-
土佐派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
日本独特の様式美を持つやまと絵を継承し、伝統的な日本画を描いた土佐派。 宮廷絵師として活躍し、狩野派と同じく大きな流派として今でも知られています。 このため、土佐派の作品には掛軸も多く残されています。土佐派についてより理解を深め、土佐派作品の魅力をより感じましょう。 美しい大和絵を描いた、土佐派とは 土佐派は狩野派とともに絵師の流派における日本の二大流派として挙げられます。 土佐光信(とさみつのぶ)や土佐光茂(とさみつもち)などを代表とする室町時代に活躍した土佐派は、やまと絵を継承した画風で宮廷の絵画制作を管理する責任者である宮廷絵所預までのぼりつめています。しかし一方で、伝統形式の維持に重きをおき転落の一途を辿った、鎌倉時代以前のやまと絵には及ばないなどと、低い評価を受けることもありました。 これは一説に、狩野永納(かのうえいのう)が書いた『本朝画史』が関係していると考えられています。 『本朝画史』にて、土佐派は古代から続く伝統を継承し集大成としているだけの前時代の流派として語られています。こちらの記述の印象を受け、低い評価がなされていることも考えられるでしょう。しかし、作品の中で狩野派は土佐の倭と雪舟(せっしゅう)の漢を兼ねた画風と表している点から、土佐の伝統的な倭の画風は狩野派にとっても、魅力的なものであったとも捉えられます。 さまざまな評価が飛び交う中、土佐派はどのようにその地位を築き上げ活躍していったのでしょうか。土佐派の歴史を読み解いていくとともに、代表的な絵師や作品、土佐派の画風を知り、土佐派の魅力に迫りましょう。 土佐派の歴史 土佐派とは、室町時代の初期から伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承していた流派です。 その始まりは15世紀初めに土佐行広(とさゆきひろ)が土佐の家名を称したこととされています。行広の本来の姓は藤原でしたが、絵所預に任命された際に土佐の姓を名乗り始めました。しかし、一説には14世紀半ばの藤原行光までさかのぼるともいわれています。 土佐行広の手により始まった土佐派はその後、多くの画人を輩出した土佐派は、1469年に土佐光信が宮廷絵所預と呼ばれる宮廷の屏風や障子などの絵画制作を任された公的機関である絵所を取りまとめる最高責任者に任命されました。そして、画壇での主導的立場を確立しています。 家系としては土佐光茂、土佐光元(とさみつもと)と続いていきますが狩野派の活躍や、1569年の土佐光元の戦死により土佐派は劣勢となり、宮廷絵所預の地位は失われてしまいました。その後は、弟子の土佐光吉(とさみつよし)が大阪府南西部の和泉国堺で絵師としての家系の維持に努めました。 江戸時代に入ると、土佐光則(とさみつのり)がお家再興のために子の土佐光起(とさみつおき)とともに京都に戻っています。土佐光則が亡くなった後、土佐光起は絵所預の地位を再び授かり、土佐派の再興を実現しました。土佐光起は、狩野派をはじめとする漢画系流派の水墨表現や中国絵画の写実表現をも取り込み、やまと絵を一気に発展させたのです。その後、土佐派は幕末まで活躍しました。 土佐派の有名絵師や作品 土佐行広 作家名:土佐行広(とさゆきひろ) 代表作:『仏涅槃図』『融通念仏縁起絵巻』 生没年:不詳 土佐行広は、土佐派の祖と呼ばれる人物です。一説には、藤原行光のやまと絵を継承し、土佐の姓を名乗って土佐派の基盤を作ったとされています。朝廷と足利将軍家どちらの絵画制作も任され活躍しました。やわらかな筆使いと穏やかで落ち着きのある色彩が特徴の作品が残されています。 土佐光信 作家名:土佐光信(とさみつのぶ) 代表作:『北野天神縁起絵巻』『清水寺縁起絵巻』 生没年:1434年-1525年頃 土佐光信の生没年は定かではありません。一説によると1525年に92歳で亡くなったとされています。肖像画の名手とうたわれた土佐光信は、室町時代後期の宮廷絵所預と足利幕府の御用絵師として、土佐派の権威を確立しました。主に絵巻や扇面画、肖像画、仏画などの作品を幅広く描いています。土佐派において、古くからの伝統的なやまと絵に漢画に用いられる線描法を取り入れた人物ともされています。晩年の土佐光信は枯淡な画風が特徴的です。 土佐光則 作家名:土佐光則 (とさみつのり) 代表作:『源氏物語画帖』『鷹図屏風』 生没年:1583年-1638年 土佐光則は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。父である土佐光吉とともに堺に移り住み制作を続ける一方で、正月に仙洞御所へときどき扇絵を献上していましたが、官位を得るまでにはいたりませんでした。1629年から1634年にかけては、狩野山楽、山雪、探幽、安信などの狩野派を代表する絵師とともに『当麻寺縁起絵巻』の制作に参加しています。 また、土佐光則は、平安時代の細画と呼ばれるミニアチュアール絵画技法を継承し、繊細な絵画制作を行っていました。一ミリの幅に三本の線を描き、その線の間に彩色の顔料をのせてもはみ出して左右の線に重なることはなかったといわれるほど高度な技法を身に付けていたとされています。細かく繊細すぎて人間の目では識別できないといわれる土佐光則の表現を、美術史学者・小林忠は「ミクロンの絵画世界」と評しました。 土佐派の描くミニアチュール画法は、土佐光則によってピークを迎えたといえるでしょう。 