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画家たちを魅了したオリエンタリズム、その象徴としてのオダリスク
美しい謎に包まれた「オダリスク」―― その響きには、どこか官能的でありながら異国の神秘を感じさせる力があります。18世紀から19世紀のヨーロッパで、多くの画家たちがこの魅惑的な存在を描き続けた背景には、ただの装飾的な趣向を超えた深い理由が隠されています。本記事では、「オダリスク」とは何か、その歴史や文化的背景、そして多くの芸術家がこのテーマに惹かれた理由について紐解きます。 彼らがキャンバス上に表現した「オリエンタリズム」の世界へ、ぜひ一緒に足を踏み入れてみましょう。 有名画家も数多く描いた「オダリスク」とは 「オダリスク」とは 官能的で美しい女性として描かれ、東洋の神秘性や異国情緒を表現する象徴的な存在であった「オダリスク」。 オダリスク(Odalisque)は、オスマン帝国のスルターンや権力者のハレム(後宮)で奉仕する女奴隷または側室のことで、その言葉の起源は、トルコ語で「部屋」を意味する「オダリク(Odaliq)」に由来します。 18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでオリエンタリズム(東方趣味)が流行した際に、オダリスクは絵画の人気の題材となりました。この時代、ナポレオンのエジプト遠征やアルジェリアのフランスへの併合などにより、西洋人が東洋の文化に触れる機会が増えたことで、オダリスクをはじめとした東洋の文化が絵画の題材になることもしばしばありました。 オダリスクの役割 オダリスクは、オスマン帝国のスルターンなどイスラムの君主のハレムで奉仕する女性奴隷または側室を指しますが、単にその役割にとどまらず、時に重要な地位や影響力をもつ存在でもありました。 奉仕と教育 オダリスクはハレム内で家事や雑務を行うだけでなく、音楽や刺繍、料理などの技能を学ぶなど、文化的な教養を身につける機会を得ていました。 経済的な独立 上位に位置するオダリスクは、給与を受け取り、時には非常に裕福になることもありました。彼女たちはその資産を使って、モスクや病院などの慈善施設を設立することもあったといわれています。 政治的影響力 ハレム内の階層制度では、上位の女性が政治的な影響力を持つこともあったとされています。 なかでも権力者=スルターンの母である「ヴァーリデ・スルタン」と呼ばれるオダリスクは、宮廷内で大きな権力を持ちました。 オダリスクのいた「ハレム」とは ハレムは、イスラム世界、特にオスマン帝国において見られた王族や権力者の邸宅内にある女性専用の区域のこと。アラビア語の「ハリーム」(禁じられた場所)に由来するこの言葉は、近親者以外の男子の出入りが禁止された空間を表します。 オスマン帝国のトプカプ宮殿のハレムは、400以上の小部屋で構成され、最盛期には1000人以上の女性が暮らしていたとされます。 また、ハレムは単に君主の享楽の場ではなく、女性たちの教育と訓練の場でもあり、「ヴァーリデ・スルタン」を筆頭とした階級や権力争いのある場所でもありました。 有名画家たちはなぜオダリスクを描いたのか 画家たちがオダリスクを題材にした理由は、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで流行したオリエンタリズム(東方趣味)と密接に関連しているといえるでしょう。 この時期、ナポレオンのエジプト遠征やアルジェリアのフランスへの併合などにより、西洋人が東洋の文化に触れる機会が増加していきました。 そのため、エキゾチックで神秘的な東洋のイメージが芸術家たちの想像力を刺激し、中でも「官能的で美しい女性の象徴」であったオダリスクは、絵画の人気の題材となりました。 さらに、当時のヨーロッパ社会では直接的に描くことが難しかった官能的な題材を「異国」という設定を利用して描くことができた、という側面もあります。 このように、オダリスクは芸術家たちに自由な創造と表現の可能性を与える存在として、それと同時に観る者の好奇心を満たす題材として、多くの画家たちに好まれたのです。 西洋の画家たちにとって新鮮だった、東洋の文化・色彩 当時、東洋はまさに「異国」。 イスラム建築、調度品、衣装などのオリエンタル文化は、画家たちに強烈な刺激を与えたことには違いありません。 そして、画家たちに東洋の強烈な色彩、人情風俗を描く機会を与え、ロマン主義的美学の新たな表現の場となったといえるでしょう。 画家たちは、「オダリスク」をはじめとする異国情緒や神秘主義あふれる題材を好んで取り入れ、西洋とは異なる文化や風俗を描くことに芸術の可能性を見出したに違いありません。 有名画家たちが描いた「オダリスク」 ドミニク・アングル 作家名:ドミニク・アングル 制作年:1814年 作品名:『グランド・オダリスク』 作品の特徴:後ろ姿で物憂げなポーズを取るオダリスクが描かれており、歪んだプロポーションと細長い手足が特徴的です。古典的な形式とロマン主義的なテーマを組み合わせた折衷的な作品として知られています。 フランソワ=エドゥアール・ピコ 作家名:フランソワ=エドゥアール・ピコ 制作年:1829年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:エキゾチックな雰囲気を持つ裸婦像として描かれています。 ウジェーヌ・ドラクロワ 作家名:ウジェーヌ・ドラクロワ 制作年:1857年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:ロマン主義の巨匠であるドラクロワによる作品で、東洋的な雰囲気と官能的な表現が特徴です。 フランチェスコ・アイエツ 作家名:フランチェスコ・アイエツ 制作年:1867年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:イタリアの画家アイエツによる作品で、オリエンタリズムの影響を受けた優美な裸婦像として描かれています。 ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン 作家名:ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン 制作年:1879年 作品名:『Favorite of the Emir』 作品の特徴:オリエンタリズムの代表的な画家による作品で、豪華な東洋の宮殿の雰囲気の中でオダリスクが描かれています。 フェルディナン・ロワベ 作家名:フェルディナン・ロワベ 制作年:1900年頃 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した画家による作品で、世紀末の雰囲気を感じさせる官能的な表現が特徴です。 アンリ・オットマン 作家名:アンリ・オットマン 制作年:1920年 作品名:『眠っているオダリスク』 作品の特徴:20世紀に入ってからの作品で、伝統的なオダリスクのテーマを現代的な感覚で描いています。 アンリ・マティス 作家名:アンリ・マティス 制作年:1928年 作品名:『トルコ椅子にもたれるオダリスク』 作品の特徴:この作品は、マティスのオダリスクシリーズの中でも特に有名な作品の一つです。鮮やかな色彩と大胆な構図が特徴的で、オリエンタリズムの影響を受けつつも、マティス独自の様式で描かれています。 異国文化への関心と絵画の新たな挑戦が垣間見える、それぞれの「オダリスク」 「オダリスク」は、単なる異国情緒や官能性の象徴を超えた存在です。その背後には、文化と歴史が織りなす複雑な物語が隠されています。ヨーロッパの画家たちは、この題材を通じて、自らの想像力と美学を自由に表現し、観る者を魅了しました。 この記事で紹介した名画の数々をきっかけに、ぜひ「オリエンタリズム」や「オダリスク」というテーマにさらに関心を深めてみてください。新たな視点で鑑賞することで、これまで知らなかった美の世界がきっと広がるはずです。
