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尾竹国観 の『絵踏』—キリシタン迫害の象徴と波乱の歴史
尾竹国観は明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、兄弟の越堂、竹坡とともに「尾竹三兄弟」として知られています。 『絵踏』は1908年に制作され、キリシタン迫害をテーマにした作品で、その内容は日本画界に大きな衝撃を与えました。 しかし、展覧会での波乱のため、わずか4日間の展示にとどまり、その後長い間人々の目に触れることがありませんでした。 2024年の特別展「オタケ・インパクト」にて、この「幻の作品」が初めて公開されることになり、再評価の機会が訪れたのです。 尾竹国観とキリシタン迫害を描いた『絵踏』 尾竹国観は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、兄の越堂と竹坡とあわせて尾竹三兄弟と呼ばれることもありました。 14歳で富山博覧会に出品し三等賞を受賞するなど、若い頃からその才能を発揮しました。 16歳で日本美術協会の一等賞を受賞し、以降も数多くの展覧会で受賞を重ねています。 国観の『絵踏』は、1908年に制作された作品で、キリシタン迫害の象徴的な場面である「絵踏」のシーンを描いています。 尾竹国観が描いた宗教的迫害の象徴『絵踏』とは 作品名:絵踏 作者:尾竹国観 制作年:1908年 技法・材質:絹本着色 寸法:ー(記載なし) 所蔵:個人蔵 国観が1908年に制作した『絵踏』は、日本のキリシタン弾圧をテーマにした衝撃的な作品です。 この作品は、キリシタン信者が聖像を踏むことで信仰を放棄することを強制される「踏み絵」の場面を描いており、宗教的迫害を象徴しています。 『絵踏』には、乳飲み子を抱えた母親や老夫婦、武士や農民のほか、宣教師とみられる白人や中国風の人物など、多様な背景を持つ41人の登場人物が描かれています。 この多様性は、さまざまな階層や背景を持ったキリスト教徒が多くいたことを示し、信仰がどのように広がっていったかを物語っているのが特徴です。 また、群像を通じて、信者たちが直面した宗教的な圧力や内面的な葛藤が視覚的に強調されています。 絵の中で描かれる信者たちの表情や姿勢には、苦悩や拒絶の感情が込められ、観る者に強烈な印象を与えます。 尾竹国観の『絵踏』は、単なる歴史的な描写にとどまらず、宗教的な自由の重要性を問う作品でもあるといえるでしょう。 尾竹国観の『絵踏』と展覧会の波乱 尾竹国観が1908年に発表した『絵踏』は、キリスト教信者が踏み絵を踏まされるシーンを描いた作品で、そのテーマが当時の社会的な圧力や宗教的迫害を反映しています。 しかし、この作品はただの歴史的な描写にとどまらず、展覧会での波乱によって「幻の作品」としても名を馳せることとなりました。 『絵踏』は国画玉成会の展覧会に出品されましたが、その展示は長く続きませんでした。 開幕日に行われた懇親会で、国画玉成会の会長・岡倉天心と国観の兄・竹坡が、展覧会の審査員の選定方法を巡って激しい衝突を起こしたのです。 この衝突は激化し、竹坡は国画玉成会から除名され、国観も兄に従って脱会することになりました。 この事件が影響し、国観の『絵踏』は展覧会の会場から撤去されることとなり、実際に展示されたのは開幕初日からわずか4日間だけでした。 『絵踏』が展覧会から撤去されたことから、この作品は「幻の作品」として語られることが多くなったのです。 短期間の展示ゆえに、その迫力や社会的メッセージを直接目にする機会は限られており、存在感を強く印象づける要因となったといえるでしょう。 また、この事件は尾竹三兄弟のアナキズム的な表現を強めるきっかけともなりました。 従来の美術界に対する反発が高まり、彼らは独自の画塾展を開催し、自由で前衛的な表現を追求し始めます。 尾竹三兄弟の反骨精神と独立心は、その後の日本画の革新へとつながります。 『絵踏』を巡るできごとは、彼らが従来の美術界に対して挑戦的な姿勢を貫き、後の前衛的な日本画の方向性を示す重要な転機となったのです。 このように、『絵踏』は単なる一枚の絵画としての枠を超え、その波乱の経緯も含めて、日本美術史の中で特別な位置を占めることとなりました。 『絵踏』が撤去された理由と再評価 『絵踏』は、1908年に発表されるも、展覧会での運営上の問題により、展示初日からわずか4日後に会場から撤去された作品です。 撤去は作品内容の評価に関係するものではなく、展覧会での運営上のトラブルによって引き起こされたものでした。 キリスト教の迫害をテーマにしたこの絵画は、当初は多くの注目を集めましたが、その後、長い間人々の目に触れることはありませんでした。 しかし、2024年の特別展「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」において修復され、初めて公開されることとなります。 『絵踏』の公開は、尾竹三兄弟の作品や彼らの活動が再評価される機会となり、改めてその独自の視点や表現が注目されています。 社会的メッセージを込めた代表作であり波乱万丈な人生を歩んだ『絵踏』 国観は、独自のスタイルと視点を持ち続けた日本画家で、彼の作品は、当時の日本社会に対する鋭い洞察を反映し、特に『絵踏』はその代表作として高く評価されています。 この作品は、国観の芸術的な革新性や社会的メッセージを強く感じさせるものであり、今もなおその価値が再評価されています。 『絵踏』は、単なる歴史画ではなく、彼の時代に対する深い洞察を反映した作品であり、その社会的なメッセージは今もなお多くの人々に響き続けているのです。
2024.12.28
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モネの 描く光の世界―『舟遊び』で感じる自然と人の調和
クロード・モネは、「印象派」という美術運動の創始者として知られており、自然の光と色彩を巧みに捉えた数々の名作を残しました。 そのなかでも『舟遊び』は、彼が光の変化や水面の美しさを追求しながらも、家族の穏やかな日常を描き出した特別な作品です。 大胆な構図や日本文化の影響を感じさせる色彩のコントラストが見どころで、のちに生み出される名作『睡蓮』シリーズを予感させる重要な作品でもあります。 印象派を代表するクロード・モネ クロード・モネは、印象派の代表的な画家で、屋外で直接自然を観察しながら描く戸外制作の手法を広めた人物でもあります。 代表作には『印象、日の出』、『散歩、日傘をさす女性』、『睡蓮』、『舟遊び』などがあり、どの作品でも光と色彩の変化を巧みに捉えているのが特徴です。 https://daruma3.jp/kottouhin/1070 『舟遊び』はのちの名作『睡蓮』を予感させる水面の表現が特徴 作品名:舟遊び 作者:クロード・モネ 制作年:1887年 技法・材質:油彩・カンヴァス 寸法:145.5 × 133.5cm 所蔵:国立西洋美術館 クロード・モネが1870年代に描いた名作『舟遊び』のモデルになったのは、モネの再婚相手となるアリス・オシュデの連れ子であるシュザンヌとブランシュです。 