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渡辺省亭(1852年-1918年)画家[日本]

日本画家でありながら、図案家としても活躍していた渡辺省亭。
独自の画風を確立した美しい花鳥画は、フランス・パリで見た西洋画家たちの作品から影響を受けているといわれています。

花鳥画で欧米を魅了した「渡辺省亭」とは

生没年:1852年-1918年
渡辺省亭は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、洋風な表現を取り入れた花鳥画で人気を博しました。
8歳のころに父を亡くしたあと、12歳で牛込の質屋に奉公へ出ました。
しかし、絵をよく描いており、大変上手かったため、3年で生母のもとに送り返されるのです。
16歳で菊池容斎の門下になり絵を学び、明治維新以降は横浜の貿易会社にて輸出用工芸品の下絵を描くようになりました。
1878年には、パリ万国博覧会の職人として現地に派遣され、サロンで即興画や掛軸制作の実演を行います。
万博が終わり帰国したあとは、西洋画の影響を受けた花鳥画を手がけるようになり、国内外問わず人気を集めました。

日本画家として初めてフランス・パリに渡る

パリ万国博覧会をきっかけに、フランス・パリに渡った渡辺省亭。
滞在期間は2~3年ほどで、この時期に省亭は印象派のサークルに参加していました。
交流の様子は、フランスの作家であるエドモン・ド・ゴンクールの『日記』にも記されており、省亭は、フランスの印象派画家であり彫刻家のエドガー・ドガに鳥の絵を贈っていたそうです。

また、ゴンクールの『ある芸術家の家』では、省亭が万博に出品した絵を、フランスの画家であるエドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が、画法研究のために購入したと記しています。
ほかにも、印象派のパトロンで出版業者であるシャルパンティエが、1879年に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』と呼ばれる挿絵入り美術雑誌には、美術協力者として省亭の名が残されていました。

日本と西洋の画法を融合させたモダンな画風

フランスの芸術家と交流する中でも渡辺省亭は、特にブラックモン風の写実表現に注目したそうです。
パリでの学びをきっかけに、日本の伝統的な画風と西洋画の写実表現を融合させ、色彩豊かで新鮮かつあかぬけた作風を生み出しました。

帰国後、庄亭は1881年に開かれた第2回勧業博覧会に『過雨秋叢図』を出品して、妙技三等賞を受賞しています。
1885年からは、アメリカ合衆国の東洋美術史家であるアーネスト・フェノロサらが主催する鑑画会に参加。
1887年には第2回鑑画会大会に出品した『月夜の杉』で二等褒状を受賞しました。
これらの優れた作品は、現在所在不明で図様もわかっていません。

また、帰国後に次々と展覧会に作品を出品していた省亭でしたが、1893年のシカゴ万博博覧会に出品した『雪中群鶏図』を最後に、ほとんどの展覧会へ出品しなくなってしまいました。
博覧会や共進会の審査に不満があったためと考えられています。

図案家としてもセンスを発揮した

渡辺省亭は、画家として多くの優れた作品を残すとともに、図案家としての才能も発揮していました。
1875年、美術工芸品輸出業者の松尾儀助が才能を買い、省亭は輸出用陶器を取り扱う日本初の貿易会社である起立工商会社に就職しました。
濤川惣助が手がける七宝工芸図案を省亭が描いていました。
図案家として仕事の中でも、西洋人から人気を集められるようなあかぬけたセンスが磨かれていったといえるでしょう。

1877年に開催された第1回内国勧業博覧会では、会社のために製作した金髹図案が花紋賞牌を受賞しています。
翌年に行われたパリ万国博覧会では、同社から出品した工芸図案が銅牌を受賞しました。

渡辺省亭が得意とする花鳥画とは

渡辺省亭が得意としていたジャンル・花鳥画とは、花や鳥、虫などを題材に描かれた日本画を指します。
細かく分類すると、草や花のみを描いた作品を「花卉画」、草花と昆虫を描いた作品を「草虫画」といいます。
花鳥画は、掛軸や屏風、ふすま絵、浮世絵など、さまざまな日本の絵画で扱われている作品です。

中国から始まった花鳥画は、平安時代ごろに日本へ伝わり、制作されるようになりました。
室町時代に入ると彩鮮やかな花鳥画は隆盛期を迎え、桃山時代に日本独自の様式が確立されていきました。

省亭が描く花鳥画は、伝統的な日本画や中国画に西洋のテイストを取り入れた独自の画風が人々の興味関心を湧き立て、人気を集めていました。

渡辺省亭の師・菊池容斎

渡辺省亭は、16歳ごろから狩野派・土佐派などの画法を学び、日本画家として活躍していた菊池容斎のもとで絵を学ぶことに。
容斎の指導方法は一風変わっていたそうです。
大変厳しく、入門後3年間は絵筆を握らせてはもらえず、容斎の書画一同也という信念から、容斎直筆の手本でひたすら習字を行います。
省亭の描く作品に表れている切れ味の良い筆捌は、この修練により得られたものともいえるでしょう。

3年が経つと、容斎は放任主義を取り、絵の下書きである粉本を自由に弟子たちへ使わせます。
しかし、制作した作品に対しては、師の画風を真似ることを厳しく指摘し、独自の画風を見出していけるよう指導しました。
省亭は、容斎の厳しい指導のもとで6年間学んだあと、22歳で画家として自立しました。

肉筆画以外にも挿絵や木版画でも才能を発揮

渡辺省亭は、日本画の中でも肉筆画に力を入れていた人物ですが、ほかにも挿絵や木版画でも才能を発揮していました。
挿絵や木版画は、庶民から大変人気を集めていたそうです。
初めて手がけた挿絵は、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を坪内逍遥が翻訳した『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』とされています。
1889年には、山田美妙の小説『蝴蝶』で裸婦を描き高い評価を受けます。
1890年には、『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行しました。

渡辺省亭の代表作

渡辺省亭は、多くの優れた花鳥画作品を残しています。
『鳥図(枝にとまる鳥)』では、西洋的な写実描写を取り入れた作品です。
省亭は、卓越したデッサン力を持っており、季節の移り変わりや生き生きとした動物の様子を、忠実に描写している特徴があります。

『牡丹に蝶の図』では、紫や白、ピンク色など色鮮やかな牡丹の絵が描かれています。
花びらが散る情緒豊かなシーンが表現されているのが魅力的です。
白い牡丹には、羽を休める蝶が描かれており、省亭らしい構図を楽しめる作品といえるでしょう。

省亭は美人画も手がけており、『七美人之図』は省亭の最高傑作といわれています。
世代や境遇の異なる女性が、繊細な描写により描き分けられており、一人ひとりの女性の美しさが、表現されています。

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