2024.11.26
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世界大戦の心を癒したマティスの『トルコ椅子にもたれるオダリスク』とは
アンリ・マティスといえば、何を思い浮かべるでしょう。 色彩の魔術師、フォーヴィスムの創始者、切り紙絵などを想像する人は多いのではないでしょうか。 そのほかにも、マティスといえば「オダリスク」の絵があります。 マティスが描いたオリエンタルな女性像であるオダリスクは、当時戦争で傷つき心の平和を願った人々のニーズに寄り添い、人々から人気を集め、マティスの名声はさらに高まっていきました。 色彩の魔術師アンリ・マティスと『トルコ椅子にもたれるオダリスク』 マティスは、色彩の魔術師とも呼ばれていたフランスの巨匠で、フォーヴィスムをけん引した画家でもあります。 マティスが南フランスのニースで制作活動をしていたとき、オダリスクと呼ばれるハーレムの女性をモチーフにした作品を多く描きました。 なお、この時代はマティスだけではなく多くの芸術家がオダリスクの作品を制作していました。 オダリスクとは、オスマン帝国のイスラム君主の後宮に仕える女奴隷を指し、ハーレムは、アラビア語で「禁じられた場所」を意味しています。 オダリスクは、性の解放を象徴する存在であり、プロテスタントの禁欲文化への反動として、ヨーロッパの人々には大変刺激的に映ったそうです。 そのため、多くの芸術家がオダリスクをテーマに作品を制作し、マティスもその一人としていくつもの作品を残しました。 浮世絵や錦絵の影響が見受けられる『トルコ椅子にもたれるオダリスク』とは 作品名:トルコ椅子にもたれるオダリスク 作者:アンリ・マティス 制作年:1928年 技法・材質:油彩・キャンバス 寸法:60.0×73.0cm 所蔵:パリ市立近代美術館 『トルコ椅子にもたれるオダリスク』は、マティスが浮世絵の影響を受け、はっきりとした輪郭線や平面的な構図を意識して描かれたオダリスク作品です。 ほかの芸術家たちが描いたオダリスクは、どれも妖艶で色気のある女性像が描かれていますが、マティスの描く『トルコ椅子にもたれるオダリスク』からは、妖艶さがあまり伝わりません。 平面的かつ鮮やかな色彩は、日本の浮世絵や錦絵からインスピレーションを受けていると考えられるでしょう。 第一次世界大戦後のヨーロッパとオダリスク オダリスクを多く描いていた南フランスのニースでの活動時代、マティスの作品は、伝統の復権を求めて高まる植民地主義を背景に、エキゾティックなスタイルが流行する第一次世界大戦後のフランス民衆から歓迎されました。 ヨーロッパの欲望を幻想としてオリエントに託し、ハーレムの女性を描いたオダリスクは、19世紀のオリエンタリズム絵画の主要なテーマとなりました。 https://daruma3.jp/kaiga/218 ルノワールに倣い舞台装置を活用してオダリスクを描く オダリスクを描き始めたマティスは、ルノワールに倣ってエキゾティックで豊かな模様の布でアトリエの一角を囲い、ある種の舞台装置を形作ってオダリスク作品を描くようになりました。 パリやアルジェリア、モロッコなどで手に入れた屏風や壁掛けなどを用いてアトリエに舞台装置を作り、ときにはモデルの衣装を手作りすることもあったそうです。 オリエント風の調度とともに、オリエントの衣装を着たモデルにポーズをとってもらい、描くようになっていきます。 マティスにとってオダリスクというテーマは、模様のある面と身体のボリュームを画面空間で降り合わせる造形的な課題を解消するとともに、性的な魅力をまとう女性モデルのスタイルを、人工的な舞台装置と衣装により、当時の文脈に沿った絵画のテーマとして描く方法でもあったといわれています。 フォーヴィスムをけん引し時代の流れにあわせてオダリスクを描いたマティス 今回紹介した『トルコ椅子にもたれるオダリスク』をはじめとしたマティスのオダリスク作品は、ほかの画家が描いたオダリスクとは異なる魅力をもっています。 ジャポニズムの影響を受けていたマティスが描くオダリスクは、平面的で色彩がはっきりとしている特徴があります。 自然をこよなく愛し、豊かな色彩表現が特徴のマティスが描くオダリスクは、ハーレムの妖艶さからはかけ離れており、マティスが追い求めていたピュアな世界観を作り出しているのも魅力の一つです。 色彩を現実から解放した革命家マティスのオダリスク作品を通して、単純かつ鮮やかな色彩を楽しみましょう。
2024.11.25
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岸田劉生が愛する娘の麗子を描いた『麗子肖像(麗子五歳之像)』はだまし絵要素をもっている?
娘の麗子を描いた肖像画シリーズは、岸田劉生のスタイルが変化していく様を感じられる作品でもあります。 晩年は、腎臓炎や胃潰瘍、尿毒症などさまざまな疾病を併発し、若くして亡くなってしまった劉生。 38年という短い人生を情熱的に生きた劉生が娘の麗子をどのような思いで描いていたのかを探っていきましょう。 娘の麗子の肖像画を描き続けた岸田劉生 劉生は、多くの名作を残しながらも波乱万丈で短い生涯を送った洋画家です。 大正から昭和にかけて活躍した画家で、パリの前衛的な芸術家ら影響を受ける画家が多かった時代に、北方ルネサンス絵画や中国の古典美術、日本の浮世絵などから影響を受けつつ、独自の画風を確立させていきました。 代表作の『麗子肖像(麗子五歳之像)』は、劉生の長女である麗子の5歳のころを描いた肖像画です。 また、麗子の肖像画シリーズの最初の1枚でもあります。 制作当時、麗子は数え年で5歳、実際には4歳半の年齢でした。 以後、劉生は亡くなる半年前に描いた『麗子十六歳之像』まで、11年間さまざまな麗子を描き続けました。 だまし絵的な要素が取り入れられている『麗子肖像(麗子五歳之像)』とは 作品名:麗子肖像(麗子五歳之像) 作者:岸田劉生 制作年:1918年 技法・材質:油彩・キャンバス 寸法:45.3×38.0cm 所蔵:東京国立近代美術館 『麗子肖像(麗子五歳之像)』は、劉生が初めて手掛けた麗子の肖像画です。 この作品を制作する前、劉生はデューラーの色刷りに強い刺激を受けており、濃緑色の背景や金色の装飾文字、正面向きの人物画、右手のポーズなどから、大きな影響を受けていたことが分かります。 劉生は、デューラーの作品をみた当初、到底およばないと絶望的な気持ちになっていましたが、デューラーの深さに辿り着くために何度も繰り返し制作をすると決心し、その結果、多くの麗子像制作やお松像制作につながったと考えられるでしょう。 麗子の肖像画は、『麗子肖像(麗子五歳之像)』だけではありません。 その後に描かれた作品では、少しずつスタイルが変わっていくのも魅力の一つで、顔とおかっぱ頭の横幅が次第に広がっていったり、身体はさらに縮まり現実離れした体型になっていったりと、一つひとつ特徴が変わっていく様子を比較してみるのも楽しみ方の一つです。 麗子肖像(麗子五歳之像)に描かれているのは一人の麗子ではない? 劉生は『麗子肖像(麗子五歳之像)』を描くのに20日~30日ほどかけています。 完成が遅くなったのは、デューラーの色刷りをみて、人間が違う、主観そのものの深さが違うのだと落ち込み、制作が休み休みになってしまったためです。 