彼女たちが舟の上で穏やかなひとときを過ごしている姿を描かれています。 『舟遊び』の最大の特徴は、絵画の大部分を占める水面の描写です。 水面はまるで巨大な鏡のように、周囲の風景や光を映し出しています。 季節や天候の変化を繊細に捉えた水面のきらめきや逆さに映る風景は、モネが自然をどのように観察し、表現していたかを鮮やかに物語っています。 この描写は、後年の代表作『睡蓮』シリーズへと続く芸術的探求を予感させるものでもあるのです。 モネの生活に転機が訪れた際に描かれた作品『舟遊び』 『舟遊び』は、モネの生活のなかで新たな転機が訪れた時期に制作された作品です。 1883年、モネは妻カミーユを亡くした後、アリス・オシュデとその子供たちとともにジヴェルニーに移り住みました。 この地での穏やかな暮らしと、新しい家族との日常は、モネの創作に大きな影響を与えます。 屋敷近くのエプト川に浮かべた小舟は、一家にとって遊びの場であると同時に、モネの創作意欲を刺激する存在でした。 小舟を浮かべて遊ぶ一家の姿をモネは何度も繰り返し描いています。 本作品はその作品群のなかでも完成度の高い一作として知られています。 この作品には、光のなかで戯れる人物像という、モネが初期から取り組んできたテーマが生きているのです。 1860年代に描かれた『庭の女たち』(オルセー美術館)に見られるように、モネは当初から戸外の光と婦人像の組み合わせを好んで描いていました。 『舟遊び』では、光が川面や人物を柔らかく包み込み、色彩が鮮やかに交錯するさまが際立っています。 この作品は、モネが1880年代に光と色彩の探究を深化させつつも、人物や物語性を絵画に再び取り入れた例でもあります。 水面に映り込む光や色彩の微妙な変化を繊細に捉える技法は、後年の『睡蓮』シリーズへとつながるモネの芸術的進化を感じさせてくれるのも魅力の一つです。 日本文化と印象派が融合された大胆な構図の『舟遊び』 『舟遊び』は、モネが制作した作品のなかでも、ユニークな構図と鮮やかな色彩が特徴の一作です。 モネは、この絵画で大胆に小舟を半分に断ち切るような構図を採用しました。 このアプローチは、西洋絵画の伝統的な遠近法から離れ、写真術や日本の浮世絵版画から影響を受けたものと考えられています。 この構図のなかで、画面を覆う青とばら色、緑とヴァーミリオン(朱色)の色彩が鮮やかに対比し、視覚的なインパクトを生み出しています。 『舟遊び』に見られる構図の斬新さや空間の扱いは、モネが日本の浮世絵から得た影響を物語っているといえるでしょう。 モネの芸術的探究と家族への愛が詰まった『舟遊び』は、見る者に彼の創造力と感性の深さを感じさせる一枚です。 モネが描く光と色彩の繊細で美しい日常を楽しめる作品『舟遊び』 今回紹介した『舟遊び』は、モネの創造力や観察眼の深さを感じさせる傑作です。 この作品では、日常の穏やかなひとときを大胆な構図と繊細な色彩で切り取り、水面に映る光や影の変化を通して、自然が見せる多様な表情を描き出しています。 また、光と色彩の探究を続けるモネが人物や物語性を再び絵画に取り入れた例であり、後の『睡蓮』シリーズへの伏線ともいえる作品です。 この作品に見られる日本文化や写真術の影響は、モネが印象派の枠を超えた表現を追求していたことを表しているでしょう。 モネの芸術は、日常のなかの美しさをあらためて私たちに気づかせてくれるものです。 『舟遊び』を通じて、彼の描いた夢のような光景に浸り、その美しさを間近で感じてみてはいかがでしょうか。 https://daruma3.jp/kottouhin/872
2024.12.28
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2024年、 新たに発見された竹久夢二の日本画『白桃や』『南枝王春』
2024年、竹久夢二の日本画『白桃や』と『南枝王春』が新たに発見され、注目を集めています。 大正ロマンの代表的な画家として名高い竹久夢二の作品は、繊細な筆致と詩的な感性が特徴で、今回の発見は彼の芸術の深さをあらためて感じさせてくれたでしょう。 これらの作品は夢二が友人に贈ったものであり、その背景には感謝の気持ちが込められています。 大正ロマンを代表する竹久夢二の日本画『白桃や』『南枝王春』 竹久夢二は、大正ロマンの代表的な画家として知られ、その作品には詩的な感性と美しい色使いが見受けられます。 「夢二式美人画」と呼ばれる独特の美人画で広く人気を集めていました。 女性の美しさを繊細かつ情緒豊かに表現しており、当時の文化や社会を反映した作品が、広く愛されています。 新たに発見された代表作『白桃や』『南枝王春』は、どちらも小林俊三が収集しており、遺族から寄託された作品です。 竹久夢二が友人に贈った『白桃や』『南枝王春』とは 作品名:白桃や 作者:竹久夢二 制作年:1929年 技法・材質: 寸法:118.8×35.8cm 所蔵:竹久夢二美術館 作品名:南枝王春 作者:竹久夢二 制作年:昭和初期ごろ 技法・材質: 寸法:125.6×33.7cm 所蔵:竹久夢二美術館 2024年、大正ロマンの画家・竹久夢二が描いた日本画が、新たに発見されたと話題になりました。 『白桃や』と『南枝王春』は、いずれも夢二が友人に贈った作品であり、繊細な筆致と色使いで注目を集めています。 絹地に顔料と墨で描かれており、色彩や仕上げの精緻さが目を引く作品です。 『白桃や』は、立ちびなを描いており、『南枝王春』は梅花の下で羽根つきをする舞妓を描いています。 友人への感謝の気持ちを込めて贈られた作品 2024年、竹久夢二の新たな作品『白桃や』と『南枝王春』が、竹久夢二美術館に寄託されたことが発表されました。 この2点は、夢二と共に「春草会」で活動していた弁護士であり、最高裁判事を務めた小林俊三の旧蔵品です。 『白桃や』は1929年に制作された作品で、夢二が小林俊三に贈った絵画です。 夢二が関わった裁判で代理人を務めた小林への感謝の意を込め、絵には自作の短歌と手紙が添えられました。 一方、『南枝王春』は昭和初期に制作された作品で、春草会の仲間であった編集者に夢二が贈ったものです。 後に小林がこの作品を買い取り、長年大切に保管していたことが知られています。 小林俊三は、ゾルゲ事件や極東国際軍事裁判(東京裁判)をはじめ、戦前戦後の数多くの重要な法的事件に関与してきた法曹界の重鎮でした。 そんな彼が竹久夢二の作品を大切に保管していた事実は、親族を除いてほとんど知られていませんでした。 竹久夢二の新たな一面が垣間見える2つの作品 『白桃や』は1929年に制作され、立雛たちびなが鮮明に描かれています。 絵の上部には、夢二自作の句「白桃や恋はほのかにあるべかり」が添えられており、彼の詩的な感性が表れています。 この作品は、夢二がある料亭から訴えられた訴訟で、小林俊三が弁護士として勝訴に導いたお礼として贈られました。 