谷千種」とは 生没年:1895年-1947年 木谷千種は、大正から昭和にかけて活躍した女性日本画家です。 大阪をメインに活躍した人物で、島成園や松本華羊、岡本更園などとも交流があります。 当時の女性としては珍しく、渡米して洋画を学んでいますが、自身の作品では、歌舞伎や人形浄瑠璃など、日本の伝統芸能や伝統行事に焦点を当てた作品を多く残しています。 結婚後は、家事や子育てをしながらも、精力的に絵を描き、発表し続けました。 12歳で渡米しシアトルで洋画を学ぶ 千種は、大阪府大阪市北区堂島にて、外国の商品や西洋の衣料・雑貨をメインに扱う唐物雑貨商を経営する吉岡政二郎の娘として誕生しました。 本名は吉岡英子で、幼いころに母を失っています。 12歳になると、渡米してシアトルで2年間洋画を学び、1909年に帰国した後は、大阪府立清水谷高等女学校に通います。 在学中から日本画家の深田直城に師事し、花鳥画を学びました。 深田は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家で、京都にて四条派を学び、その流れをもつ大阪の船場派で絵を描き続けるとともに、後進の育成にも貢献した人物です。 その後、千種は1909年に発生した大阪府大阪市で発生した大きな火事・北の大火により、自宅を焼失してしまいます。 東京移住後は池田園に師事する 千種は、女学校卒業間近にして東京に移住し、1913年から約2年間、女性日本画家の池田蕉園に師事しました。 蕉園は、明治から大正にかけて活躍した女性浮世絵師であり日本画家で、東京で最も人気のある美人画の描き手であったといわれています。 上村松園とともに女性美人画家の双璧といわれていましたが、31歳と若くして亡くなっています。 第6回文展で初入選を果たす 1912年、千種は、吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し、見事初入選を果たしています。 1915年には、大阪に戻り、池田室町に住んでいた叔父で東京テアトル創業者の吉岡重三郎のもとで一時的にお世話になることに。 叔父は、阪急東宝グループの創業者である小林一三を支援し、宝塚歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに力を入れた人物で、千種はこのようなモダンな環境にて絵画の制作活動を本格化させていきました。 大阪では、日本画家の野田九浦や浮世絵師であり日本画家の北野恒富などから、美人画を中心に学び、第1回大阪美術展覧会には『新居』を出品しました。 大阪で「女四人の会」を結成 女性日本画家の先駆けである大阪出身の島成園が、21歳という若さで第7回文展で入選を果たし、前年にも『宗右衛門町の夕』で初入選を果たしていたことから、若い女性画家が注目を集めていました。 また成園の活躍は、同世代の大阪の女性日本画家にとって大きな刺激となり、女性が職業画家を目指して大阪に集まる現象が起きていたそうです。 その中で、同じ時代に文展でそれぞれ入選し活躍していた千種、成園、華羊、更園が集まり、1916年に「女四人の会」が結成されました。 女四人の会は、浮世草子の井原西鶴が作った『好色五人女』をテーマに大阪で展覧会を開催しました。 千種は、1915年の第9回文展で入選した『針供養』や1918年の第12回文展入選作品の『をんごく』などを発表して注目を集め、のちに文展無鑑査決定を得ています。 その後、1918年に千種は、住まいを京都に移し、翌年から近代日本画家の先駆者といわれている竹内栖鳳の紹介により、菊池契月から絵を学んでいます。 千種は、同門である梶原緋佐子、和気春光とともに、「契月塾の三閨秀」と称されました。 -島成園 生没年:1892年-1970年 成園は、大阪堺に生まれ育ち、大阪を中心に活躍した女性日本画家です。 弱冠20歳にして、第6回文展に入選し、翌年の第7回文展でも入選するなど、若くして頭角を現し、美人画の領域を超えた衝撃的な作品を多く描き注目を集めていました。 成園が同世代の女性画家に与えた影響は大きく、多くの女性画家が大阪に集まり、近代大阪で一大勢力を形成しました。 -松本華羊 生没年:1893年-? 華羊は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家で、1913年に第13回巽画会展で入選を果たし画壇デビューすると、『ばらのとげ』、『池のほとり』、『都の春』など次々に新作を発表します。 1915年に大阪へ移り住み、第9回文展では『青葉の笛』が入選し、創作グループ「女四人の会」のメンバーとなり、さらに活躍の場を広げていきました。 1916年ごろからは、日本画と並行して洋画や彫塑などにも挑戦するようになり、1917年には泥人形展覧会を開催しています。 -岡本更園 生没年:1895年-? 更園は、日本画家の鏑木清方、西山翠嶂の門下であり、大正から昭和にかけて活躍した大阪の女性日本画家です。 はじめは、義理の兄である岡本大更の更彩画塾にて日本画を学び、その後「女四人の会」を結成して活躍の場を広げていきました。 美人画が得意で、新聞や雑誌の挿絵などの制作活動も行っていました。 結婚後は文楽や歌舞伎なども描く 1920年、千種は、近松門左衛門を研究している木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に戻ります。 結婚後は、これまで注目を集めてきた美人画だけではなく、文学や歌舞伎をテーマにした作品も多く描くようになりました。 1925年には、第6回帝展に『眉の名残』を出品して入選、1926年の第7回帝展では『浄瑠璃船』が入選、1929年の第10回帝展では『祇園町の雪』が入選するなど、目覚ましい活躍を見せていました。 女性をモチーフにした作品の発表を続け、帝展ではあわせて12回も入選を果たしています。 また、夫の蓬吟が書いた『解説註釈大近松全集』の装丁や、蓬吟が編集と発行を務めた郷土趣味雑誌『大阪人』の表紙絵を描くなど、結婚後は夫の仕事も支えていました。 若手女流画家の育成にも力を入れた 千種は、自ら精力的に優れた作品を制作し続けるだけではなく、後進の育成にも力を入れていました。 大阪の自宅を利用して「八千草会」や「千種会」などを開き、若手女性画家たちの育成を行っています。 指導だけではなく、地位を向上させるべく、千種会展や大阪女流展などを開催し、弟子たちに作品を発表する機会を与えました。 千種自身も、自らの作品を展覧会に出品しています。 1947年、女性画家として活躍し、後進の育成にも努めた千種は、大阪府南河内郡にて51歳で亡くなりました。 年表:木谷千種 西暦 満年齢 できごと 1895年2月17日 0 大阪府大阪市北区堂島で唐物雑貨商の吉岡政二郎の娘として生まれる。本名は吉岡英子。 1907年 12 渡米し、シアトルで2年間洋画を学ぶ。 1909年 14 帰国後、大阪府立清水谷高等女学校在学中に深田直城に師事し、花鳥画を学び始める。同年、北の大火で自宅を焼失。 1912年 17 吉岡千種の名前で第6回文展に『花譜』を出品し初入選。 1913年 18 東京に移住し、日本画家の池田蕉園に師事する。 1915年 20 再び関西に戻り、叔父の吉岡重三郎の元に寄寓。野田九浦や北野恒富の指導を受ける。大阪美術展覧会に『新居』を出品。 1916年 21 島成園、松本華羊、岡本更園と共に「女四人の会」を結成し、『好色五人女』を題材にした展覧会を大阪で開催。 1918年 23 京都に転居し、竹内栖鳳の紹介で菊池契月に師事。「契月塾の三閨秀」の一人と称される。 1920年4月 25 近松門左衛門研究家の木谷蓬吟と結婚し、再び大阪に帰阪。文楽や歌舞伎を題材にした作品を多く手掛けるようになる。 1925年 30 第6回帝展に『眉の名残』を出品し入選。 1926年 31 第7回帝展に『浄瑠璃船』を出品し入選。 1929年 34 第10回帝展に『祇園町の雪』を出品し入選。 1930年代 35-40 文展、帝展に通算12回の入選を果たす。 1930年代 35-40 夫の著作『解説註釈大近松全集』の装丁や雑誌『大阪人』の表紙絵を手掛け、夫を支援。 1940年代 45-50 自宅に画塾「八千草会」や「千種会」を設立し、女流画家の育成に尽力。千種会展や大阪女流展を開催。 1947年1月24日 51 大阪府南河内郡にて死去。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
モーリス・ユトリロ(1883年-1955年)画家[フランス]
白の画家と呼ばれた「モーリス・ユトリロ」とは 生没年:1883年-1955年 モーリス・ユトリロとは、近代のフランス画家で、数少ないモンマルトル出身の芸術家です。 ユトリロは、素朴な都市の風景画を描く画家として知られており、パリのモンマルトル地区近郊の曲がりくねった道や路地の風景を好んで描いていました。 父が誰であるかはっきりとはわかっていませんが、ボワシーと呼ばれる若いアマチュア画家や、有名画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワールであるともいわれています。 母はアートモデルで画家志向だった ユトリロは、パリ・モンマルトルの丘のふもとにあるポトー街8番地にて、シュザンヌ・ヴァラドンの子として生まれました。 母のヴァラドンは、ブランコの転落事故によりサーカス曲芸師をやめ、アートモデルに転向すると、ルノワールやベルト・モリゾ、アンリ・ド・トゥールズ・ロートレックなどのモデルを務めながら、自身も画家を志し絵画を学んでいました。 ユトリロは、身体が弱く情緒不安定でしたが、ヴァラドンは自身の母マドレーヌに育児を任せていたのです。 ユトリロは、学校に通うようになってからもあまり周囲となじめず転校を繰り返しています。 その後、ヴァラドンはポール・ムージスと暮らしはじめ、自宅にアトリエを構えると絵画により専念していきました。 ムージスと結婚し生活が安定すると、ユトリロは私立学校の寄宿舎に預けられ、その後オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を取得しました。 パリの中学第五学級には、ピエールフィットの祖母の家から通い、優秀な成績をおさめていましたが、最高学年で問題を何度も引き起こし退学となっています。 若くしてアルコール依存症に陥る 祖母のマドレーヌは、大のお酒好きで、ワインは健康によいと信じており、ユトリロも中学生のころからワインを飲んでいたそうです。 少年時代からの飲酒経験が、アルコール依存症を引き起こしたといえるでしょう。 1900年、ムージスの紹介で臨時雇いの外交員として働いていたユトリロですが、4カ月ほどでやめています。 ほかの仕事も長続きせず、ユトリロの気難しい性格や激情、アルコール依存症などの影響により暴力が増え、1901年に一家は、サルセルに移り住むことになりました。 