土佐光起 作家名:土佐光起(とさみつおき) 代表作:『源氏物語絵巻』『春秋花鳥図屏風』 生没年:1617年-1691年 土佐光起は、江戸時代初期に活躍した絵師です。父は土佐光則、子は土佐光成。衰退していた土佐派を復興させ、宮廷の絵所預に再度任命されるなどの活躍を見せました。繊細で筆使いと巧緻な彩色で伝統的なやまと絵として花鳥を描いていましたが、江戸時代初期の流行りに方向性を変え、狩野派が描く宋元画や技法を取り入れています。やまと絵の伝統的な画風と克明ではっきりとした写生描法を融合させ、江戸時代の土佐派の画風を確立しました。 土佐光起が描いた『源氏物語絵巻』は紫式部が書いた長編物語である源氏物語を絵画として表現しています。作品の中では雪が降っていて、建物の外に出て遊ぶ女性と邸内には光源氏と紫の上が描かれています。 土佐光貞 作家名:土佐光貞(とさみつさだ) 代表作:『雪月花図』『井出玉川図』 生没年:1738年-1806年 土佐光貞は、江戸時代中期から後期にかけて土佐派の別家として活躍した絵師です。土佐派別家の創設者とされています。別家を創設した土佐光貞は、従六位上から従四位上に昇叙を果たし、内匠大属、左近衛将監、土佐守などを歴任しました。土佐派の中でも絵師としての才能が優れており、別家の評価の高さから土佐派の歴史における後半は、本家より別家の方が繁栄することになります。 土佐派の画風、特徴 土佐派の画風は、古くからの伝統的なやまと絵を継承したものです。 やまと絵とは、四季折々の自然やそこに生きる人や生き物を繊細かつ優美に描いた日本の伝統的な絵画様式を指します。大和絵とも書き、さらに古くは倭絵と記されていました。中国の伝統的な「唐絵」に対をなすものとして、「やまと絵」という言葉が用いられています。唐絵は、漢詩文の教養に基づいて描かれていたのに対し、やまと絵は和歌や日本古来の物語と密接に関わりを持っています。 やまと絵は、平安時代の貴族文化の中で障子や屏風に描かれたり、物語の挿絵や絵巻の形で描かれたりして発展していきました。 公家社会を中心に制作をしていた土佐派が題材としていたものは、絵巻物や風俗画、似絵などです。繊細で丁寧な筆使いを特徴とする土佐派は、武家社会で好まれていた大型で迫力のある動物はあまり描かず、小さな鳥といった小動物を取り入れ、風景と調和させたような構図を描く特徴があります。 そのような古くからの伝統があるやまと絵を継承する土佐派の描いた作品から、その画風や特徴を見ていきましょう。 『清水寺縁起絵巻』 『清水寺縁起絵巻』は1517年に土佐光信によって描かれました。清水寺の建立について描かれており、詞書は三条実香他が書いた作品です。土佐光信の晩年の作品で、円熟した画風が特徴で、古くからの伝統的絵画やまと絵の絵巻の最後を飾る作品といえるでしょう。 『春秋花鳥図屏風』 『春秋花鳥図屏風』は17世紀後半、土佐光起によって描かれた作品です。向かって右側には満開の桜に柳が芽吹く春の景色を描き、左側に松と紅葉した楓の大樹を重ねて秋の景色を描いています。金色の屏風に鮮やかな色彩で描かれたこの作品は、狩野派にも共通する大画面形式を構成に取り入れながらも、やまと絵らしい繊細で美しい造形感覚を反映させた土佐光起の代表作です。 『斎宮女御像』 もう1点、土佐光起によって描かれた『斎宮女御像』を紹介します。平安時代中期の皇族であり、三十六歌仙の一人である斎宮女御を描いた作品です。几帳と呼ばれる屏障具とともに気品と憂愁を感じさせる姿を描いています。やまと絵の本領を発揮した歌仙像とされています。 土佐派の作品は掛軸としても残されている 土佐派は狩野派とともに、宮廷絵所預や幕府の御用絵師として多くの作品を輩出してきた日本の二大流派のひとつです。 宮廷絵所預として活躍していたと思ったら任を解かれ、その後もう一度宮廷絵所預に任命されるなど大きく制作環境が変化している土佐派。宮廷の絵師として長い間制作に取り組み、数多くの作品を残しています。土佐派の作品が多い分、贋作はどうしても出回ってしまうでしょう。 自宅で見つけた土佐派の掛軸が偽物か本物か確認しておきたい場合は、掛軸の知識や査定経験の多い査定士に依頼することをお勧めします。 真作かどうかの見極めは自分で簡単に行えるものではありません。自己判断せずプロの目を頼りましょう。絵師や作品によっては高い価値が付くものもあります。汚れやしわなどは無理に修復せず、まずはそのまま査定してもらいましょう。
2024.09.14
- 掛軸 買取
- 掛軸の歴史
- 掛軸の種類
- 有名掛軸作家
-
琳派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
