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小林古径(1883年-1957年)画家[日本]

大正から昭和にかけて活躍し、近代日本画の発展に貢献した小林古径。
継続的に院展へ作品を出品し高い評価を受けていました。
また、西洋の印象派やポスト印象派などからも大きな影響を受けていた古径の作品は、伝統的な日本画の形式に、西洋の新しい風が吹き込む新しい日本画として多くの人々を魅了しました。

新古典主義の画風を確立させた「小林古径」とは

生没年:1883年-1957年
小林古径は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。
新潟県の中頸城郡高田土橋町に生まれ、本名は茂といいます。
父は、元高田藩士であり、明治維新後は新潟県の役人をしていました。
古径が3歳になるころ、父の転勤により新潟市に引っ越しており、その後も県内で何度か移り住んでいます。
明治時代に、岡倉天心を中心に集まった日本美術院の画家らが新しい日本画の表現方法を模索していたとすると、小林古径はその意志を受け継ぎ、さらなる新境地へ日本画壇を牽引した人物といえます。

家族が相次いで亡くなる

6人家族であった古径ですが、子どものころに家族を次々に亡くしてしまいます。
4歳のときには母が亡くなり、9歳で祖母が、12歳で兄、13歳では父を亡くしており、最終的には妹と2人きりになってしまいます。
幼いころに両親を失った古径は、妹を養いながらも11歳のころから日本画を学び始めていました。
11歳のときに東京美術学校で横山大観と同期であった山田於菟三郎から、日本画について学びます。
そして、画家としての道を進みたいと強く思うようになったそうです。

半古塾に入門し画壇デビューを果たす

山田於菟三郎から日本画を学んだあとは、新潟で活動していた遊歴画家の青木香葩に教えを受け、歴史画を描きます。
このとき、画家としての人生を歩むと決意しました。
1899年、16歳のときに小林古径は上京します。
東京では、新聞小説の挿絵画家として有名であった梶田半古の画塾に入門します。
当時の半古は、新しい日本画を開拓する岡倉天心が中心となって結成された青年絵画協会の発起人でした。
また、絵画共進会審査員も務めていました。

小林古径は、毎日熱心に画塾へ通い、半古もまた古径の熱意にこたえ、手を取らんばかりに熱い指導を行います。
当時の半古塾には、古径のほかにも前田青邨や高木長葉など十数人の画家が入塾していました。
また、のちに奥村土牛も塾生となっています。
古径は、半古から「古径」の画号をもらっています。

古径は画塾で写生を学ぶとともに、絵の品格についても教えられました。
古径は、半古塾でその才能を開花させ、塾生の中でも塾長のような存在となります。
同時に、1907年には第1回文展に『闘草』を出品し、1912年の文展には『極楽井』、紅児会展には『住吉詣』を出品しています。
そして、次第に展覧会でも実力が認められ、評価を受けるようになっていきました。

岡倉天心とも交流を図る

半古塾で絵を学んでいた小林古径のもとに、岡倉天心は2度訪れています。
1度目の訪問は、古径にロンドンで開催される日英博覧会に出品する作品の制作を依頼するためでした。
2度目は、1912年の29歳のころで、第17回紅児会に出品された古径の作品を鑑賞して、改めてその素晴らしい才能を認識した天心が、古径の前途を祝すために訪問しました。

当時、古径は三好マスと結婚したばかりであり、天心は古径の新しい生活に気を配り、実業家の原三渓に生活の援助を頼んだそうです。

再興院展にて入選を果たす

小林古径が画家として活動していた時代、小堀鞆音の門下生が始めた紅児会と呼ばれる研究会が存在しました。
古径の才能を高く評価していた安田靫彦に勧められ、古径は1910年に紅児会に入会します。
紅児会展に出品した作品の画風は、自由でおおらかな印象を受けるものでした。
これはロマン主義的な古径の芸術のベースを築いているといえます。