しかし、ユトリロのアルコール依存は、悪化する一方で、モンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住みつくようになりました。 このころから水彩画を描くようになり、治療を担当していた医師は、興味をもったことはやりたいようにやらせるよう勧めたため、ユトリロはすぐに芸術的才能を開花させます。 しかし、アルコール依存症の症状は一向に改善されず、ムージスはユトリロを精神病院に入院させてしまいます。 その後、症状の改善がみられるようになってきたユトリロは、モンマニーへ戻り、モンマルトル周辺を拠点に絵を描き始めました。 モーリス・ユトリロが活躍した白の時代 ユトリロが、白い壁が印象的な建築物や壁そのものをモチーフにした絵を描いていた時代を「白の時代」といいます。 1908年ごろからの約6年間を指しており、ユトリロの生涯の中で最も傑作が多いと、高く評価されている時代です。 - 画商で最初の買い手はルイ・リボート 少しずつ絵を描くようになっていったユトリロの作品を、最初に購入してくれた画商がルイ・リボートです。 ユトリロは、購入してくれる人であれば誰にでも絵画を売っていましたが、画商として購入する人は、いままでいませんでした。 1909年、ユトリロは、サロン・ドートンヌに2点の作品を初めて出品しました。 このうちの一作品が、ユトリロの代表作といわれる『ノートルダム橋』です。 同年、ヴァラドンとムージスは破局し、ユトリロとヴァラドンらは、モンマニーにあるパンソンの丘の館に移り住みました。 - モンマニーに移り住み経済的困難に陥る モンマニーに移り住んでからの一家は、誰も十分な収入を得ていなかったため経済的困難な状況に直面しました。 一時、ユトリロが石膏採掘場にて働き始めますが、大勢の前で大暴れし警察沙汰となってしまいました。 時間にゆとりのあったユトリロは、絵を描いて売ろうともしており、才能を認めていた画商リボードは、モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品を購入し、転売に成功して利益を得ています。 そのような中でも、ユトリロはアルコール依存症の影響で、泥酔した際に猥褻の罪にて起訴され、罰金刑を受けています。 ある日、ユトリロは、セザール・ゲイという一人の元警察官と出会い、ゲイが所有し、マリー・ヴィズィエが経営している「ベル・ガブリエル」によく出入りするようになりました。 飲食だけではなく、店の奥で絵を描くことを許可してもらい、完成した絵をゲイが自分の店のホールに飾るようになると、多くの人から高い評価を受けて、芸術家としてのユトリロの名は、モンマルトル一帯に知れ渡るようになっていったのです。 - ユトリロの絵画の価値が急上昇していく 1912年、ユトリロの絵画の価値が急上昇していることを知ったリボードは、専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬をユトリロに支払うように。 一家は経済的に安定しましたが、ヴァラドンらはユトリロの絵画に利益を見出そうとし、リボードと対立するようになりました。 そのような中、4月末から5月のはじめにかけてユトリロの健康状態は悪化していき、美術批評家のアドルフ・タバランが、リボードに病院へ入れるよう促しましたが、リボードはそれを拒否。 リボードとヴァラドンの関係はさらに悪化しますが、最終的にリボードはユトリロの入院費を支払うことになりました。 入院中、ユトリロは外出を許可され、ルヴェルテガ博士の勧めにより多くの絵を描きました。 治療の効果が見え始め、一家の友人であるリッシュモン・ショドワの提案により、ブルターニュのウェサン島で2カ月以上を過ごします。 ユトリロは休暇中も絵を描きますが、リボードから1カ月に6枚以上は描かないというルールを設けられており、それに従い12枚以下の風景画と2点の小さなカルトンしか描かなかったそうです。 - 入院生活を送りながらサロンへ出品 パリに戻ったユトリロは、サロン・ドートンヌに『サノワの通り』と『コンケの通り』の2点を出品しますが、12月に再び健康状態が悪化し、再入院します。 1913年の大半を病院で過ごす一方、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにもユトリロの作品が出品されました。 その後、ユトリロは家族とともにコルシカ島に向かい、コルシカ高地のベルゴデールで過ごし、20点ほどの作品を描きました。 - 治療をしながらも絵を描き続ける コルシカ島から戻ってきた直後に、ユトリロは、ヴァラドンの紹介により画商のマルセイユと出会います。 マルセイユは、リボードとは異なりユトリロにとって好条件な契約を提案し、ユトリロはすぐに契約を交わしました。 収入を得たユトリロは、モンマルトルの丘の酒場を回るようになり、結果的にルヴェルテガ博士の診療所で再び治療を受けることになってしまいます。 治療後は、後軍隊に志願しますが、医学的理由で兵役を免除されてしまい、ユトリロはまた酒場に入り浸るようになっていきました。 この時代に描かれた作品は、数百点にのぼり、白を基調としていたことから白の時代と呼ばれるようになりました。 色彩の時代への移行 白の時代のあと、ユトリロの作風は、黒い輪郭線で空間を構成し、幾何学化によりモチーフ同士のバランスを保つような色彩の時代に移っていきました。 ユトリロは、ゲイの店の奥を借り、色彩の調和を探求していきました。 1915年ごろからは、1年中絵を描きながら酒を飲み続け、騒ぎを起こすようになったため、再び病院へ入院するようになり10カ月以上も監禁生活を送ることに。 退院後の1917年、ベルナイム=ジュヌの画廊で開催されたグループ展では、数枚の作品を出品し、高く評価されるようになっていきました。 モーリス・ユトリロの作風 ユトリロの描く風景画には、独特の哀愁があり多くの人の心を惹きつけました。 精神的に不安定で、生涯アルコール依存症に悩まされ続けたユトリロが描く作品は、どこか不安げな雰囲気のある建築物が印象的です。 白の画家の由来となる白を多用 白の時代と呼ばれるユトリロ初期の作品には、色彩があまりなく、白をベースとした風景画が多いのが特徴です。 これは、ユトリロの心の中に、生まれ故郷であるモンマルトルの風景が強く残っているからと考えられるでしょう。 モンマルトルには、レンガや漆喰の階段が多くあり、ユトリロは幼いころからその町中を遊びまわっていたそうです。 そのため、白は、ユトリロにとって身近な色であり、大切な思い出の色でもあるのかもしれません。 温かみのある色彩による表現 白の時代が終わり、アルコール依存症と精神的な不安定さに回復の兆しがみられたころ、ユトリロの作風は、変化していきました。 心の状態を表すかのように、温かみのある色彩で満ちた作品を描くようになりましたが、晩年に近づくにつれ、再び精神的に不安定な状態に陥り、生活は荒廃していきました。 しかし、色彩への探求心はもち続け、絵画の制作には打ち込み続けます。 そして、現在でも高く評価されるような作品を数多く残しました。 年表:モーリス・ユトリロ 西暦 満年齢 できごと 1883年12月26日 0 パリ・モンマルトルのポトー街8番地でシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。 1890年頃 7 スペイン人画家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスに認知され、「モーリス・ユトリロ」と改姓。 1894年頃 11 精神病のため母シュザンヌに病院へ連れて行かれる。 1896年 13 母シュザンヌがポール・ムージスと結婚し、モンマニーに転居。ユトリロはピエールフィットのモランという私立小学校に預けられる。 1900年2月 17 ムージスの紹介で外交員として短期間の職を得るが、4か月で辞職。 1901年 18 アルコール依存症の悪化により、サルセルに転居。 1902年 19 モンマルトルのコルトー街2番地に住み着き、水彩画を描き始める。 1904年初頭 21 サン=タンヌ精神病院に入院し、症状の改善を見せる。 1905年頃 22 『モンマニー風景』などの作品を制作。 1906年 23 『屋根』を制作。 1907-1908年 24-25 シスレーの回顧展の影響を受け、画面の奥行きや堅牢さを追求。 1909年春 26 ルイ・リボートが画商となり、ユトリロの作品が初めて展覧会に出品される。 1909年 26 サロン・ドートンヌに出品。ヴァラドンとムージスが破局。モンマニーに移住。 1911年 28 ユトリロが泥酔して起訴され、罰金刑を受ける。 1912年 29 リボードとの専属契約を交わし、経済的安定を得る。ドリュエ画廊で6点の作品を展示。 1913年 30 ウジェーヌ・ブロ画廊で初の個展を開催。展示会は失敗し、ユトリロの多作が原因とされる。 1914年 31 コルシカ島に出発し、20点ほどの作品を制作。 1915年-1916年 32-33 第一次世界大戦中、フランスの軍需工場で働く。 1917年 34 リボードとの契約が終了し、経済的に困窮。 1920年 37 「白の時代」の作品が評価され、商業的に成功を収める。 1930年 47 サロン・ドートンヌで大規模な回顧展を開催。 1950年 67 フランス政府から芸術家としての評価を受け、名誉ある賞を受賞。 1955年11月5日 71 死去。モンマルトルの墓地に埋葬される。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 世界の美術家・芸術家
-
アルフォンス・ミュシャ(1860年-1939年)画家[チェコ]
