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行書の掛軸買取なら | 日本・中国の有名作品を高額査定
中国で生まれた行書を利用した掛軸である行書掛軸。 なかでも日本・中国の有名作品は高額査定で取引されることもあります。 また、日本では、行書掛軸は茶道とも深い関係があります。 行書掛軸の魅力を知るためにも、まずは行書掛軸の特徴や歴史、茶道との関係性、有名な作家の概要を見ていきましょう。 行書掛軸の種類や特徴とは 行書掛軸とは、文字が書かれた書画の中でも、行書体で書かれた掛軸を指します。 行書とは、草書と同様に隷書がもとになり誕生した書体の一つです。楷書を略した形のように見えますが、楷書よりも歴史が古く後漢時代に生まれたとされています。 楷書とは異なり文字の点がつながっていたり、省略されていたりしますが、草書のように楷書からまったく離れている書体というわけでもありません。そのため、速筆向きでありながら読みやすさも兼ね備えている書体といえます。 行書はその読みやすさから古代中国では荘重な式典や格式の高い場などの公務文書や祭礼の文書として使われていたようです。 行書は、一つの文字に対して複数の文字の崩し方が存在します。 そのため、同じ書き順で書いた字でも崩し方によってさまざまな雰囲気を楽しめるでしょう。 また行書は曲線的で丸みのある字形が特徴です。 行書には複数の崩し方があるように、厳格なルールが存在していません。そのため形が流動的で書き方次第でさまざまな表現が可能です。書く人の個性が反映されやすいため、美術品にもよく利用され多くの行書掛軸が書かれています。 行書の歴史 行書は後漢時代に隷書をもとに生まれたとされています。 行書の誕生を知るうえで、まずは中国で生まれた漢字の歴史を見ていきましょう。 漢字は約3300年前の中国で誕生しました。最初に書かれたのが甲骨文字とされています。殷の末期から周の初期に利用されていた漢字で、現存する最古の漢字といわれています。甲骨文字はどちらかというと絵に近いデザインをしていました。 その後、殷の末期から三国時代頃には金文が使われ、甲骨文字や金文をもとにして篆書が作られます。篆書には数種類の書体があり、中でも代表的なのが小篆です。 秦の時代では大篆とよばれる書体が利用されていましたが、形が複雑で書くのに時間がかかる上に、各地域で独自の発展を遂げ、地域ごとに全く異なる字体が生まれてしまいました。 そのため、中国統一を果たした始皇帝は字体の統一を図りました。字体統一のために誕生したのが小篆です。 しかし、小篆も字体が複雑かつ難解で実用性が高いわけではなかったため、人々はより書きやすい形に小篆を簡略化していきました。曲線を直線にして書くようになり、やがて隷書とよばれる書体が誕生します。 そして、この隷書から草書・行書・楷書の3つの書体が作られました。 分岐としては、隷書→草書のルートと、隷書→行書→楷書のルートに分かれて作られたとされています。 行書は隷書と草書の間の書体として誕生し、後漢時代から利用され始めています。行書と楷書の成立時期は諸説ありますが、行書が先とする考えが多いようです。 行書の名作・「蘭亭序」 掛軸ではありませんが、有名な行書の美術作品として『蘭亭序(らんていじょ)』があります。東晋時代に王義之(おうぎし)が蘭亭の会のときに作られた詩集『蘭亭集』に行書で書いた序文です。書聖と評される王義之が書いた『蘭亭序』は最高傑作として後の書家や書人に大きな影響を与えました。 行書掛軸が用いられる場面とは 行書掛軸をはじめとした掛軸は茶道と深い関係があります。 茶道といわれ連想するものとしては、茶碗や茶室などが多いのではないでしょうか。 しかし、掛軸こそ茶席において最も大切な道具ともいわれています。 