しかし、気持ちを立ち直らせ、20日~30日かけてようやく完成させたのです。 肖像画の完成までに時間が経っていることからも、描かれた麗子が一つのタイミングのものではないと予想ができます。 実際に『麗子肖像(麗子五歳之像)』は、何日ものあいだに劉生がみた麗子を合成して描いた一種のフィクションの肖像画です。 デューラーからの影響を受けながら描かれた作品ですが、デューラー作品との違いももちろんあります。 一つは、大きな頭と短縮して描かれた上半身の表現方法で、この作品以降の麗子像にも採用されているプロポーションです。 細長い楕円形をかぶせたような姿は、デューラーの描く頭が小さく肩や胸が大きい絵とは大きく異なっています。 このようなプロポーションで描いた理由としては、詳細に描きこまれた頭部と衣服、不自然に小さい身体の組み合わせが、違和感を生み出すとともにあるはずのないものがリアルにそこに存在しているような、不思議な感覚を生み出すためといわれています。 だまし絵風の額縁により生まれる効果とは 作品の人物だけではなく、周りの装飾部分にも目を向けてみると、麗子の頭上にはアーチ状の額が描かれており、全体をよく見てみると「額に入った麗子の絵」を描いた絵であることが分かります。 額縁がだまし絵風の効果を生み出し、絵を描いた作品と錯覚させる工夫がされているのです。 濃緑色で描かれた背景は、向かって左下が暗くなっており、右から光を受けている麗子の影が薄く落ちている様子が表現されています。 影に注目して作品をみてみると、麗子が立体的に浮き上がり、キャンバスの面から少し前に出てきているように感じられます。 しかし、額縁を意識してもう一度見てみると、麗子は額の後ろに引っ込んでしまうのです。 描かれた麗子が三次元と二次元を行き来しているような、不思議な感覚を味わえる作品といえます。 麗子の肖像画は一つではない!晩年に至るまでスタイルの変化を楽しめる作品 今回紹介した『麗子肖像(麗子五歳之像)』は、劉生が娘の麗子を描いた作品です。 劉生が麗子を描いたのはこの作品だけではなく、亡くなる半年前まで描き続けています。 そのため、麗子像は劉生の画風やスタイルの移り変わりを辿れる作品でもあるのです。 劉生は、モチーフがもつ内なる美に注目した画家で、存在の神秘性を引き出すことを意識して作品を描いていました。 また、東洋美術や肉筆浮世絵がもつ世俗的で濃厚な作風にも強い関心を寄せていました。 そんな劉生が描く作品たちの変化を楽しみたい方は、多くの作品を時系列に沿って鑑賞するのもよいですが、麗子像の作品を通してスタイルの変化を比較してみるのもお勧めです。 画家となった当初、印象派のように屋外で風景画を描いていた劉生が、後期印象派の作風や主観と投影させる近代的なスタイルに衝撃を受け、その後北方ルネサンスの技法や発想を学び自身の作品に取り入れていく様子を、麗子像作品を通して想像してみましょう。
2024.11.25
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モネはなぜ睡蓮を描き続けたのか?
クロード・モネが描いた『睡蓮』とは 『睡蓮』シリーズは、クロード・モネが住むジヴェルニー邸宅の水の庭に生育していた睡蓮を描いた連作です。 1890年から晩年まで制作され続けた『睡蓮』シリーズの作品数は、約250枚にものぼります。 『睡蓮』の連作では、水面を取り巻く陽光の変化を捉えるとともに、大気の揺らぎを描いています。 描写には、実際の睡蓮と水面に映る睡蓮がいくつも重ねられた複雑な空間表現を用いているのが特徴です。 水面だけを切り取った構図は、画面の外側にも水面が広がっているような感覚を見る者に覚えさせ、無限の空間を表現しているのです。 同じ風景や同じ構図で描かれた『睡蓮』がいくつもありますが、すべて異なる印象をもっており、時間とともに変化する睡蓮の形や色彩、水面のきらめきなどを巧みに表現した『睡蓮』は、まさに光の画家と呼ばれるにふさわしい作品といえるでしょう。 『睡蓮』のモデルとなった場所 『睡蓮』シリーズのモデルとなっているのは、1890年にモネが購入したジヴェルニーの家の、「水の庭」です。 列車の車窓から見たジヴェルニーの景観の美しさに心を奪われたモネは、43歳でジヴェルニーに移り住むことを決意します。 ジヴェルニーの家と広大な土地を購入したモネは、果樹園の樹木を伐採し、四季折々の花咲く「花の庭」を作り、3年後には土地を買い足して「水の庭」を作りました。 「水の庭」には、もともとオモダカや睡蓮が自生しており、モネはそこに太鼓橋をかけたり、藤棚をのせたりとアレンジを加えていきました。 また、橋のたもとには菖蒲やかきつばたを植え、池のほとりには柳や竹林も作っています。 睡蓮の池には、フランス国内の白睡蓮や南米・エジプトから輸入した睡蓮も植えられており、白や黄色、青色、ピンクなどカラフルな花が咲き誇っています。 『睡蓮』は大きく3つの時代に分かれている モネが描いた約250枚の『睡蓮』には、大きく3つの時代に分けられます。 第1シリーズは1900年まで、第2シリーズは1903年以降に制作されたもの、そして晩年に描かれた大装飾画の3つです。 第1シリーズ 1900年までに描かれた第1シリーズでは、「水の庭」にかかる太鼓橋をメインに、睡蓮の池や枝垂れ柳とともに光の変化が描かれています。 風景を広く切り取って描くことの多いモネですが、第1シリーズでは睡蓮の花や葉っぱに着目した作品が多い傾向です。 第2シリーズ前期 第2シリーズの前期では、メインとしていた太鼓橋を描かず、水面に浮かぶ睡蓮や水面に映る空模様がメインとして描かれています。 第1シリーズでは、太鼓橋や植物に当たる光の角度や影の表現によって時間の流れを感じ取れましたが、第2シリーズでは水面に空を描くことで、時間の移り変わりをより鮮明に表現しました。 『睡蓮』を描き続けたモネでしたが、1909年から1912年の間は作品制作を中断していました。その大きな理由が白内障で、1908年ごろから目の不調を訴えていたモネは、1912年に白内障と診断されます。 一時は、絵具の色が判別できないほどでしたが、1913年に『睡蓮』の制作を再開しました。 しかし、白内障の影響もあり、これ以降の作品ではゴッホの画風を彷彿とさせる抽象的な表現が見受けられます。 最晩年の傑作『睡蓮』の大装飾画 大装飾画は、モネが最晩年に制作した最大17mにもなる大作です。 モネはもともと、19世紀末ごろから1つの部屋を睡蓮の巨大なキャンパスで埋め尽くす大装飾画を描こうと構想していました。 しかし、白内障による視力の低下や2番目の妻であるアリスと息子の死など、自身に次々と降りかかった不幸に絶望し、制作ができる状態にはありませんでした。 のちに手術により視力が回復し、心と体の健康を取り戻したモネは、残りの人生を大装飾画の制作に捧げようと決意し、制作を進めたのです。 『睡蓮』の大装飾画は、22枚のパネルで構成された8点の作品になっています。 作品をすべてつなげると、横幅はなんと91mにもなります。 『睡蓮』の大装飾画を仕上げたとき、モネは80歳になっており、晩年の大傑作といえるでしょう。 モネが『睡蓮』の連作を描き続けた理由 モネが『睡蓮』を描いていた時代は、フランスで園芸が流行しており、園芸誌も多く発行されていました。 モネは画家でしたが、植物を育てることもライフワークにしており、ジヴェルニーに引っ越してからはさらに園芸が本格化していきました。 最初は、睡蓮を植えたら面白いのではと軽い興味で育てていたため、初期の庭の絵には睡蓮が描かれていません。 