琳派は桃山時代から続く有名な日本画の流派です。 江戸時代中期に活躍した尾形光琳(おががたこうりん)の名をとって琳派と呼ばれていますが、当時からこの流派の名前で呼ばれていたわけではありません。尾形光琳が生きた時代では彼らに対して特別な名称はなく、それぞれが尊重しあい私淑し、絵を描いていました。 近代に入ってから、尾形光琳に通じる画風や特徴を持つ絵画を描いていた絵師たちをまとめて琳派と呼ぶようになったようです。 装飾性やデザイン性の高さが特徴の琳派の作品。ヨーロッパの印象派や現代の日本画にも大きな影響を与えたとされています。そんな琳派の歴史や作品を通してより日本画や掛軸などへの興味を深めていきましょう。 高いデザイン性で人気を博した、琳派とは 桃山時代後期から近代まで約400年間継承されてきた琳派。 私淑と呼ばれる独自の継承スタイルにより長い間受け継がれてきました。私淑は、同じ流派の家のもとに生まれたり、その流派で絵を制作している人物に弟子入りしたりして、流派の画風や技法を学ぶことを求められません。誰かの師事を必要とせず、個人的に尊敬する人を模範として学ぶことで、琳派を名乗ることが可能でした。 とはいえ、琳派という呼び名は近代になってから過去を振り返り名づけられたものです。 そのため、当時はただ尾形光琳らの画風に憧れ、参考にして作品の制作にあたっていた画家が多くいたというだけのことでしょう。私淑により琳派では流派の特徴を継承しつつも絵師ひとり一人の個性が大きく反映された作品が数多く生み出されています。そして、近代までに多くの偉大な作家を輩出しています。 琳派の歴史 琳派は桃山時代に始まったとされる流派で、豊臣秀吉が天下を取り徳川家康に敗れるまでの戦乱の世にて始まったといわれています。 当時、戦乱の世ではあったもののヨーロッパや琉球、朝鮮、明などの文化との接触が多くあり、戦国の簡素な機能美が好まれる一方で、芸術や工芸には豪華絢爛で鮮やかなテイストも求められました。混沌とした時代の中で、当時画家としての芸術的センスの高さで有名だった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に才能を認められた俵屋宗達(たわらやそうたつ)は、二人で共同制作を行い、数多くの大作を手掛けていました。 その後、二人の作品に感銘を受けて俵屋宗達を師と呼び模写したのが尾形光琳です。 尾形光琳が生きた時代は俵屋宗達らのおよそ100年後の世界。つまり、同じ時代に生き師事を受けたわけではありません。ここに尊敬する絵師の作品を模範として学ぶ、私淑の流れが生まれたと考えられるでしょう。尾形光琳が生きた時代からさらにときがたち、酒井抱一(さかいほういつ)が尾形光琳らの作品を支持し、琳派としての画風が受け継がれていきました。 琳派の名前の由来にもなっている尾形光琳は、京都の裕福な呉服屋で生まれています。 のちに実家の経営が傾き、経済的に困難な状態を迎えてしまいます。苦境を脱するために芸術活動を始め、俵屋宗達に私淑しました。俵屋宗達の作品や画風を基礎としながらも尾形光琳としてのアレンジも加えていき、独自の画風を確立していきました。その後、尾形光琳とその作品が公家や大名などの目に留まり、第一線で活躍する絵師にまでのぼりつめたのです。尾形光琳が亡くなったあとも、その画風や作品は多くの人の興味を引き、私淑する絵師も多くいました。その一人が酒井抱一です。 酒井抱一は江戸時代後期に江戸にて活躍した絵師で、尾形光琳の作品に尊敬を抱き私淑し、京都で始まった琳派を江戸でも広めた人物です。酒井抱一には鈴木其一(すずききいつ)という弟子がいました。琳派としては珍しく直接手ほどきを行っていました。このように琳派は私淑により自由な広がりを見せ、長くそして大きく日本画へ影響を与えています。 琳派の有名絵師や作品 俵屋宗達 作家名:俵屋宗達(たわらやそうたつ) 代表作:『風神雷神図屏風』『狗子図』 生没年:不詳 俵屋宗達は本阿弥光悦とともに琳派のきっかけになった人物とされています。 江戸時代初期に京都で活躍した絵師ですが、経歴や生没年などの伝記資料がまったく残っていません。 当時、俵屋宗達は絵屋を営んでおり扇絵や屏風絵、色紙、水墨画などの制作を行い人気を集めていました。俵屋宗達の名が広く知れ渡ったのは本阿弥光悦との出会いがきっかけとされています。俵屋宗達は当時多彩な才能を持つ芸術家であった本阿弥光悦に腕を見込まれ、広島の厳島神社の平家納経の修繕作業を手伝いました。 その後、本阿弥光悦に才能を認められ、ともに数多くの共同作品を制作するようになっていきます。 共同作品はダイナミックかつ巧みな筆使いでありながらも余白を活かす斬新な構図で制作され、日本画の新たな境地を開拓していきました。多くの共同作品は話題を集め、ついには皇室や江戸幕府の将軍家からも声がかかるほどでした。1630年に俵屋宗達は僧侶に与えられる法橋と呼ばれる高い位を授かります。町人として異例の大出世を成し遂げた俵屋宗達はその後も町絵師として制作を続け生涯を終えたといわれています。 本阿弥光悦 作家名:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ) 代表作:『扇面月兎画賛』『舟橋蒔絵硯箱』 生没年:1558年-1637年 本阿弥光悦は1558年に京都で生まれ、家は日本刀の査定や研磨を家業とする裕福な町衆でした。刀剣の製造では木工や金工、漆工、革細工、染色、貝細工など、さまざまな工芸技術が必要となるため、本阿弥光悦は幼いころから芸術に対する審美眼や技術を培っていったと考えられます。 また、工芸だけではなく書や和歌などにも興味を抱き、多くの教養を身に付けていきました。父親が分家するのをきっかけに刀剣家業から離れ、芸術作品の制作に取り組むようになりました。本阿弥光悦が総合芸術家としての才能を開花させたのは40代に入ってからとされています。当時、画家として名が広がらないことに悩んでいた俵屋宗達に平家納経の修繕を手伝わせ、見事才能を開花させました。 本阿弥光悦は57歳のとき、徳川家康より京都の最北部に位置する鷹ヶ峯に約9万坪の広大な土地をもらいました。この地に多彩な芸術家たちが制作に専念できるよう光悦村と呼ばれる芸術村を築きます。