茶室にはよく茶道の根底にある禅の文化を表現する禅語が書かれた掛軸が飾られています。 描かれる主な禅語は、日日是好日・和敬清寂・一期一会・松無古今色など。円相とよばれる円形を一筆で描いた書画もよく掛けられています。 禅の思想を表す書画で、悟りや真理、仏性、宇宙全体を表している掛軸で、一円相や円相図とも呼ばれています。 また、掛軸は茶道の世界観や精神的なメッセージを伝える手段としても利用されています。 文字や詩の引用で茶道の世界観やテーマを表現し、茶会に訪れた人に深い印象を残すでしょう。 茶室に掛けられた掛軸により、空間の雰囲気や趣が印象付けられます。行書掛軸は茶席の雰囲気を引き立て、茶会の趣向やテーマを表現する役割もあるといえるでしょう。 茶道と書道は日本の伝統文化として密接に結びついており、お互いの価値を高めあう存在でもあります。そのため、行書をはじめとした書画が茶掛としてよく用いられています。 行書掛軸の作品や作家たち 和室を彩る装飾品として重宝される掛軸。 特に行書掛軸は茶道の禅の文化を表す一つの道具としても用いられています。行書掛軸は日本や中国をはじめとしたさまざまな作家の手によって描かれています。中には歴史的価値が高い掛軸も存在するでしょう。 頼 山陽 作家名:頼 山陽(らい さんよう) 頼 山陽は1780年生まれ、没年1832年の日本を代表する歴史家兼漢詩人・漢学者です。 大阪江戸堀で生まれ、1781年には広島藩藩儒に就任した父・頼春水(しゅんすい)とともに広島に移住します。1797年に江戸幕府直轄の学校へ入学するものの約1年で広島に戻り、数年後に脱藩をはかり京都へ逃亡しました。叔父の春風(しゅんぷう)に見つかり広島へ戻された後、5年間屋敷内の座敷牢へ幽閉されました。 謹慎中に没後ベストセラーとなる『日本外史』の初稿を完成させています。その後、後藤松蔭をはじめとする優秀な弟子を育てながら多くの優れた書画や詩文を残しています。1826年には20年以上歳月をかけた『日本外史』が完成し、翌年に元老中松平定信へ献上。結核により53歳という若さで亡くなっています。 勝 海舟 作家名:勝 海舟(かつ かいしゅう) 勝海舟は江戸時代末期である幕末から明治時代初期にかけて活躍した武士・政治家です。勝海舟が書をしたため始めた理由は諸説あります。一説によると、蘭学を学ぶときに辞書「ドゥーフ・ハルマ」を筆写した経験から書を作成するようになりました。漢詩を元にした作品が多く、一行書や五行書、詩書などさまざまな作品が残されています。 顔真卿 作家名:顔 真卿(がん しんけい) 顔 真卿は中唐時代の政治家です。王羲之風の書が主流となっていた時代に異議を唱えた人物とされています。 顔真卿の書は素朴で太く力強い印象があります。また、蔵鋒とよばれる書かれたときに毛筆の穂先の形が現れないよう書かれた線の中に隠す技法を生み出しました。 これまでの書にはなかった新たな書風を生み出したとして王羲之に並ぶ書の第一人者とよばれることもあれば、書の破壊者と評されることもあります。また、顔真卿の書風は別名弘法大使とよばれていた空海にも大きな影響を与えました。 行書掛軸には歴史的価値が高いものも。買取相談は”価値の分かる”プロへ 自宅で大切にしている行書掛軸の価値を知りたい方は、一度査定に出してみるのも良いでしょう。自分で作家や作品について調べ、有名な掛軸ではないからと置いたそのままにしておくのは勿体ありませんもったいないです。掛軸の知識や実績が豊富な査定士に依頼して、本来の価値を確かめて置くことをお勧めします。シミや汚れがあっても作品によっては価値がつくため、まずは気軽に相談してみてはいかがでしょうか。
2024.09.14
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日本の歴史画掛軸は高価買取の期待大!