その後、1899年の太鼓橋が描かれた『睡蓮の池』シリーズの構図がきっかけとなり、連作を描くようになったといわれています。 また、モネは、同じ構図で同じ風景を異なる時間帯で描くことで、移りゆくときの流れや天気・気温の一瞬の変化をキャンパスに収めることを目指していました。 展覧会で連作を並べることで、鑑賞者や購入者がわずかな構図の違いや光の差し具合、天気の変化などを見極めて、気に入った1枚を見つけるという自発的な鑑賞を勧め、購入意欲を高めさせる狙いもありました。 『睡蓮』は日本の浮世絵の影響を受けている? 最初のころの『睡蓮』シリーズには、太鼓橋や柳など日本を想起させるようなモチーフや風景が多く描かれています。 これは、モネが『睡蓮』のモデルとなる「水の庭」を作る際、日本美術に大きな影響を受けていたためと考えられます。 19世紀後半のパリは、万国博覧会が開催された影響もあり、ジャポニスムが大流行していました。 また、日本が江戸時代に鎖国を解き、開国したこともあり、フランスには日本の浮世絵や工芸品など、日本の美術が大量に輸入されていたのです。 今までの西洋美術にはない特徴をもつ日本の美術は、新鮮な目で見られ、多くの画家の心を惹きつけました。 特に、浮世絵の大胆な構図や鮮やかな色彩表現は、モネだけではなくゴッホやドガ、マネなど多くの芸術家に影響を与えました。 西洋の画家たちは、日本美術特有の構図や色彩表現を取り入れることで、さらに革新的な絵画を生み出していったのです。 モネも、日本美術に魅せられた画家の一人で、日本人の自然観を反映した庭園を自宅に作りました。 そのため「水の庭」には、日本の庭園を思わせるような太鼓橋や藤棚などが作られており、初期の『睡蓮』には、日本の風景を思わせる作品が多かったと考えられるでしょう。 日本風の太鼓橋は、浮世絵師である歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている日本の橋と呼ばれる太鼓橋がモデルになっています。 モネにとって太鼓橋は、東洋美術と西洋美術が出会い、融合する象徴であり、自然と人工の調和を表現していたともいえるでしょう。 『睡蓮』シリーズに見られる柳のように枝が垂れている「枝垂れ」の構図は、それまでの西洋絵画では見られなかった構図で、モネが日本美術にどれほど影響を受けていたかがうかがえます。 浮世絵や日本画などの日本美術では、繊細な筆使いや微妙な色合いの変化なども特徴的です。 『睡蓮』シリーズでも日本画に見られるような独特のグラデーションが使われており、色使いが魅力の一つともいえます。 浮世絵の特徴である遠近を感じさせない平面的な表現も、モネは作品に取り入れています。 また、『睡蓮』シリーズでは、一般的な四角いキャンバスではなく、丸キャンバスに描かれた作品もあるのが特徴です。 日本の寺院や和室には丸窓があり、これは日本の詫び寂び文化を反映したものであるといえるでしょう。 四角いキャンバスは外に視点が広がっていく効果がありますが、トンド型形式と呼ばれる丸型のキャンバスは、鑑賞者の視線を中央に吸い寄せる効果があります。
2024.11.25
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見る者の心をざわつかせる、シュルレアリスムの絵画技法「デペイズマン」
芸術の世界には、私たちの日常的な認識を揺さぶり、新たな視点を提供する様々な表現技法が存在します。 その中でも特に印象的で、20世紀の美術に大きな影響を与えた手法の一つが「デペイズマン」です。 フランス語で「異なった環境に置くこと」を意味するこの技法は、シュルレアリスム運動の中核をなす表現方法として知られています。 デペイズマンとは、シュルレアリスムの手法の1つで、「異なった環境に置くこと」を意味するフランス語。 この記事では、見る者の心をざわつかせ、時に不安にさせる、デペイズマンの技法とその作品を紹介していきます。 「デペイズマン」とは何か デペイズマンは、シュルレアリスムの重要な表現手法の一つで、「異なった環境に置くこと」を意味するフランス語です。 この技法は、日常的な物事や概念を本来あるべき場所や文脈から切り離し、予想外の環境に配置することで、鑑賞者に強い衝撃や違和感を与えます。 アンドレ・ブルトンによって1920年代に提唱されたこの概念は、ジョルジョ・デ・キリコやルネ・マグリットなどの画家たちによって積極的に採用されました。 デペイズマンは、現実世界の論理を超越し、鑑賞者の想像力を刺激することで、新たな視点や解釈を促します。この手法は、20世紀美術に大きな影響を与え、後にポップアートなど、現代アートの様々な分野にも影響を及ぼしています。 デペイズマンの表現方法 デペイズマンは、絵画において様々な方法で表現されます。 場所のデペイズマン 物を本来あるはずのない場所に配置する表現方法。 例)『秘密の遊技者』ルネ・マグリット : 野球をする人々の上に黒いオサガメが浮かんでいる。 大きさのデペイズマン 対象を実際よりも極端に大きく、または小さく描く表現方法。 例)『盗聴の部屋I』ルネ・マグリット : 部屋いっぱいに巨大なリンゴが描かれている。 時間のデペイズマン 同一画面内で異なる時間帯を表現する表現方法。 例)『光の帝国』ルネ・マグリット 材質のデペイズマン 物の形は維持しつつ、素材を全く異質なものに置き換える表現方法。 例)『毛皮の朝食』メレット・オッペンハイム : コーヒーカップが毛皮で覆われている。 人体のデペイズマン 人体の一部を異質なもので表現する表現方法。 例)『共同発明』ルネ・マグリット : 上半身が魚、下半身が人間の生き物が描かれている。 デペイズマンの意義 デペイズマンは、ルネ・マグリットやジョルジョ・デ・キリコなどの著名なシュルレアリスト画家によって多用され、20世紀美術に大きな影響を与えました。 シュルレアリスムの核心的な概念である「夢と現実の矛盾した状態の肯定」を視覚的に表現する手法として、このデペイズマンは重要な役割を果たしました。この技法により、芸術家は現実世界の論理を超越し、鑑賞者の想像力を刺激し、新たな視点や解釈を促すことができます。 現代でもこの技法の影響は大きく、アート、広告、デザインなど、多くの創造的分野にも影響を及ぼし続けているといえるでしょう。 デペイズマンの技法を最初に取り入れた、ジョルジョ・デ・キリコ デペイズマンの技法を最初に用いた画家として、ジョルジョ・デ・キリコが挙げられます。デ・キリコは20世紀初頭に形而上絵画を創始し、その中でデペイズマンの手法を先駆的に使用したことで知られています。 その中でも、代表作『愛の歌』(1914年)は、デペイズマンの典型的な例として知られています。この作品では、ギリシア彫刻、ボール、ゴム手袋、汽車といった互いに関連性のない物体が、何の脈絡もなく並置されています。 デ・キリコのこうした表現は、後のシュルレアリスム運動に大きな影響を与えました。特に、サルバドール・ダリやルネ・マグリットといったシュルレアリスムの画家たちは、デ・キリコの作品から多くを学び、自らの作品にデペイズマンの技法を取り入れていきました。 デ・キリコは、日常的な物体を非日常的な文脈に配置することで、鑑賞者に強い違和感や不安感を与える手法を確立しました。 この手法は後に、アンドレ・ブルトンによって「デペイズマン」と名付けられ、シュルレアリスムの重要な表現技法として広く認知されるようになりました。 デペイズマンによって作者(画家)は何を伝えようとしている? デペイズマンは、作者が鑑賞者に対して以下のような意図を伝えようとする表現技法です。 その意図はさまざまですが、主に以下のようなものが考えられるでしょう。 