小林は後年、「大した訴訟でもないので鯛を釣り上げたようなものだった」と述べており、作品を贈ってもらったことに対する喜びを振り返っています。 一方、『南枝王春』は昭和初期に制作された作品で、梅花の下で羽根つきを楽しむ舞妓の姿が描かれています。 だらりの帯には松、羽子板には竹が描かれており、松竹梅という吉祥の象徴が盛り込まれためでたい作品です。 元々、編集者の石黒露雄に贈られたこの作品は、石黒が金策のために小林に買い取りを依頼し、小林の手元に渡りました。 この2つの作品は、竹久夢二が身近な人々とのつながりを大切にし、贈り物として心を込めて制作していたかを感じさせてくれる作品です。 今後も新たな発見が期待できる竹久夢二の作品群 竹久夢二が友人に贈った『白桃や』と『南枝王春』は、彼の芸術的な感性と人間味を感じさせる作品です。 『白桃や』は夢二が弁護士・小林俊三への感謝の気持ちを込めて制作し、絵に自作の句と手紙が添えられていたことが印象的です。 『南枝王春』もまた、贈り物として心を込めて描かれた作品で、松竹梅の象徴を通じてめでたい意味が込められています。 今後も竹久夢二の作品から、新たな発見や感動を得られるでしょう。
2024.12.28
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草間彌生 が創り出す「かぼちゃシリーズ」の魅力に迫る
草間彌生は、幼少期からの幻覚や幻聴という苦難をアートで昇華し、世界的な現代アーティストとして不動の地位を築きました。 その作品群の中でも、「かぼちゃシリーズ」は彼女の代名詞として知られています。 シンプルでありながら力強いフォルム、鮮やかな色彩、そして無数のドット模様によって表現されるかぼちゃには、草間自身の内面が投影されています。 このシリーズは、幼少期の記憶や自然とのつながり、彼女の生きた証として、観る者に深い感動を与えるでしょう。 幻覚と幻聴を乗り越えた芸術家「草間彌生」が制作するかぼちゃ 現代アートの巨匠・草間彌生は、幼いころから幻覚や幻聴に悩まされる日々を送っていました。 その中で、不安や恐怖などの負の感情を、制作という形で表現し、生きる力へと変えていったのです。 彼女の作品には、生命力と強いエネルギーが宿り、観る者に感動を与える力があります。 草間彌生を語るうえで欠かせないのが、彼女の代表作「かぼちゃシリーズ」です。 シンプルでありながら力強いかぼちゃのフォルムには、草間自身の内面が投影されています。 一説には、このかぼちゃが彼女の「自画像」として描かれているともいわれています。 無数のドットや鮮やかな色彩で表現されたかぼちゃは、彼女独自の世界観を体現し、観る者に彼女の魅力を直に感じさせる存在です。 幼少期の記憶から世界へ広がる『かぼちゃシリーズ』とは 作品名:かぼちゃシリーズ 作者:草間彌生 草間彌生がかぼちゃに魅了されたのは、幼少期にまでさかのぼるそうです。 そして、作品として初めてかぼちゃが登場したのは1946年に松本で開催された巡回展でのこと。 この作品は日本画として描かれ、当時の彼女の感性を反映した初期の一例として注目されています。 1970年代になると、草間彌生の作品に再びかぼちゃが登場します。 この時期、彼女はかぼちゃをドット模様と組み合わせ、より個性的で象徴的な作品として昇華させていきました。 1994年、草間は瀬戸内海に浮かぶ直島で、黄色地に黒のドット模様が施された巨大なかぼちゃのインスタレーションを発表。 この作品は、海と空、そして直島の静寂な風景と調和し、多くの人々に感動を与えました。 2000年代に入り、草間彌生のかぼちゃはさらに多様な形で世界中に広がります。 東京都港区の松代駅、福岡市美術館、フランスのリール・ヨーロッパ駅、アメリカのビバリー・ガーデンズ公園など、世界各地で野外インスタレーションとして展示されました。 かぼちゃシリーズは、ステンレススチールやブロンズ、モザイクなどのさまざまな素材で制作されています。 「かぼちゃシリーズ」は彼女の人生を映す特別なモチーフ かぼちゃのインスタレーションは、草間彌生の代名詞といえるほど有名なモチーフです。 そのどっしりとしたフォルムと水玉模様が施された独特の存在感は、彼女の作品を一目で識別できる要素となっています。 長野県の豊かな自然に囲まれて育った彼女は、そこで見たかぼちゃの独特な形に「精神的力強さ」を感じ取りました。 かぼちゃは彼女にとって安心感を与えてくれる存在であり、幼少期の記憶が今なお彼女の創作に生きています。 かぼちゃは、絵画作品や立体作品などさまざまな形式で表現されています。 かぼちゃのモチーフを使った作品を制作する理由は、かぼちゃが一つとして同じ形を持たない、唯一無二の個性を象徴するから。 草間自身も、自分の人生や個性をこのモチーフに投影し、未来への意思を込めて制作しています。 日本各地で出会える色鮮やかな「かぼちゃシリーズ」 青森県の十和田市現代美術館には、草間彌生が手がけた8つの彫刻作品がアート広場に設置されています。 これらの作品では、彼女の象徴ともいえる水玉模様が鮮やかに表現され、訪れる人々をカラフルな夢の世界へと誘います。 十和田市の自然と調和したこの展示は、草間アートの魅力を存分に感じられるスポットです。 福岡市美術館では、草間彌生が初めて手がけた野外彫刻である『南瓜』が展示されています。 草間アートの原点ともいえるこの作品は、圧倒的な存在感で訪問者の目を引きつけているのです。 草間彌生の故郷、長野県松本市に位置する松本市美術館では、彼女の代表作である「かぼちゃシリーズ」をはじめ、多数の作品を鑑賞できます。 瀬戸内海に浮かぶ「直島」では、赤いかぼちゃのオブジェの鑑賞が可能です。 この作品は、訪れた人が中に入れるユニークな設計が特徴です。 草間彌生本人はこの作品について、「太陽の赤い光を探して宇宙の果てまできたら、それは直島の海の中で赤かぼちゃに変身してしまった」と語り、作品に込められた物語性を明らかにしています。 直島の美しい海と赤いかぼちゃのコントラストは、訪れる人々を魅了してやみません。 かぼちゃシリーズ:草間彌生のアートが描く生命と個性 草間彌生の「かぼちゃシリーズ」は、彼女の生き方や創作の本質を象徴するモチーフです。 幼少期に目にしたかぼちゃから「精神的力強さ」を感じた彼女は、これを自分の創作に取り入れました。 同じ形のものが一つとして存在しないかぼちゃは、草間彌生の個性や人生観を表現するのに最適な存在だったのです。 絵画や立体作品など多彩な形式で表現されたかぼちゃ作品は、彼女の創作の幅広さと深みを物語ります。 現在、彼女のかぼちゃアートに触れる機会は日本各地に広がっています。 日本各地で彼女の作品に触れ、その魅力を直接体感する旅に出てみてはいかがでしょうか。
2024.12.28
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全国各地に設置されている希望の旅の守り神『SHIP’S CAT』シリーズとは?