日本には国内外問わず人気の高い歴史画が多く存在します。歴史上の出来事や神話、宗教などを想像して描く歴史画は、知識と力量が必要な絵画のジャンルです。歴史画の魅力を知り、高価買取につなげるためにも、歴史画の特徴や種類、有名な作家や作品を見ていきましょう。 歴史画とは 歴史画とは、歴史上の事件や神話、宗教などをテーマにした絵画を指します。学問の美術史と同様に明治時代に西洋から伝わった概念です。しかし、日本でも古くから歴史上の事件や神話、宗教をテーマとした絵画は描かれており、平安時代後期以降に描かれた大和絵、江戸時代初期に確立された浮世絵なども、歴史画に該当する内容が描かれている作品が多く存在します。 明治時代、西洋の文化が日本へ次々と入ってくる中、社会は伝統回帰の動きも見せ始めました。日本の伝統的絵画への関心が高まり、歴史画が流行します。日本の伝統的な技法や表現を用いる旧派と新時代に適した新しい技法や表現を用いる新派に分かれ、歴史画は盛り上がりを見せていました。 歴史画の種類や特徴とは 歴史画とよばれる絵画の中に、合戦絵や武者絵などがあります。武者絵とは、勇ましい武士の姿を描いた絵画を指します。歴史上の武将や伝説の豪傑が英雄として活躍するシーンを想像して描かれた作品です。 合戦絵とは、平安時代から江戸時代後期にかけて起きていた合戦をテーマにした絵画を指します。浮世絵が生まれた江戸時代は戦がほとんどない天下秦平の時代であったため、想像で描く武者絵に相当する物語絵として描かれていました。 江戸時代に描かれた合戦絵や武者絵は古い史実をもとにしていることもあるため、明治時代に入ってきた歴史画の概念に該当するといえるでしょう。 有名な歴史画・歴史画掛軸 歴史画の概念は明治時代に入ってきたものですが、歴史画に相当する作品は日本でも古くから描かれています。中には、後世にも大きな印象を与えた作品や幕府の御用絵師として活躍した作家の作品などもあります。大切にしている歴史画の価値を知りたいとき、有名な作家や作品名を把握しておくと、価値を理解しやすいでしょう。 月岡芳年 作家名:月岡芳年(つきおかよしとし) 代表作:『英名二十八衆句』『魁題百撰相 金吾中納言秀秋』 月岡芳年は1839年生まれ、没1892年の明治時代を代表する浮世絵師です。 江戸新橋の南大阪町に生まれ、のちに大叔父にあたる画家の月岡雪斎の姓を継いだため月岡の姓を名乗っています。月岡芳年の師匠は江戸時代後期に活躍した浮世絵師の歌川国芳です。1850年、12歳のころに歌川国芳の門をたたき、教えを受けています。浮世絵師としてのデビューは3年後の1853年で、武者絵の3枚続きである『文治元年平家の一門亡海中落ち入る図』を描きました。初期のころの作品では役者絵、武者絵を多く手掛けていました。 その後、1858年に刊行されてた『江戸の花子供遊の図』をきっかけに妖怪画や故事をテーマとした作品も多く発表しています。 兄弟子の落合芳幾との競作『英名二十八衆句』は、後世に残る残虐絵・血みどろ絵の代表作となりました。江戸末期から明治の転換期を生きた月岡芳年は、戊辰戦争を題材として『魁題百撰相』を描いています。晩年には和漢の物語や故事など文学をテーマにした作品も多く残しています。 狩野探幽 作家名:狩野探幽(かのう たんゆう) 代表作:『雪中梅竹遊禽図襖』『雲龍図』 狩野探幽は1602年生まれ、没1662年の江戸時代初期に活躍した狩野派の絵師です。日本絵画史上最大の流派である狩野派は、室町時代後期から江戸時代末期まで約400年間にわたり、ときの権力者の御用絵師として活躍していました。狩野探幽は徳川家康に仕えた絵師で、波乱の戦国時代から落ち着きと秩序を求める時代の流れにあった繊細優美な画風が特徴です。 狩野探幽の画人としてのデビューは1612年、11歳のころです。父に連れられて駿府を訪れ、徳川家康に拝謁。続けて江戸で江戸幕府2代将軍 徳川秀忠にも拝謁し、画人としてのデビューを果たしました。12歳のころに描いた『渡唐天神像』は、12歳とは思えないほどの画力を発揮しています。その後1621年、20歳のときに江戸幕府の御用絵師として、江戸屋敷を授かりました。狩野探幽の画風は、詩情豊かかつ余白を活かした画面構成や、繊細かつ柔らかな筆使いが特徴です。落ち着きのある味わい深い独自の表現を確立しています。そして、狩野探幽は狩野派一族の地位を不動のものとしました。画家としての最高位である法院を60歳で授かり、72歳で死去するまで精力的に作品を制作しました。 