現実の再解釈 デペイズマンを用いることで、作者は日常的な物事や概念を新たな文脈に置き換え、鑑賞者に現実を再解釈する機会を提供します。これにより、我々が当たり前と考えている現実の見方に疑問を投げかけ、新たな視点を提示しようとします。 想像力の刺激 意外な組み合わせや配置によって生み出される驚きや違和感は、鑑賞者の想像力を刺激します。作者は、この手法を通じて鑑賞者の創造的思考を促し、固定観念から解放された自由な発想を引き出そうとします。 無意識の探求 シュルレアリスムの核心的概念である「夢と現実の矛盾した状態の肯定」を視覚的に表現するデペイズマンは、無意識の世界を探求する手段となります。作者は、論理的思考では到達できない心の深層を表現し、鑑賞者にもその世界を体験させようとします。 社会に対する批評・批判 デペイズマンによって生み出される違和感は、しばしば社会批評の手段としても機能します。作者は、既存の社会構造や価値観に対する疑問を投げかけ、鑑賞者に批判的思考を促します。 美の新たな定義 シュルレアリスムに多大な影響を与えたとされるフランスの詩人・ロートレアモンの「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい」という一節に象徴されるように、デペイズマンは美の新たな定義を提示します。 作者は、従来の美の概念を超えた、驚きや違和感から生まれる新しい美的体験を鑑賞者に提供しようとします。 このように、デペイズマンを通じて、作者はそれを見る者の認識を揺さぶり、新たな思考や感覚を呼び起こすことを目指しています。それは単なる視覚的驚きを超えて、私たちの現実認識や社会観、さらには美の概念そのものを再考させる強力な表現手段となっているのです。 現代のポップアートにも息づく、デペイズマン デペイズマンは、ポップアートに大きな影響を与えた技法の一つです。 繰り返しになりますが、シュルレアリスムの一部として発展したデペイズマンは、物体を通常の文脈から切り離し、新しい環境に置くことで生じる違和感を利用する手法。この考え方は、ポップアートにも取り入れられ、特に日常的なオブジェクトやイメージを新しい意味で提示することに大きく貢献したといっても過言ではありません。 デペイズマンがポップアートに与えた影響 異質な組み合わせ ポップアートでは、日常的な物体やイメージが異質な組み合わせで提示されることが多く、これにより新たな視点や意味が生まれます。デペイズマンの手法は、こうした異質な組み合わせを可能にしました。 日常と非日常の融合 ポップアートは、大衆文化や消費文化の要素を取り入れることで、日常と非日常を融合させます。デペイズマンの影響で、これらの要素が新しい文脈で再解釈されることが可能になりました。 アンディ・ウォーホルへの影響 デペイズマンの概念は、アンディ・ウォーホルの作品にも影響を与えました。ウォーホルは大量生産された商品や有名人のイメージを用い、それらを新しい文脈で再提示することで、新たな意味や価値を創出しました。 視覚的インパクトと批評性 デペイズマンによって生じる視覚的なインパクトは、ポップアートにおいても重要な要素となり、観客に強い印象を与えると同時に、社会や文化への批評的視点を提供しました。 私たちの心を揺さぶる作者からの問いかけ、デペイズマン デペイズマンが私たちの心をざわつかせる理由は、日常の中に潜む非日常を鮮やかに浮かび上がらせるからでしょう。見慣れた物事が思いもよらない文脈に置かれることで、私たちの固定観念が揺さぶられ、新たな視点や解釈が生まれます。この技法は、単なる驚きを超えて、私たちの現実認識そのものに疑問を投げかけています。 興味深いのは、20世紀に誕生したデペイズマンの影響が現代の身近なアートにも見られることです。 街中の広告、SNSで話題のビジュアルアート、あるいは日常的な空間デザインにも、この手法の痕跡を見出すことができるかもしれません。 デペイズマンは、私たちの日常に潜む「不思議」や「矛盾」を可視化し、想像力を刺激し続けています。 この技法を意識することで、周囲の世界をより創造的に、批判的に見る目が養われるのではないでしょうか。
2024.11.25
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モノクロの世界に魅了される版画集『聖アントワーヌの誘惑』
小説を題材に描かれた版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、オディロン・ルドンの代表作の一つでもあります。 モノクロの世界に魅了され、黒で彩った作品を多く制作していたルドンの世界観を存分に味わえる版画集ともいえるでしょう。 怪奇な作品を多く描いていた黒の時代に制作された『聖アントワーヌの誘惑』の特徴や魅力を知り、芸術家ルドンの本質に迫っていきましょう。 象徴主義を代表する画家オディロン・ルドンが描いた『聖アントワーヌの誘惑』 ルドンとは、19世紀末にフランスで活躍した画家で、木炭画やリトグラフ作品を多く制作しています。 無意識下の世界を投影した独特な世界観が多くの人の心を惹きつけています。 版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、ギュスターヴ・フロベールが1874年に書いた小説『聖アントワーヌの誘惑』に着想を得て描かれた代表作で、物語のイメージを超えて、ルドンのもつ幻想的で独創的な世界観が広がっている作品です。 ルドンの代表的な版画集『聖アントワーヌの誘惑』とは 作品名:聖アントワーヌの誘惑 作者:オディロン・ルドン 制作年:1888年 技法・材質: 寸法:22.5×20.0cm 所蔵: 国立西洋美術館 ルドンは、フロベールの書いた『聖アントワーヌの誘惑』を題材に、表紙を含む42点のリトグラフを制作しました。 ルドンがノワールと呼ぶ黒を用いて、まるで幻覚を見ているかのような魔的な世界観を表現しています。 黒は、ルドンがあらゆる色彩のなかで最も本質的な色とするカラーで、この黒で統一されている点が『聖アントワーヌの誘惑』の特徴の一つです。 1888年に、全11点の第一集が制作され、1889年には全7点の第二集、1896年には全24点の第三集、1933年には全22点の別バージョンの第三集が制作されました。 着想を得た小説『聖アントワーヌの誘惑』とは 小説『聖アントワーヌの誘惑』は、フロベールが着想から30年近い歳月をかけて1874年に刊行されました。 モチーフとなっているのは、紀元3世紀の聖者アントワーヌで、テーベの山頂で一夜にして古今東西のさまざまな宗教や神話の神々や魑魅魍魎の幻覚を経験し、その後、生命の始原を垣間見、朝日が昇り始めるなかキリストの顔を見出すまでを絵巻物のように綴っていく作品です。 ルドンの世界観が広がる『聖アントワーヌの誘惑』 『聖アントワーヌの誘惑』では、源泉を特定できないさまざまな図像や特異的な要素が唐突に描かれており、第1集から第3集に進むにつれて、その特徴が増していきます。 ルドンは、批評家エミール・エヌカンに勧められ小説『聖アントワーヌの誘惑』を読み、5年以上経過してから再びユイスマンスに勧められ、版画集のコンセプトを考えるようになりました。 そうして描かれた『聖アントワーヌの誘惑』ですが、小説の内容を逸脱した大胆な翻案も多く、ルドンは小説『聖アントワーヌの誘惑』を利用して自分が偏愛しているいくつかのモチーフを自由に展開したといえます。 死神と淫欲がアントワーヌを翻弄しようと競い合うシーンは、第1集ではバラの冠をのせた大きな蛆虫のような死神が、第2集では死神に代わり若い裸の女の姿をした淫欲が、それぞれ下半身がとぐろを巻いた姿で描かれています。 第3集では、骸骨となった死神と若い裸の女の姿をした淫欲が並んで向かってくる様子が描かれているのが特徴的です。 死神と淫欲の下半身は強い光で覆われ消えており、2人の間から不完全な渦のような円が生まれ、死神と淫欲が実は一体であったことを表現しています。 自由な発想と創造を「ノワール(私の黒)」で表現した画家ルドン 今回ご紹介した版画集『聖アントワーヌの誘惑』をはじめとした数々の作品はどれも、ルドンの高い精神性と自由な想像に満ちたものばかりです。 ルドン自身も黒を「ノワール」と呼び、モノクロで描かれた木炭画やリトグラフは、当時の若い前衛的芸術家からも高い評価を受けていました。 あらゆる色の中で最も本質的な色とする黒で描かれた独創的な作品は、ルドンの内向性や孤独が表現されていたのかもしれません。 顕微鏡下に広がる不思議な世界や、版画家ブレダン、フロベールの怪奇な物語などさまざまな世界に触れ、ルドンは黒で彩られた独自の世界を描くようになっていったともいえるでしょう。
