『ひまわり』の絵は、誰もが一度はどこかで見たことがあるのではないでしょうか。
美術館だけではなく、教科書やポスターなどさまざまな場所に掲載されているため、描いた人物を知らなくても絵だけは見たことがある人も多いでしょう。この『ひまわり』を描いたのは、ポスト印象派の画家として知られているフィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホの『ひまわり』はあまりに有名な絵画の1つですが、実は7作品もあることを知らない人も多いのでは?
この記事では、そんな『ひまわり』について掘り下げてご紹介していきます。
目次
ゴッホが描いた『ひまわり』は7つある?
ゴッホが描いた花瓶に活けられたひまわりの絵画は、実は一つだけではありません。
『ひまわり』シリーズは7つ制作されており、現代においてアルルのひまわりと呼ばれています。このシリーズは、1888年に制作され、ゴッホがアルルに構えたアトリエ「黄色い家」に飾るために描かれたといわれています。
ゴッホは、弟のテオに宛てた手紙に、ゴーギャンとともに制作活動に打ち込むアルルのアトリエにひまわりの絵を飾ろうと思っていることを記していました。
これまでの作品と比べるとサイズの大きなキャンバスに描かれており、花瓶から溢れんばかりに咲き誇るひまわりは、ゴッホが南フランスの地で見つけたアルルという太陽の輝きを表現しているようでした。
1枚目:明るい色彩が特徴のひまわり
1枚目に描かれた『ひまわり』は、背景が鮮やかなターコイズブルーで、花自体も明るい黄色で描かれており、明るく生き生きとした印象のある作品です。
ゴーギャンと共同生活を送った黄色い家の壁も水色であり、どちらもゴッホのわくわくした気持ちを表現しているかのように感じられます。
また、ひまわりの鮮やかな黄色にあわせて茶色の机が描かれており、ターコイズブルーのさわやかな背景や花瓶の鮮やかな黄緑色、ひまわりの生き生きとした黄色などの色彩が引き立っています。
2枚目:戦火により焼失してしまったひまわり
2枚目の『ひまわり』は、1919年に日本人実業家の山本顧彌太が7万フラン(現在の価格では約2億円)の高値で購入した作品です。
山本は、白樺派と呼ばれる文学グループのパトロンをしており、白樺派美術館を建設するために購入したといわれています。
購入後は、日本国内の展覧会で何度も展示が行われました。
しかし、白樺派美術館の話は頓挫してしまい、『ひまわり』は購入者である山本の住む神戸の邸宅に飾られていましたが、1945年の第二次世界大戦の米軍空襲によって焼失してしまったのです。
当時、ほかにも飾られていた画家の作品は避難できましたが、『ひまわり』は壁に固定して飾ってあったために移動させられなかったといわれています。
3枚目:12本のひまわりが描かれている
12本のひまわりが描かれている3枚目は、多くの人がイメージしている『ひまわり』の作品ではないでしょうか。
ミュンヘン版ともいわれており、花の数が多く豪華な作品として知られています。
また、印象派から影響を受けていたゴッホは、筆のタッチを大胆に残すスタイルで絵画を描いており、この『ひまわり』からは、そのスタイルがより顕著にみられるのも特徴です。
1枚目の『ひまわり』では、机を現実の木材の色に寄せて茶色で描いていましたが、3枚目では、机と花びらがよく似た黄色で描かれています。
花と机の色を同系色でまとめることで、種部分の深い赤茶色の色彩がより引き立っています。
4枚目:ゴーギャンが絶賛したひまわり
4枚目の『ひまわり』は、ロンドン版とも呼ばれており、世界中で最も有名な作品といわれています。
短いながらもゴッホと共同生活を送ったポスト印象派画家のゴーギャンも、この4枚目の『ひまわり』を絶賛しました。
3枚目と同じように同系色でまとめられており、より繊細な色彩の使い方や絵の具の塗り方により厚みや遠近感を表現し、ひまわりの存在感が増している作品です。
完成度の高さから、現代でも最も質の高い作品と評価されています。
教科書やポスターなどで使われているゴッホの『ひまわり』のほとんどは、この4枚目の作品ではないでしょうか。
本来、ゴッホは12枚のひまわりの絵を制作する予定でしたが、4枚目を描いていることに花が咲く時期がすぎてしまい、実際のひまわりを見て描いたのは4枚目までで、それ以降の3作品は自分が描いた絵画を模写したといわれています。