ヤノベケンジが制作してきた作品には、多くの動物が登場します。 初期作品の『イエロー・スーツ』は、当時飼っていた犬の放射能防護服として制作しており、その後もネズミやゾウ、マンモス、龍などさまざまな動物が登場しています。 中でもインスタレーションによく用いられる動物が猫です。 日本の漫画・アニメ・特撮映画などを現代美術に取り入れた芸術家「ヤノベケンジ」 ヤノベケンジは、大阪府出身の現代美術作家で、京都造形芸術大学の教授も務めています。 1990年代初頭から「現代社会におけるサヴァイヴァル」をテーマにさまざまな機械彫刻作品を制作してきました。 ユーモラスのある造形作品には、社会的なメッセージが込められていたり、実際に乗って動かしたりできる機械彫刻や巨大彫刻などがあります。 ヤノベケンジの代表作である『SHIP’S CAT』は、シリーズものとして各地に設置されています。 宇宙服を着た不思議で巨大な白猫のオブジェ『SHIP’S CAT』とは 作品名:SHIP'S CAT 作者:ヤノベケンジ 『SHIP’S CAT』は、古代エジプトから船に乗り、大航海時代にネズミから貨物や船を守ったり、疫病を防いだりしながら世界中を旅してきた猫です。 ときには船員の心を癒す友にもなり、猫のもつ愛らしさによってマスコットのように扱われたり守り神として扱われたりしてきました。 『SHIP’S CAT』の第1号は博多に 『SHIP’S CAT』の第1号となる作品は、福岡県の博多にあるホステル「WeBase」のために制作されました。 博多は、日本で初めての人工港である「袖の湊」があった場所で、船旅の拠点であったことにも着想を得ているといわれています。 巨大な白い猫からは、建物の中から今にも飛び出していきそうな力強さを感じます。 ヘルメットはランプの役割ももっており、宇宙服のような衣装は、宇宙を旅する未来の希望を予兆しているそうです。 この白い猫が安全や出会いを手助けする守り神になって、迷いの中にいる人々や若者の旅を導いてほしいという願いが込められています。 『SHIP’S CAT』シリーズとして全国各地に展開していく 『SHIP’S CAT』シリーズは、博多の作品を皮切りに全国各地に展開されていきました。 2017年に福島で開催された「重陽の芸術祭」では、二本松城本丸跡に黒猫タイプの『SHIP’S CAT(Black)』が展示されました。 黒猫は、日本古来より幸福の証として崇められており、厄災を払い幸福を呼び込むことを願って制作されたそうです。 そのほかにも、WeBase 鎌倉に『SHIP’S CAT (Harbor)』、中国の長風大悦城に『SHIP’S CAT (Sailor) 』、京都に『SHIP’S CAT (Totem) 』、高松に『SHIP’S CAT (Returns)』、広島に『SHIP’S CAT (Fortune) 』、大阪中之島美術館に『SHIP’S CAT (Muse)』と、さまざまな場所に『SHIP’S CAT』シリーズが登場していきました。 そして2024年、岡本太郎記念館の庭の一角に新たに『SHIP’S CAT』が設置されました。 鮮やかなオレンジ色の宇宙服にシルバーの装飾と羽が、より宇宙服を感じさせてくれます。 首元には、小さなゴールドの鈴がついており、猫らしい可愛らしさがあります。 眼の中は、明るい緑色に妖しく光っており、夜茂みの中にこの眼をみたら驚いてしまいそうです。 旅の守り神『SHIP’S CAT』が地球の生命を生み出した 今回ご紹介した『SHIP’S CAT』シリーズは、旅の守り神という意味を込めて制作されています。 中でも、岡本太郎記念館に展示されている『SHIP’S CAT/宇宙猫』は、無機質で何もなかった地球に生命の種をまき、生命を誕生させたというヤノベケンジの壮大な妄想ストーリーに登場する猫として生み出されました。 岡本太郎が制作した『太陽の塔』からインスピレーションを受け、『SHIP’S CAT』が乗ってきた宇宙船『LUCA号』の残骸が『太陽の塔』であるというストーリーを組み立てています。 ヤノベケンジが制作する作品は、ワクワクするようなものが多くあり、子どもから大人まで見て楽しめるでしょう。 また、作品には未来に対する希望の意味が込められているなど、社会的なメッセージも託されており、楽しみながらも考えさせられる作品となっています。 ヤノベケンジが繰り広げる妄想ストーリーと巨大な作品たちを、ぜひ一度間近で鑑賞してみてください。 https://daruma3.jp/kottouhin/339
2024.12.27
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ポップな ビジュアルで反戦をうたう田名網敬一『NO MORE WAR』シリーズ
日本の現代アートシーンにおいて、独特なポップアートスタイルと社会的メッセージを融合させた作品で知られる田名網敬一。 彼の代表作の一つに挙げられるのが、1967年に制作された『NO MORE WAR』シリーズです。 アメリカンカルチャーやポップアートの影響を受けつつ、反戦のメッセージを鮮やかに表現したこの作品は、世界的に評価され、アート界でも重要な位置を占めています。 日本のアンダーグラウンドアートシーンをけん引した田名網敬一 近年、急速に再評価されている日本人アーティスト、田名網敬一。 彼は武蔵野美術大学在学中にデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、1975年には日本版月刊「PLAYBOY」初代アートディレクターを務めるなど、広告や雑誌の分野で活躍したアーティストです。 『NO MORE WAR』シリーズは、タイトルの通り反戦をうたった作品群で、1967年に制作されています。 反戦を訴える作品ですが、重苦しすぎずカラフルでポップなデザインが特徴で、多くの人の目に留まりやすい作品です。 内部リンク:人物記事『田名網敬一』 反戦ポスターのコンテストに出品された『NO MORE WAR』シリーズとは 田名網は、学生時代のころから作品を多くの人に見てもらえる形式は何かを追求し続けており、その中で印刷や版画などの複製技術に興味を持つようになりました。 特に、1960年代中ごろからシルクスクリーンを使った作品を制作するようになり、その一環として「NO MORE WAR」シリーズが誕生しました。 『NO MORE WAR』シリーズでは、網点による背景制作、写真の流用、漫画のような構成などの特徴が見られ、当時田名網が持っていた印刷技術への関心が色濃く反省されているといえるでしょう。 田名網がデザイナーとして働く中で培ってきたレイアウトや色使いの技術は、『NO MORE WAR』シリーズにも鮮やかに表現されています。 『NO MORE WAR』シリーズは、反戦のメッセージだけでなく、技術的にも高く評価される作品です。 https://daruma3.jp/kottouhin/1183 『NO MORE WAR』は反戦ポスターのコンテストで優秀作品に 田名網の『NO MORE WAR』シリーズは、1967年にシルクスクリーン技術を用いて制作されました。 この作品は、アメリカの雑誌「Avant Garde」が1968年に主催した反戦ポスターコンテストに出品され、見事優秀作品に選ばれています。 タイトルの通り、反戦をテーマとした作品ですが、アメリカンコミックやポップアートからの影響が色彩やデザインに反映されており、ポップな印象も与えます。 田名網が『NO MORE WAR』シリーズに込めた反戦メッセージはもちろん強烈ですが、同時にカラフルで目を引くアメリカ文化の要素が巧みに取り入れられている点も魅力の一つです。 「NO MORE WAR」シリーズを通して、当時のアメリカンカルチャーが田名網の感性に与えた衝撃を、私たちも体感できることでしょう。 