2024.09.10
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バンクシーの代表作、平和・希望・愛の象徴の象徴『風船と少女』に込められたメッセージ
日本でもほとんどの人がバンクシーの名を聞いたことがあったり、代表的な作品を目にしたことがあったりするのではないでしょうか。 バンクシーはそれほどまでに、現在名を広めているグラフィティアーティストの一人です。 資本主義社会や戦争など、現在の社会に対する強いメッセージを込めた作品を多く制作しており、『風船と少女』もその一つです。 社会を風刺する神出鬼没のグラフィティアーティスト・バンクシーが制作した『風船と少女』 バンクシーとは、イギリスを拠点に活動するグラフィティアーティストで、彼についての情報はほとんど明らかになっていません。 正体不明・神出鬼没と謎めいた人物で、街中にメッセージ性の強いグラフィティアートを描き、話題を集めていきました。 今回取り上げる『風船と少女』は、バンクシーの代表作の一つで、サザビーズのシュレッダー事件でも知名度を大きく上げた作品。少女が赤い風船に向かって手を伸ばしている様子が描かれたこの作品は、イギリス国内で最も人気のある作品に選ばれています。 実は、作品は一つではない。『風船と少女』シリーズ 作品名:『風船と少女』 作者:バンクシー 制作年:作品によって異なる 技法・材質:作品によって異なる 寸法:作品によって異なる 所蔵: 作品によって異なる 最初の『風船と少女』は、2022年にロンドンのサウス・バンクにあるウォータールー橋へのぼる階段に描かれました。 ほかにも『風船と少女』は、ロンドンの各地の壁に描かれましたが、現在それらはすべて塗りつぶされており、残されていません。 壁面に描かれた当時、バンクシーは今ほどの知名度や人気を誇っていなかったため、単なる落書きとして市の職員によって塗りつぶされてしまったのです。 この作品は、突風が吹き、少女の手から赤い風船が離れていくようにも、少女が赤い風船をつかもうとするようにも見え、捉え方によって意味合いが変わってくる点が魅力の一つといえます。 『風船と少女』には平和や希望を願う気持ちが込められている 少女が風船に手を伸ばしている様子を描いたこの作品は、ポップで明るく親しみやすさがあります。この作品を通じてバンクシーは、パレスチナやシリアなどで巻き起こる戦争に対する反対表明や、難民に寄り添う姿勢を発信してきました。 また、バンクシーは『風船と少女』をベースにさまざまなパターンの作品を制作しています。 パレスチナとイスラエルを隔てている分離壁に描かれた『Balloon Debate』は、2005年に制作されたもので、少女が複数の風船をつかみ壁の上に昇っていく様子が表現されています。 バンクシーは作品とともに、分離壁は、国際法上では違法であり、パレスチナを世界一大きな刑務所に変えてしまったとメッセージを送り、分離壁の設置に批判の姿勢をみせました。 また、『風船と少女』の少女の風貌をシリア難民の少女に描き変えた作品も制作しています。 この作品は、SNSで「#withsyria」のハッシュタグとともに、シリア内戦の犠牲者への支援を募るキャンペーンにて拡散されました。 サザビーズのシュレッダー事件によってさらに話題を集めた『風船と少女』 平和を願うメッセージが込められた『風船と少女』の認知度をさらに高めたのが、2018年に世界を驚愕させたシュレッダー事件。 2018年10月5日のロンドン・サザビーズオークションに出品された『風船と少女』は、104万2000ポンドで落札されました。そして、落札終了を告げる木づちの音が鳴り響いた数秒後、『風船と少女』は額縁に下部に仕込まれていたシュレッダーによって裁断されてしまったのです。 裁断は途中でストップし、少女の頭部と赤い風船だけが切り刻まれずに残った状態となりました。 バンクシーが仕掛けたこの事件は、アートは一部の富裕層が所有したり、金融商品のように売買したりするものではないという、現在のアートシーンの在り方を痛烈に批判する意味合いがあったといえるでしょう。 バンクシーの作品には、現代社会に向けられたメッセージが込められている 今回ご紹介した『風船と少女』をはじめとしたバンクシー作品の多くには、政治的なメッセージ性が込められています。 『風船と少女』は、比較的明るくストレートな愛や平和を象徴する作品として知られていますが、なかには現在の資本主義や戦争を痛烈に批判する作品も多く制作しています。 芸術やアートに詳しくない人でも、バンクシーの名を知っている人は多いのではないでしょうか。 彼は、さまざまなパフォーマンスを通して認知度を上げ、数々の作品によって社会や政治に問題提起することで、多くの人の心を動かそうとしているともいえます。 ポップでユーモアがありながら、今の社会に対して物申すバンクシーの作品を通して、アートや社会について考えるのもよいでしょう。
2024.08.19
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あの有名なゴッホの『ひまわり』は実は7作品ある?!実は日本でも観賞できる世界的名作
『ひまわり』の絵は、誰もが一度はどこかで見たことがあるのではないでしょうか。 美術館だけではなく、教科書やポスターなどさまざまな場所に掲載されているため、描いた人物を知らなくても絵だけは見たことがある人も多いでしょう。この『ひまわり』を描いたのは、ポスト印象派の画家として知られているフィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホの『ひまわり』はあまりに有名な絵画の1つですが、実は7作品もあることを知らない人も多いのでは? この記事では、そんな『ひまわり』について掘り下げてご紹介していきます。 ゴッホが描いた『ひまわり』は7つある? ゴッホが描いた花瓶に活けられたひまわりの絵画は、実は一つだけではありません。 『ひまわり』シリーズは7つ制作されており、現代においてアルルのひまわりと呼ばれています。このシリーズは、1888年に制作され、ゴッホがアルルに構えたアトリエ「黄色い家」に飾るために描かれたといわれています。 ゴッホは、弟のテオに宛てた手紙に、ゴーギャンとともに制作活動に打ち込むアルルのアトリエにひまわりの絵を飾ろうと思っていることを記していました。 これまでの作品と比べるとサイズの大きなキャンバスに描かれており、花瓶から溢れんばかりに咲き誇るひまわりは、ゴッホが南フランスの地で見つけたアルルという太陽の輝きを表現しているようでした。 