目次
土佐派とは
土佐派とは、日本画の流派の一つで、やまと絵を継承しています。
やまと絵とは、平安時代前期に唐絵と呼ばれる中国由来の絵画で、日本に伝わってから独自の発展を遂げてきた世俗画です。
土佐派は、室町時代の前期に活躍した宮廷絵師の藤原行広が始まりといわれています。
その後、土佐光信によって土佐派は、画派としての地位を確立していきました。
光信は、宮廷や社寺に所属して絵画制作していた宮廷絵所のリーダーのような存在である絵所預にまでのぼりつめました。
狩野派の下請け業者同然まで衰退
土佐派は、室町時代から江戸時代にかけての約400年にわたり、日本画壇の頂点に君臨していた狩野派と同時期に誕生した流派です。
歴史ある画派の一つですが、一時は衰退の一途をたどったこともありました。
室町時代の終わりごろ、土佐光信直系の孫である土佐光元が、但馬攻めで戦死してしまい、土佐派は絵所預の地位を失ってしまいます。
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた織豊政権の時代になると、狩野派が目覚ましい活躍をみせ、土佐派の勢いは減速していきます。
桃山時代には、門人の土佐光吉が拠点を堺に拠点を移し、一時は狩野派の下請けのような地位まで衰退していました。
土佐派の再興
一時は衰退した土佐派でしたが、江戸時代に入ると土佐光吉の後継者である土佐光則が、自身の子である土佐光起とともに京都へ戻ります。
1654年に光則が絵所預の地位につき土佐派は再興され、以後幕末までその地位を維持し続けました。
派生流派「住吉派」の誕生
土佐派には、住吉派と呼ばれる派生流派があります。
江戸時代、土佐光吉・光則の門人であった土佐広通が、後西天皇の名を受け、鎌倉中期の画家である摂津国住吉の慶忍の流派を再興するために、住吉姓の名乗ったのが住吉派の始まりといわれています。
広通は住吉姓となってからは、住吉如慶の名で活動していました。
如慶の長男である住吉具慶が活動していた時代、江戸に招かれ幕末まで幕府に仕えました。
京都では土佐派が、江戸では住吉派が、やまと絵を日本に広める役割を担っていたといえます。
土佐派の画風
土佐派の描く絵画は、丁寧で繊細な表現が特徴で、四季の自然やその中で生きる人や生き物を美しく描いた日本の伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承しています。
朝廷の御用絵師の立場にあった土佐派は、浮世絵に対して否定的な意見を持っていましたが、一方で浮世絵師たちにとって土佐派が描いてきた日本の伝統的なモチーフは、題材や様式のベースを作り上げてきたものであり、多くの浮世絵師が土佐派の絵から学んでいたといわれています。
土佐派の中でも土佐光起が描いた作品には、狩野派をはじめとした漢画由来の水墨表現や中国絵画の写実表現も組み込まれており、やまと絵の画題を大きく広げました。
土佐派で活躍した絵師
伝統的なやまと絵を継承し、御用絵師としても活躍していた土佐派には、優れた絵師が多く存在していました。
土佐派を創立した土佐行広
土佐行広は、室町時代に活躍した絵師で、土佐派を創設した人物といわれています。
元の姓は藤原ですが、京都で初めて土佐と名乗り、活動していたそうです。
宮中や幕府、寺院などのために描き、絵所ともかかわりをもっていたといわれています。
最初期の活動としては、1406年に山科教言夫人の肖像画を描いた記録が残っています。
1451年には、興聖寺の『涅槃図』を描きました。
行広は肖像画を得意としていたそうで、鹿苑寺の『足利義満像』や醍醐寺三宝院の『満済准后像』など多くの作品を手がけました。
佐派を統一した土佐光信
土佐光信は、室町時代の中期から戦国時代にかけて活躍した土佐派の絵師です。
光信は、土佐派を統一し、流派として確立させた人物といわれています。