アール・ヌーヴォーの旗手「アルフォンス・ミュシャ」とは 生没年:1860年-1939年 アルフォンス・ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表する画家で、装飾パネルやポスター、カレンダーなどを多く制作しています。 星や宝石、草花などのさまざまな概念を、女性の姿で表現するスタイルが特徴的で、華麗な曲線美が魅力の一つです。 幼いころは音楽も好きだった ミュシャは、オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェという小さな村で、裁判所の官吏の子として生まれました。 大変謙虚で倹約家であった家族の元に誕生し、母は製粉業者の娘でした。 ミュシャは、幼いころからドローイングの才能を発揮しており、ミュシャの絵をみた地元の商人が大変感銘を受け、当時まだ絵を描くための紙は、ぜいたく品であったにもかかわらず、無料で分け与えてくれるほどだったそうです。 また、幼いころのミュシャは、音楽にも関心を寄せており、1871年には、ブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に参加し、熱心な信仰者となりました。 のちにミュシャは、「絵画の概念と教会へ通うことと音楽は密接に関係していて、音楽が好きだから教会に通っているのか、教会が好きで音楽も好きになったのかはっきりとはわからない」と語っています。 プラハの美術アカデミーに入学を拒否される 1878年、18歳になったミュシャは、プラハの美術アカデミーに入学を希望しましたが、学校側からほかに君にふさわしい職業を探しなさいと入学を拒否され、書類審査で落選してしまいます。 1880年、19歳でオーストリアのウィーンへ向かうと、ウィーン劇場で舞台装飾の仕事を担っているカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房の求人広告を発見し、見習いとして働くことに。 ウィーン滞在中は、美術館や教会、宮殿、劇場などに通い、特に仕事の得意先が劇場であることから、工房の師匠からチケットをよくもらい、無料で鑑賞していたそうです。 また、ミュシャは工房で働きながら、夜間は絵画教室に通い、デッサンを学ぶ日々を過ごしていました。 この時期にミュシャは、ウィーンで人気を集めていたアカデミックな画家ハンス・マカルトから大きな影響を受けています。 マカルトは、ウィーンにある宮殿や政府の建築物の壁に大きな壁画を描いたり、壮大な形式で歴史画や肖像画を描いたりする巨匠として知られていました。 この芸術様式に影響を受け、ミュシャはその後方向性を変え、制作する作品に大きな影響を与えていったのでした。 工房の得意先が焼失して失業する 1881年の終わりごろ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまい、ミュシャは仕事を失ってしまいます。 失業したミュシャは、モラヴィアの南部にある国境の町ミクロフへ行き、フリーで装飾芸術や肖像画を描き、墓石に刻む文字制作などを行い、生計を立てるようになりました。 ミュシャの作品の評判は、徐々に高まっていき、地主であるエドゥアルド・クエン・ベラシから、邸宅であるエマホフ城の壁画シリーズの制作を依頼されます。 その後、ガンデック・カーストのチロルにある先祖代々受け継がれてきた家に飾る絵画制作の依頼も受けました。 当時すでに神話をモチーフにした女性の形態や青々と美しい草花の装飾画を描き、才能を発揮していました。 ベラシ自身もアマチュアの画家であったことから、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノでの美術鑑賞にミュシャを連れていったり、バイエルンで有名なロマンティシズム画家のウィルヘルム・クレイをはじめとした多くの芸術家たちにミュシャを紹介したり、さまざまなサポートをします。 伯爵の後押しを受けてミュンヘン美術大学に入学 1885年、 エゴンはアカデミックな芸術教育をミュシャに受けさせるために、ミュンヘン大学への入学を勧め、授業料と生活費を支援するパトロンとなりました。 大学では、ドイツの画家であるルートヴィヒ・ヘルテリッヒやルートヴィヒ・フォン・レフツ教授などから絵を学び、デッサン技術を着実に身につけていきます。 移住制限によりパリへ移り住む ミュシャは、チェコの学生クラブを創設し、プラハの民族主義的出版物をはじめとした政治的なイラストを掲載していました。 ミュンヘンの芸術性にあふれた環境を満喫していたミュシャでしたが、長居できるものではないと悟っていました。 当時、ババリン当局が外国人学生や居住者に対して、移住を制限する政策を打ち出しており、 ブラシはミュシャにローマかパリに移動するよう提案し、ミュシャは ブラシからの支援を受けながら1887年にパリへ移り住みます。 パリで入学した2つの学校で異なるスタイルを学ぶ パリへ移住したミュシャは、アカデミー・ジュリアンで学んだあと、アカデミー・コロラッシにも通っています。 1889年の終わりごろ、ミュシャが30歳になると、 ブラシはミュシャが十分な美術教育を受けられたとして、奨学金を打ち切る決断を下しました。 打ち切りの理由は明かされていませんが、いつまでも ブラシに頼って学生生活を続け、画家として独立を考えないミュシャに対して、自立を促すためであったと考えられています。 ミュシャは、突然パリで極貧状態となり、住む場所にも困っていたため、大規模な スラヴ共同体のサポートを行っている避難所を発見し利用します。 その後、ミュシャは、グランド・ショミエール13通りにある、クレムリと呼ばれる寄宿舎に住みました。 イラストレーションで高く評価される ミュシャは、ミュンヘン出身のチェコの画家ルーデック・マロルドが、パリで雑誌のイラストレーションを手がけ成功したことを知り、同じ道を歩もうと考えます。 1890年と1891年に、ミュシャは毎週小説を掲載している人気週刊誌「ラ・ヴィー」で、イラストレーションの仕事をスタートさせました。 ミュシャがイラストを担当したのは、ギ・ド・モーパッサンの小説『ユースレス・ビューティ』で、1890年5月22版にて表紙になっています。 そのほかにも、若者向けの物語を雑誌や本で出版しているル・プティ・フランセ・イラストでイラストレーションも描きました。 この雑誌では、フランコ・プロイセン戦争のシーンをはじめとした、歴史上で起こったさまざまな事件の劇的なシーンを切り取り、イラストレーションを描いています。 ミュシャのイラストは、人気となり、定期的な収入が入ってくるようになったため、ミュシャは、音楽趣味のハーモニカやカメラを購入しました。 カメラは、自分や友人を撮影したり、参考となる絵の構図を作ったりするために利用されました。 その後、ミュシャはポール・ゴーギャンと出会い、一定期間アトリエを共有して制作活動をしています。 1894年の秋には、劇作家のアウグスト・ストリンバーグと交流を深め、哲学や神秘主義に興味を抱くようになりました。 ミュシャのイラストレーションの仕事は、書籍の仕事にもつながっていき、歴史家チャールズ・セニョボスが書いたドイツ史のシーンやエピソードを表現したイラストレーションを依頼されるようになりました。 『ジスモンダ』のポスターで大成功をおさめる 1894年の終わりごろ、当時雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生活していたミュシャは、印刷業者のルメルシエから大女優サラ・ベルナールが主役の芝居『ジスモンダ』のポスター制作を急遽依頼されます。 すでにパリのルネサンス座で公演されていた劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの演劇『ジスモンダ』が大成功をおさめており、クリスマス休暇後に公演期間を延長することになっていました。 その宣伝用のポスターの制作に、ミュシャが抜擢されたのでした。 実は、ミュシャは過去にベルナールに関連するイラストの仕事をしており、1890年にクレオパトラのパフォーマンスをするベルナールを描いています。 また、『ジスモンダ』開演時には、雑誌『Le Gaulois』の特別クリスマス付録のベルナールのイラストを制作していました。 公演期間延長の宣伝用ポスターは、急ぎの仕事であったため、ミュシャは大慌てでデザインを仕上げ納期に間に合わせたそうです。 1895年の元旦からパリの街頭に貼りだされたベルナールのポスターは、大きな反響を生み、ミュシャは一夜にして人気者となりました。 ベルナール自身もポスターに大変感激し、1895年と1896年の間でポスターを4000枚発注し、ミュシャ自身とも6年間ポスター契約を結びました。 ポスターの背景に描かれているアーチは、ミュシャのスタイルを表す特徴の一つとなり、以後の演劇ポスターの制作では必ずといっていいほど描かれています。 商業用ポスターで、一躍有名人となったミュシャは、次に装飾パネルの制作も手がけるように。 アメリカでは注文肖像画を描く 1904年、ミュシャはアメリカの招待により3月から5月まで滞在し、アール・ヌーヴォーの旗手としてメディアに取り上げられ、手厚い歓迎を受けました。 滞在中は、ニューヨークやフィラデルフィア、ボストン、シカゴなどを巡り、上流階級の注文肖像画を描いています。 また、ポスターやデザインなどの装飾作品や壁画作品なども制作しています。 かなりの数を制作していたそうですが、パリ時代に描かれた名作や代表作となるものは、アメリカ時代ではあまりみられませんでした。 ミュシャが最初の招待以降もアメリカに滞在していたのは、資金集めの目的があったからといわれています。 ミュシャは、パリ時代に スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩を、いつか絵で表現することを思い描いており、そのための資金集めだったといわれているのです。 プラハに戻り国のために芸術を捧げる 1910年、ミュシャはチェコのプラハに戻ると、国のために芸術を捧げる決意をします。 プラハ市長の公館に装飾壁画を制作し、その後さまざまな街のランドマークの制作を手がけました。 思い描き続けてきた『 スラヴ叙事詩』を描くためのアトリエを兼ね、西ボヘミアのズビロフ城に住み、作品制作を開始しました。 『 スラヴ叙事詩』は、6m×8mと巨大な作品で、1912年に最初の3点が完成し、1926年にシリーズすべてが完成。 最終的に、 スラヴ民族の歴史とチェコ人の歴史を10点ずつ合計20点の大作となりました。 第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立した際、ミュシャは、新しい国家の公共事業にもかかわるようになり、プラハ城をモチーフにした郵便切手や通過、国章などのデザインや制作を行いました。 晩年、1936年にパリの美術館にてチェコ出身の画家クプカとともに二人展が開催。 この時期、最後の大作といわれているミュシャが描いた理想の世界『理性の時代』、『英知の時代』、『愛の時代』の3部作の構想が練られますが、作品が完成することはありませんでした。 1939年、ミュシャは 肺感染症によりプラハで息を引き取りました。 アルフォンス・ミュシャが描く美しい女性たち ミュシャが描いてきた作品では、女性の美しさが際立ち、女神のような神秘的な空気感をまとっています。 華やかで目を引くミュシャの作品は、芸術の域だけにとどまらず商業用のデザインとしても親しまれました。 商業芸術であるリトグラフによる巧みな表現 ミュシャの代表作となるポスターや装飾パネルは、リトグラフと呼ばれる技法で描かれています。 リトグラフとは、石版画とも呼ばれるもので、複雑な線や色合いをイメージ通り表現できるのが特徴です。 