1914年、31歳のときに第1回再興日本美術展に『異端』を出品し、入選を果たします。
その後は、日本美術院展が制作した作品の発表の場となっていきました。
古径は展示会へ『阿弥陀堂』『竹取物語』『出湯』『麦』『芥子』と、次々に作品を出品していく中で、情緒的な表現から写実的な表現へと画風が変化していきました。

ヨーロッパ留学により作風が洗練される

1922年、小林古径は西欧美術を研究するべく、日本美術院留学生として前田青邨とともに渡米を果たします。
大英博物館で目にした中国の東晋時代の画家である顧愷之の作品『女子箴図巻』を、模写した経験は、その後の古径の作風に大きな影響を与えました。
東洋画の命は描線であると感じた古径は、描線の表現を極めることを自身のテーマとしました。

留学が終わり帰国した後は、描線へのこだわりをいかんなく発揮した『髪』を1931年の院展に出品しています。
髪を梳く姉妹を題材にしたこの作品では、髪の毛の1本1本が繊細に描かれており、柔らかい皮膚の感覚が伝わってくるかのような魅力があります。
繊細な描線の美しさを表現した作品は、社会的にも高く評価され、古径は1935年に帝国美術会員に、1944年には東京美術学校の教授に就任しました。

新古典主義とは

小林古径は、新古典主義の代表格とも呼ばれている画家です。
新古典主義とは、写生をベースにやまと絵や琳派などの日本の古画を研究し、近代的な感覚を組み合わせて成熟させた作風を描く人々を指します。

小林古径の品格ある画風

小林古径作品の最大の魅力は、端正な描線です。
無駄のない描線は、画面に緊張感を与えてくれ、描いた作品をさらに格調高く仕上げてくれるといわれています。
シンプルでありながらも、洗練された線や形、色彩のバランスが作品をより美しく引き立てています。
古径の描く伝統的な日本画と海外のモダンな感覚をあわせもった作品は、今もなお人々を魅了し続けているでしょう。

小林古径の代表作

小林古径は、代表作が多い画家としても知られています。
その中でも最も注目を集めたのが、『髪』ではないでしょうか。
2002年には重要文化財に指定された作品です。
裸婦画として初めて切手のデザインとして採用された作品でもあるため、一度は目にしたことがある人もいるでしょう。
丁寧に描かれた1本1本の髪の毛は、墨で何度も塗り重ねることで質感と量感を調整しています。
描かれた姉妹の表情からは、気品も感じられる作品です。

『異端』は、古径が31歳のときに制作した初期の作品です。
一つの絵の中で、キリスト教と仏教が交差する様子が、淡い中間色の彩色で美しく表現されています。

『阿弥陀堂』は、第2回再興院展に出品された作品です。
薄明かりが灯る中に平等院鳳凰堂が描かれている作品で、当時の古径には珍しく建物のみをモチーフにしています。
豊かな色彩が魅力的な作品です。

小林古径に惹かれた人々

小林古径の作品に惹かれた人々の中には、著名な方も多くいます。
特に古径のファンとして知られているのが、原三渓や志賀直哉です。

原三溪

原三渓は、実業家であり美術収集家で、横浜の三渓園を造園した人物です。
生糸貿易により財を成した人物でもあり、小林古径の支援者でもあります。
古美術の収集趣味があった三渓は、同じ時代に活躍する優れた画家を見出し、支援する美術界のパトロンでもありました。
古径は、三渓の招待を受けて仏画ややまと絵などの貴重なコレクションを直接鑑賞し、研究に役立てていきました。
この支援により、古径の芸術は大きく発展したといってもいいでしょう。

志賀直哉

志賀直哉は、白樺派の文豪で『暗夜行路』を書いたことで有名な人物です。
直哉もまた、小林古径の作品を大変高く評価していました。
古径は直哉が書いた作品の題字や挿絵をたびたび手がけています。

古径は画家として活動していたころから実業界や知識層の評価を受けていました。
当時から現代まで、多くの人々に親しまれてきた古径は、まさに近代日本画壇を代表する画家といえるでしょう。
また、描かれた作品は今もなお多くの人々の心を揺さぶっています。

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