1枚目:明るい色彩が特徴のひまわり 1枚目に描かれた『ひまわり』は、背景が鮮やかなターコイズブルーで、花自体も明るい黄色で描かれており、明るく生き生きとした印象のある作品です。 ゴーギャンと共同生活を送った黄色い家の壁も水色であり、どちらもゴッホのわくわくした気持ちを表現しているかのように感じられます。 また、ひまわりの鮮やかな黄色にあわせて茶色の机が描かれており、ターコイズブルーのさわやかな背景や花瓶の鮮やかな黄緑色、ひまわりの生き生きとした黄色などの色彩が引き立っています。 2枚目:戦火により焼失してしまったひまわり 2枚目の『ひまわり』は、1919年に日本人実業家の山本顧彌太が7万フラン(現在の価格では約2億円)の高値で購入した作品です。 山本は、白樺派と呼ばれる文学グループのパトロンをしており、白樺派美術館を建設するために購入したといわれています。 購入後は、日本国内の展覧会で何度も展示が行われました。 しかし、白樺派美術館の話は頓挫してしまい、『ひまわり』は購入者である山本の住む神戸の邸宅に飾られていましたが、1945年の第二次世界大戦の米軍空襲によって焼失してしまったのです。 当時、ほかにも飾られていた画家の作品は避難できましたが、『ひまわり』は壁に固定して飾ってあったために移動させられなかったといわれています。 3枚目:12本のひまわりが描かれている 12本のひまわりが描かれている3枚目は、多くの人がイメージしている『ひまわり』の作品ではないでしょうか。 ミュンヘン版ともいわれており、花の数が多く豪華な作品として知られています。 また、印象派から影響を受けていたゴッホは、筆のタッチを大胆に残すスタイルで絵画を描いており、この『ひまわり』からは、そのスタイルがより顕著にみられるのも特徴です。 1枚目の『ひまわり』では、机を現実の木材の色に寄せて茶色で描いていましたが、3枚目では、机と花びらがよく似た黄色で描かれています。 花と机の色を同系色でまとめることで、種部分の深い赤茶色の色彩がより引き立っています。 4枚目:ゴーギャンが絶賛したひまわり 4枚目の『ひまわり』は、ロンドン版とも呼ばれており、世界中で最も有名な作品といわれています。 短いながらもゴッホと共同生活を送ったポスト印象派画家のゴーギャンも、この4枚目の『ひまわり』を絶賛しました。 3枚目と同じように同系色でまとめられており、より繊細な色彩の使い方や絵の具の塗り方により厚みや遠近感を表現し、ひまわりの存在感が増している作品です。 完成度の高さから、現代でも最も質の高い作品と評価されています。 教科書やポスターなどで使われているゴッホの『ひまわり』のほとんどは、この4枚目の作品ではないでしょうか。 本来、ゴッホは12枚のひまわりの絵を制作する予定でしたが、4枚目を描いていることに花が咲く時期がすぎてしまい、実際のひまわりを見て描いたのは4枚目までで、それ以降の3作品は自分が描いた絵画を模写したといわれています。 5枚目:ゴッホ自身が複製模写したひまわり 5枚目の『ひまわり』は、4枚目の作品を自ら複製模写して描かれたといわれています。 ミュンヘン版とも呼ばれており、1本1本の花の形や配置を比べてみるとほとんど同じであるとわかるでしょう。 しかし、色合いに若干の違いがみられ、種や花瓶の輪郭線の色がより鮮やかな赤色で描かれており、マイナーチェンジしていることがうかがえます。 模写してまで『ひまわり』をいくつも制作していたのは、ゴーギャンと共同生活を送るアルルの黄色い家の壁を飾りたい一心であったといえるでしょう。 6枚目:耳きり事件後に描かれたひまわり 6枚目の『ひまわり』は、アムステルダム版とも呼ばれており、ロンドン版の模写であるこの作品は、背景やひまわりの種部分がより鮮やかになっているとわかります。 6枚目は、ゴッホが自らの耳を切断した「耳切り事件」の後、病院を退院してから描かれたといわれています。 7枚目:日本に所蔵されているひまわり 7枚目の『ひまわり』は、1987年、53億という高額で日本の生命保険会社が購入し、現在は、SOMPO美術館に所蔵・展示されています。 『ひまわり』を展示するようになったSOMPO美術館の年間入場者数は、前年の8倍ほどにまで伸び、日本人のゴッホブームの火付け役となったといわれています。 ゴッホの描く作品は、深い知識に基づいて鑑賞しながら作品の意味を追求するという楽しみ方だけではなく、単にキャンバスに描かれているモチーフの魅力を味わえることも特徴の一つでした。 それゆえ、多くの人から人気を集めたといえるでしょう。 ゴッホはアルルの黄色い家を飾るためにひまわりを描いた ゴッホは、南フランスのアルルに移り住んだ後、周辺地域の明るい雰囲気を気に入り、『黄色い家』と呼ばれていた借家を共同のアトリエとして利用し、パリでともに作品を制作していた画家たちと制作活動を行おうと考えていました。 弟テオを通して、交流のあった何人かの画家に手紙を送りますが、なかなかアトリエで共同生活を送ってくれる人は現れず、結局返事をくれたのはゴーギャンだけでした。ゴッホは、思い込みの激しい性格をしており、さらにはストーカー気質があったともいわれており、多くの画家が一緒に生活することに対して尻込みしてしまったと考えられます。その中で、ゴーギャンは、ゴッホの弟テオから金銭的援助を含めて説得され、承諾してくれたのでした。 1888年、ゴッホはゴーギャンとともに黄色い家で共同生活をスタートさせます。 複数の『ひまわり』は、共同生活を送るゴーギャンを歓迎するために制作されたものでした。『ひまわり』をアトリエのインテリアとして利用しようと考えていたゴッホは、複数のひまわり作品を制作します。ひまわりは、ユートピアの象徴であり、共同生活への希望を胸に描き始められたと考えられます。しかし、ゴーギャンとは方向性の違いにより喧嘩を繰り返し、ついに2か月ほどで憧れだった共同生活は終了してしまうのでした。 なお、アルルでの共同生活は、日本に対する間違ったイメージにより構想が練られました。ゴッホは、浮世絵の印象から日本は光があふれている南国であると思い込み、日本の画家たちは、共同生活を送ってお互いに絵を贈りあっていると勘違いをしたのです。 このイメージを胸に、ゴッホは南フランスのアルルに出向き、ゴッホが思い描く日本の画家たちのように共同生活を送れるアトリエを構えたのでした。 パリ時代に描いた『ひまわり』もある ゴッホの『ひまわり』というと花瓶に入った構図が特徴的ですが、パリに住んでいた1886年から1887年の間に描かれたひまわりもあります。 アルル時代に描かれた『ひまわり』とは異なり、地面の上に寂しげに置かれている様子を描いているのが特徴的です。また、ゴッホはこれ以前にも、ほかの花と一緒に静物画の中にひまわりを描いています。 パリのひまわりの存在は、1889年のゴーギャンとの手紙のやり取りによって発覚し、それまでは存在を知られていませんでした。 パリの『ひまわり』は、キャンバスの中に花弁がしっかり収まる構図で描かれており、色彩は全体的に暗く、初期のゴッホ作品に多く見られる重々しい雰囲気が伝わってくるようです。 パリ時代のひまわりは、習作として制作されたものであり、観察をきっちり行いモチーフに忠実に描かれているのが特徴です。
2024.08.17
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ロートレックの代表作 『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』は日本美術の影響を受けている!?