5枚目:ゴッホ自身が複製模写したひまわり
5枚目の『ひまわり』は、4枚目の作品を自ら複製模写して描かれたといわれています。
ミュンヘン版とも呼ばれており、1本1本の花の形や配置を比べてみるとほとんど同じであるとわかるでしょう。
しかし、色合いに若干の違いがみられ、種や花瓶の輪郭線の色がより鮮やかな赤色で描かれており、マイナーチェンジしていることがうかがえます。
模写してまで『ひまわり』をいくつも制作していたのは、ゴーギャンと共同生活を送るアルルの黄色い家の壁を飾りたい一心であったといえるでしょう。
6枚目:耳きり事件後に描かれたひまわり
6枚目の『ひまわり』は、アムステルダム版とも呼ばれており、ロンドン版の模写であるこの作品は、背景やひまわりの種部分がより鮮やかになっているとわかります。
6枚目は、ゴッホが自らの耳を切断した「耳切り事件」の後、病院を退院してから描かれたといわれています。
7枚目:日本に所蔵されているひまわり
7枚目の『ひまわり』は、1987年、53億という高額で日本の生命保険会社が購入し、現在は、SOMPO美術館に所蔵・展示されています。
『ひまわり』を展示するようになったSOMPO美術館の年間入場者数は、前年の8倍ほどにまで伸び、日本人のゴッホブームの火付け役となったといわれています。
ゴッホの描く作品は、深い知識に基づいて鑑賞しながら作品の意味を追求するという楽しみ方だけではなく、単にキャンバスに描かれているモチーフの魅力を味わえることも特徴の一つでした。
それゆえ、多くの人から人気を集めたといえるでしょう。
ゴッホはアルルの黄色い家を飾るためにひまわりを描いた
ゴッホは、南フランスのアルルに移り住んだ後、周辺地域の明るい雰囲気を気に入り、『黄色い家』と呼ばれていた借家を共同のアトリエとして利用し、パリでともに作品を制作していた画家たちと制作活動を行おうと考えていました。
弟テオを通して、交流のあった何人かの画家に手紙を送りますが、なかなかアトリエで共同生活を送ってくれる人は現れず、結局返事をくれたのはゴーギャンだけでした。ゴッホは、思い込みの激しい性格をしており、さらにはストーカー気質があったともいわれており、多くの画家が一緒に生活することに対して尻込みしてしまったと考えられます。その中で、ゴーギャンは、ゴッホの弟テオから金銭的援助を含めて説得され、承諾してくれたのでした。
1888年、ゴッホはゴーギャンとともに黄色い家で共同生活をスタートさせます。
複数の『ひまわり』は、共同生活を送るゴーギャンを歓迎するために制作されたものでした。『ひまわり』をアトリエのインテリアとして利用しようと考えていたゴッホは、複数のひまわり作品を制作します。ひまわりは、ユートピアの象徴であり、共同生活への希望を胸に描き始められたと考えられます。しかし、ゴーギャンとは方向性の違いにより喧嘩を繰り返し、ついに2か月ほどで憧れだった共同生活は終了してしまうのでした。
なお、アルルでの共同生活は、日本に対する間違ったイメージにより構想が練られました。ゴッホは、浮世絵の印象から日本は光があふれている南国であると思い込み、日本の画家たちは、共同生活を送ってお互いに絵を贈りあっていると勘違いをしたのです。
このイメージを胸に、ゴッホは南フランスのアルルに出向き、ゴッホが思い描く日本の画家たちのように共同生活を送れるアトリエを構えたのでした。
パリ時代に描いた『ひまわり』もある
ゴッホの『ひまわり』というと花瓶に入った構図が特徴的ですが、パリに住んでいた1886年から1887年の間に描かれたひまわりもあります。
アルル時代に描かれた『ひまわり』とは異なり、地面の上に寂しげに置かれている様子を描いているのが特徴的です。また、ゴッホはこれ以前にも、ほかの花と一緒に静物画の中にひまわりを描いています。
パリのひまわりの存在は、1889年のゴーギャンとの手紙のやり取りによって発覚し、それまでは存在を知られていませんでした。
パリの『ひまわり』は、キャンバスの中に花弁がしっかり収まる構図で描かれており、色彩は全体的に暗く、初期のゴッホ作品に多く見られる重々しい雰囲気が伝わってくるようです。
パリ時代のひまわりは、習作として制作されたものであり、観察をきっちり行いモチーフに忠実に描かれているのが特徴です。