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歌川国芳の門弟「歌川芳艶」とは
歌川芳艶は、江戸時代末期に活躍した浮世絵師で、奇想の絵師と呼ばれていた歌川国芳の弟子の一人です。
月岡芳年や落合芳幾などの国芳門下と比べると、知名度の低い浮世絵師ですが、国芳の武者絵の才能を最も引き継いだ浮世絵師ともいわれています。
15歳で歌川国芳の門下に入る
芳艶は、日本橋本町の駕籠屋である「十ノ字」の息子として生まれ、15歳になると武者絵を得意とする国芳の門下に入ります。
17歳のときに、髪結床ののれんに中国の人気小説である『水滸伝』に登場するキャラクターの「九紋竜」と「魯智深」の雪中奮闘の図を描きました。
それを見た国芳は、力強さと艶やかな色彩から、画号「芳艶」を与えました。
歌川芳艶と呼ばれていますが、歌川の名が入った落款が見られないため、後半生に使用していた「一英斎」という画号と芳艶を組み合わせ、「一英斎芳艶」と呼ぶのが正しいとする意見もあります。
芳艶は、同じ歌川派の門下である歌川国輝とライバル関係にあり、刺青の下絵で競い合うと、芳艶といえば「自来也」、国輝といえば「狐忠信」と並んで称されました。
30歳を過ぎて賭博にはまる
芳艶は、師匠の国芳譲りの迫力ある武者絵で頭角を現していきましたが、30歳を過ぎたころ、賭博にはまるようになり、遊郭のある色街に入り浸るようになっていきました。
その行動は、同門の浮世絵師たちから反発を買い、師匠の国芳から破門を言い渡されてしまうのでした。
破門後、芳艶は2、3年の間、浮世絵師としての仕事から距離を置きます。
しかし、1856年ごろから浮世絵師の本業を再スタートさせ、師匠にも劣らない力強い武者絵を数多く制作するようになりました。
芳艶が再び筆を執り浮世絵制作に踏み切ったのは、博打仲間であった歌川芳鶴が獄死したためといわれています。
役者絵や風景画も描いている
再スタートを決めた芳艶は、武者絵だけではなく役者絵や風景画、開港した横浜をテーマにした横浜絵など、多彩なジャンルに挑戦しますが、国芳譲りの武者絵ほど個性を発揮する作品は生まれませんでした。
また、武者絵以外のジャンルの作品は、多く残されていません。
一方で、のれんや看板絵などの大きな作品も手がけるようになり、こちらでは制作した作品が多くの人からの人気を集めていたようです。
1863年、徳川14代将軍である徳川家茂の上洛に取材した『御上洛東海道』シリーズの制作にも参加し、芳艶は全162作品中16作品を担当しました。
当時の幕府では、徳川将軍を浮世絵に描くことは禁止されていたため、『御上洛東海道』シリーズでは、家茂の行列をモデルに鎌倉幕府初代将軍であった源頼朝の姿で作品を描いています。
芳艶は、生涯作品を制作し続けており、45歳で亡くなりました。
芳艶亡き後は、門下であった2代 歌川芳艶や歌川艶長、歌川一豊などが、江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍しました。
国芳魂を受け継いだ浮世絵師
江戸時代の終わりに活躍した浮世絵師の芳艶は、ほかの才能ある国芳門下の陰に存在が隠れてしまい、現代においてはほとんど名前が知られていません。
しかし、師匠の国芳が得意としていた武者絵の画風を継承していた芳艶は、師匠を超えるとも思わせてくれる迫力と魅力に満ち溢れた作品を残しています。
国芳の武者絵の才能を、最も色濃く受け継いだのは、芳艶ともいわれているのです。
歌川芳艶が描いた浮世絵作品
芳艶は、師匠の国芳譲りの迫力ある武者絵が有名な浮世絵師です。
『川中島大合戦組討尽 帆品弾正昌忠 高松内膳』
この作品は、1857年に制作された全12枚の『川中島大合戦組討』シリーズの8枚目にあたる作品です。
川中島の戦いとは、現在の長野県北部である北信濃をメインの舞台とし、現在の山梨県である甲斐国の戦国大名の上杉謙信が1553年から1564年の間にわたって繰り広げた合戦を指します。
『川中島大合戦組討尽 帆品弾正昌忠 高松内膳』では、武田信玄軍の帆品弾正昌忠と、上杉謙信軍の高松内膳の戦いが描かれています。
『頼光雲気を察して足柄山に公時を得る』
この作品は、平安時代の伝承をテーマにしており、平安京の武将である源頼光が、静岡県と神奈川県の境にある金時山周辺の足柄山の峠を通ったときの様子を描いています。
作品は、足柄山の地で暮らす怪力自慢の金太郎と出会ったときの様子を描いており、頼光と金太郎、頼光四天王と呼ばれる重臣の碓井貞光、渡辺綱、卜部季武が登場します。
5人がいる場所に、突然雲気が立ち上り、その中から金太郎を育てた山姥が登場するシーンが描かれており、浮世絵の右手側には扇を高々と掲げる頼光は、目の前で起こった摩訶不思議な光景にまったく動じない様子が表現されているのです。
『高松城水責之図』
この作品は、1582年に巻き起こった備中高松城の水攻めの様子を描いています。
備中高松城の水攻めとは、織田信長の命を受けた豊臣秀吉が、毛利氏配下の清水宗治が守っている備中高松城を水攻めにした戦いのことです。
備中高松城を孤立させるために荒々しく流れ込んでいく水を大胆かつ繊細な表現で描いているのが特徴です。
風にたなびく吹き流しの動きには躍動感があり、戦いの迫力が伝わってきます。
武者絵を得意としていた芳艶の多彩な表現力がうかがえる作品です。
年表:歌川芳艶
西暦(和暦) | 満年齢 | できごと |
1822(文政5年) | 0 | 日本橋本町二丁目に生まれる。本名は甲胡万吉。 |
1837(天保8年) | 15 | 歌川国芳に入門。師匠から「芳艶」の号を与えられる。 |
1839(天保10年) | 17 | 『花紅葉錦伊達傘』の挿絵を手掛ける。 |
1856(安政3年) | 34 | 再び画業に復帰し、武者絵で人気を博す。代表作に『本朝武者鏡』がある。 |
1860(万延元年) | 38 | 武者絵に加え、役者絵や横浜絵など新たなジャンルにも挑戦。 |
1866(慶応2年) | 44 | 死去。狩野派の影響を受けつつ、武者絵を中心に後世に影響を与える。 |