極彩色で描かれたポップでシュールな田名網敬一の作品 田名網が制作する作品の特徴は、なんといっても極彩色で描かれたポップでシュールなデザインです。 夢や記憶、幻想、幻覚など、田名網の実体験に基づいたテーマが奇抜で多彩なモチーフとして表現されています。 例えば、多くの作品にアメリカの爆撃機やサーチライト、擬人化された爆弾や動物など、田名網の幼少期の戦争体験に由来するモチーフが頻繁に登場します。 また、SF雑誌や漫画、映画など、田名網が少年時代に夢中になった文化的な影響も、多くの作品にちりばめられているでしょう。 特に「黄金バット」や「少年王者」など、紙芝居や映画は彼の創作の原点として重要な役割を果たしています。 ポップでありながら、深い戦争体験に根ざした田名網の作品は、どこかシュールで心に残る魅力を持っているのです。 社会的メッセージが込められたポップアート『NO MORE WAR』シリーズ 今回ご紹介した田名網敬一の『NO MORE WAR』シリーズは、ポップアートの手法を取り入れながらも、彼自身の戦争体験やアメリカ文化への強い影響を反映した作品です。 反戦というテーマに込められたメッセージは、時代を超えて多くの人々の心に響き続けています。 田名網がシルクスクリーンという技術を駆使しながら表現したビジュアルは、単なるアート作品ではなく、彼の生き様や記憶が具現化されたものでもあります。 ポップでありながらも深い社会的なメッセージを持つ彼の作品は、現代においてもその価値が再評価されているのです。
2024.12.27
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ジュール ・シェレの『ムーラン・ルージュの舞踏会』―華やかなパリの舞踏会を描いたポスターアート
19世紀末のパリの社交界を華やかに彩ったポスターアートの先駆者、ジュール・シェレ。 その代表作『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、当時のパリ文化を象徴する作品として今も高く評価されています。 ポスターの父と呼ばれたジュール・シェレの代表作 ジュール・シェレは、「ポスターの父」と称されるほど、ポスターアートの発展に寄与した画家であり、彼の作品はその華やかさと独特のスタイルで知られています。 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、1889年に制作された著名なポスターで、彼の代表作の一つです。 この作品は、フランスのパリにあるムーラン・ルージュの舞踏会を宣伝するために作成されました。 ジュール・シェレのスタイルが反映された『ムーラン・ルージュの舞踏会』とは 作品名:ムーラン・ルージュの舞踏会 作者:ジュール・シェレ 制作年:1889年 技法・材質:リトグラフ・紙 寸法:59.5 × 40.0cm 所蔵:デイヴィッド・E.ワイズマン&ジャクリーヌ・E.マイケル 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、シェレの特徴的なスタイルである明るい色彩と動きのある構図が際立っており、当時のパリの社交界の華やかさを表現しています。 シェレは、舞踏会の楽しさや活気を視覚的に伝えるために、踊る女性たちを中心に据えたデザインを採用しました。 シェレは、ポスターアートの先駆者として知られており、彼の作品が街中に広がることで、ポスターというメディアの重要性を高めていったのです。 彼のポスターは、単なる広告を超えて、アートとしての価値を持つようになり、特に『ムーラン・ルージュの舞踏会』はその象徴的な作品の一つとされています。 親しみやすい女性像「シェレット」が描かれた作品 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、1889年に制作され、パリのムーラン・ルージュのオープニングを宣伝するためのものでした。 19世紀末のパリは、社交界や娯楽が盛んであり、特にムーラン・ルージュはその象徴的な存在でした。 シェレは、この新しいエンターテインメントの流行を捉え、ポスターを通じて大衆にアピールしたのです。 彼の作品は、当時の人々の生活や文化を反映しており、ポスターが広告媒体としてだけでなく、アートとしても評価されるようになった時代背景があります。 シェレのポスターには、陽気で優雅な女性たちが中心に描かれ、動きのある構図が特徴です。 彼が描く女性は「シェレット」と呼ばれるようになり、このキャラクターを用いて、大衆が親しみやすいイメージを提供しました。 このスタイルは、彼のポスターが広く受け入れられる要因となりました。 多色リトグラフ技術を確立したジュール・シェレ シェレは、赤、青、黄の三色を使用した多色リトグラフ技術を確立しました。 この技術により、ポスターはより鮮やかで視覚的に魅力的なものとなり、広告としての効果が飛躍的に向上したといえます。 彼の作品は、色彩の豊かさと大胆なデザインで知られ、当時の人々の目を引くことに成功しました。 シェレは、ポスターのレイアウトや活字デザイン、配色においても革新をもたらしています。 彼のポスターは、動きのある構図や躍動感あふれるキャラクターを特徴としており、これによりポスターが単なる広告媒体からアートとしての地位を確立する一因となりました。 シェレの技術革新は、後のアーティストたち、特にアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやアルフォンス・ミュシャに大きな影響を与えました。 彼らもまた、シェレのスタイルを取り入れ、ポスターアートをさらに発展させていきます。 このように、ジュール・シェレの技術革新は、ポスターアートの発展において重要な役割を果たし、広告の表現方法を変えるだけでなく、アートとしての地位を確立することにも寄与したのです。 彼の影響は、今日のグラフィックデザインや広告の世界にも色濃く残っています。 19世紀末のパリの華やかさを堪能できる『ムーラン・ルージュの舞踏会』 シェレの作品は、ムーラン・ルージュの華やかさと同時に、そこに集う人々の生活や感情をも映し出しています。 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、19世紀末のパリの文化や社会、そして新たなエンターテインメントの流行を象徴する作品です。 シェレが切り開いたポスターアートの道は、今日まで続くアートと広告の融合をもたらし、彼の影響は今なお色濃く残っています。 この作品を通じて、パリの華やかな時代の息吹を感じることができるでしょう。
2024.12.26
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【狩野派】日本絵画史上最大の流派の歴史と代表作