ミュシャが手がけるリトグラフでは、太い曲線と細い曲線が巧みに使い分けられており、それまでの商業デザインではみられなかった、マットな質感と淡く美しい色彩が見事に表現されています。 アール・ヌーヴォーと美しい女性 ミュシャ作品の最大の特徴は、美しい女性の姿です。 また、女性を引き立たせる大胆な構図や、アール・ヌーヴォーに象徴的な幾何学模様や、草花、文字の装飾なども見事なものです。 芸術的な美しさも兼ね備えながら、すべて商品や女優などのモチーフへ視線が誘導される容易として描かれている点も、ミュシャの偉大さを表しています。 ミュシャと日本美術 ミュシャの作品は、日本の伝統的な浮世絵から影響を受けていると同時に、日本もまたミュシャの作品から大きな影響を受けています。 ミュシャの作品には、日本の浮世絵と共通する、鮮やかな色彩、流れるような線、自然物をうまく取り入れた構図などがみられます。 ミュシャは、浮世絵をはじめとした日本美術特有の特徴を取り入れたことで、ヨーロッパの人々からは、描かれた作品が新鮮で美しく映ったのかもしれません。 ミュシャは、明治時代ごろから日本人の間で人気を集めていました。 日本美術にも大きな影響を与えており、フランスやイタリアで洋画を学んだ藤島武二が手がけた与謝野晶子の『みだれ髪』の表紙デザインは、どことなくミュシャのスタイルが見え隠れしています。 またミュシャ作品の大きな特徴であるアール・ヌーヴォーの影響は、現代の漫画家にも色濃く残っており、ミュシャが残した幻想的な世界にインスピレーションを受けた作品が多く存在しています。 年表:アルフォンス・ミュシャ 西暦 満年齢 できごと 1860年7月24日 0歳 オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれる 1875年 15歳 サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊となり、音楽家を目指していたが、声が出なくなり、音楽家の夢を諦める 1879年 19歳 ウィーンへ行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う 1883年 23歳 クーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる 1885年 25歳 エゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学 1888年 28歳 卒業後パリに移り、アカデミー・ジュリアンに通う 1895年 35歳 サラ・ベルナールの舞台『ジスモンダ』のポスターを制作し、一夜にして有名になる 1896年 36歳 『四季』、『黄道十二宮』などの代表作を次々と制作 1910年 50歳 故国であるチェコに帰国し、『スラヴ叙事詩』の制作に着手 1918年 58歳 新たに設立されたチェコスロバキアの紙幣や切手などのデザインを行う 1928年 68歳 『スラヴ叙事詩』が完成する 1939年7月14日 78歳 チェコスロヴァキアは解体された後、ナチスに逮捕され、釈放後に肺感染症により死去
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 世界の美術家・芸術家
-
加納夏雄(1828年-1898年)金工師[日本]
明治を代表する彫金師「加納夏雄」とは 生没年:1828年-1898年 加納夏雄は、幕末から明治にかけて活躍した京都出身の金工師です。 廃刀令により仕事が減る中、ビジネスセンスを活かして世界に名を知らしめた夏雄は、刀剣装飾以外にも、花瓶や置物、香合や根付などをメインに製作を続けていきました。 京都に生まれ7歳で養子に出される 夏雄は、京都御池通柳馬場で米穀商をしている伏見屋の子として生まれ、7歳で刀剣商・播磨屋の加納治助の養子となり、才能を開花させていきます。 幼いころから商売道具である刀剣の特に鍔をはじめとした金具の美しさに心惹かれた夏雄は、子どもながらに鑑識眼を養っていきました。 やがて、夏雄は自らも工具を使うようになり、製作に打ち込むようになっていきました。 夏雄の才能を見抜いた治助は、彫金師の奥村庄八のもとで本格的な技術を学ぶよう夏雄に勧め、12歳のころから奥村庄八に師事します。 庄八のもとで金工の基礎を学んだ夏雄は、その後、名金工・大月派の池田孝寿にも学び、夜は四条円山派の巨匠といわれている中島来章に絵を学び、朝には和歌や学術を儒学者である谷森善臣から習うなど、1日中学び続ける生活を送りました。 金工の技術だけではなく、絵や学問も学んだことが夏雄の今後の作風に大きな影響を与えたといえるでしょう。 19歳で独立し江戸に行く 19歳になると、夏雄は京都で開業して彫金の世界で独立を果たし、刀剣装飾をメインに事業を展開していきました。 自宅の2階にこもり、古くから作られてきた金工名作を模造したり、円山応挙や呉春の絵を学びなおしたり、古名作を自分流にアレンジして独自のデザインを探したりと、楽しみながら学びも忘れずに続けていたそうです。 夏雄が開業した1846年ごろは、幕末の動乱の真っ最中で、何人もの職人を抱えていた夏雄は、分業スタイルを導入して刀剣装飾の仕事をこなしていきました。 効率よく大量生産できるこの仕事の方法は、のちの事業にもプラスの影響を与えます。 25~27歳ごろ、夏雄は新たな地で事業をはじめようと、江戸に向かいます。 江戸は、金工の大家が多く、夏雄の生活はしばらくの間困窮しました。 1855年ごろから注文がようやく入りはじめたと思いきや、安政の大地震に見舞われてしまいます。 大地震により江戸の家を失ってしまった夏雄は、周囲の助けを借りながら2か月後には新居を建て直し、少しずつではありますが店も繁盛し、名声を高め確固たる地位を築いていきました。 明治の新貨幣づくりに携わる 徳川幕府が解体され新政府が樹立し、明治時代を迎えると夏雄の事業は大きく変化していきました。 廃刀令により、刀剣装飾の仕事は激減してしまいますが、明治政府から新貨幣の製造という大きな仕事の依頼が舞い込んだのです。 彫金師として高い評価を受けていた夏雄は、造幣寮で新貨幣の製造に携わるようになり、弟子たちとともに古今の資料を集めて研究し、官僚らと合議を重ねて、原型となる新貨幣を1870年に完成させました。 明治天皇御剣の拵金具を作る 1872年には、明治天皇御剣の金具製作の依頼が飛び込んできました。 正倉院に伝来していた聖武天皇御剣を明治天皇が大変気に入り、新たに製作するにあたって、夏雄の名があがったのでした。 明治天皇御剣には龍が刻まれていますが、夏雄はあまり龍や獅子を取り入れた作品は製作しておらず、夏雄の作品の中でも珍しいモチーフの作品です。 その後も、夏雄は御太刀製作にも携わっています。 帝室技芸員として若手育成にも努めた ビジネスの才能があった夏雄は、造幣寮を去った後も精力的に製作活動を進め、手がけていた事業が軌道に乗ると、ウィーン万国博覧会や展覧会などでも高い評価を得るようになっていきました。 1889年には東京美術学校が開校し、夏雄は彫金科の教授として教鞭をとり、後世の育成に励みました。 翌年の1890年には、帝室技芸員に任命され、彫金師としてさらに注目を集めていきます。 加納夏雄が製作した作品の特徴 夏雄は、刀装具や硬貨だけではなく、時代に合わせて花瓶や置物、シガレットケースなどさまざまな作品を製作しています。 夏雄が手がけた作品は、伝統的な美を継承しつつも現代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせていること、片彫りによる写実性の高さなどが特徴です。 伝統的な美と現代のスタイリッシュさ 従来の技法を用いて伝統的な美を重んじながらも、時代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせているのが夏雄作品の大きな特徴です。 このようなデザインセンスは、幕末から明治という変化の大きい時代を過ごした夏雄ならではの感覚であったといえるでしょう。 片切彫りによる写実的なデザイン 夏雄は、片切彫りと呼ばれる手法を得意としており、モチーフの片側の線を垂直に刻み、ほかの線を斜めに彫っていくスタイルを指します。 江戸時代中期の彫金師が生み出した技法で、この彫り方を用いるとモチーフが立体的に見えるのが特徴です。 夏雄は、卓越した技術力により、片切彫りで人物や花、鳥、鯉などを精巧かつ美しくデザインしています。 また、夏雄は若いころに円山派の絵を学んでいたため、絵画で培った写実的センスが、作品にも大きく反映されたと考えられるでしょう。 真面目で寛容な性格から弟子たちに慕われていた 真面目で寛容な性格であった夏雄は、多くの弟子たちから慕われていたといいます。 ある日、夏雄の古希を祝おうと弟子たちが計画を立てていたとき、幹事を務めたいと申し出る門下が50人ほどもいたそうです。 実直で探求心旺盛な夏雄は、何事も軽率に扱うことがなかったため、いつまでも金工の技術と目を養うことを怠らなかったといわれています。 年表:加納夏雄 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1828年(文政11年)5月27日 0歳 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 1835年(天保6年) 7歳 刀剣商の加納治助の養子となり、彫金に興味を持つ。 1840年(天保11年) 12歳 彫金師奥村庄八の元で修行を始め、線彫り、象嵌などの技法を習得。 1842年(天保13年) 14歳 円山四条派の絵師・中島来章に師事し、写実を学ぶ。 1846年(弘化3年) 19歳 金工師として独立。 1854年(安政元年) 26歳 江戸へ移り、神田に店を構える。 1855年(安政2年) 27歳 安政の大地震により家を失う。 1869年(明治2年) 41歳 皇室御用を命じられ、明治天皇の太刀飾りを担当。 7月には、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣を作成。 1872年(明治5年) 44歳 正倉院宝物修理に携わる。 1873年(明治6年) 45歳 明治天皇の命により『水龍剣』の拵えを完成させる。 1876年(明治9年) 48歳 廃刀令により多くの同業者が廃業するが、煙草入れや根付を作り続ける。 1890年(明治23年) 62歳 第三回内国勧業博覧会で『百鶴図花瓶』が一等妙技賞を受賞し、宮内省に買い上げられる。 1890年(明治23年) 62歳 東京美術学校の教授に就任。 1890年(明治23年) 62歳 第1回帝室技芸員に選ばれる。 1896年(明治29年) 68歳 明治天皇の下命により『沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵』を完成。 1898年(明治31年)2月3日 69歳 逝去。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