村内には56もの家屋敷が軒を連ね、画家だけにとどまらず蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋、金工、陶工など多くの芸術家たちが昼夜創作活動に明け暮れました。 尾形光琳 作家名:尾形光琳(おがたこうりん) 代表作:『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』 生没年:1663年−1743年 尾形光琳は江戸時代中期に活躍した絵師です。 1658年、京都有数の呉服商である雁金屋の次男として誕生し、書や絵画、茶道、能楽などをたしなむ趣味人であった父の影響を受け、小さいころから幅広い文化芸能に触れていきます。 その後、雁金屋の経営が傾き、30歳のころに父が亡くなります。莫大な遺産はあったものの尾形光琳はまともに働きもせず遊びまわっていたため、あっという間に底が尽きてしまいました。そのため、40歳を目前にして画家として生計を立てていく覚悟を決めました。尾形光琳は絵画制作において、小さいころから文化芸能に触れてきたこともあり、優れた構図感覚や色彩感覚を発揮します。 尾形光琳は装飾的な作品を得意としており、特に富裕層に好まれました。 44歳のときに法橋の称号を得てからも精力的に絵画制作に取り組み、47歳のころ江戸に拠点を移しています。大名や豪商に向けた屏風絵制作を行っていたこの時期には、水墨画の巨匠とされる雪舟や雪村の模写も取り入れ画風研究を進めました。5年後には京都へ戻り晩年期を過ごしたとされています。 また、尾形光琳以降も彼らを私淑する画家は多く、酒井抱一や鈴木其一などの絵師も生み出しました。鈴木其一は琳派には珍しく酒井抱一に直接師事を受け技法を学んでいます。 琳派の画風、特徴 琳派の作品は、たらしこみや金箔・銀箔を使ったきらびやかな背景、大胆な構図設定が特徴的です。 琳派の作品として有名なのが俵屋宗達の『風神雷神図屏風』。 雨風を起こす風神と稲妻を起こす雷神が対になって屏風に描かれた作品です。金箔できらびやかな背景に二曲一双の屏風の左端と右端にそれぞれ風神と雷神が描かれています。画題を両端に描く構図は俵屋宗達が工房仕事で手掛けていた扇子のデザインから構想を得たものともいわれています。 国宝である『燕子花図屏風』は尾形光琳が描いた作品で、金色の背景に気高く咲き誇るカキツバタの群生を描いた鮮やかなこの作品は、六曲一双の対の屏風として日本の美術界を代表する存在です。凛と咲いているカキツバタの美しさはもちろん、計算された余白のバランスがより一層作品の魅力を引き立て見る者を魅了しています。 琳派の作品は掛軸としても残されている 琳派は私淑により広がっていった日本画の流派です。 作品から自身で学ぶことはあっても基本的には直接師事を受ける必要がないことから、琳派の伝統を継承しつつも絵師それぞれ個性を生かした作品が多く制作されている特徴があります。そのため、琳派の作品は現代でも多く残されています。 人気の絵師や作品も多いことから贋作が出回っていることに注意が必要です。 祖父母が大切に飾っていた掛軸を譲り受け、調べてみたところ琳派だった、倉庫から琳派の掛軸が見つかったなどさまざまな理由で、手元に琳派と思われる掛軸をお持ちの方もいるでしょう。自身で真贋を見極めるのは難しいため、本物の作品であるか知りたい方や掛軸の価値を知りたい方は、掛軸の査定経験のある査定士への依頼をお勧めします。 査定してもらうまでは掛軸の本当の価値がわかりません。修理や修繕を行わずまずは気軽に相談してみましょう。
2024.09.14
- 掛軸 買取
- 掛軸の歴史
- 掛軸の種類
-
住吉派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
土佐派から派生した住吉派。 土佐派同様に伝統的なやまと絵を継承した作品が多く残されています。住吉派は代々幕府に仕え、多くの作品を制作しました。屏風絵や障子絵などを担うかたわら、絵巻や掛軸作品も描いています。日本の伝統様式であるやまと絵をベースとしていますが、土佐派や漢画に影響を受けている作品もあります。 掛軸作品はその芸術の裏にある背景や歴史を知ることで、当時の出来事や心情に思いを馳せることができ、より作品を楽しめるでしょう。住吉派の作品を楽しんだり価値を知ったりするにあたって、その歴史や特徴、活躍した絵師たちへの理解を深めていきましょう。 繊細な作風で一世を風靡した、住吉派とは 住吉派とは、江戸時代に土佐派から枝分かれした流派を指します。 きっかけとなった住吉如慶(すみよしじょけい)は、土佐派の正系土佐光吉(とさみつよし)の子どもとも弟子とも言われています。如慶が後西天皇の勅によって住吉家を名乗ったのが住吉派の始まりです。如慶の長男である住吉具慶(すみよしぐけい)の時代に江戸に招かれ、幕末まで幕府に仕えることになりました。 住吉派は京都で活躍する土佐派のやまと絵を江戸に広める役割を果たしています。18世紀後半には門人が派生させた板谷派や粟田口派が作られています。住吉派は、土佐派の画風と狩野派や琳派の技法の両方を取り入れた表現方法が特徴です。 住吉派の歴史 住吉派の歴史をたどると土佐派が枝分かれしたのが始まりといわれています。 土佐派とは、室町時代の初期から始まった流派で、伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承しています。土佐派は、宮廷絵所預として宮廷の屏風や障子の絵画制作を任されていましたが、その後土佐光元の戦死をきっかけに宮廷絵所預の地位を失ってしまいます。 