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山下清
生没年:1922年‐1971年
山下清は、東京都浅草生まれの日本の画家。
代表作は、『花火』『桜島』『東海道五十三次』があります。
「裸の大将」として世の人々から親しまれました。
生きづらかった少年時代
3歳になった清は、3か月間重い消化不良で命の危険に陥ります。
完治はするものの後遺症から言語障害を患ってしまうのです。
その後も清の不幸は続きます。
10歳で父親が他界し、母親は再婚しますが2年後には離婚。
母子家庭になった清の少年時代は、決して裕福な環境とはいえませんでした。
学校生活に馴染めず、言語障害が原因で周囲の子どもにバカにされるいじめに合います。
いじめにより清は、徐々に暴力的な行動を見せるようになります。
一方で、言語障害があるものの、清の記憶力は異様なほど優れていました。
大人でも書けないような蒟蒻、麒麟、炬燵などの難しい漢字をすべて記憶し、すらすらと書くのです。
トランプの神経衰弱では、1人圧倒的な記憶力を発揮しました。
この優れた記憶力は、後に絵を描く際に、清の大きな特徴となります。
しかし、少年時代の清にとって現実は厳しいもので、世間から冷たい目を向けられていました。
当時の清は社会の弱者であり、学校に居場所がなくなってしまい、千葉県にある八幡学園に転校せざるを得なくなりました。
転校先で絵画に出会う
転校をしていじめもなくなり、生活も自由になります。
八幡学園の教育理念である「踏むな 育てよ 水をそそげ」によって、教員たちは辛抱強く清の個性を伸ばすために、「ちぎり絵」をうけさせます。
初期の貼り絵は、子どもらしい大きくちぎった色紙を貼り付ける作品で、蝶やトンボなど清にとって身近にいた昆虫が中心でした。
初期のうちはいじめられていたせいか、人間が登場することはありません。
学園に馴染んでからは昆虫だけでなく、学園でのできごとや友達との体験なども増えて、人間も描くようになります。
5年間の放浪の旅
八幡学園で貼り絵を始めてさまざまな作品を作成し、6年の月日が流れていました。
第二次世界大戦中である1940年11月18日に清は、突然学園を飛び出します。
脱走から2年後の20歳にうけることになっていた徴兵検査をうけたくなく、さらに放浪の旅を続けます。
このころは千葉県我孫子市の我孫子駅の売店弥生軒にて住み込みで働いており、半年ごとに放浪しては、千葉県にもどってくる生活を続けたのです。
1943年の21歳のときに、食堂を手伝っていたところ八幡学園の職員によって連れ戻されます。
母親が無理やり徴兵検査をうけさせましたが、知的障害を理由に兵役免除となるのです。
清は、1955年6月までの約15年間、放浪の旅を繰り返しました。
放浪に飽きると学園や自宅にもどる生活を繰り返し、旅先でのさまざまできごとを、放浪からもどると作品に仕上げていったのです。
脱走の理由を訪ねても「嫌だったから」としか答えなかったといいます。
清が31歳のときに、アメリカのグラフ誌「ライフ」が、清の貼り絵を称賛し、放浪する清の探索を始めたのです。
朝日新聞も全国網で清の詮索に乗り出したことで、鹿児島の高校生に発見されて清の放浪旅は幕を下ろします。
しかし、放浪をやめたのではなく、放浪ができないほど有名になってしまったことが幕を下ろした理由です。
メディアに捜索されて、芸術家となった山下清
朝日新聞の大規模な捜索により、ときの人となった清は、周囲からの勧めで、画家としての人生を歩むようになります。
こうして「芸術家の山下清」が誕生しました。
1956年、清が34歳のときに、初めての本格的な個展「山下清展」が行われます。
「山下清展」は、東京の大丸百貨店を初め、全国各地で巡回展が約130回開催されました。
観客は500万人という驚異的な動員数となり、人気の高さを人々の記憶に残すできごととなります。
この個展には、当時の皇太子である明仁親王も訪れました。