長谷川貞信 作家名:長谷川貞信(はせがわ さだのぶ) 代表作:『徳川治績年間紀事 十四代昭徳院殿家茂公』『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』 長谷川貞信は1809年生まれ、没1879年の江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。長谷川貞信の名は後世へ受け継がれていき、現在5代まで続いています。長谷川貞信は小さいころから絵を描くことが好きで、日本画における一大派閥である四条派の絵師上田公長の門人となります。師から有長の画名を受けるものの修行中に実家が商売に失敗し、経済的に厳しい状況に立たされました。 そのため、浮世絵師として稼ぐことを目標に、浮世絵師である歌川貞升に師事します。才能を開花させ役者絵を描いていた長谷川貞信ですが、天保の改革により役者絵に厳しい規制がかけられたため作品の題材を風景画に変更しています。歌川広重を思わせる画風でさまざまな作品を制作し、長谷川貞信は関西地方を代表する浮世絵師となりました。 役者絵や風景画、名所絵のほか、芝居絵や美人画など多様な作品を描き続けた長谷川貞信は、明治時代に入ると文明開化が進む街の様子をテーマとした開化絵にも取り組んでいます。 掛軸として保存される貴重な歴史画も 明治時代に入ってきた歴史画の概念に該当する絵画は、平安時代後期ごろから描かれていました。江戸時代に流行した浮世絵の中にも歴史画に該当する作品がたくさんあり、合戦絵や武者絵など戦のない時代に想像を膨らませて描かれた歴史画も多く残されています。日本の歴史画は、独自の技法や雰囲気から海外でも高い評価を受けています。 ご自宅で大切にしている歴史画や、倉庫や押し入れを整理していて発見された歴史画の価値を知りたい方は、絵画の実績が豊富な査定士に査定を依頼してみましょう。歴史として語り継がれる著名な作家や有名作品ではなくとも価値がつくこともあります。また、保存状態が悪く破れや傷みが目立つからといって諦める必要はありません。保存状態が良い作品と比較すると査定額は下がってしまいますが、希少な作品であれば高額買取も可能です。まずは、知識や経験が豊富な査定士に相談してみましょう。
2024.09.14
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有名歴史人がのこした書簡掛軸を買取してもらうには
歴史上の人物が思いを綴った書簡掛軸。 当時は手紙の役割として活用されていましたが、現代においては当時の歴史を知る手掛かりになる貴重な資料としても扱われています。作家が有名であれば時として高値でやり取りされることも。書簡の特徴や歴史を知り、その価値に触れるとともに、書簡掛軸を高値で買い取ってもらうためのポイントも押さえていきましょう。 書簡とは 書簡とは、手紙や書状を指し主に文章語として使われている言葉です。特定の相手に向けて書かれる文書を書簡と呼び、一般的には個人的なメッセージや情報、感謝の意を伝えるためであったり、連絡をとりあうためであったりします。書簡は手紙の形式をとるため、送り先の住所や氏名、日付、挨拶文、本文、署名などの項目が書かれている文書を多く目にします。言葉でのコミュニケーションを通じて、情報や気持ち、感情などを伝え、相手との絆を深める手段としても有効といえるでしょう。 書簡は古くから日本で利用されており、薄い細長い木の板に墨をつけた筆で文字を記したことから始まったとされています。紙が用いられるようになったのはおよそ6~7世紀ごろといわれています。紙自体はそれよりも古くから存在していましたが、耐久性を考えて長らく木簡を活用していました。当時の文具には筆や墨、硯はもちろん、木を削るための小刀が含まれていたそうです。書簡には文通のような軽い意味合いのものもあれば、政治的な情報や議論などにも用いられていました。 なぜ書簡が掛軸になるのか 書簡は本来、特定の人物に向けて書かれた手紙のようなもののため、不特定多数の目にさらされたり、所持されたりするものではありません。 しかし、現代では歴史的に活躍を納めた偉人の書簡は、当時の暮らしぶりや時代の動きを今に伝えるための貴重な資料として価値が見いだされています。歴史的な資料として書簡を軸装し、掛軸作品として飾る機会も多くあります。芸術作品としての一面だけではなく歴史を記した貴重な資料としての価値もあるため、高額で取引されることも。 