家系維持に努めた弟子の土佐光吉の子もしくは弟子が、住吉派を作ったとされる住吉如慶です。土佐光吉の下で絵を学んでいるときは、土佐光陳と名乗っていました。日光・和歌山・岡山・川越喜多院の各東照宮に奉納された4点の『東照宮縁起絵巻』を描き、この活動ぶりが幕府との関係を深め、住吉如慶は後西天皇の勅によって住吉派の再興を担い、住吉派を名乗り始めました。その後、代々幕府の御用絵師を務め、住吉派は明治時代まで続いていきました。 住吉派の有名絵師や作品 住吉如慶 作家名:住吉如慶(すみよしじょけい) 代表作:『東照社縁起』『堀河夜討絵巻』 生没年:1599年-1670年 住吉如慶は江戸時代前期に活躍した絵師で、住吉派を作った人物です。 旧姓は土佐で、画風は土佐派の様式。堺で土佐光吉や土佐光則のもとで学び、その後京都に移っています。後西天皇の勅によって住吉絵所の再興を行い、1662年に住吉派の祖となった。天海僧正に仲を取り持ってもらい徳川家康に拝謁。江戸にやまと絵を広める役割を務めました。 住吉具慶 作家名:住吉具慶(すみよしぐけい) 代表作:『筥崎八幡宮縁起』『洛中洛外図』 生没年:1631年-1705年 住吉具慶は江戸時代前期に活躍した絵師で、如慶の長男です。京都から江戸に移り住み、幕府の奥絵師となります。やまと絵を江戸に広める役割を果たしました。また、やまと絵系統の画家で幕府に仕えた最初の1人といわれています。これ以降住吉派は幕末まで代々幕府の御用絵師を務めました。 住吉廣行 作家名:住吉廣行(すみよしひろゆき) 代表作:『御屏風之記』『源氏物語須磨絵巻』 生没年:1755年-1811年 住吉廣行は江戸時代後期に活躍した絵師で、住吉派の板谷桂舟の長男にあたります。住吉廣守の養子となり、1781年に幕府の御用絵師となりました。寛政の内裏新造のため、急逝した狩野典信に代わり最も格式の高い紫宸殿の賢聖障子を描いた。この功績により住吉派の名がより高まっています。 住吉弘貫 作家名:住吉弘貫(すみよしひろつら) 代表作:『太平記図屏風』『秋草鶉図』 生没年:1793年-1863年 住吉弘貫は江戸時代後期に活躍した絵師で、廣行の次男といわれています。兄の広尚が亡くなった後に跡を継ぎ、住吉家の7代目当主となります。幕府の御用絵師として活躍する中、1842年に奥絵師下命を願い出て承認されました。禁裏御所造営で紫宸殿の賢聖障子を修繕し、小十人格となります。優れた技術や才能により、幕府の御用絵師が旗本と同格になりました。住吉弘貫は江戸時代後期の住吉派の名手と呼ばれ、オランダをはじめとする外国の国王への贈答屏風の制作も担いました。 住吉派の画風、特徴 住吉派の画風は土佐派から受け継がれており、線密画法が特徴的です。さらに鎌倉時代の絵師である高階隆兼から構想を得た構築的な画面構成や濃密な色彩も目を引きます。これらを掛け合わせて住吉派独自の画風が作り上げられていきました。 一方、漢画を学び描かれたであろう作品も存在します。 住吉広通が描いた『東照宮縁起絵巻 』は、東照大権現としてまつられた徳川家康の伝記を絵画にした作品です。紀伊藩初代藩主徳川頼宣が命じて描かせた作品で、全部で5巻制作されています。 『洛中洛外図巻 』は住吉具慶が描いた作品です。前半に春夏の市中を描き、後半に秋冬の郊外を描き、その風景を細密な筆致で描いたとして有名です。 住吉派の作品は掛軸としても残されている 住吉如慶から始まった住吉派。後西天皇の勅によって再興を任せられ、江戸にやまと絵を広める役割を果たしています。 代々幕府の御用絵師として多くの作品を制作し、その中には掛軸作品も存在します。住吉派は江戸時代から明治時代まで長く続いた流派のため、掛軸作品が多く残されていますが、有名な作品が多い分、贋作も存在します。 自宅の倉庫や蔵を整理していて掛軸作品が見つかることがあるでしょう。また、祖父母が大切にしていた掛軸を譲り受けることもあります。そのようなときに、掛軸にどのくらいの価値があるのか知っておくことが大切です。価値を知ることで、さらに自分の子どもや孫に受け継いでもらうために大切に保管する意識がもてたり、買取をしてもらう際に適切な金額での売却ができたりします。 もし、住吉派の作品と思われる掛軸が手元にある場合、まずは掛軸に関する知識や経験が豊富な査定士に査定を依頼してみましょう。贋作の多い住吉派の掛軸の真贋を自分で見極めることは難しいといえます。偽物に高い費用の修繕を行ってしまったり、本物に対して適切な方法での保管を怠ったりと不都合が生じてしまう可能性があります。そのため、プロの査定士にお願いして本来の価値を知ることが大切です。 あるいは、掛軸作品の価値をより高めようと、査定前に修繕に出してしまうケースをよく耳にします。しかし、修繕によって現状より掛軸が傷んでしまう場合や、贋作で作品の価値より修繕費が高くついてしまう場合などのリスクが発生してしまうでしょう。そのため、発見したりもらい受けたりした状態のまま査定に出すことをお勧めします。
2024.09.14
- 掛軸 買取
- 掛軸の種類
-
大和絵の掛軸買取 | 人気の絵師なら高額査定も