堂々とした佇まいで、貫禄のある姿が印象的な『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』。 舞台の宣伝ポスターを多く手がけていたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが制作したこの作品には、日本美術に影響を受けているであろう点がいくつも見受けられます。 また、ロートレックの作風や特徴からも、日本美術とくに浮世絵に強い関心を寄せていたことがわかります。 ロートレックの代表作『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』を通して、彼が日本美術からどのような影響を受けていたのかをみていきましょう。 パリ・モンマルトルをポスターで彩ったアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、19世紀後半のパリで人気を博したポスター画家です。 パリの夜を彩るモンマルトルの街で働く人々や生きる人々をモチーフにした作品を多く制作しており、中でも人気キャバレ「ムーラン・ルージュ」のポスターを制作したことで、多くの人々にロートレックの名が知れ渡りました。 ロートレックの代表作である『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』は、19世紀末に活躍したシャンソン歌手アリスティド・ブリュアンが舞台『エルドラド』に出演する際にロートレックへ制作を依頼したポスターです。 日本美術の影響が垣間見える『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』とは 作品名:エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて 作者:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 制作年:1892年 技法・材質:リトグラフ 寸法:138.0×96.0cm 所蔵:フィロス・コレクション 『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』は、シャンソン歌手アリスティド・ブリュアンの舞台『エルドラド』に関連したポスター作品です。 オレンジや赤、黄色、青などの原色が鮮やかに発色しているのが印象的。当時の人気シャンソン歌手であったブリュアンの堂々とした姿とたたずまいが目を引きます。 平面的な描写ではありますが、圧倒的な存在感のある構図で、日本美術の浮世絵を思わせる面もあります。 日本の浮世絵作品から影響を受けているポスター 『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』は、日本の浮世絵からもインスピレーションを受けているといわれています。 この作品のブリュアンの表情をよくみてみましょう。曲がった口元や通常よりも誇張された表情などが、日本の浮世絵師「写楽」が描く歌舞伎役者のようにも見えます。 また、ロートレック作品ならではの特徴は、モデルとなる人物を美化させすぎない点です。 特徴を強調するとともに、ときにはユーモアも交えた独特の表現方法は、ほかにはない個性を感じられ、多くの人々を魅了していたともいえるでしょう。この美化せず特徴を誇張する表現方法は、浮世絵師「写楽」にもみられる特徴です。 ロートレックは、舞台で活躍する人々のポスターを制作しており、浮世絵も舞台で活躍する歌舞伎役者を描いた作品であることから、日本の浮世絵に憧れ、パリでは当時商業絵画として人気の低かったポスター作品を制作するようになったのでは、とも想像できますね。 また、ロートレックはパリ・モンマルトルで働く娼婦も描いており、浮世では写楽や歌川豊国などが吉原の絵を描いています。 ロートレックと日本の浮世絵には、多くの共通点があるように思えてきます。 ポスターに描かれている「アリスティド・ブリュアン」とは アリスティド・ブリュアンは、フランスで人気を集めていたシャンソン歌手で、ロートレックはこの作品以外にも、彼のポスターを制作しています。 もともと歌手を志していたわけではなく、鉄道員から歌手に転身した変わった人物です。歌は自分で作っており、もともと顔見知りで合ったロートレックは、ブリュアンの楽譜シートのためにデザインをしたこともあったそうです。 ロートレックがポスター画家として活躍を見せ始めたころ、ブリュアンも自分のポスターを制作してほしいと考え、制作を依頼。 それがヒットし、その後いくつもブリュアンをモデルにしたポスターを制作することになったのでした。 日本の浮世絵をパリに溶け込ませたロートレック作品 今回ご紹介した『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』をはじめとした数々のポスター作品は、当時のパリ・モンマルトルの賑わいを肌で感じさせてくれるものばかりです。 ロートレックが描いた当時多くの人々でにぎわっていたパリ・モンマルトルの魅力を引き立たせているポスターたちをみると、パリ・モンマルトルを訪れたくなりますね。 ロートレックが描くパリ・モンマルトルの賑わいと輝きを、ぜひ一度間近で楽しんでみてください。
2024.08.17
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形而上絵画で有名なジョルジョ・デ・キリコの『予言者』の魅力を解説!
表情がなく無機質で不安な感情を抱かせるマヌカンをモチーフにした『予言者』。 その不穏な空気感がクセになり、何度も作品を鑑賞したくなってしまう人もいることでしょう。 パリで活躍した形而上絵画の生みの親ジョルジョ・デ・キリコが描いた『予言者』は、どんな作品であるか、作品の特徴や影響を受けた人物や芸術にも目を向けてみていきましょう。 形而上絵画を創始したジョルジョ・デ・キリコ デ・キリコは、形而上絵画を創始し、1910年代ごろパリで人気を博した画家。 のちのシュルレアリスムにも大きな影響を与えたといわれ、また、1919年以降は、古典主義に関心を寄せ、新古典主義や新バロック形式の作品も多く制作しています。 そんなデ・キリコの代表作でもある『予言者』は、デ・キリコがよく描いているマヌカン(マネキン)をモチーフにした形而上絵画です。 表情がなく無機質な人形が絵画の中にたたずんでいる様子は、見る者に不安を感じさせます。 デ・キリコ展のポスターやフォトスポットにもなっている『予言者』とは 作品名:『予言者』 作者:ジョルジョ・デ・キリコ 制作年:1914-1915年 技法・材質:油彩・キャンバス 寸法:89.6×70.1cm 所蔵:ニューヨーク近代美術館 『予言者』では、画面の左にマヌカン、右にイーゼルが大きく描かれメインとなり、背景の中央には神殿のようなものが描かれています。 画面の下から神殿に向かって、まっすぐな木の床板が伸びており、視線が自然と後方の神殿に向かう構図になっているのが特徴です。床の延長線上に神殿があるのか、その先の別の空間にあるのかわからない奥行きのズレが、違和感のある遠近感を生み出しています。 マヌカンの隣にイーゼルが立てられていることから、このマヌカンは画家であるかもしれないと見る者に想像させます。 イーゼルに置かれた黒板のようなキャンバスには、線遠近法で描かれた建物の中に「TORINO」の文字が読み取れます。トリノは、デ・キリコが影響を受けたとするニーチェが精神錯乱に陥った地でもあるため、哲学者ニーチェとのつながりも感じられるでしょう。 黒板の中には、彫刻のようなモチーフの輪郭も描かれており、イーゼルの後方には彫像のような影が描かれています。 影だけを描くことで不在が強調され、横から影を差し込むことで緊張感を生み、不穏な空気感を演出しています。 見る者に違和感や不安を覚えさせる形而上絵画とマヌカン デ・キリコが描く意味や関係性が不明確で、つながりを感じられない表現方法は、ショーペンハウアーやニーチェの哲学を反映させたものといわれています。 デ・キリコ自ら形而上絵画と呼ぶようになったこの手法。『予言者』にもあるように、日常の中に非日常が紛れ込んでいたり、日常の先を見ていたりするような感覚になる不穏さが、キリコ作品の魅力でもあり、高い評価を受けています。 特にデ・キリコは、デペイズマンと呼ばれるモチーフを本来あるべき場所とは別の空間に置く手法をよく用いていました。 この手法は、のちのシュルレアリスムの画家たちにも大きな影響をおよぼしました。 また『予言者』で描かれているマヌカンとは、デ・キリコが繰り返し描いているモチーフの一つで、マネキンを表現しています。 マネキンには、表情や感情がなく、性別や個性を示す特徴もそぎ落とされており、見る者によってさまざまな想像ができるモチーフといえます。 また、西洋絵画では古くから人物の描写を重要視しており、デ・キリコはその人物の顔を描かずマネキンに置き換えることで、西洋絵画の伝統を破壊しようとしたとも捉えられるでしょう。 『予言者』の画法は、初期ルネサンス絵画の建築表現から影響を受けている 代表作『予言者』は、初期ルネサンス絵画のぎこちなさのある建築表現から影響を受けているとも考えられています。 1919年ごろから、古典的なルネサンス絵画やバロック絵画に影響を受けた作品を多く描くようになったこともあり、『予言者』が描かれた1914-1915年ごろも、少しずつルネサンスに関心を寄せていたのかもしれません。 不穏で違和感のある不思議な感覚を体験できるデ・キリコ作品 今回ご紹介した代表作『予言者』をはじめとした多くのデ・キリコ作品は、これまでの絵画鑑賞では得られなかった感情を与えてくれるものといえるでしょう。 デ・キリコの魅力は、前衛芸術から始まった作品が一度古典に回帰し、ルネサンスやバロックに影響を受けた作品を描きつつも、最終的には新形而上絵画に戻り、独特の世界観を楽しませてくれるところです。 不思議で心をざわつかせてくれるデ・キリコの作品のすばらしさを、ぜひ一度間近で感じてみてください。
2024.08.13
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