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モネはなぜ睡蓮を描き続けたのか?

クロード・モネが描いた『睡蓮』とは

『睡蓮』シリーズは、クロード・モネが住むジヴェルニー邸宅の水の庭に生育していた睡蓮を描いた連作です。
1890年から晩年まで制作され続けた『睡蓮』シリーズの作品数は、約250枚にものぼります。
『睡蓮』の連作では、水面を取り巻く陽光の変化を捉えるとともに、大気の揺らぎを描いています。
描写には、実際の睡蓮と水面に映る睡蓮がいくつも重ねられた複雑な空間表現を用いているのが特徴です。
水面だけを切り取った構図は、画面の外側にも水面が広がっているような感覚を見る者に覚えさせ、無限の空間を表現しているのです。

同じ風景や同じ構図で描かれた『睡蓮』がいくつもありますが、すべて異なる印象をもっており、時間とともに変化する睡蓮の形や色彩、水面のきらめきなどを巧みに表現した『睡蓮』は、まさに光の画家と呼ばれるにふさわしい作品といえるでしょう。

クロード・モネと睡蓮[引用元:オランジュリー美術館 公式HP]
クロード・モネと睡蓮[引用元:オランジュリー美術館 公式HP]

『睡蓮』のモデルとなった場所

『睡蓮』シリーズのモデルとなっているのは、1890年にモネが購入したジヴェルニーの家の、「水の庭」です。
列車の車窓から見たジヴェルニーの景観の美しさに心を奪われたモネは、43歳でジヴェルニーに移り住むことを決意します。
ジヴェルニーの家と広大な土地を購入したモネは、果樹園の樹木を伐採し、四季折々の花咲く「花の庭」を作り、3年後には土地を買い足して「水の庭」を作りました。

「水の庭」には、もともとオモダカや睡蓮が自生しており、モネはそこに太鼓橋をかけたり、藤棚をのせたりとアレンジを加えていきました。
また、橋のたもとには菖蒲やかきつばたを植え、池のほとりには柳や竹林も作っています。
睡蓮の池には、フランス国内の白睡蓮や南米・エジプトから輸入した睡蓮も植えられており、白や黄色、青色、ピンクなどカラフルな花が咲き誇っています。

 

『睡蓮』は大きく3つの時代に分かれている

モネが描いた約250枚の『睡蓮』には、大きく3つの時代に分けられます。
第1シリーズは1900年まで、第2シリーズは1903年以降に制作されたもの、そして晩年に描かれた大装飾画の3つです。

第1シリーズ

1900年までに描かれた第1シリーズでは、「水の庭」にかかる太鼓橋をメインに、睡蓮の池や枝垂れ柳とともに光の変化が描かれています。
風景を広く切り取って描くことの多いモネですが、第1シリーズでは睡蓮の花や葉っぱに着目した作品が多い傾向です。

 

『モネの庭の橋』クロード・モネ (1895年)[引用元:wikipedia]
『モネの庭の橋』クロード・モネ (1895年)[引用元:wikipedia]

第2シリーズ前期

第2シリーズの前期では、メインとしていた太鼓橋を描かず、水面に浮かぶ睡蓮や水面に映る空模様がメインとして描かれています。
第1シリーズでは、太鼓橋や植物に当たる光の角度や影の表現によって時間の流れを感じ取れましたが、第2シリーズでは水面に空を描くことで、時間の移り変わりをより鮮明に表現しました。

 

『睡蓮』クロード・モネ(1904年) [引用元:wikipedia]
『睡蓮』クロード・モネ(1904年) [引用元:wikipedia]

 

『睡蓮』を描き続けたモネでしたが、1909年から1912年の間は作品制作を中断していました。その大きな理由が白内障で、1908年ごろから目の不調を訴えていたモネは、1912年に白内障と診断されます。
一時は、絵具の色が判別できないほどでしたが、1913年に『睡蓮』の制作を再開しました。
しかし、白内障の影響もあり、これ以降の作品ではゴッホの画風を彷彿とさせる抽象的な表現が見受けられます。

 

『睡蓮』クロード・モネ(1915年)[引用元:wikipedia]
『睡蓮』クロード・モネ(1915年)[引用元:wikipedia]

最晩年の傑作『睡蓮』の大装飾画

大装飾画は、モネが最晩年に制作した最大17mにもなる大作です。
モネはもともと、19世紀末ごろから1つの部屋を睡蓮の巨大なキャンパスで埋め尽くす大装飾画を描こうと構想していました。
しかし、白内障による視力の低下や2番目の妻であるアリスと息子の死など、自身に次々と降りかかった不幸に絶望し、制作ができる状態にはありませんでした。

