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白隠慧鶴(1686年‐1768年)禅僧・禅画家[日本]

民衆への布教に尽力し、多数の書画を残した江戸時代の禅僧である白隠慧鶴。
現在の臨済宗の僧侶で、現在の臨済宗の僧侶は全員が白隠の弟子といわれるほど日本の禅宗にとって重要な人物です。

白隠慧鶴とは

生没年:1686年‐1768年
臨済宗中興の祖にして500年 にひとりと称された江戸中期の禅僧。
50代以降には、請われて各地で講義を行いながら、数々の著作や書画を1万点以上自作し残しています。
生涯にわたり、さまざまな方法を駆使して法を説きました。
また、人の往来が激しい北海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧としても知られています。
1768年 に84歳 で亡くなった後、1769年 に後桜町天皇より「神機独妙善師」、1884年 には明治天皇より「正宗国師」の諡号を与えられました。
現在、白隠の墓は地元の松蔭寺にあります。

15歳で松蔭寺を出家

駿河国原宿(現在の静岡県)の問屋で白隠は誕生します。
幼少期に母に連れられて行った昌原寺で、日厳上人に地獄の恐ろしさを聞き、「自分は今まで何も考えずに魚や虫を殺してきたから、必ず地獄に落ちるだろう」と戦慄するのです。
日厳上人が恐ろし気に語ったためか、この経験は幼い白隠に強烈な印象を残しました。
白隠は、恐怖に怯え地獄の恐ろしさを思い出すたびに、泣き伏せる日々が続きます。
のちに白隠は、このできごとを「幼かったため、共に語り慰めあう友人もいなかった。人気のない場所で声をあげて泣いた」と語っています。
しかし、この経験が白隠にとって転機となるのです。
このときに見た「日親上人鍋かぶり」という浄瑠璃の芝居で、日親上人が真っ赤に焼けた釜を頭に被っても落ち着いて動じない様子を見た白隠は、15歳 のときに松蔭寺で出家します。
白隠は、出家して仏弟子になれば恐ろしい地獄も克服できると考えたのでしょう。

詩や書で一旗揚げようと決意

出家した白隠は、さまざまな寺で修行に励みます。
しかし、19歳 のときに中国の唐代の禅僧である巖頭和尚が賊に首を切られて殺される最期を知ります。
白隠は、「巌頭は、500年に1人 の名僧で有名です。この人が賊の殺害から免れないのなら、誰が死後三途の川を渡れるのだろう」と語っています。
白隠は、仏教の修行に一度失望し、詩や書に励み一旗揚げようと決意したのです。
詩人の杜甫や李白などを手本として学びますが、歌を勉強したとして果たして地獄の苦しみから逃れられるのだろうかという不安が白隠に襲いかかります。
不安にいる白隠は、ある家の主人が臨済宗の僧侶である大愚宗築の墨蹟を大切にしている姿を見ます。
掛軸がこれほど大切にされているのは、大愚禅師が高い徳があったからだと考えて、白隠は再び仏教に専念するのです。

修行を続けた白隠は、7日間 の断食の後、遠くから鐘の響く音が聞こえて「巌頭老人はやはりご無事だった」と叫んだといいます。

仏法を知ってもらうため、「禅画」が誕生

賊に襲われて殺された巌頭和尚が無事だったとは理解しがたいでしょう。
しかし、禅の世界ではこのような不思議な問いかけが多く、禅問答や公案といわれています。
民衆に禅を広めるために白隠の禅画は、絵で公案を表現したものが多くあります。
『牛過窓櫺』は公案集「無門関」の中にある公案で、白隠はこれを絵にしました。
『牛過窓櫺』とは、牛が窓を通り過ぎるときに、角や頭、脚は通り抜けられたのに、しっぽだけは通り抜けられなかったという公案です。
大きな体は通り抜けられたのに、なぜ小さなしっぽは通り抜けられなかったのか不思議でなりません。
その他に、『隻手の声』という白隠が自身で作った公案があります。
両手を打てば音がするが、片手で打てばどのような音がするのかを問うものです。
白隠は、禅画や公案を通して人々に何かを問いかけていたのかもしれません。