正阿弥勝義(1832年-1908年)彫金師[日本]
卓越した彫金技術をもっていた「正阿弥勝義」とは 生没年:1832年-1908年 彫金師である正阿弥勝義の彫金技術は、明治時代の職人の中でも群を抜いて優れていたといわれています。 精緻な彫金や高い写実性とともに、多彩な金属を使用して色数が多く、美しい光沢が表現されているとして高い評価を受けています。 評判は国内だけにはとどまらず、海外の展覧会で展示され、国内外問わず人気を集めている人物です。 彫金師の父をもち幼いころから彫金を学ぶ 勝義は、津山二階町に住んでいる津山藩お抱えの彫金師である中川五右衛門勝継の3男として誕生しました。 幼いころから父に彫金を学び、津山藩先手鉄砲隊小山家の後継ぎになった後は、江戸の彫金師に弟子入りを頼みますが、果たせずに江戸から帰郷し、養子関係を解消しています。 その後は、18歳のときに岡山藩お抱えの彫金の名家である正阿弥家の婿養子となり、正阿弥家の9代目を受け継ぎました。 正阿弥家は、藩主からの依頼を受けて刀装具を作り、安定した暮らしをしてきた名家です。 9代目となってからは、実の兄である中川一匠や、その師の後藤一乗などに手紙で下絵や脂型、作品をやりとりして指導を受けます。 兄の一匠は、代々徳川家に仕える彫金師である後藤家の門下であり、江戸幕府や宮中の御用職人を務めていました。 勝義の作品が多く所蔵されている清水三年坂美術館には、この時代に制作された刀装具や短刀拵もあり、作品のできばえから当時すでに高度な技術を有していたことがわかります。 技術を生かした美術工芸品づくりで成功 正阿弥家の9代目として刀装具などを作り、安定した暮らしを送ってきた勝義でしたが、明治維新後に薩摩藩主との雇用関係が解消され生活の保障がなくなると同時に、廃刀令によって刀装具の仕事もなくなってしまいました。 時代の流れにより多くの彫金家たちが廃業していく中、勝義は彫金師としての技術を生かして、新たに花瓶や香炉などの室内装飾品や、彫像などの美術工芸品、茶器などの制作を開始します。 1878年、30名あまりの当代随一の工芸家たちで輸出産業を立ち上げ、神戸の貿易商をしていた濱田篤三郎の紹介でイギリス商人と売買契約を締結。 しかし、不正な手段により利益を得ようとする奸商が、作りの粗い偽物を制作していたことで輸出を中止します。 その後、少数精鋭の職人で美術工芸に専念すると、イギリスから大衝立の注文を依頼され、加納夏雄・海野勝珉が十二支図案を作成し、勝義が金工彫、逸見東洋が木工を担当。 3年がかりで完成させて輸出し、現在はボストン美術館に所蔵されています。 勝義は、制作した作品を国内外問わず精力的に博覧会や美術展に出品し、世界各国で高い評価を得ており、受賞は30回以上、宮内省買い上げは13回にもおよんだそうです。 1899年、67歳になった勝義は、美術研究のために京都へ移り住みます。 京都の伝統文化に触れ、さらに才能を昇華させていき、高い評価を受けている作品の多くは、京都に移り住んでから亡くなるまでの10年間に制作されたものといわれています。 真面目で几帳面な彫金師であった 勝義は、真面目かつ几帳面であり、筆まめであったといわれています。 休みを取るのは正月と葵祭の2日だけで、それでも彫金の仕事に嫌気がさすこともなく、無心に制作に打ち込んでいたそうです。 ある日、成金から金の煙管を作ってほしいと頼まれ、一度は断ったもののどうしても欲しいと聞かないため、勝義は純金で煙管を作り依頼主に渡しました。 依頼主は大変喜びましたが、その様子を見た勝義はもう一度煙管を受け取り、金の上から鉄を巻いてしまいました。 そして、上から草花を彫ると、鉄の下から金の彫り物が浮かび上がり、依頼主に「金とはこうして使うものです」と言って返し、その依頼主は大変感心したそうです。 正阿弥勝義が制作した作品の特徴 勝義が作る作品は、超絶技巧と呼ぶほど高い技巧を誇っており、上品かつ精緻な作品は、多くの人の心を惹きつけました。 ときに生々しいほど写実性の高い表現もあり、一つひとつの作品を丹念に作り上げているとわかります。 また、巧みな技巧だけではなく色数の多さや鉄錆地の美しさも魅力の一つです。 勝義は、全体的に技術レベルの高い明治時代の彫金師たちの中でも群を抜いていたといわれています。 高い技術力に加えて、見る者の意表をつき想像を湧かせる遊び心や、粋な趣向なども盛り込み、複数の意匠を融合させることで、緊張感や物語性を生み出しているのです。 正阿弥勝義の代表作 『群鶏図香炉』は、銀地をベースに、金や銀、赤銅、素銅などのさまざまな金属を組み合わせてできています。 象嵌によりさまざまな鶏の姿を表現しており、ドーム状の火屋には、小菊を密集させ高肉彫で表現しています。 摘みの雄鶏は、丸彫で立体的に表されているなど、多彩な彫金技法を用いて作られた代表作の一つです。 『蓮葉に蛙皿』は、素銅地に鋤彫で葉脈を描き、緻密な槌目で葉の質感を巧みに表現しています。 虫食いの穴や枯れた葉の色調も細かく再現してあります。 ひときわ目を引くのが、巻いた葉の上に飛び乗った瞬間のアマガエルが表現されている部分です。 一瞬の動きを見逃さずに捉えた勝義の観察力の高さと、それを金属で表現する高い技術力がうかがえる一作品です。 年表:正阿弥勝義
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
濤川惣助(1847年-1910年)七宝家[日本]
無線七宝で活躍した「濤川惣助」とは 生没年:1847年-1910年 濤川惣助は、無線七宝を開発した七宝作家で、七宝を工芸品から芸術のレベルまで高めた人物でもあります。 東京の濤川、京都の並河と称され、国内外問わず高い評価を受けています。 1893年の、 シカゴ万博に出品された『七宝富嶽図額』は、2011年に重要文化財に指定。 1910年、63歳で肺炎にかかり亡くなるまで、七宝を研究し続け新たな道を切り開き続けた人物といえるでしょう。 貿易商から七宝家の道を目指す 惣助は、現在の千葉県旭市である下総国鶴巻村にて、農家の次男として誕生しました。 その後、陶磁器などを取り扱う貿易商となり働いていましたが、1877年に開催された第1回内国勧業博覧会で鑑賞した七宝焼に目を奪われ、七宝家の道を目指す決意をしました。 同じ年に、塚本貝助をはじめとした尾張七宝の職人たちが働いている、東京亀戸にあるドイツのアーレンス商会の七宝工場を、惣助は買収。 2年後となる1879年に、革新的な技術を用いて無線七宝を確立させました。 国内外の博覧会で賞を受賞 当時は、まだまだ機械工業が未発達であった日本では、伝統工芸品の輸出が貴重な外貨を得るための手段でした。 明治政府は、欧米で定期的に開催されていた万国博覧会に伝統工芸品を出品し、輸出を盛んに行おうとしていたのでした。 惣助は、この伝統工芸品を輸出する流れに乗って、国内外の博覧会に自身が手がけた無線七宝焼作品を出展し、次々に賞を受賞していきます。 1881年に開催された第2回内国勧業博覧会では、名誉金牌を授かり、1883年のアムステルダム万博では金牌、1885年のロンドン万博でも金牌、1889年開催のパリ万博では名誉大賞を受賞するなど、目覚ましい活躍をみせていました。 技術を磨き高い評価を受け順調に七宝家の道を歩んできた惣助は、1887年にはアーレンス商会と同様に尾張七宝の職人が働いている名古屋の大日本七宝製造会社の、東京分工場までも買収しています。 濤川惣助が生み出した無線七宝とは 無線七宝とは、有線七宝と同様に金属線を使用して模様を作り、釉薬を塗って焼成する前に金属線を取り除く技法により制作された作品です。 金属線を除去することで、釉薬の境界部分が混ざり合い、柔らかく滲んだような色合いが表現できます。 無線七宝は、釉薬の絶妙な色彩のグラデーションを生み出し、写実的で立体感がありつつも柔らかな表現ができる革新的な技法です。 また、一つの作品の中で有線七宝と無線七宝の技術を融合させることで、遠近感や水面に浮かぶ影の表現も可能としました。 濤川惣助が制作した32面の七宝額 1909年に東京御所として建設され、日本で唯一のネオ・バロック様式を用いた宮殿建築物である迎賓館赤坂離宮には、惣助が制作した七宝額が飾られています。 七宝額は、高度な技術と技法により制作されており、七宝を日本の伝統的な芸術品として世界に広めた作品といえるでしょう。 惣助の七宝焼は、これまで主流であった有線による表現ではなく、絵画のような滲みを巧みに表現した無線七宝の技法によって作られています。 赤坂離宮には、惣助がその巧みな技術と革新的な技法を用いて制作した七宝額が、花鳥の間に30面、小宴の間に2面の合計32面が飾られており、下絵は渡辺省亭が担っています。 帝室技芸員として活躍した二人のナミカワ 無線七宝を生み出し数々の賞を受賞した惣助と、有線七宝の巧みな技法と鮮やかな色彩により活躍した並河靖之は、どちらも七宝家であるとともに帝室技芸員でもありました。 帝室技芸員とは、日本の伝統的な美術工芸の技術を帝室で保護し、未来に継承・発展させるために定められた制度です。 二人のナミカワが帝室技芸員に任命されたのは、どちらも技術と人柄の両者において優れた美術工芸家であり、技術を磨き続けるとともに後進の育成に努めていたためです。 有線七宝を制作した並河靖之とは 靖之は、日本を代表する七宝家の一人で、有線七宝により活躍をおさめました。 彫金や象嵌などの技法も取り入れ、花や鳥、風景など自然から着想を得た図柄や、そこで暮らす人々の生活などを七宝焼に描きました。 これまで、図柄や紋様部分がメインで使用されていた黒色透明釉を、背景にも使用するようになり、そのような作品を「並河ブラック」と呼ぶことも。 鮮やかで独特な色彩の組み合わせや自由なデザインが海外でも高く評価され、海外の博覧会でも数多くの賞を受賞しています。 万年自鳴鐘の七宝台座を制作 万年自鳴鐘は、江戸時代の機械式置時計の傑作として知られており、七宝台座部分は、惣助が手がけています。 1851年に、田中久重が万年自鳴鐘を完成させた当時は、台座の6面部分はブリキ製であり、七宝による装飾はされていませんでした。 初代久重が亡くなったあと、2代目久重の依頼により万年自鳴鐘の大修理が実施され、その際に6角形の台座にある側面6面に七宝の装飾が施されたのです。 修理が無事終了した万年自鳴鐘は、日本初の時の記念日である1920年6月10日に、お茶の水の東京教育博物館で開催された時の博覧会にて展示されました。 6面には、それぞれ日本画が表現されており、岩礁や波、草木などと一緒に亀や鶏、太鼓、ウサギなどの動物も描かれています。 年表:濤川惣助 西暦 満年齢 できごと 1847年 0 下総国鶴巻村(現・千葉県旭市)で農家の次男として生まれる。 1877年 30 第1回内国勧業博覧会を観覧し、七宝に魅了され七宝家に転進。塚本貝助ら尾張七宝の職人を擁するドイツのアーレンス商会の七宝工場を買収。 1879年 32 革新的な無線七宝技法を発明。 1881年 34 第2回内国勧業博覧会で名誉金牌を受賞。 1883年 36 アムステルダム万博で金牌を受賞。 1885年 38 ロンドン万博で金牌を受賞。 1887年 40 大日本七宝製造会社の東京分工場を買収。 1889年 42 パリ万博で名誉大賞を受賞。 1893年 46 シカゴ万博に『七宝富嶽図額』を出展し、高評価を得る(後に重要文化財に指定)。 1896年 49 帝室技芸員に任命される(七宝分野では濤川惣助と並河靖之のみ)。 1910年2月9日 62 平塚の別荘で静養中、感冒から肺炎を併発し、死去。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