その後も清の個展は全国で開催されます。
できる限り自身の個展を訪れた清は、個展と合わせて全国を歩き回りました。
今までの放浪の旅とは違い、画家としての旅だったのです。
芸術家として歩み始めた清は、卓越した技法で数々の作品を発表していきます。
貼絵以外にも興味を持ち始めた清は、印象派を意識したような作品を手がけるようになります。
全国を巡回する自身の個展で地方に行くと、窯元を訪れて陶器に絵付けにも精力的に取り組みました。
また、この時期にペン画も積極的に取り組んでいます。
フェルトペンで描かれたペン画は、他と違い失敗が許されません。
しかし清は、自身の頭にある構図を簡単に作品として描き上げて、周囲を驚かせました。
清の貼り絵とペン画は、独自の芸術観を決定づけるものとなったのです。
当時、15年間の放浪旅を綴った『放浪日記己』が東京タイムズから、『回想録』が文藝春秋からそれぞれ掲載されました。
清の独特の言い回しや表現が、読者を魅了したのでしょう。
映画「裸の大将」も公開されて、山下清の人気は、最高潮を迎えます。
しかし、清は映画の自分にギャップがあり快く感じていなかったようです。
日本を知りつくし、ヨーロッパの旅へ
1961年日本は高度経済成長期を迎え、1ドル360円の時代に、清はヨーロッパ旅行を決断します。
現代のように簡単に海外旅行へいける時代でなく、パスポートの申請も今のように簡単ではありませんでした。
しかし、清は日本のほとんどを歩きつくしてしまい、どうしても海外を見てみたかったのでしょう。
スケッチブックをバッグに詰めて、約40日間のヨーロッパ旅行に向かいます。
イギリス、イタリア、フランス、スイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、オランダ、エジプトなどを短期間で回るハードなスケジュールでした。
しかし、清にとってはすべてが新鮮で感動的だったのでしょう。
放浪旅では絵を描くことをしなかった清ですが、ヨーロッパ旅行では、行く先々でスケッチを行っていたそうです。
「日本のゴッホ」と称される清は、パリにある小さな村「オーベール」に立ち寄り、ゴッホの墓もスケッチしています。
帰国後は、脳内に焼き付けた風景と現地で描いたスケッチを元に数々の作品を制作していきます。
陶器の絵付けや素描、水彩画などさまざまな画法が使われました。
ヨーロッパ旅行の作品たちは、清の芸術的評価を決定的なものにしました。
代表作『東海道五十三次』
ヨーロッパから帰国した清は、制作活動が徐々に減っていきます。
理由に多忙もありましたが、高血圧網膜症の傾向があったため、貼り絵からは距離を置き、比較的疲れにくいペン画に積極的に取り組むようになりました。
周囲からの勧めもあり、『東海道五十三次』という大作に挑みます。
清がスケッチ場所で選んだのは皇居前広場で、最終的に皇居前広場を見下ろすビルの屋上からスケッチを始めました。
約5年の年月をかけて、東京から京都までのスケッチを終えた清は、素描をマイペースに仕上げていきます。
素描の完成度は極めて高く、貼り絵にするのがもったいないほどといわれていたそうです。しかし、制作途中で眼底出血を起こしてしまい、制作を一時中断します。
2年の療養後、体調が回復しつつあった清だが、突然の脳出血のため49歳でこの世を去ってしまうのです。
死後、清本人しか開けることのなかったアトリエの押し入れの中から、未完成と思われていた京都までの13枚が発見されます。
療養中、家族に内緒で描いていたのでしょう。
『東海道五十三次』は貼り絵にはなりませんでしたが、全55点が未完成品を含めることで完成したのです。
山下清の才能を見出した式場隆三郎
式場隆三郎は、山下清を世に出したといわれる人物です。
清が在園していた八幡学園の顧問医を務めていたことから、清の才能にいち早く気づきました。
式場は、展覧会などを通じて清の存在を人々に広めました。
映画やドラマとなった「裸の大将」で人気を得ましたが、そもそも式場が火付け役ともいわれています。