日本の伝統的な絵画様式である大和絵。 平安時代から日本独自の発展を遂げ古くから現代にかけてまで多くの人に愛されてきている芸術品です。大和絵は日本だけではなく海外からも人気の高い作品で、絵師や作品によっては効果買取が期待できます。大和絵の歴史や特徴を知り、大和絵の価値や魅力を探っていきましょう。 大和絵とは 大和絵とは、中国風の絵画である唐絵に対する呼び名であり、9世紀後半から10世紀初めごろの平安時代において誕生した伝統的な日本画の様式です。当初は貴族が暮らす屋敷の屏風や障子などに描かれていました。 一方の唐絵とは、中国(唐)風の絵画を指します。大和絵の対義語として存在し、中国人によって制作された作品だけではなく、日本人が描いた中国風の絵画も該当する点がポイントです。 中国から伝わった唐絵に代わり、大和絵は日本独自の発展を遂げ、自然や風俗を画題とした作品として確立しました。大和絵は日本的な線描彩色画全般を指しており、その定義は時代ごとに変化していき、特徴や内容にも多様性があります。 初めは貴族社会から生まれた大和絵。 鎌倉時代に入ると武家社会になったことで、武士の暮らしぶりや源平合戦をテーマにした作品や、仏教や寺社、僧侶などにまつわる作品も多く描かれていきました。 鎌倉時代終わりの大和絵に対するイメージは、平安時代に確立された絵画様式で描かれた作品と認識されていたようです。江戸時代以降には武士階級まで広がり、さらに商人や町人など庶民からも支持され国民的な様式となりました。 大和絵の歴史と有名作家・作品 平安時代の貴族社会から生まれ今日まで親しまれてきた大和絵。 日本古来の生活や文化、行事、歴史などを画題とした絵画全般を指しており、その画風や特徴は時代によって少しずつ変化を遂げています。 時代ごとの絵師や作品の特徴を知ることで、より大和絵に対する興味が湧くでしょう。また絵画鑑賞においての魅力も増すといえます。ただ芸術として楽しむだけではなく、時代背景を知って歴史的な価値や魅力にも迫りましょう。 平安時代 平安時代、これまで続いていた遣唐使が停止になり中国から入ってきていた文化の影響が薄まっていきました。日本の文化が重んじられるようになり和歌や物語文学が人気となり、この時代に和様書道が成立しています。大和絵もこの時代に始まったとされているようです。また、大和絵という言葉が初めて使われたのは藤原行成の日記『権記』であるといわれています。平安時代の大和絵は貴族の邸宅内にある障子や屏風などに描かれました。 平安時代に描かれた大和絵には、『源氏物語絵巻』、『伴大納言絵詞』、『信貴山縁起』などが有名でしょう。 鎌倉時代 鎌倉時代に入ってからも、平安時代より制作されていた絵巻が盛んに描かれていました。鎌倉時代はそれまでの貴族中心の社会から武士中心の社会に大きく転換を迎えた時代でもあります。そのため、合戦や武士の暮らしを画題とした作品が多く制作されました。また平安時代末期から鎌倉時代にかけて広まった仏教の影響を受け、高僧や寺社、仏教の説話などを画題とした作品も多く描かれています。 鎌倉時代に描かれた大和絵には、『平治物語絵巻』、『蒙古襲来絵詞』、『法然上人絵伝』など、教科書などで一度は見たことがあるような有名作品もあります。 室町時代 室町時代の大和絵は日本でも有数の絵師集団である土佐派によって広められていきました。土佐派とは室町時代の初期に形成された流派で、日本伝統の絵画様式である大和絵を伝承しています。大和絵の技法を継承した土佐行広は、宮廷絵所預として宮廷の屏風や障子などの絵画制作を行っていました。さらに土佐派は、土佐光信の時代に宮廷だけではなく足利将軍家ともつながりをもち、多くの大和絵を描いていきました。 室町時代に描かれた大和絵には、『浜松図屏風』、『松図屏風』(絵師:土佐光信)、『松図屏風』(絵師:土佐光信・土佐光茂)などがあります。 戦国時代・安土桃山時代 戦国時代・安土桃山時代では、大和絵を継承して宮廷や将軍家で仕事を請け負って多くの作品を制作していた土佐派が衰退していきます。土佐派に変わり活躍を見せていたのが狩野派です。天下人と深く結びつき支援を受けていた狩野派の宮廷進出を抑えることができず、土佐光茂は足利義昭邸の障壁画を描いた晩年に京都へ移り亡くなっています。子の土佐光元(とさみつもと)も戦死してしまい、土佐派は宮廷絵所預の地位を失ってしまいました。そして、漢画の技法と大和絵の倭を融合させた狩野派が活躍する時代となります。 江戸時代 江戸時代に入ると土佐光起(とさみつおき)が再び絵所預の地位に就き、土佐派の再興が実現しました。土佐光起は、伝統的な大和絵の様式だけではなく狩野派らの漢画系統の技法も学び、独自の大和絵を発展させていきます。その後、土佐派が描く大和絵は幕末まで制作が続けられました。また、江戸時代では土佐派以外の流派でも大和絵風の絵画を描いています。 色彩豊かな大和絵の掛軸作品は今でも人気 江戸時代に流行した浮世絵や明治以降に誕生した日本絵画にも大きな影響を与えた大和絵。大和絵は日本の美しい四季折々の風景やそこで生きる人や動物たちを題材として描かれています。日本の感性や美意識により描かれた優美な大和絵は、現代でも人気の高い美術品です。 さまざまな流派や絵師たちにより描かれてきた大和絵は歴史的価値のある作品です。遺品整理や倉庫の掃除などで出てきた大和絵の掛軸。せっかくなら価値を知りたいという方も多いのではないでしょうか。 買取を検討している場合も同様に、まずは一度、大和絵や掛軸など日本の美術品の知見がある査定士に査定を依頼してみましょう。破れやシミなどの傷みがあってもそのままで問題ありません。修繕などは行わず気軽に査定士に相談してみてください。
2024.09.14
- 掛軸 買取
- 掛軸の種類
-
シミ・汚れ・日焼け……劣化した掛軸でもまずは買取相談を!