のちに手術により視力が回復し、心と体の健康を取り戻したモネは、残りの人生を大装飾画の制作に捧げようと決意し、制作を進めたのです。
『睡蓮』の大装飾画は、22枚のパネルで構成された8点の作品になっています。
作品をすべてつなげると、横幅はなんと91mにもなります。
『睡蓮』の大装飾画を仕上げたとき、モネは80歳になっており、晩年の大傑作といえるでしょう。

 

オランジュリー美術館に飾られている『睡蓮』の大装飾画 [引用元:オランジュリー美術館 公式HP]
オランジュリー美術館に飾られている『睡蓮』の大装飾画 [引用元:オランジュリー美術館 公式HP]

 

モネが『睡蓮』の連作を描き続けた理由

モネが『睡蓮』を描いていた時代は、フランスで園芸が流行しており、園芸誌も多く発行されていました。
モネは画家でしたが、植物を育てることもライフワークにしており、ジヴェルニーに引っ越してからはさらに園芸が本格化していきました。
最初は、睡蓮を植えたら面白いのではと軽い興味で育てていたため、初期の庭の絵には睡蓮が描かれていません。
その後、1899年の太鼓橋が描かれた『睡蓮の池』シリーズの構図がきっかけとなり、連作を描くようになったといわれています。

また、モネは、同じ構図で同じ風景を異なる時間帯で描くことで、移りゆくときの流れや天気・気温の一瞬の変化をキャンパスに収めることを目指していました。
展覧会で連作を並べることで、鑑賞者や購入者がわずかな構図の違いや光の差し具合、天気の変化などを見極めて、気に入った1枚を見つけるという自発的な鑑賞を勧め、購入意欲を高めさせる狙いもありました。

 

『睡蓮』は日本の浮世絵の影響を受けている?

最初のころの『睡蓮』シリーズには、太鼓橋や柳など日本を想起させるようなモチーフや風景が多く描かれています。
これは、モネが『睡蓮』のモデルとなる「水の庭」を作る際、日本美術に大きな影響を受けていたためと考えられます。
19世紀後半のパリは、万国博覧会が開催された影響もあり、ジャポニスムが大流行していました。
また、日本が江戸時代に鎖国を解き、開国したこともあり、フランスには日本の浮世絵や工芸品など、日本の美術が大量に輸入されていたのです。

今までの西洋美術にはない特徴をもつ日本の美術は、新鮮な目で見られ、多くの画家の心を惹きつけました。
特に、浮世絵の大胆な構図や鮮やかな色彩表現は、モネだけではなくゴッホやドガ、マネなど多くの芸術家に影響を与えました。
西洋の画家たちは、日本美術特有の構図や色彩表現を取り入れることで、さらに革新的な絵画を生み出していったのです。
モネも、日本美術に魅せられた画家の一人で、日本人の自然観を反映した庭園を自宅に作りました。
そのため「水の庭」には、日本の庭園を思わせるような太鼓橋や藤棚などが作られており、初期の『睡蓮』には、日本の風景を思わせる作品が多かったと考えられるでしょう。

日本風の太鼓橋は、浮世絵師である歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている日本の橋と呼ばれる太鼓橋がモデルになっています。
モネにとって太鼓橋は、東洋美術と西洋美術が出会い、融合する象徴であり、自然と人工の調和を表現していたともいえるでしょう。
『睡蓮』シリーズに見られる柳のように枝が垂れている「枝垂れ」の構図は、それまでの西洋絵画では見られなかった構図で、モネが日本美術にどれほど影響を受けていたかがうかがえます。

 

『柳と睡蓮の池の眺め』クロード・モネ(1916-1919)[引用元:wikipedia]
『柳と睡蓮の池の眺め』クロード・モネ(1916-1919)[引用元:wikipedia]

 

浮世絵や日本画などの日本美術では、繊細な筆使いや微妙な色合いの変化なども特徴的です。
『睡蓮』シリーズでも日本画に見られるような独特のグラデーションが使われており、色使いが魅力の一つともいえます。
浮世絵の特徴である遠近を感じさせない平面的な表現も、モネは作品に取り入れています。
また、『睡蓮』シリーズでは、一般的な四角いキャンバスではなく、丸キャンバスに描かれた作品もあるのが特徴です。
日本の寺院や和室には丸窓があり、これは日本の詫び寂び文化を反映したものであるといえるでしょう。
四角いキャンバスは外に視点が広がっていく効果がありますが、トンド型形式と呼ばれる丸型のキャンバスは、鑑賞者の視線を中央に吸い寄せる効果があります。

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