並河靖之(1845年-1927年)七宝家[日本]
日本を代表する七宝家の一人「並河靖之」とは 1845年-1927年 並河靖之は、日本の七宝家の一人で、明治時代に京都で活躍した人物です。 幼いころは動物好きだった 靖之は、川越藩松平大和守の家臣であり、京都留守居役京都詰め役人であった高岡九郎左衛門の3男として生まれました。 川越藩は、近江国に5000石の支配下をもっており、高岡家は代々その代官を務めていました。 靖之は幼いころ動物好きで、毎日世話役におぶってもらって近くの本能寺の馬場へ馬の匂いを嗅ぎに行っていたそうです。 並河家の家督を急遽継ぐことに 1855年、11歳になると、親せきで粟田青蓮院宮家に仕えていた並河家当主の靖全が急死してしまったため、靖之は急遽養子になることに。 並河家の家督を受け継いで、1858年に成人の儀式である元服を行い、9代目当主となりました。 なお、江戸時代の青蓮院家には、東の並河家と西の並河家の2つの並河家がありましたが、靖之が養子になったのは、西の並河家です。 家督を継いですぐに、皇族の久邇宮朝彦親王に近侍として仕え、親王が相国寺への隠居永蟄居を命じられた際や、広島藩預りになった際も、近くで仕え続けました。 靖之は、日本古典馬術の流派の一つである大坪流を修める馬術の達人であり、伏見宮や閑院宮でも馬術の手解きをしています。 明治維新後に七宝焼作りに取り組む 靖之は、親王に仕えたあと、明治維新後から七宝焼作りの取り組みを開始します。 知識や資材が不十分な中で、試行錯誤しながら技術を学んでいきます。 そして1873年、靖之の初作品となる『 鳳凰文食籠』が完成しました。 当時、七宝焼というと、主に中国でよく作られている艶のない釉薬を用いた泥七宝が日本でも主流でした。 一方、尾張七宝では、釉薬の発展が進んでおり、乳濁剤や呈色剤を使用していない透明釉をよく用いています。 靖之は、内国勧業博覧会にて見た透き通ったガラス質で艶のある尾張七宝の美しさは、泥七宝とは異なり、大きな衝撃を受けました。 すぐさま靖之は、下絵師を務めていた中原哲泉とワグネルとともに、七宝焼の研究を進めました。 熱心に研究を重ねた結果、最終的にどの七宝工房よりも釉薬の色の種類が多くなり、特に黒の透明釉薬である黒色透明釉は、大変評判が高く、現代では並河ブラックと称されています。 靖之は、国内外問わずさまざまな博覧会で多数の賞を受賞しており、七宝作家として大成功を収めています。 並河工房には、海外からも文化人が多く訪れ、靖之が製作する京都並河の七宝焼は、新聞や雑誌などを通して海外へと広く紹介されました。 並河靖之が製作する七宝焼の特徴 靖之の七宝焼は、巧みな技法と鮮やかな色使いによって一世を風靡しました。 靖之は、彫金や象嵌などの技法を七宝焼に取り入れ、自然や風景、そこで暮らす人々の生活などを作品に描きました。 豊かな色彩 靖之作品の特徴は、表面に施された鮮やかな色彩で、七宝焼全体に見られる特徴ではありますが、靖之の作品ではより顕著で、見る者の心を惹く豊かな色彩が魅力です。 細部まで手の込んだ細工 靖之が作る七宝焼は、緻密な細工が特徴の一つです。 一つひとつの作品が、細部に至るまで繊細かつ緻密に手間暇をかけて作られており、巧みな技術力が見え隠れしています。 自然の要素が豊富なデザイン 靖之が作る七宝焼には、花や鳥、風景など自然から着想を得て製作された作品が多く、自然の調和が作品に深みと生命感を与えています。 時代によって変化をみせる作風 七宝焼の研究を絶えず続けてきた靖之の作品は、生涯を通して変化し、洗練されていきました。 初期の作品では、伝統的な七宝焼の手法を用いたものが多く、徐々に独自の色彩の組み合わせやデザインが追及されるようになっていきます。 後期の作品では、大胆で豊かな色彩と自由な形状のものが増え、靖之の個性ある芸術観が作品に反映されるようになっていきました。 靖之は、七宝焼の中でも有線七宝を極めた人物で、パリやロンドン、シカゴ、バルセロナなど海外の博覧会や内国勧業博覧会に出品された花瓶や壷などの作品は、金賞を含む数多くの賞を受賞しています。 有線七宝とは、素地に文様の輪郭線となる金や銀の線を張り付け、線の間に釉薬を塗って焼成・研磨する技法によって作られた七宝焼です。 初期(1873-1880) 靖之が七宝焼を製作し始めた当初は、艶の少ない釉薬を用いた泥七宝が主流でした。 初期の中ごろから日本でも釉薬の開発が進み、艶のある透明釉薬を利用した作品も作られるようになっていきます。 初期作品は、作品全体に植線を立てて、全面に模様や図柄を施した作品が多い傾向です。 植線には、真鍮線を使用していましたが、初期の途中からは銀線や金メッキ線を用いた作品も多く見られるようになりました。 作品の図柄には、鳳凰や龍などの古代図を題材にしたデザインが施された作品が多く残されています。 第二期(1880-1890) 釉薬の開発がさらに進んでいき、使用できる釉薬の色が格段に増えたことで、作品の鮮やかさが増していきます。 またこの時期の七宝焼には、真鍮線が見られず、植線には銀線や金メッキ線が用いられていました。 初期のころ同様に、作品全体に植線を立てて全面に図柄を施していますが、一つひとつの柄の精巧さがより増しており、技術力の向上が見られます。 第三期(1890-1900) 第三期からは、植線に銀線と金線を用いるようになり、これまで黒色透明釉は、図柄や紋様部分のみに使用していましたが、背景にも利用するようになっていきました。 背景に黒色透明釉を使用した作品は、並河ブラックとも呼ばれています。 これまで紋様的な図柄の多かったのが、第三期からは写実的な図柄に変化していき、余白が生まれ、品のある空白の美しさが引き立つように。 製作技術はより洗練されており、1本の植線で太さを変えて、筆によって描かれたような表現方法が用いられています。 晩年(1900-1923) 晩年の作品は、より空白が目立つようになり、余白の美が強調されています。 有線七宝の技術は、さらに向上しており、第三期と同じように筆で水墨画を描いたような図柄が魅力的です。 多色の釉薬が利用できるようになったことで、今まで製作されてこなかったクリーム色や、紫、黄緑、ピンク、白などの素地の作品も多く作られています。 同時期に活躍した二人のナミカワ 靖之と同じ時代に活躍した七宝職人である濤川惣助は、靖之のライバルとして名が挙げられることもあり、二人のナミカワとしてよく比較されてきました。 惣助は、無線七宝と呼ばれる革新的な技法を採用して七宝焼を製作しています。 無線七宝では、釉薬を塗る前にあえて植線を取り除き、絶妙な色彩のグラデーションを生み出す技法が用いられており、写実的かつ立体感のある表現や、柔らかい表現を生み出せる特徴があります。 靖之と惣助の二人は、七宝の名匠として名を残しており、それぞれ異なるスタイルと巧みな技術で明治の七宝界をけん引しました。 年表:並河靖之 西暦 満年齢 できごと 1845年10月1日 0歳 京都柳馬場御池北入町で生まれる。 1855年 11歳 並河家の養子となり、並河靖之を名乗る。 1873年 28歳 七宝制作を開始し、処女作『鳳凰文食籠』を完成させる。 1875年 30歳 京都博覧会に出品し銅賞を受賞。 1876年 31歳 フィラデルフィア万博で銅賞牌を受賞。 1877年 32歳 第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受賞。 1878年 33歳 パリ万博で銀賞を受賞。 1879年 34歳 京都府の博覧会品評人を務める。 1881年 36歳 ストロン商会から契約を破棄され、事業を縮小。 1889年 44歳 パリ万博で再び受賞。 1893年 48歳 緑綬褒章を授与される。 1896年 51歳 帝室技芸員に任命される。 1906年 61歳 賞勲局の特命で勲章製造を開始。 1927年5月24日 81歳 逝去。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
川端玉章(1842年-1913年)日本画家[日本]
後進育成にも努めた日本画家「川端玉章」とは 生没年:1842年-1913年 川端玉章は、明治時代に活躍した日本画家で、自ら作品を制作しながらも東京美術学校の教授を務め、自身の川端画学校を開設するなど、後進の育成にも励んだ人物です。 美術学校の同僚には、狩野派の画家で第一次の帝室技芸員メンバーにも選ばれている、橋本雅邦がいました。 玉章は、繊細な筆使いと、情緒あふれるモチーフを融合させて、新しい日本画の道を切り開いた芸術家として、高く評価されています。 幼いころから絵の巧さを認められていた 玉章は、京都の高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれました。 父は、蒔絵師であり俳諧をしていた芸術家で、幼いころの玉章は、蒔絵を父から教わっていました。 さらに、漢学や国学などの教養も教わり、さまざまな学びを得られる環境にいた玉章は、自然と絵画への道を歩み始めたのです。 11歳のときに、実業家の三井高喜や三井高弘などに絵の巧さを認められ、さらに絵画の基礎を固めて本格的に画家として活動していくために高喜の紹介で、円山派の絵師である中島来章から絵を学んでいきます。 貧しい生活から徐々に頭角を見せ始める 1866年には、レンズ越しに絵を覗いて鑑賞する眼鏡絵 や、錦絵 、新聞の付録などを描くようになり、1867年には江戸に移り住みます。 玉章は、江戸で苦しい生活を続けていましたが、少しずつ画家としての才能を世間に広めていったのでした。 そして、1872年ごろからは、狩野派を学び洋画家となった高橋由一のもとで油絵を学ぶようになり、1877年には第一回内国勧業博覧会で褒状を受け取り、1878年には画塾天真堂を創設しています。 1882年になると、第一回内国絵画共進会にて初入選を果たし、これをきっかけに玉章は才能を開花させていき、1884年の第二回内国絵画共進会では、銅賞を受賞しました。 