掛軸の買取を考える際、きれいな状態に修理して出したほうが良いのかと考える方も多いのではないでしょうか。また、損傷の大きさから買取を諦めてしまう方もいるでしょう。 しかし、掛軸は劣化が進んでいる状態でも査定で価値がつくこともあります。そのため、まずはそのままの状態で査定してもらうことが大切です。 掛軸が劣化してしまった… 掛軸は巻物の形になっており、鑑賞するときは開いて、保管するときは巻くことによって、必要以上に外気にさらされない作りをしています。そのため、本紙の劣化を防ぐことが可能です。しかし、時間が経てば少しずつ劣化はしてしまうものです。巻物のように巻くと折れが生じたりしわになったりもします。また、保管中に虫食い穴やカビ・シミが発生してしまうことも。大切に保管していたとしても、数十年、数百年と時間が経てば劣化は進んでしまうでしょう。 掛軸のトラブルとして多い劣化は以下のとおりです。 ・しわ・折れ ・汚れ ・シミ・カビ ・破れ・虫食い ・裏打の浮き ・軸先の外れ ・日焼け しわや折れを防ぐためには、保管するときにきつく巻きすぎないようにしましょう。保管場所の湿気が多いと、シミやカビの発生を促してしまいます。反対に、乾燥していると亀裂が入ってしまうため保管中の湿度管理が大切です。制作時の技術的な問題で、古い掛軸だと部分的に糊がはがれて本紙が浮いてしまうことがあります。 また、軸先も外れていただけの場合もあれば、軸先部分の表装が破れてしまっていることもあるでしょう。 掛軸は飾っている間も劣化が進みます。 長時間紫外線にさらされると日焼けを起こしてしまいます。直接日光にあたるのはもちろん、蛍光灯のようなライトの光にも紫外線が含まれているため、少しずつ劣化が進んでしまうでしょう。 掛軸の劣化を遅らせるためには、飾る場所や保管方法に気を遣う必要があります。 劣化した掛軸は修復した方がいい? 劣化を悪化させてしまう恐れがあるためあまりお勧めできませんが、掛軸を自分で修理する方法もあります。掛軸を修理する主な方法は4つあります。 1.シミ抜き 掛軸は湿気に弱いため、保管時の湿度管理ができていないとシミが生じやすくなってしまいます。また、経年劣化による変色もよくみられます。掛軸に発生したシミを落とすためには、水洗浄もしくは薬品によるシミ抜きが必要です。湿気や水分が原因で発生したシミであれば、水洗浄で落ちる可能性が高いでしょう。しかし、経年劣化による変色や茶色っぽいシミの場合は水洗浄ではきれいになりにくく、薬品によるシミ抜きが必要です。どちらの方法が適切か、どの薬品を利用すればよいかなどを判断するためには専門的な知識が必要なため、自分でシミ抜きを行うのは避けたほうがよいでしょう。 2.破れの修理 掛軸は和紙や絹でできています。そのため、時間が経つにつれ破れは発生しやすくなってしまいます。また、飾ったり保管したりするときの取り扱い方によっては、誤って破いてしまうこともあるでしょう。掛軸の破れは裏側から紙をあてて修復を行います。破れている箇所が大きい場合は、掛軸を分解する必要もでてきます。古い掛軸は素材の劣化が進んでいるため、修理中により傷みを悪化させないよう注意が必要です。 3.ひび割れの修理 掛軸には、経年劣化によるひび割れが生じます。掛軸に発生したひび割れは、漉きはめ修復とよばれる手法で修理します。漉きはめは、掛軸の素材と同じ紙質の原料液を流し込み形成を行う方法です。専門的な技術を要する修理方法であるため、自分で行うのは難しいでしょう。 4.仕立て直し 掛軸は何枚もの和紙や絹が層になって作られています。そのため、飾りっぱなしや巻きっぱなしにしていると折れやシワが発生してしまいます。折れやシワが目立つ場合は、ゆがみの仕立て直しが必要です。仕立て直しでは、掛軸を解体する必要があります。シミや破れが生じている場合は、解体時に合わせて修理を行いましょう。その後再び掛軸を組み立てなおしていきます。 掛軸は繊細な美術品です。修理には専門的な技術や知識が必要なため、知識や経験のない方が見よう見まねで行うと、かえって掛軸を傷つけてしまう恐れがあります。掛軸を修理したい場合は、専門業者への依頼がお勧めです。 掛軸の表装・表具などが劣化…修理してもらった方がいい? 掛軸の劣化を修理するなら自分で行うより業者へ依頼したほうがよいと紹介しましたが、買取を検討している場合は、修理をせず査定に出すことをお勧めします。 その理由としては、もしあなたが掛軸の高額買取を狙って修理をしたとしても、作品そのものの価値が低ければ掛軸の買取金額よりも修理代金の方が上回ってしまう可能性があるでためです。 また、安い価格で修理に出すとかえって掛軸の傷みや劣化を大きくしてしまうリスクもあります。 買取を考えている場合は、そのままの状態でも歴史的価値を秘めている可能性があるため、まずは修理を行わずに査定してもらうのがお勧めです。 劣化した掛軸もまずはプロに査定をしてもらいましょう 「倉庫から掛軸が出てきたけど傷みが激しい」「描け時幾の買取を依頼したいけど自宅で飾っていたときに破いてしまった」など、劣化した掛軸の買取を依頼する前に諦めてしまう方も多いのではないでしょうか。しかし、劣化が進んでいる掛軸でも価値がつく可能性があります。 掛軸を修理してきれいな状態で査定に出したいと考えがちですが、修理や修復は掛軸の損傷を大きくしてしまうリスクがあります。そのため、買取を検討している場合はそのままの状態でまずは依頼しましょう。また、劣化した掛軸の買取を諦めて放置せず、まずは知識や経験の豊富な査定士にご相談ください。
2024.09.14
- 掛軸 買取
-
日本の掛軸の歴史:中国から伝来し独自の文化を作り上げるまで
