現代では、芸術作品としての価値が高い浮世絵作品ですが、制作されていた江戸時代では、大衆から愛された娯楽でもありました。
役者絵や美人画、風景画などさまざまなジャンルがあり、有名な浮世絵師も数多く誕生しています。
中でも、歌川広重は風景画で人気を集め、のちに海外でも高く評価された浮世絵師の1人です。
目次
名浮世絵師・歌川広重
歌川広重
生没年:1797年-1858年
代表作:『名所江戸百景』『東都名所』『東海道五十三次』
歌川広重とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている人物です。
19世紀後半のヨーロッパ美術家で流行したジャポニズムのブームを巻き起こしたきっかけの一つが、歌川広重の浮世絵であったといわれています。
現代では、歌川広重の作品を見たり聞いたりしたことがある人も多いでしょう。
しかし、江戸時代当時の歌川広重は、下積み時代が長く、出世作となる『東都名所』を描いたときすでに35歳になっていました。
名所絵により、江戸時代の民衆に旅行ブームを引き起こした歌川広重ですが、実は浮世絵師として活動し始めたころは、名所絵ではなく役者絵や武者絵、美人画などを手がけていたのです。
そのため、本来の才能を発揮する場がなく、注目を浴びるタイミングが遅れたといえるでしょう。
得意とする名所絵の『東都名所』をきっかけに、歌川広重の名は江戸中に知れ渡るようになりました。
歌川広重はこの作品を発表したのち、多くの名所絵を手がけるようになっていったのです。
名作『東海道五十三次』の楽しみ方
歌川広重の名作『東海道五十三次』は、道中の風景や人物、生き物などの魅力を伝えてくれる作品です。
作品数も多いため、人によってさまざまな楽しみ方ができるでしょう。
『東海道五十三次』とは
『東海道五十三次』とは、1833年、歌川広重が37歳のときに刊行した作品です。
江戸時代に入ると、徳川家康の命により国内の道路整備が進んでいきました。
最も人の往来が多かった東海道も整備され、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの約500kmの道のりを、2週間で旅できるようになりました。
歌川広重は、1832年に徳川幕府の八朔御馬進献の一行につき、東海道を江戸から京都へと旅しています。
『東海道五十三次』は、歌川広重が江戸へ帰ったあとに発表されています。
この作品は、大人気を博し、歌川広重を名所絵の第一人者にまで押し上げました。
『東海道五十三次』に描かれた、町や人々
『東海道五十三次』には、日本橋から京都までにある53の宿場町と日本橋、京都を含むあわせて55枚の絵で構成されています。
それぞれの浮世絵には、東海道中の名所や自然、名物、伝承などが描かれています。
また、四季の移り変わりや天気によって表情を変える風景を抒情的に描いているのが特徴的です。
『東海道五十三次』は、風景画ではありますが、景色だけではなく当時の人々の暮らしもあわせて描かれています。
朝、昼、夜と時間帯によって変わる人々の生活や宿場町の賑わいの様子は、旅行に憧れる庶民から高い人気を集めていました。
現代でも、江戸時代の人々の営みや街並み、服装、職業などを知るための史料としても活躍しています。
『東海道五十三次』は、実際にある風景を題材に描かれています。
そのため、現代の景色と江戸時代の景色を見比べてみるのも面白いでしょう。
よく見ると「ヒロ」の文字が!広重の遊び心
『東海道五十三次』作品の一つに『鳴海 名物有松紋』があります。
この作品は、愛知県の鳴海にある有松・鳴海絞と呼ばれる名産の絞り染めの商店が描かれています。
絵の左側に構えているお店の暖簾に、ひし形のマークが描かれており、よく見てみると絵を描いた本人である歌川広重の家紋になっているのです。
この紋は、歌川広重が自ら思案したもので、外側のひし形が「ロ」、中に描かれているのが「ヒ」となっており、カタカナで「ヒロ」を表現しています。
ユーモア溢れるデザインで、歌川広重の遊び心がうかがえます。
この作品のほかにも「ヒロ」の文字を取り入れた広重の作品はいくつもあります。こうした広重のちょっとした遊び心…浮世絵を鑑賞するときに探してみるのもいいかもしれませんね。
手に取って鑑賞できた浮世絵だからこその楽しみ方も
江戸時代当時に描かれていた浮世絵は、大衆が楽しめる娯楽であり芸術作品でした。
浮世絵師が、自分たちの作品に残した遊び心を探すのも、当時の民衆にとって楽しみ方の一つでもあったといえるでしょう。
歌川広重が描いた『東海道五十三次』では、ヒロのような遊び心がほかにも隠れていないか探してみたり、聖地巡礼しながら現在の風景と見比べてみたりなど、さまざまな鑑賞の仕方を楽しみましょう。