東京美術学校で円山派の教師として働く 1889年、岡倉 覚三の声かけにより、玉章は東京美術学校の円山派の教師として勤務することに。 1890年には、正式に東京美術学校の教授に就任して教鞭をふるい、1912年までの22年間、写生の授業を受け持ちました。 玉章が、東京美術学校として受け入れられたのは、 覚三がみた両国の大きな書画会において、一番達者に描いていたのは河鍋暁斎でしたが、玉章の作品は図柄が他の画家とは異なり印象に残ったためといわれています。 1881年には、深川に画塾「天眞舎」を開き、そこでも若い画家たちに絵を教えていたそうです。 日本青年絵画協会設立を援助する 1891年には、玉章より一世代若い画家たちによる日本青年絵画協会の設立にあたって、玉章は川辺御楯らに働きかけ、援助しました。 1896年には、優れた美術家や工芸家が任命される帝室技芸員となり、1897年には古社寺保存会委員、1898年には日本美術院会員や文展開設 以来審査員なども務めました。 1910年ごろには、小石川下富坂町に川端画学校を開設し、さまざまな方面から後進の育成を進めていたそうです。 1913年、玉章は発作を起こし、長年悩まされていた中風により息を引き取りました。 中風とは、現在でいう脳血管障害の後遺症を指し、手足のしびれや言語障害、麻痺などが該当します。 日本画だけではなく洋画も描いていた 玉章は、若いころにチャールズ・ワグナーに洋画を学んでおり、日本画だけではなく洋画作品も多く手がけています。 円山派の技法を西洋画に融合させて、新しい写実性を生み出すことに成功しました。 新しいジャンルを確立させた玉章は、晩年には文化絵も研究しており、生涯学びの姿勢をもち、誠実で努力家な人物であったと想像できるでしょう。 川端玉章のライバル橋本雅邦 円山派から絵を学び伝統を重んじていた玉章と同じ時代に東京美術学校で教授を務めていたのが、雅邦です。 玉章と雅邦は、ライバル同士であったと評されており、玉章は円山派の流れを継承し、美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らの育成にあたったのに対して、雅邦は狩野派を受け継ぎ、横山大観や菱田春草ら日本美術院出身の画家を輩出した点で、対照的であるとわかります。 玉章のライバルといわれている雅邦は、狩野派の技法をベースに他流派や西洋画などの技法も柔軟に取り入れ、近代的な新しい日本画スタイルを生み出しました。 山水画や故事人物画などの漢画系のモチーフを得意としており、雄大な山水画は多くの人を魅了しました。 一方、玉章は花鳥山水画や風景画を得意としており、さらに絵を仕上げるのが早かったことでも知られています。 絵を描き始めると終始机に向かって絵を描き続け、その集中力は常軌を逸するとまでいわれていました。 古い伝統だけに固執せず、西洋画の写実技術を学び、新たな日本画のジャンルを築き上げていきました。 川端玉章の弟子たち 玉章は、自ら日本画の新しいスタイルを確立させていくだけではなく、新たに活躍していくであろう若手画家の育成にも努めていました。 東京美術学校で教鞭をとりながらも、同美術院に対峙していた平福百穂や結城素明らを育成した点も、玉章の大きな功績といえるでしょう。 平福百穂 生没年:1877年-1933年 平福百穂は、玉章の内弟子の一人で、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 川端塾で絵を学び、塾生の先輩であった結城素明に勧められて東京美術学校にも入学しています。 卒業後は、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を研究し、制作していきました。 1916年ごろからは、中国の南画や画像石や画巻などに関心を示し古典回帰がみられます。 その後、自然主義的写生画と古典を融合させて新たな作品を作り出していきました。 結城素明 生没年:1875年-1957年 結城素明は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 東京で酒屋を営んでいた森田周助の次男として誕生し、10歳のころに親類の結城彦太郎の養嗣子となりました。 覚三の勧めで玉章の画塾に入門して学びつつ、東京美術学校の日本画科にも入学。 いつも墨斗と手帖をもっており、目に留まったものや気になったものは何でも写生したそうです。 川端玉章の代表作 玉章の代表作の一つが『四時 軍花図』と呼ばれる油彩画で、第一回内国勧業博覧会に出品された作品です。 玉章はいくつも油彩画を制作していたといわれていますが、現存する作品は『四時 軍花図』のみです。 また、ほかにも『唐人お吉』という作品は、人物の半身像という珍しいモチーフを描いた作品で、玉章の手がけた作品の中でも異彩を放っています。 年表:川端玉章 西暦 満年齢 できごと 1842年4月18日 0歳 京都高倉二条瓦町で蒔絵師左兵衛の子として生まれる。 1853年 11歳 三井家で丁稚奉公に出て、三井高喜や三井高弘らに絵の才能を認められ、中島来章に入門。 1867年 25歳 江戸に移住する。 1872年 30歳 高橋由一に油絵を学び、三井家の依頼で三囲神社に『狐の嫁入り』扁額を描く。 1877年 35歳 第一回内国勧業博覧会で褒状を受ける。 1878年 36歳 画塾「天真堂」を創設。 1879年 37歳 龍池会設立に関与。 1881年 39歳 深川に画塾「天眞舎」を開く。 1882年 40歳 第一回内国絵画共進会で銅賞を受賞。 1884年 42歳 第二回内国絵画共進会で再び銅賞を受賞。 1890年 48歳 東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、主に写生を担当。 1891年 49歳 日本青年絵画協会設立を援助。事務所を自邸に置く。 1896年 54歳 帝室技芸員に任命される。 1897年 55歳 古社寺保存会委員に任命される。 1898年 56歳 日本美術院会員に選出され、文展開設以来の審査員を務める。 1909年 67歳 小石川下富坂町に川端画学校を開設。 1913年2月14日 70歳 中風のため死去。東京都港区高輪2丁目と、東京芸術大学中庭に顕彰碑が建てられる。
2024.12.27
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)画家[オランダ]
ポスト印象派の画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」とは 生没年:1853年-1890年 フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ出身のポスト印象派の画家です。 代表作として知られている作品の多くは、1886年以降、フランスに住んでいた時代の中でも、特にアルル時代と呼ばれる1888年から1889年、サン=レミで療養していた1889年から1890年に描かれました。 ゴッホが描く作品は、フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響をおよぼしています。 幼いころからドローイングの才能があった ゴッホは、カトリック教徒の多いオランダの南部にある北ブラバント州のフロート=ズンデルトと呼ばれる村で生まれました。 父のテオドルス・ファン・ゴッホは、オランダ改革派の牧師で、母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスは、ハーグの裕福な家庭に生まれた子でした。 ゴッホは、真面目で思いやりのある子どもで、幼いころから母親と家庭教師に育てられ、1864年からは、ゼーフェンベルゲンにある寄宿学校で学び始めますが、ゴッホはホームシックにかかってしまいます。 1866年からは、ティルブルフの中学校に進学しますが、ゴッホはなじめず楽しい学校生活を送れなかったそうです。 しかし、芸術への関心は幼いころからあり、ドローイングの才能を母親から褒められ続けていました。 ゴッホは中学在学中からドローイングや水彩画を描いていましたが、美術の授業でもゴッホの憂鬱とした気持ちは晴れず、1868年、ゴッホは学校から突然帰宅することもあったそうです。 その後、16歳になると叔父のセントにハーグの美術商会社グーピル商会の仕事を紹介され、4年ほど画商として楽しく過ごしました。 失恋により孤独感が増していく 1873年、ゴッホはロンドン支店への転勤が決定します。 下宿先の娘であるユルシュラ・ロワイエに恋をして、告白しますが振られてしまい、ゴッホは大変気分を落とし、孤独感を募らせていき、このときから宗教へ傾倒していくようになりました。 1875年にロンドンからパリへ転勤するも、商売を軸にしたアートビジネスをメインにしているグーピル商会のやり方に不満をもっており、1876年に解雇の通告を受け、4月に退社しました。 ゴッホは、より宗教に没頭するようになり、牧師になるために神学者の叔父であるヨハネス・ストリッケルのもとへ預けられます。 しかし、牧師になるための学校の入学試験に失敗してしまい、挫折してしまいました。 1880年ごろからは、弟のテオから生活資金の援助を受けながら、鉱夫として働き始めます。 このころからゴッホは、周りにいる人物や景色に興味を抱くようになり、また芸術を軸に生活してみては、とテオからアドバイスを受け、ドローイングを描き始め画家としての活動を本格的にスタートさせていきました。 自宅に戻り田園風景のドローイングを始める 1881年、経済的に苦しい生活をしていたゴッホは、エッテンの実家に戻り、近くの田園風景や農夫など、身近なものをモチーフにドローイングを始めました。 ある日、ゴッホの父が招いた未亡人のケー・フォス・ストリッケルに、ゴッホは恋をします。 7歳年上で、8歳になる息子がいる彼女に対してゴッホは求婚しますが、断られてしまいます。 その後、義理のいとこで画家として活躍しているアントン・モーヴから、数か月後にエッテンへ戻り、木炭やパステルで絵を描くようアドバイスをもらい実行しました。 しかし、ケーのことを諦めきれなかったゴッホは、一度アムステルダムへ向かい面会を試みましたが、断られてしまいます。 その後、ゴッホはモーヴから油絵や水彩画を学び、アトリエを借りるための資金まで用意してもらい、さまざまな援助を受けますが、石膏のデッサンにて美術的観点での意見の違いが生まれるようになっていきました。 アルコール依存症の娼婦シーンとの同棲 モーヴがゴッホと距離をおくようになった理由の一つに、ゴッホが娼婦クラシーナ・マリア・ホールニクと同棲し始めたことがあります。 クラシーナには5歳の娘がいて妊娠もしていますが、アルコール依存症であり、のちに生まれた男の子も含め、ゴッホは一緒に暮らすようになりました。 