日本の掛軸文化は、中国から伝わり独自の変化を遂げてきました。 日本の掛軸では、にじみやぼかし、たらしこみなど繊細な表現を可能とする手法がよく用いられています。その特徴や歴史を紐解いていきましょう。 日本独自の文化となった、掛軸の歴史 日本の掛軸文化は古来中国より伝わったとされています。 中国古来の掛軸文化と日本で独自の変化を遂げた掛軸文化の大きな違いは、水墨画の表現方法。 水墨画は、鎌倉時代に日本と中国で禅僧の往来が盛んになった時期に、禅宗とともに伝わり盛んとなりました。中国の水墨画は輪郭線をはっきりと描き、力強い画が多い傾向です。 一方で、日本の水墨画は「にじみ」や「ぼかし」を活かした描き方が主流となりました。また、薄い墨で描いた上に濃い墨をたらして描く「たらしこみ」は、日本独自の水墨画文化です。墨を重ねて濃淡を表現することで、他にはない深い味わいが表現できます。 もう一つ、日本独自に発展した掛軸文化が大和表具です。 表具とは、掛軸を飾れる状態にしたり保存しやすくしたりする役割があります。中国の表装である文人表具はシンプルな作りが特徴です。一方で、大和表具は「草」「行」「真」の3つの形式に分けられます。「草」は中廻しの柱が行よりも細い特徴があります。また、「行」は外廻しが中廻しの天地のみに付いているのが特徴の一つです。「真」は仏仕立てとも呼ばれ、仏教関係で利用されます。 平安時代に中国から伝来した掛軸の歴史 掛軸文化は、飛鳥時代から平安時代に中国から伝わったとされています。もともとは仏教を広めるための礼拝道具の一つでしたが、僧侶と貴族の間でも楽しまれるようになりました。巻物型にして桐箱などに入れることで、破損しにくく良い保存状態のまま持ち運びが可能になり、どこででも仏画の掛軸を拝めるようになったことも特徴の一つです。 日本に持ち帰ったのは、遣唐使として平安時代に中国(当時の唐)へ向かった空海といわれています。曼荼羅を持ち帰り、それをきっかけに仏画の制作や掛軸の技術が発展していきました。 歴史の流れとともに変化した日本の掛軸文化 鎌倉時代には中国から水墨画が伝えられました。水墨画の流行により掛軸のこれまでの役割である「掛けて拝する」という仏教画としての世界から、花鳥風月の水墨画など日本独自の進化を遂げた美しい美術作品が多く制作されました。 室町時代には、茶道が流行った影響により茶室の床の間に掛軸を飾るケースが増えていきます。日本独自の建築様式である床の間に利用されることで、日本独自の文化として掛軸が大きく進化していきます。茶道をきっかけに来客者や季節の行事によって適切な掛軸を付け替える習慣が根付いていきました。 明治時代になると、掛軸は一般家庭の床の間にも飾られるようになりました。僧侶や貴族の間で楽しまれていた芸術が日本人の生活様式に深く浸透したのが明治時代といえるでしょう。現代では、一般住宅の洋式化が進み和室の床の間が減少した影響もあり、掛軸を自宅に飾る人は減少傾向にあります。ただし、美術館や博物館などでさまざまな掛軸を楽しめることから、和の芸術作品として現代の人々にも愛され続けているとわかるでしょう。 日本掛軸の歴史における重要な作品や作家たち 日本独自の進化を遂げた掛軸文化により、美しい作品が日本の掛軸には多くあります。歴史における重要な作品や作家を知ることで、日本掛軸の価値に気づけることもあるでしょう。 雪舟 作家名:雪舟(せっしゅう) 代表作:『天橋立図』『秋冬山水画』『破墨山水図』 雪舟は、日本の山水画(水墨画)の時代を作った人物です。1420年、備中国赤浜(現:岡山県総社市)に生まれ、幼いころに地元の宝福寺に預けられたのち、周防国(山口県)に移る30代半ばまでの前半生については明確に分かっていません。1460年に遣使船で中国へ渡航し、現地の禅僧から水墨画を学びました。雪舟の作品は一つ一つのモチーフは荒さを備えた動的なものでありながら、作品全体を見てみるとどっしりと安定感があり、巧妙な構築性を備えています。 棟方志功 作家名:棟方志功 (むなかたしこう) 代表作:『勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅』『二菩薩釈迦十大弟子』『女人観世音板画巻』 棟方志功は神仏画を多く残しており、今でも人気の画家です。1903年に青森県で生まれ、囲炉裏の煤で目を傷め極度の近眼に。1921年、雑誌「白樺」に掲載されていたゴッホのヒマワリを見て衝撃を受け、ゴッホになるべく油絵画家を志すことになります。しかし、近眼の影響により写生が難しく、奥行きのある構図が創れずに行き詰ってしまいます。その後、川上澄生の木版画に感銘を受け、木版画に転向しました。 北大路魯山人 作家名:北大路魯山人(きたおおじろさんじん) 代表作:『西行庵画賛』『蓮図』『吹寄図』 北大路魯山人は多才であり、絵画においては水墨画が非常に人気でした。 1883年、京都上賀茂神社の社家に生まれ、1904年に東京に移り住み日本美術展覧会に千字文の書を出品して1等を受賞しています。その後は、陶芸や漆芸、書、絵画などさまざまな分野で芸術的才能を開花させました。絵画については戦前の一時期に集中的に制作を行い、日本画や南画、水墨画、水彩画など多くの画風で作品を残しています。 掛軸には長い歴史があり、素晴らしい作品が多くある 掛軸の歴史は長く、中国から日本へ伝わったあと独自の発展を遂げています。日本・中国どちらも掛軸には高価買取の対象となっている作品もあります。高価買取を狙うのであれば、実績豊富な査定士に相談してみるのがお勧めです。また、複数の査定士に依頼して比較するのも適切な価値を知るための手段の一つです。長い間しまっていた掛軸は傷や破れが生じていることもあるでしょう。 状態がきれいじゃないと価値が付かないと考え、すぐに修復したい気持ちになりますが、まずはそのまま査定士に依頼しましょう。補修によってダメージが大きくなってしまえば価値に悪影響を与えるため注意が必要です。査定に出すときは掛軸の箱があるとなお良いでしょう。また掛軸に落款、署名などがあれば価値がより高まる可能性もあります。自宅で飾っている掛軸の価値を知りたい方はぜひ専門の査定士へ査定を依頼してみましょう。
2024.08.06
- 掛軸の歴史