土佐行広の筆致や色彩を受け継ぎつつ、戦国大名である朝倉貞景の命で京中の新図を描き、この屏風に描かれたものが『洛中洛外図』の最初の作品とされています。
光信は、1469年に絵所預として仕事を任されるようになってから、次々に地位を上げていき、1501年、ついに絵師としての最高位を得ました。
土佐派を再興させた土佐光起
土佐光起は、一度は衰退した土佐派を見事再興させた絵師です。
父の土佐光則とともに、和泉国堺から再び京都に戻り、土佐派復興のために力を尽くしました。
父の光則が亡くなった後、光起は才能を認められ、土佐派を再び絵所預の地位に戻し、活躍していきました。
光起は、やまと絵だけではなく、土佐派のライバルとして君臨していた狩野派や、宋元画などからも学びを得て、伝統的な優しい美しさのあるやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立させたといわれています。
また、風俗画や草木図など、これまでの土佐派が描いてこなかったモチーフも積極的に取り入れ、清新な画風を生み出していました。
土佐派の代表作
絵所預にまでのぼりつめた土佐派には、現代でも高い評価を受けている作品が多くあります。
『源氏物語絵巻』
『源氏物語絵巻』は、紫式部が描いたとされる長編小説『源氏物語』を絵で表現した絵巻で、物語成立から約150年後の12世紀に描かれたといわれています。
『源氏物語絵巻』では、雪が降る中、外で優雅に遊ぶ女性たちと、邸内でくつろぐ光源氏と紫の上が描かれています。
『清水寺縁起絵巻』
『清水寺縁起絵巻』は、清水寺の建立について描かれた作品です。
詞書を三条実香が描き、絵を土佐光信が担当した絵巻で、円熟した晩年の光信の画風が表現された代表作で、伝統的なやまと絵の絵巻の最後を飾る作品ともいわれています。
この作品は、上・中・下の全3巻で構成されており、約63mもの長さがあります。
本来、絵巻は通しでみて楽しむものですが、『清水寺縁起絵巻』はワンシーンごとに光信独特の構図や筆致が表れており、一場面に焦点を当てて、絵画としても楽しめる作品です。
『融通念仏縁起絵巻』
『融通念仏縁起絵巻』は、良忍の伝記と融通念仏宗の始まりが描かれた作品です。
融通念仏宗とは、平安後期の僧である良忍を開祖とする仏教の宗派で、念仏思想を信奉しています。
原本となる絵巻物が完成したのは1314年とされており、その後、鎌倉時代から室町時代にかけて繰り返し伝写が行われました。
現在、原本は現存していませんが、伝写された作品が30本ほど発見されています。
『北野天神縁起絵巻』
『北野天神縁起絵巻』は、土佐光信の作品で、学問の神様として有名な菅原道真を祭っている北野天満宮を描いています。
菅原道真は、宇多天皇の時代の優れた右大臣でしたが、道真の優秀さに嫉妬した藤原時平の策略により、身に覚えのない罪で大宰府へと追放されてしまいます。
道真が亡くなった後、自然災害が続くようになり、祟りだとおそれた当時の人々は、道真の怒りを鎮めるために北野天神社が建てられました。
『北野天神縁起絵巻』には、北野天神にまつわる12の話が納められています。
『一の谷合戦図屏風』
『一の谷合戦図屏風』は、『平家物語』の敦盛最期のワンシーンを描いた作品です。
一の谷の合戦に敗れ、逃げようとする平敦盛に対して、源氏方の熊谷直実が逃げずに正々堂々と戦うよう語りかけている姿が描かれています。
土佐派の特徴である大らかで精緻な筆で描かれた物語絵で、海や松などの景観、兵士や馬の表情、道具の細部に至るまで繊細に表現されています。
『宇治川合戦図屏風』
『宇治川合戦図屏風』は、『平家物語』の源平合戦の名シーンである宇治川先陣争いの一場面を描いた作品です。
宇治川の合戦の先陣を切って進む梶原景季に対して、後ろに続く佐々木高綱が馬の腰帯の緩みを指摘し、気を取られた景季から先陣を奪う場面が描かれています。
緑青の松や柳、群青の海や川の流れが美しく、人物や馬も細部まで丹念に描写されている特徴があります。