ゴッホの父はその状況を知ると、クラシーナと縁を切るよう迫りますが、ゴッホは抵抗します。 しかし、ゴッホは自分が売れない画家として貧しい生活を続けていると、クラシーナに再び売春の仕事をさせてしまうことになるのではないかと思い始めました。 同棲生活は喧嘩の連続で、ゴッホは家族との生活という環境に幸福を感じられず、家庭と芸術的発展は、共存できないと思うようになったそうです。 その後、1883年にゴッホとクラシーナ一家は別れ、クラシーナ自身は1904年にスヘルデ川で入水自殺してしまいました。 本格的に絵画制作をスタートさせる ゴッホは、1885年からの約2年間のニューネン滞在で、大変多くのドローイングや水彩画、約200点にもおよぶ油絵を描いています。 当時のゴッホのパレットには、暗い色彩が多く、特に濃い茶色をメインに構成されており、ゴッホの代表作にみられるような鮮やかな色彩はまだみられませんでした。 サイズの大きい絵の制作にも取り組んでいますが、ほとんどの絵を破棄してしまっており、『ジャガイモを食べる人々』と関連作品がわずかに現存するのみです。 当時描かれたゴッホの作品は、まったく売れず悩んでおり、テオは流行りの印象主義のように明るい色彩ではなく、暗めの色合いが原因ではないかと分析していました。 その後、ハーグの画廊に初めてゴッホの作品が飾られますが、展示された農夫のポートレイト絵画のモデルになった女性が妊娠したのは、ゴッホのせいであるとモデルの女性から非難される事件が発生し、村の教会は村人に対してゴッホの絵のモデルにはならないよう注意喚起が行われました。 貧しい生活を送りながら絵画を描く 1885年にアントウェルペンへ移り住んだゴッホの生活は大変貧しいもので、テオから援助される資金のみが頼りでした。 ゴッホは貧乏生活を極めており、パン、コーヒー、タバコまでも節約するようになり、1886年にゴッホからテオへ送られた手紙の中に、前年は5月以降、6回しか暖かい食事をしていないと書かれていました。 ゴッホは、アントウェルペンで色彩理論の研究に努め、多くの時間を美術館で過ごすようになります。 バロック美術を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスの研究を進め、結果的にコバルトブルー、エメラルドグリーン、カルミンなどの鮮やかな色彩がパレットに並ぶようになりました。 また、このころから日本の浮世絵にも影響を受け始め、さまざまな日本美術をコレクションするように。 のちの作品では、背景に浮世絵の影響を受けたであろう絵が描かれているものもあります。 後期印象派とジャポニズム 1886年、ゴッホはパリに移り住み、モンマルトル周辺のアパートでテオと共同生活を始めるとともに、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びなおします。 アントウェルペンにて日本美術に興味をもち始めてからは、数百枚もの浮世絵を収集しており、アトリエの壁に飾っていたそうです。 パリにいる間、ゴッホは印象派の画家たちとも交流を深めていき、テオはモンマルトル大通りに自分の画廊を持っており、新しい印象派の作品を扱っていました。 ゴッホは、シャルル・ラヴァルの色彩に関する論文にも興味をもち、補色を活用して作品を描くようになっていきました。 1886年末ごろ、ゴッホとテオは衝突し、ゴッホはアニエールに移り住み、セーヌ川や公園、レストランなどの風景画を描きます。 1888年、パリの生活に疲れ果てたゴッホは、休養をかねてアルルへ移ることになりました。 アルルの黄色い家とゴーギャン ゴッホは、アルコール依存症やニコチン中毒の症状を和らげるために、アルルへ移り、グリッドを使用した遠近法を用いた風景画を制作しました。 その後、黄色い家と呼ばれるアトリエを借り、芸術コロニーの拠点としての活用を予定していましたが、数か月未完成のまま無人であったそうです。 ゴッホは、黄色い家でさまざまな作品を描いており、その中には代表作の『ひまわり』、『夜のカフェ』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』などもあります。 黄色い家の当初の活動計画を聞いたゴーギャンは、ゴッホの意志に賛同し、共同生活を始めました。 2人は、共同作品もいくつか制作しており、美術館で一緒に絵画鑑賞もしていました。 しかし、共同生活から2か月ほどが経ったころ、2人の関係は次第に悪くなっていき、口論もするようになり、ゴッホはゴーギャンに見捨てられるのではと、大きな不安を抱えるようになっていきます。 精神的に不安定な状況が続く 精神的に不安定な状況が続いていたゴッホは、精神病院に入院し、2つの部屋を用意されると一つをアトリエとして利用し、絵を描いていきました。 絵のモチーフは、病院そのものや窓から見える景色で、この時代の代表作としては『星月夜』が有名です。 精神病院では、短時間のみスタッフの監視下においての散歩が許可されており、散歩で見かけた糸杉やオリーブの木が、絵のモチーフになったといわれています。 ゴッホの最期とその後 1890年、ゴッホがパリを訪れると、多くの友人がゴッホのもとを訪ねてきました。 7月ごろ、ゴッホはテオに手紙を書き、その中で『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』の3点の大作を仕上げたことを伝えています。 7月27日、ゴッホは自らリボルバーで胸を撃ち、37歳の若さで亡くなったといわれています。 自殺した場所は、ゴッホが絵のモデルにしていた麦畑もしくは地元の納屋であったそうです。 ゴッホは、疾患や性質については諸説ありますが、躁状態と鬱状態を繰り返す双極性障害であったのではといわれています。 ほかにも、うつ病やてんかんなどの症状もみられており、貧しい生活による栄養不足や過労、不眠、アルコールなどにより、病状が悪化したと考えられています。 ゴッホを献身的に支えた弟テオ ゴッホには弟のテオがおり、長い間貧しい暮らしをしていたゴッホの生活をサポートし続けていました。 しかし、精神状態が常に不安定だったゴッホは、いつまでも弟に迷惑をかけていることを申し訳なく感じ、自殺未遂を図るのでした。 テオはすぐにゴッホのもとを訪れますが、自殺未遂の2日後、ゴッホはテオの腕に抱かれ亡くなります。 兄のゴッホが亡くなったあと、テオも精神を病んでしまい兄を追いかけるようにして半年後に他界しました。 ゴッホは自分の耳を切断した? ある日、ゴッホは自分の耳を切断する大事件を起こしました。 ゴーギャンによると、事件当時ゴッホは、ゴーギャンが身の危険を感じるほど危ない振る舞いをしており、ゴーギャンは共同生活に嫌気がさしていたのもあり、黄色い家を出ていくような素振りをみせていました。 ゴッホは、ゴーギャンが自分のもとを離れていこうとしているのに気づき、慌てて剃刀をもって追いかけてきたそうです。 ゴーギャンは身の危険を感じ、黄色い家には戻らずホテルに宿泊します。 ゴーギャンを追いかけていたゴッホは、黄色い家に戻ると突然幻聴に襲われて、自分の左耳を切り落としてしまったそうです。 意識不明で倒れているゴッホは、警察官によって発見されますが、病院への搬送が遅れてしまったために、切断した耳の接合は叶いませんでした。 ジャンルに分けられないゴッホの絵 ゴッホは、一般的に後期印象派に分類されていますが、作品はオリジナリティが強く、はっきりとはジャンルに分けられません。 後期印象派に近いとはいえ、ゴーギャン作品のようなフォービズムの雰囲気も持ち合わせており、セザンヌに代表するキュビズム的視点もあり、さらにはスーラの点描も感じられるなど、さまざまなジャンルのスタイルが混ざりあっているのが特徴といえます。 年表:フィンセント・ファン・ゴッホ 年号 満年齢 できごと 1853年3月30日 0 オランダ南部ズンデルトにて誕生。父はオランダ改革派の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ、母はアンナ・コルネリア・カルベントゥス。 1861年 8 家庭教師の指導を受けるようになる。 1864年 11 10月、ゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学。絵画に興味を持ち始める。 1866年 13 ティルブルフの国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学し、コンスタント=コルネーリス・ハイスマンスの指導を受ける。 1868年 15 学校を中退し、家に帰る。以降、家庭で学ぶ。 1869年 16 7月、画商グーピル商会のハーグ支店に店員として勤め始める。 1873年 20 グーピル商会のロンドン支店に異動。ここで、イギリス文化と宗教に深く触れる。 1875年 22 グーピル商会のパリ支店に転勤するが、次第に商業的な仕事に嫌気がさし、信仰の道へ進むことを考える。 1876年 23 グーピル商会を退職し、イギリスで教師や牧師補助として働く。聖職者を志すようになる。 1877年 24 アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが、試験に失敗し、学業を断念する。 1878年 25 ベルギーのボリナージュ地方で伝道活動を行い、貧しい鉱山労働者たちに心を寄せる。 1880年 27 画家を志すことを決意し、ブリュッセルで美術の勉強を始める。 1881年 28 オランダのエッテンに移り住み、絵を描き始める。 1882年 29 ハーグに移り、絵画の制作を続ける。 1883年 30 ニューネンに移住し、農民や田園風景を描くようになる。『ジャガイモを食べる人々』を制作。 1885年 32 父が亡くなり、ニューネンを離れる。アントウェルペンに移住し、美術学校に通いながら、さらに自分のスタイルを追求する。 1886年 33 弟テオを頼ってパリに移住し、印象派や新印象派の影響を受ける。日本の浮世絵にも興味を持ち、収集を始める。 1888年 35 南フランスのアルルに移住し、『ひまわり』『夜のカフェテラス』など多くの名作を生み出す。ポール・ゴーギャンとの共同生活が始まるが、12月に「耳切り事件」を起こし、関係が破綻する。 1889年 36 アルル近郊のサン=レミにある療養所に入所し、『星月夜』を含む数々の作品を制作。 1890年 37 5月、療養所を退所し、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移住。7月27日、自らを撃ち、7月29日に死去。
2024.12.26
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 世界の美術家・芸術家