狩野派とは 狩野派とは、幕府からの仕事を請け負っていた絵師集団で、日本絵画史上最大の画派と呼ばれています。 室町時代の中期から江戸時代末期までの約400年にわたって活動をつづけ、常に画壇の中心で活躍していました。 狩野派は、親や兄弟などの血族関係をメインにした絵師集団で、400年という長きにわたってトップに君臨し続けた集団は、世界的にもほとんど例がありません。 その時代の権力者と強い結びつきを持ち続けた狩野派は、内裏や城郭、大寺院などの多くの場所の大きな障壁画から扇面といった小画面まで、あらゆるジャンルの絵画を手がけました。 後に巨大な影響をもたらす狩野派の設立 狩野派の始まりは、足利幕府の御用絵師として活躍した狩野正信であるといわれています。 戦国時代が終わり、江戸幕府がスタートして社会が安定すると、狩野家は幕府から障壁画制作の依頼を受けるようになっていきました。 正信は、一門の絵師を引き連れて作品を制作するようになり、のちに狩野派と呼ばれる集団を形成するようになるのです。 正信の実の子であり、狩野派の2代目当主となった狩野元信は、幅広い層の制作依頼に応えるために、工房で絵画を制作するスタイルを確立させました。 真・行・草の3様式を定め、門下に学ばせることで、一定の画力や技術を担保し、制作依頼を受注するシステムを作り上げていきました。 粉本・筆法を忠実に学び400年活動し続ける 狩野派は、中国の水墨画由来の漢画様式に、日本の伝統的なやまと絵の表現を取り入れ、狩野派独自のスタイルを確立していきます。 漢画は、筆の輪郭線を重視し、色は淡彩な特徴があり、やまと絵は、細い輪郭線に濃い絵の具を塗る特徴があります。 2つの異なる手法を上手く取り入れた狩野派スタイルを門下に引き継ぐために、手本となる粉本が作成されました。 粉本とは、絵師が絵を制作するときに参考とする古画の模写や写生帖のことです。 ときに狩野派は、お手本を写すだけで絵師の個性がないと批判されることもありましたが、運筆や模写をきっちりと学ぶ狩野派の教育スタイルは、絵師がベースとなる画力を付けるために重要な役割を果たしています。 京狩野の誕生 室町時代から桃山時代の政権の中心は京都にあったため、狩野派も京都を拠点に活動していました。 しかし、豊臣秀吉から徳川家康に政権が移るタイミングで、狩野派のほとんどが江戸に拠点を移しましたが、一部の狩野派は京都にとどまり、のちに京狩野と呼ばれるようになりました。 徳川幕府が政権を握ったとき、狩野探幽が幕府御用絵師となり、豊臣家に仕えていた狩野永徳の一番弟子である山楽は、京都に残る形となったのです。 狩野派で活躍した絵師 幕府の御用絵師として約400年間活躍し続けた狩野派には、個性豊かな絵師が多く存在しています。 狩野派の始祖である狩野正信 狩野正信は、狩野派の始祖と呼ばれる人物で、室町幕府の第8代将軍である足利義政に仕え、幕府御用絵師として活動していました。 それまでの幕府の御用絵師は、禅の修行を積んだ画僧と呼ばれる絵師たちが務めてきましたが、正信は僧の修行をしていないにもかかわらず、幕府の御用絵師に任命されたのです。 前代未聞の大抜擢で、絵師として人気を確立していきました。 当時の幕府では中国人画家のスタイルが流行しており、中国風作品の依頼が多くあり、正信は仏画だけではなく水墨画や肖像画も手がけていました。 客層を拡大した狩野元信 狩野元信は、狩野正信の後を継いで、さらに公家や有力町衆などにまで範囲を広げ、新規顧客を次々に獲得していきました。 顧客の幅が広がったことで、仏画や漢画だけでは依頼者のニーズに答えられなくなってきたため、元信はやまと絵の手法や画風を積極的に学び、取り込むようになっていきました。 また、元信は自身の画業だけではなく、門下の教育にも力を入れており、工房スタイルを確立させて約400年続く最大流派の基礎を作り上げた人物といえます。 幼少期から才能を発揮した狩野永徳 狩野永徳は、小さなころから絵の才能を認められ、英才教育を受けていました。 そして、9歳になるころには、室町幕府将軍の足利義輝に拝謁。 狩野派の御曹司として、大きな期待を背負った狩野永徳は、公家と深いかかわりを持つようになり、五摂家の筆頭といわれていた近衛家の障壁画を描きました。 また、23歳という若さで『洛中洛外図屏風 上杉本』を完成させ、優れた画才を発揮しました。 しかし、安土城や大坂城、聚楽第など大規模な建築での制作を一任され、多忙を極めた永徳は、過労により体調を崩し、48歳の若さで急逝してしまったのです。 徳川秀忠から絶賛された狩野探幽 狩野探幽は、狩野永徳の孫にあたる人物で、祖父と同じく幼いころから絵の才能を発揮していました。 13歳で将軍の徳川秀忠に拝謁し、眼前で絵を描いたところ、永徳の再来と称賛を受けたそうです。 その後、京都から江戸に招かれ、幕府の御用絵師となったのが16歳のころでした。 探幽は、江戸城や二条城、名古屋城、御所といった江戸幕府の大規模建設に、狩野派の総帥として参加。 また、大徳寺や妙心寺など京都にある大寺院の障壁画制作も担いました。 狩野派の血筋でない狩野山楽 狩野山楽は、狩野派では珍しい狩野の血筋ではない人物であり、生まれは武門で若くして豊臣秀吉に画才を評価され、狩野永徳の門下となりました。 1590年、東福寺法堂天井画を制作していた永徳が倒れると、山楽が後を引き継ぎ作品を完成させました。 このことからも、山楽は永徳の一番弟子として認められていたと考えられるでしょう。 なお、山楽は幕府が京都から江戸に移る際に、京都に残り、京狩野として活躍しました。 最後を飾る異色の存在狩野一信 狩野一信は、移り変わりの激しい幕末の江戸を生きた絵師で、最後の狩野派ともいわれています。 江戸の骨董商の家に生まれた一信は、絵を琳派の絵師に学び、のちに狩野章信に師事しました。 狩野派の伝統的な技法に加えて、陰影法や遠近法など西洋の技術も積極的に取り入れ、これまでの狩野派とは異なる絵画表現で、独自の画風を確立しました。 人々が不安や苛立ちを募らせていた時代、一信も幕末期の不安定な世相を表現した作品を多く残しています。 狩野派の代表作 狩野派は、約400年間も続いた巨大絵師集団であり、活躍していた絵師も数多くいました。 絵師の人数が多かったため、代表作も多く生まれています。 工房スタイルで技術の向上を図り、集団で制作にあたっていたため、大規模な作品も多く残されているのが特徴です。 信長と秀吉に好まれた『花鳥図襖』 『花鳥図襖』は、狩野永徳が描いた作品で、大きな松や梅の木の幹が天空に伸び、樹の枝は画面の左右に大きく広がっています。 安土桃山時代を築いた織田信長や豊臣秀吉が好んだ、大胆な構図とスケールの大きな表現が特徴の作品です。 国宝指定となった『上杉本洛中洛外図屏風』 『上杉本洛中洛外図屏風』は、狩野永徳が手がけた作品で、織田信長から上杉謙信へ贈られた屏風であると伝えられています。 京都を一望できる構図で、洛中洛外の四季が描かれており、そこに暮らす人々の生活風俗も表現されている作品です。 作品中には、およそ2500人もの老若男女が描かれているそうです。 1995年には、国宝にも指定されています。 情感豊かな『雪中梅竹遊禽図襖』 『雪中梅竹遊禽図襖』は、狩野探幽が名古屋城の襖絵として描いた作品です。 梅の老木に雪が降り積もり、二等辺三角形のように枝を伸ばした構図が特徴で、左端に描かれた小鳥と枝先との余白のバランスが美しく、探幽の情感が込められているといえるでしょう。 没年までかけて描いた『五百羅漢図』 『五百羅漢図』は、狩野一信が描いた作品で、1幅につき5人の羅漢が描かれており、100幅に合計500人の羅漢が描かれています。 描かれた羅漢や僧侶には、極端な陰影が表現されており、羅漢が腹を割って釈迦が出てくる衝撃的な表現は、その時代の不安定さを感じさせます。
2024.12.20
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【土佐派】やまと絵を継承した日本画の流派の歴史と代表作
