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狩野派とは
狩野派とは、幕府からの仕事を請け負っていた絵師集団で、日本絵画史上最大の画派と呼ばれています。
室町時代の中期から江戸時代末期までの約400年にわたって活動をつづけ、常に画壇の中心で活躍していました。
狩野派は、親や兄弟などの血族関係をメインにした絵師集団で、400年という長きにわたってトップに君臨し続けた集団は、世界的にもほとんど例がありません。
その時代の権力者と強い結びつきを持ち続けた狩野派は、内裏や城郭、大寺院などの多くの場所の大きな障壁画から扇面といった小画面まで、あらゆるジャンルの絵画を手がけました。
後に巨大な影響をもたらす狩野派の設立
狩野派の始まりは、足利幕府の御用絵師として活躍した狩野正信であるといわれています。
戦国時代が終わり、江戸幕府がスタートして社会が安定すると、狩野家は幕府から障壁画制作の依頼を受けるようになっていきました。
正信は、一門の絵師を引き連れて作品を制作するようになり、のちに狩野派と呼ばれる集団を形成するようになるのです。
正信の実の子であり、狩野派の2代目当主となった狩野元信は、幅広い層の制作依頼に応えるために、工房で絵画を制作するスタイルを確立させました。
真・行・草の3様式を定め、門下に学ばせることで、一定の画力や技術を担保し、制作依頼を受注するシステムを作り上げていきました。
粉本・筆法を忠実に学び400年活動し続ける
狩野派は、中国の水墨画由来の漢画様式に、日本の伝統的なやまと絵の表現を取り入れ、狩野派独自のスタイルを確立していきます。
漢画は、筆の輪郭線を重視し、色は淡彩な特徴があり、やまと絵は、細い輪郭線に濃い絵の具を塗る特徴があります。
2つの異なる手法を上手く取り入れた狩野派スタイルを門下に引き継ぐために、手本となる粉本が作成されました。
粉本とは、絵師が絵を制作するときに参考とする古画の模写や写生帖のことです。
ときに狩野派は、お手本を写すだけで絵師の個性がないと批判されることもありましたが、運筆や模写をきっちりと学ぶ狩野派の教育スタイルは、絵師がベースとなる画力を付けるために重要な役割を果たしています。
京狩野の誕生
室町時代から桃山時代の政権の中心は京都にあったため、狩野派も京都を拠点に活動していました。
しかし、豊臣秀吉から徳川家康に政権が移るタイミングで、狩野派のほとんどが江戸に拠点を移しましたが、一部の狩野派は京都にとどまり、のちに京狩野と呼ばれるようになりました。
徳川幕府が政権を握ったとき、狩野探幽が幕府御用絵師となり、豊臣家に仕えていた狩野永徳の一番弟子である山楽は、京都に残る形となったのです。
狩野派で活躍した絵師
幕府の御用絵師として約400年間活躍し続けた狩野派には、個性豊かな絵師が多く存在しています。
狩野派の始祖である狩野正信
狩野正信は、狩野派の始祖と呼ばれる人物で、室町幕府の第8代将軍である足利義政に仕え、幕府御用絵師として活動していました。
それまでの幕府の御用絵師は、禅の修行を積んだ画僧と呼ばれる絵師たちが務めてきましたが、正信は僧の修行をしていないにもかかわらず、幕府の御用絵師に任命されたのです。
前代未聞の大抜擢で、絵師として人気を確立していきました。
当時の幕府では中国人画家のスタイルが流行しており、中国風作品の依頼が多くあり、正信は仏画だけではなく水墨画や肖像画も手がけていました。
客層を拡大した狩野元信
狩野元信は、狩野正信の後を継いで、さらに公家や有力町衆などにまで範囲を広げ、新規顧客を次々に獲得していきました。
顧客の幅が広がったことで、仏画や漢画だけでは依頼者のニーズに答えられなくなってきたため、元信はやまと絵の手法や画風を積極的に学び、取り込むようになっていきました。
また、元信は自身の画業だけではなく、門下の教育にも力を入れており、工房スタイルを確立させて約400年続く最大流派の基礎を作り上げた人物といえます。
