卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名です。卑弥呼とペルシャ絨毯といわれてもどのような関係があるのかわからない方も多いでしょう。ペルシャ絨毯といえば、長い歴史を持つイランの伝統的な織物製品の一つです。この2つの関係性をひも解いていくことで、日本の歴史とペルシャ絨毯の歴史、それぞれに対する興味を深めていきましょう。
目次
卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった?
ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。
卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった?
ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。
卑弥呼とは
卑弥呼とは、2世紀末から3世紀前半にかけて昔の日本、倭国を統治していたとされる邪馬台国の女王です。日本の歴史の中で最も古い女王とされており、まだ文字のなかった時代の人物であるため、日本の史料には登場していません。卑弥呼の存在が明らかにされたのは、中国の魏の歴史書『三国志』の魏書においてです。日本の授業では『魏志倭人伝』とも呼ばれています。
魏書によると、倭国を男王が統治していた2世紀後半ごろは戦乱が絶えず、倭国の首長たちが相談して1人の女王を共立しました。それが卑弥呼です。卑弥呼が女王の座に就くと戦乱が収まり、倭国に平和が訪れたとされています。
卑弥呼は鬼道と呼ばれるまじないを用いて政治を行っていました。年を重ねても未婚のままで、弟が国政を助けていたとされています。また、女王となってからは人前に姿を見せず、顔を見たものはほとんどいません。1000人ほどの下働きの女性と1人の男性だけが女王の住む宮殿に出入りできました。
卑弥呼は単なる巫女ではなく、邪馬台国に君臨し30にもおよぶ倭の国々を統一して大陸との交流も行った、まさに女王と呼ぶにふさわしい存在だったといえます。
『魏志倭人伝』に残された記録
『魏志倭人伝』には太古の昔、卑弥呼の時代にペルシャ絨毯が伝わったと推測できる記述が残されています。『魏志倭人伝』では、239年に卑弥呼が魏国に使節を送ったとあります。そこで奴婢を含む数多くの品を明帝に献上しました。これにより、卑弥呼は親魏倭王の封号を与えられました。その後、魏の皇帝は答礼として金印紫綬と銅鏡100枚などの品を与えると決め、倭国へ使節を送り多くの品を贈ります。
その中には絨毯と思われる敷物も贈られたとの記録があります。ペルシャ絨毯が贈られたとされる明確な記載はありませんが、敷物と記録されていることから絨毯が贈られたと考えられるでしょう。
正倉院に残された、敷物とは
ペルシャ絨毯と判明しているわけではありませんが、正倉院には中国から伝わった敷物である毛氈が所蔵されています。以前までは、カシミヤに似ているヤギの毛がフェルトの素材と考えられていましたが、近年、羊毛であると研究により明らかになりました。毛氈は、動物の毛に熱や圧力をかけて繊維をからませ、フェルト化したものです。紀元前と古くから中央アジアの遊牧民が敷物や壁掛けなどとして使っていたとされています。
そのほかにも、正倉院には歴史的に重要な物品が9,000点以上所蔵されています。所蔵されている中でも代表的な宝物は『鳥毛立女屏風』や『螺鈿紫檀五絃琵琶』などです。『鳥毛立女屏風』は、絵に使われている羽毛が日本の山鳥のものであるため舶来品ではなく、日本で制作されたと考えられています。『螺鈿紫檀五絃琵琶』は5本の弦で構成された珍しい琵琶で、5弦の琵琶は世界でも一つしか残っていません。正倉院では国家を代表する宝物が数多く所蔵されているとわかります。
ペルシャ絨毯の歴史を考えると、卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしたかも?
古くから絨毯と思われる敷物が日本に渡ってきていますが、日本に現存する最古のペルシャ絨毯は、京都の夏の風物詩である祇園祭の巡行で登場する大きな山鉾の懸装であるとされています。卑弥呼の時代に魏から贈られた敷物がペルシャ絨毯であったか、明確な記録は残っていません。しかし、歴史を振り返ってみると、日本にも古くから海外の絨毯が伝わってきていたことがわかるでしょう。