土佐派とは 土佐派とは、日本画の流派の一つで、やまと絵を継承しています。 やまと絵とは、平安時代前期に唐絵と呼ばれる中国由来の絵画で、日本に伝わってから独自の発展を遂げてきた世俗画です。 土佐派は、室町時代の前期に活躍した宮廷絵師の藤原行広が始まりといわれています。 その後、土佐光信によって土佐派は、画派としての地位を確立していきました。 光信は、宮廷や社寺に所属して絵画制作していた宮廷絵所のリーダーのような存在である絵所預にまでのぼりつめました。 狩野派の下請け業者同然まで衰退 土佐派は、室町時代から江戸時代にかけての約400年にわたり、日本画壇の頂点に君臨していた狩野派と同時期に誕生した流派です。 歴史ある画派の一つですが、一時は衰退の一途をたどったこともありました。 室町時代の終わりごろ、土佐光信直系の孫である土佐光元が、但馬攻めで戦死してしまい、土佐派は絵所預の地位を失ってしまいます。 織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた織豊政権の時代になると、狩野派が目覚ましい活躍をみせ、土佐派の勢いは減速していきます。 桃山時代には、門人の土佐光吉が拠点を堺に拠点を移し、一時は狩野派の下請けのような地位まで衰退していました。 土佐派の再興 一時は衰退した土佐派でしたが、江戸時代に入ると土佐光吉の後継者である土佐光則が、自身の子である土佐光起とともに京都へ戻ります。 1654年に光則が絵所預の地位につき土佐派は再興され、以後幕末までその地位を維持し続けました。 派生流派「住吉派」の誕生 土佐派には、住吉派と呼ばれる派生流派があります。 江戸時代、土佐光吉・光則の門人であった土佐広通が、後西天皇の名を受け、鎌倉中期の画家である摂津国住吉の慶忍の流派を再興するために、住吉姓の名乗ったのが住吉派の始まりといわれています。 広通は住吉姓となってからは、住吉如慶の名で活動していました。 如慶の長男である住吉具慶が活動していた時代、江戸に招かれ幕末まで幕府に仕えました。 京都では土佐派が、江戸では住吉派が、やまと絵を日本に広める役割を担っていたといえます。 土佐派の画風 土佐派の描く絵画は、丁寧で繊細な表現が特徴で、四季の自然やその中で生きる人や生き物を美しく描いた日本の伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承しています。 朝廷の御用絵師の立場にあった土佐派は、浮世絵に対して否定的な意見を持っていましたが、一方で浮世絵師たちにとって土佐派が描いてきた日本の伝統的なモチーフは、題材や様式のベースを作り上げてきたものであり、多くの浮世絵師が土佐派の絵から学んでいたといわれています。 土佐派の中でも土佐光起が描いた作品には、狩野派をはじめとした漢画由来の水墨表現や中国絵画の写実表現も組み込まれており、やまと絵の画題を大きく広げました。 土佐派で活躍した絵師 伝統的なやまと絵を継承し、御用絵師としても活躍していた土佐派には、優れた絵師が多く存在していました。 土佐派を創立した土佐行広 土佐行広は、室町時代に活躍した絵師で、土佐派を創設した人物といわれています。 元の姓は藤原ですが、京都で初めて土佐と名乗り、活動していたそうです。 宮中や幕府、寺院などのために描き、絵所ともかかわりをもっていたといわれています。 最初期の活動としては、1406年に山科教言夫人の肖像画を描いた記録が残っています。 1451年には、興聖寺の『涅槃図』を描きました。 行広は肖像画を得意としていたそうで、鹿苑寺の『足利義満像』や醍醐寺三宝院の『満済准后像』など多くの作品を手がけました。 佐派を統一した土佐光信 土佐光信は、室町時代の中期から戦国時代にかけて活躍した土佐派の絵師です。 光信は、土佐派を統一し、流派として確立させた人物といわれています。 土佐行広の筆致や色彩を受け継ぎつつ、戦国大名である朝倉貞景の命で京中の新図を描き、この屏風に描かれたものが『洛中洛外図』の最初の作品とされています。 光信は、1469年に絵所預として仕事を任されるようになってから、次々に地位を上げていき、1501年、ついに絵師としての最高位を得ました。 土佐派を再興させた土佐光起 土佐光起は、一度は衰退した土佐派を見事再興させた絵師です。 父の土佐光則とともに、和泉国堺から再び京都に戻り、土佐派復興のために力を尽くしました。 父の光則が亡くなった後、光起は才能を認められ、土佐派を再び絵所預の地位に戻し、活躍していきました。 光起は、やまと絵だけではなく、土佐派のライバルとして君臨していた狩野派や、宋元画などからも学びを得て、伝統的な優しい美しさのあるやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立させたといわれています。 また、風俗画や草木図など、これまでの土佐派が描いてこなかったモチーフも積極的に取り入れ、清新な画風を生み出していました。 土佐派の代表作 絵所預にまでのぼりつめた土佐派には、現代でも高い評価を受けている作品が多くあります。 『源氏物語絵巻』 『源氏物語絵巻』は、紫式部が描いたとされる長編小説『源氏物語』を絵で表現した絵巻で、物語成立から約150年後の12世紀に描かれたといわれています。 『源氏物語絵巻』では、雪が降る中、外で優雅に遊ぶ女性たちと、邸内でくつろぐ光源氏と紫の上が描かれています。 『清水寺縁起絵巻』 『清水寺縁起絵巻』は、清水寺の建立について描かれた作品です。 詞書を三条実香が描き、絵を土佐光信が担当した絵巻で、円熟した晩年の光信の画風が表現された代表作で、伝統的なやまと絵の絵巻の最後を飾る作品ともいわれています。 この作品は、上・中・下の全3巻で構成されており、約63mもの長さがあります。 本来、絵巻は通しでみて楽しむものですが、『清水寺縁起絵巻』はワンシーンごとに光信独特の構図や筆致が表れており、一場面に焦点を当てて、絵画としても楽しめる作品です。 『融通念仏縁起絵巻』 『融通念仏縁起絵巻』は、良忍の伝記と融通念仏宗の始まりが描かれた作品です。 融通念仏宗とは、平安後期の僧である良忍を開祖とする仏教の宗派で、念仏思想を信奉しています。 原本となる絵巻物が完成したのは1314年とされており、その後、鎌倉時代から室町時代にかけて繰り返し伝写が行われました。 現在、原本は現存していませんが、伝写された作品が30本ほど発見されています。 『北野天神縁起絵巻』 『北野天神縁起絵巻』は、土佐光信の作品で、学問の神様として有名な菅原道真を祭っている北野天満宮を描いています。 菅原道真は、宇多天皇の時代の優れた右大臣でしたが、道真の優秀さに嫉妬した藤原時平の策略により、身に覚えのない罪で大宰府へと追放されてしまいます。 道真が亡くなった後、自然災害が続くようになり、祟りだとおそれた当時の人々は、道真の怒りを鎮めるために北野天神社が建てられました。 『北野天神縁起絵巻』には、北野天神にまつわる12の話が納められています。 『一の谷合戦図屏風』 『一の谷合戦図屏風』は、『平家物語』の敦盛最期のワンシーンを描いた作品です。 一の谷の合戦に敗れ、逃げようとする平敦盛に対して、源氏方の熊谷直実が逃げずに正々堂々と戦うよう語りかけている姿が描かれています。 土佐派の特徴である大らかで精緻な筆で描かれた物語絵で、海や松などの景観、兵士や馬の表情、道具の細部に至るまで繊細に表現されています。 『宇治川合戦図屏風』 『宇治川合戦図屏風』は、『平家物語』の源平合戦の名シーンである宇治川先陣争いの一場面を描いた作品です。 宇治川の合戦の先陣を切って進む梶原景季に対して、後ろに続く佐々木高綱が馬の腰帯の緩みを指摘し、気を取られた景季から先陣を奪う場面が描かれています。 緑青の松や柳、群青の海や川の流れが美しく、人物や馬も細部まで丹念に描写されている特徴があります。
2024.12.20
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仏画にはどんな種類がある?ポーズの違いや意味を知ろう