多くの歴史的な芸術家や偉人の書簡も掛軸になっており、例えば陶芸家で人間国宝 の濱田庄司(はまだしょうじ)が書いた書簡や、幕末から明治初期にかけて政治家として活躍した松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の書簡 、江戸時代前期に活躍した俳諧師の松尾芭蕉 (まつおばしょう)の書簡など、偉人たちの書簡が掛軸として現代にも残されており、高価買取が行われています。 現代でも愛される、歴史的価値ある書簡掛軸 書簡は思いや情報を綴った手紙を指しており、歴史上の人物の交友関係や心情など、当時の様子をより深く想像するための貴重な作品です。有名な作家や偉人であったり人気のタイトル作品であったりするほど市場価値が高まります。査定士に依頼して作品を見てもらい、査定書にて真作であると証明できると、高価買取が期待できるでしょう。 書簡掛軸作品を高値で買い取ってもらうためのポイントは以下のとおりです。 ・保存状態の確認 書簡掛軸が高価買取できるかどうかには保存状態が深くかかわってきます。破れやシミなどの劣化が少なく状態が良好であれば価値もあがるでしょう。歴史的価値のある有名な作家が書いた作品だとしても保存状態が悪くボロボロになってしまっていては査定額が伸び悩んでしまいます。 特に墨で書かれている掛軸作品は太陽光により退色やシミが発生しやすい美術品です。丸めて倉庫でしまっておくのはもったいないからと自宅の床の間に飾り、日光を長時間浴びてしまっている状態だと劣化が進行してしまいます。そのため、自宅で飾る際は直射日光が当たらない場所を選びましょう。また、複数作品お持ちであれば定期的にほかの作品と掛け替えることをお勧めします。 ・共箱があるかどうか 掛軸作品を入れる専用の木箱を共箱と呼びます。共箱があるのとないのとでは査定額が大きく変わります。作家本人が共箱の表面に作品名を、裏面に署名や落款を残しているのが一般的です。掛軸を保管する箱には他にも種類があり、識箱は査定人や査定団体親族が箱書きしたものであり、共箱と同じように扱われます。署名がなく掛軸のサイズにあわせてただ用意されているだけの木箱は相箱と呼ばれています。 ・印刷と肉筆どちらであるか 掛軸作品には、印刷作品と肉筆作品の2つがあります。肉筆作品とは作家本人がその紙に直接描いたもので、世界に1点しかない掛軸のため印刷作品よりも価値が大幅に高くなります。印刷にかけられた工芸品や複製画は、肉筆作品と比較すると価値が下がってしまうでしょう。肉筆かつ有名な作家が書いた作品であれば、多少状態が悪くとも高額査定が期待できます。 書簡掛軸が自宅から出てきて、有名な作家なのか、人気の作品なのか、その作品の価値を知りたい方は多くいるのではないでしょうか。書簡掛軸の価値を知りたい方は、掛軸作品に知見のある査定士に査定を依頼しましょう。なるべく高値を付けてもらいたいと、査定前に修復や修繕を行ってしまう方もいます。しかし、修繕によってかえって傷みが増してしまったり、贋作で作品の価値より修繕費の方が高くついてしまったりといったリスクがあります。そのため、まずはそのままの状態で査定を依頼するのがお勧めです。
2024.09.14
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京都の掛軸買取なら | 高額査定を狙うなら実績ある査定士へ
日本では、掛けて拝する仏教仏画の世界から、花鳥画や山水画のような水墨画まで日本ならではの画風でさまざまな作品が現代まで描かれています。古くから、掛軸は床の間に掛けて鑑賞する美術品として多くの人に親しまれてきました。 京都で生まれ育った作家の作品や、京都の街並みや人々を描いた掛軸作品も多く存在します。歴史として記録に残っている有名な作家の作品も数多くあり、高額で買取されている作品もあるでしょう。掛軸作品や作家を調べてみて、自分の出身地である京都にゆかりのある掛軸を飾りたいと考えている方もいるのではないでしょうか。京都にちなんだ作家や作品の歴史を知り、掛軸への知見をより深めましょう。 京都には価値の高い掛軸がたくさんあります 掛軸は、仏画として中国から日本へ伝わったのちに、書画や絵画を床の間に飾り鑑賞を楽しむために巻物の形に仕立てた芸術作品です。歴史を重ねるにつれ掛軸の種類も増え、今では仏画に始まり花鳥画、山水画、水墨画、浮世絵などさまざまな書や絵が描かれています。使い道も多彩で、茶道を行うときに茶室に飾り茶道の世界観や禅の文化を表現したり、床の間に季節にちなんだ書画を飾り四季の移り変わりを味わったりと楽しみ方も人ぞれぞれです。 