白隠のかわいらしい画風

白隠は、絵を学んでいたわけではなかったため、絵は上手でありませんでした。
しかし、白隠らしい丸みのある可愛らしいタッチは、日本美術の歴史に存在感を残しました。
白隠が禅画を描いた理由は、少しでも多くの人々に仏法を広げたいという禅僧としての思いがあったからでしょう。
白隠の絵には、菩薩や釈迦といった仏教に由来するものや、民間信仰に根差したお福や七福神、擬人化した動物などさまざまなものが描かれています。

白隠の絵は個性的で、絵師には描けないような型破りな作風が特徴です。
画壇という禅の意味を絵で表現した新しいジャンルを確立したのも白隠です。

白隠の代表作

見る人によっては、ふざけたように見えなくもない絵ですが、白隠の禅画にはすべて意味があります。
禅画には禅問答である公案が示されており、どこかに手がかりが隠されていますが、答えが描かれているわけではありません。
見た人が考え、自分なりの答えを導き出させるためです。
白隠の禅画に表現されている内容は、人としての本質を問うものが多く、見れば見るほど奥深くて面白いものです。

『隻手布袋図』

『隻手布袋図』は、両手を打てば音がするが、片手で打てばどのような音がするのかを問う、白隠が考えた代表的な公案に基づく禅画です。
常識や当たり前が正しいという考えが固まってしまってはいけないという禅問答の典型的な内容を表しています。

『慧可断臂図』

『慧可断臂図』は、禅にとっても重要な作品です。
少林寺で坐禅を続けていた達磨大師のもとへ訪ねた神光は、何度も弟子入りを願い出るも返答はありませんでした。
大師は諦めない神光にその難しさについて説くと、神光が自身の左腕を切り落とし捧げた覚悟に大師は応えて弟子入りを許すのです。
神光は、のちに慧可と名を変えて、達磨大師の二祖を継ぎます。
白隠は、達磨大師の崇高さを円の中に描くことで表現し、歯を食いしばって左腕を切り落とすリアルな神光の姿を描いています。

『達磨像』

数々の禅画を残した白隠ですが、その中でも特に大きいものが初祖の達磨図です。
その中の代表作である『達磨像』は、縦192cm、横112cmの極めて大きな作品です。
作品のほとんどが顔で埋め尽くされ、大きくて丸い目が、ジッと何かを見つめています。
左上に描かれている「直指人心、見性成仏」は、達磨による禅の教えの根幹です。
自分の心をまっすぐ見つめ、仏になろうとするためではなく、本来の自分に備わっている仏性に目覚めなさいという意味があり、これが白隠が伝えたい言葉でした。

『布袋図』

ニヤリと満面笑みを浮かべる僧侶。
福耳にたれ目で長い眉の布袋様は、白隠が描く人物としてよく登場します。
布袋様は中国で実在した伝説的な僧侶です。
日本では、七福神の一神として信仰されています。
布袋様は、両手をあげて何かが描かれている紙を広げています。
そして小人のような3人の人は、私たち衆生の象徴で、文字が描いてある神を覗き込んでいるのです。
広げられた紙は、向かって右側が表、左側が裏を表しており、表と裏が無限にループしているようです。

白隠の代わりに九州を渡った『白隠像』

眼光が鋭く見開いた目に、骨が張り出した頬、固く閉じられた口と、太く筋が出た首など、気魄がみなぎっている白隠像です。
日本の臨済禅を代表する貫禄を表現しています。
29歳のときに白隠は、日向・大光寺にあった古月禅材の評判を知り、九州を目指します。
しかし、途中で中止となり、生涯九州に地を踏むことはありませんでした。
白隠は、九州に行けなかったことを後悔していたといいます。
この『白隠像』は白隠が亡くなった翌年に完成しました。
江戸時代に火災に見舞われて、松蔭寺も境内の建造物が焼失してしまうこともありましたが、『白隠像』は250年にもわたり守り続けられています。
2017年3月28日には、沼津市指定有形文化財に指定されています。

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