仏画は、仏教をテーマにした絵や仏様を描いた絵を指します。 崇拝や礼拝のために用いられる場合もあれば、仏教を広めるために用いられることもある絵画です。 仏画はさまざまなジャンルに分類され、それぞれ表現している意味合いが異なります。 また描かれる仏様がとっているポーズにもそれぞれ異なる意味が込められているのです。 仏画のジャンルは主に6つ 仏画は主に6つのジャンルに分類されます。 ・崇拝・礼拝の対象 ・曼荼羅 ・変相図 ・浄土図 ・六道輪廻思想画 ・垂迹画 崇拝・礼拝の対象 仏画は、仏様を崇拝・礼拝するためのものでもあります。 そのため、如来や菩薩などさまざまな仏様が描かれた仏画のジャンルがあります。 曼荼羅 曼荼羅とは、仏教の中でも特に密教の世界観を描いた仏画のことです。 仏教の教えや世界観を、鮮やかな色彩と幾何学模様で表現しています。 密教は、インドで生まれた仏教の一つで、修行によって仏と一体化できるという教えで、身・口・意の三密業を通して仏と一体化するとされているのです。 また、曼荼羅は悟りの仏である大日如来の世界観を表現しているともいわれています。 変相図 変相図とは、仏教における極楽浄土や地獄などを描いた仏画で、曼荼羅に雰囲気が似ているのが特徴です。 そのため、浄土曼荼羅と呼ばれることもありますが、密教とは関係していません。 浄土図 浄土図とは、平安時代後期によく描かれるようになった、仏教の末法思想の影響を受けた仏画です。 法然や親鸞が唱える浄土信仰が広まり、浄土図がよく描かれるようになりました。 六道輪廻思想画 六道輪廻思想画とは、仏教における世に生きるものはすべて六道と呼ばれる6つの世界を輪廻し、生死を繰り返しているという思想を描いた仏画です。 六道とは、生きていたころの行いによって決められる死後の6つの世界を指しています。 ・天道界 ・修羅道界 ・人間道界 ・餓鬼道界 ・畜生道界 ・地獄道界 輪廻とは、霊魂は不滅で何度も生まれ変わるという考え方を表しており、前世や過去の行為が原因となり、現在の結果がもたらされるという因果応報の世界が描かれているのが六道輪廻思想画です。 垂迹画 垂迹画とは、仏教と神道が融合した仏画で、垂迹とは神を指しており、仏教と神道の両立を目的として描かれました。 仏様や菩薩が垂迹と呼ばれる神に姿を変えて、困っている人々を救うために現世に現れるという本地垂迹説のエピソードに則って絵が描かれています。 曼荼羅のような雰囲気の仏画が多いのも特徴の一つです。 仏画に描かれる仏たち 仏画に描かれている仏様たちの種類は複数あります。 仏画に描かれている仏様の姿かたちが作品により異なっており、疑問に感じたことがある人もいるでしょう。 仏様は主に4種類に分けられ、それぞれ違う役割を担っているのです。 如来 如来とは、この上ない悟りを開いた者や真理に到達した者のことであり、仏教では最も位が高く尊崇される存在です。 如来には、三十二相と総称される身体的特徴があるといわれており、仏画に描かれる如来像は、この特徴を踏まえた姿で描かれています。 如来の特徴のうち強い印象があるのは、パンチパーマのような螺髪と呼ばれる髪型でしょう。 螺髪は三十二相のうち、体毛がすべて右巻きに巻くという特徴を表したもので、螺髪によってほかの仏像と区別がしやすくなっています。 なお、髻を高く結い上げる大日如来は、如来の中でも例外の仏様です。 他にも如来の特徴には、白い巻き毛の白毫や、如来像の首にある3本のシワである三道、印相の一つである施無畏印、本来修行僧が着る納衣、薬を入れた薬壺、如来が座っている蓮華座などがあります。 主な如来は以下の通りです。 ・釈迦如来 ・阿弥陀如来 ・大日如来 ・普賢菩薩 ・薬師如来 ・盧舎那仏 菩薩 菩薩とは、悟りを開いて如来になるために、生きとし生けるものを救済するべく菩薩行を続ける仏たちを指しており、如来の次に位の高い仏像です。 菩薩は、如来の意思に従ってさまざまな姿に変身し、人々を助けたといわれています。 菩薩は長い頭髪を高く結い上げ、上半身は裸、両肩に天衣をかけて条帛と呼ばれる布をたすきのようにかけているのが特徴です。 また、仏教を開いた釈迦が古代インドの王子であったことから、宝冠やアクセサリーなどを身につけた華麗な姿で表現されることも多くあります。 主な菩薩は以下の通りです。 ・観音菩薩 ・文殊菩薩 ・弥勒菩薩 ・普賢菩薩 ・地蔵菩薩 明王 明王とは、忿怒の姿をした恐るべき仏様のことであり、如来や菩薩に次ぐ位であるといわれています。 明王は、仏教にヒンドゥー教を取り入れ発展していった宗教である密教から生まれた仏様です。 明王の姿は、人を諸悪から災害から守るとともに、煩悩により悪に走ってしまう者を威力で教化する姿であり、如来の化身や如来が忿怒した姿ともいわれています。 悪と戦う仏様のため、武器を持っていたり、髪を激しく逆立たせていたり、牙が生えていたりとおそろしい姿をしているのです。 主な明王は以下の通りです。 ・不動明王 ・愛染明王 ・孔雀明王 ・大威徳明王 ・軍荼利明王 ・降三世明王 ・金剛夜叉明王 天部 天部とは、仏教や仏法を守る神さまのことです。 バラモン教やヒンドゥー教、各地域の民間信仰の神々などが仏法を守る護法善神として、仏教に取り入れられました。 仏教の信仰を妨害する者から如来や菩薩、人々を守る役目を担っており、天部は自然現象や抽象的なもの、半身半獣などの姿で表されることが多くあります。 主な天部は以下の通りです。 ・梵天 ・帝釈天 ・毘沙門天 ・吉祥天 ・弁財天 ・広目天 ・多聞天 ・増長天 ・持国天 その他 仏像には、仏様以外の人物を表現したものもあり、仏様と同様に徳が高く守護神としての役割を担っているものも多くあります。 たとえば、羅漢は悟りを開いた高僧の阿羅漢の略称で、釈迦の弟子で最も位の高い人物です。 十六羅漢像や五百羅漢像を仏像として祀っている仏教寺院も多くあります。 また、祖師は仏教を世界に広めるために尽力した人物や、各宗教や宗派の創始者を指しており、弘法大師や鑑真和上像などが有名です。 仏像のポーズの種類と意味 仏像は、さまざまな手のポーズをしており、これを印相や手印と呼び、それぞれ意味が込められています。 施無畏印・与願印 施無畏印・与願印は、スタンダードな印相の一つで、2つセットで使われることがほとんどです。 奈良の大仏様はこの印相を結んでおり、施無畏印が相手の畏れを取り除くサイン、与願印が相手の願いを叶えるという姿勢を表現しています。 施無畏印は右手で、胸の前に構え中指を少し曲げたポーズ、与願印を表す左手は、上に向けて中指と薬指を少し上げたポーズをとっています。 仏像の中で一番有名な印相で、釈迦如来像によく見られるポーズです。 定印 定印も定番の印相の一つで、よく大日如来や釈迦如来坐像がとっているポーズです。 精神統一をして深い瞑想に入る姿を表現しているといわれており、禅定印と呼ばれることもあります。 両掌を上に向けて、左手の上に右手を重ね合わせ、親指の先を合わせたポーズが定印です。 阿弥陀如来の定印では、人差し指と親指をくっつけて輪を作るようなポーズをしています。 鎌倉大仏は、定印を結んでいます。 智拳印 智拳印とは、金剛界大日如来だけが表現できる特別な印相で、最高の智慧を意味しているといわれています。 胸の前で左手を握り人差し指を立て、その指を右手で包むようなかたちで握るポーズです。 インドでは清浄の手とされている右手が仏を表し、不浄の手とされている左手が衆生を表しており、智拳印は、仏の智慧が衆生を包み込んでいる様子を表現しているそうです。 来迎印(摂取不捨印) 来迎印とは、阿弥陀如来特有のポーズで、人が亡くなったときに阿弥陀仏が西方極楽浄土から迎えにくるときの印相です。 かたちは施無畏印・与願印に似ていますが、来迎印は親指と人差し指で輪を作る部分が異なります。 来迎印は、生前の行いによって9つのランクに分けられているといわれています。 また、浄土真宗では、来迎印を摂取不捨印と呼んでおり、どのような状況でも人々を収め取って見捨てないという阿弥陀仏の慈悲の心を表しているそうです。 説法印(転法輪印) 説法印は、転法輪印とも呼ばれ、お釈迦様が仏教についてジェスチャーを交えながら説法している姿を表したものです。 右手は立てて、親指と人差し指で輪っかを作り、左手は掌を上に向けた状態で親指と中指で輪っかを作り、両手を胸の前に近づけたポーズです。 釈迦如来や阿弥陀如来など、如来に多く見られる印相といえます。 降魔印(触地印) 降魔印とは、お釈迦様が悟りを開こうとして悪魔の妨害を受けたとき、邪魔をしてきた悪魔の集団を降伏させ、退散させた印相です。 右手の人差し指の先で地面に触れるようなポーズでもあるため、触地印とも呼ばれています。 日本の仏像では、奈良県の東大寺にある弥勒仏坐像が降魔印のポーズをとっています。
2024.12.20
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