幼少期から才能を発揮した狩野永徳
狩野永徳は、小さなころから絵の才能を認められ、英才教育を受けていました。
そして、9歳になるころには、室町幕府将軍の足利義輝に拝謁。
狩野派の御曹司として、大きな期待を背負った狩野永徳は、公家と深いかかわりを持つようになり、五摂家の筆頭といわれていた近衛家の障壁画を描きました。
また、23歳という若さで『洛中洛外図屏風 上杉本』を完成させ、優れた画才を発揮しました。
しかし、安土城や大坂城、聚楽第など大規模な建築での制作を一任され、多忙を極めた永徳は、過労により体調を崩し、48歳の若さで急逝してしまったのです。
徳川秀忠から絶賛された狩野探幽
狩野探幽は、狩野永徳の孫にあたる人物で、祖父と同じく幼いころから絵の才能を発揮していました。
13歳で将軍の徳川秀忠に拝謁し、眼前で絵を描いたところ、永徳の再来と称賛を受けたそうです。
その後、京都から江戸に招かれ、幕府の御用絵師となったのが16歳のころでした。
探幽は、江戸城や二条城、名古屋城、御所といった江戸幕府の大規模建設に、狩野派の総帥として参加。
また、大徳寺や妙心寺など京都にある大寺院の障壁画制作も担いました。
狩野派の血筋でない狩野山楽
狩野山楽は、狩野派では珍しい狩野の血筋ではない人物であり、生まれは武門で若くして豊臣秀吉に画才を評価され、狩野永徳の門下となりました。
1590年、東福寺法堂天井画を制作していた永徳が倒れると、山楽が後を引き継ぎ作品を完成させました。
このことからも、山楽は永徳の一番弟子として認められていたと考えられるでしょう。
なお、山楽は幕府が京都から江戸に移る際に、京都に残り、京狩野として活躍しました。
最後を飾る異色の存在狩野一信
狩野一信は、移り変わりの激しい幕末の江戸を生きた絵師で、最後の狩野派ともいわれています。
江戸の骨董商の家に生まれた一信は、絵を琳派の絵師に学び、のちに狩野章信に師事しました。
狩野派の伝統的な技法に加えて、陰影法や遠近法など西洋の技術も積極的に取り入れ、これまでの狩野派とは異なる絵画表現で、独自の画風を確立しました。
人々が不安や苛立ちを募らせていた時代、一信も幕末期の不安定な世相を表現した作品を多く残しています。
狩野派の代表作
狩野派は、約400年間も続いた巨大絵師集団であり、活躍していた絵師も数多くいました。
絵師の人数が多かったため、代表作も多く生まれています。
工房スタイルで技術の向上を図り、集団で制作にあたっていたため、大規模な作品も多く残されているのが特徴です。
信長と秀吉に好まれた『花鳥図襖』
『花鳥図襖』は、狩野永徳が描いた作品で、大きな松や梅の木の幹が天空に伸び、樹の枝は画面の左右に大きく広がっています。
安土桃山時代を築いた織田信長や豊臣秀吉が好んだ、大胆な構図とスケールの大きな表現が特徴の作品です。
国宝指定となった『上杉本洛中洛外図屏風』
『上杉本洛中洛外図屏風』は、狩野永徳が手がけた作品で、織田信長から上杉謙信へ贈られた屏風であると伝えられています。
京都を一望できる構図で、洛中洛外の四季が描かれており、そこに暮らす人々の生活風俗も表現されている作品です。
作品中には、およそ2500人もの老若男女が描かれているそうです。
1995年には、国宝にも指定されています。
情感豊かな『雪中梅竹遊禽図襖』
『雪中梅竹遊禽図襖』は、狩野探幽が名古屋城の襖絵として描いた作品です。
梅の老木に雪が降り積もり、二等辺三角形のように枝を伸ばした構図が特徴で、左端に描かれた小鳥と枝先との余白のバランスが美しく、探幽の情感が込められているといえるでしょう。
没年までかけて描いた『五百羅漢図』
『五百羅漢図』は、狩野一信が描いた作品で、1幅につき5人の羅漢が描かれており、100幅に合計500人の羅漢が描かれています。
描かれた羅漢や僧侶には、極端な陰影が表現されており、羅漢が腹を割って釈迦が出てくる衝撃的な表現は、その時代の不安定さを感じさせます。