京都で掛軸の価値を知りたい方や買取を検討している方は、掛軸査定の経験や実績が豊富な査定士への査定依頼をお勧めします。 京都にゆかりのある、掛軸作家と代表作 日本の掛軸作品は、見るものを圧倒する迫力のある作品から、柔らかく繊細なタッチで描かれた優美な作品までさまざまです。掛軸を自宅に飾りたいと考えたとき、目的や自宅の雰囲気、好みなどで選ぶのも良いでしょう。 また、自分の思い入れのある地域出身やゆかりがある作家・作品を探してみるのもお勧めです。古くから日本の芸術として親しまれてきた掛軸には、京都にゆかりのある掛軸作家や作品も多く存在します。 池大雅 作家名:池大雅(いけのたいが) 代表作:『楼閣山水図』『十便十宜図(十便図)』 生没年:1723年-1776年 池大雅は京都の町人の子として生まれ、18世紀に活躍した文人画家です。その才能は早くから開花し、7歳のころ万福寺で書を披露し、絶賛されています。1737年、亡き父の通称である菱屋嘉左衛門を襲名し、扇屋を開きました。当時、禅僧と交流していく中で大陸の文物と触れ合う機会があり、文人趣味の扇絵を描いていました。20代のころには筆ではなく手指を用いて描く指頭画にも挑戦しています。池大雅は旅行や登山が好きであったため、自らの足で日本を旅し、実際に見た景色を数多く描いていきました。中国絵画の模倣では終わらないおおらかでのびのびとした画風を確立し、人気を集めました。 また、今日では池大雅の作品が高く評価されており、国宝や重要文化財に指定されている作品も数多く存在します。屏風や襖絵は現在でも高く評価されていますが、掛軸も多く手掛けていました。池大雅は自由を愛し清廉潔白な人物であったとされています。そして、その人柄が垣間見える作品を数多く残しています。 円山応挙 作家名:円山応挙(まるやまおうきょ) 代表作:『七難七福図』『孔雀牡丹図』 生没年:1733年-1795年 円山応挙は、丹波国桑田郡穴太村(現・京都府亀岡市)に生まれ、江戸時代後期に活躍した絵師です。10代のころには京の都に出てきて画の技術に磨きをかけ、尾張屋と呼ばれるガラス製品のびいどろ道具や人形を扱う玩具店に奉公しました。一時は狩野派の絵師のもとで画を学びましたが、中国画をも含むさまざまな流派の画風を取り入れ、写生をメインとした独自の画風を確立していきます。40代半ば以降は一門を持ち、数々の障壁画制作をこなしていきました。完成された障壁画の中には国宝として有名な『雪松図屏風』や畢生の大作となった『松に孔雀図』などがあります。 また、小さな動物が遊ぶ様子を描くのが得意だった円山応挙の狗子図は当時から人気を集めており、現代においても多くの掛軸作品が残されています。また円山応挙は、幽霊=足がないというイメージを作った人物としても有名です。 川合玉堂 作家名:川合玉堂(かわい ぎょくどう) 代表作:『春渓群猿図・秋渓群鹿図』『溪村春麓図』 生没年:1873年-1957年 川合玉堂は、愛知県一宮市で筆墨紙商の子に生まれ、四季折々の美しい日本風景を描く近代日本画壇の巨匠とも呼ばれる画家です。1881年に岐阜県に移り住み、12歳ごろから絵を描き始めたといわれています。14歳のころ、岐阜に住む画家の青木泉橋から紹介状を受け取り、京都の日本画壇である四条派の望月玉泉門下に入りました。その後、玉舟の号をもらっています。1890年には第3回内国勧業博覧会で入選を果たします。また、1896年には橋本雅邦の門下に入り画家としての制作を続けながら、私塾の主宰や文展の審査員などを務めるようになりました。 1917年には、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与、ドイツ政府から赤十字第一等名誉賞を授与されるなど海外でも高く評価されています。川合玉堂の作品は、日本の四季折々の自然の美しさを表現する優美な線と色彩が特徴です。また、そこに暮らす人々や動物たちの生き生きとした営みも繊細に描いており、数多くの美しい掛軸作品を世に残しています。 京都の掛軸買取は実績ある査定士へ相談を 京都にゆかりのある掛軸作家が描いた作品にも高価買取の可能性が秘められています。 掛軸集めを趣味にしていた祖父から譲り受けた掛軸、有名な作家の落款が入った掛軸など、自宅に価値のわからない掛軸をお持ちの方も多くいるのではないでしょうか。破れやシミ、カビなどの損傷があっても査定は可能です。まずは、知識や経験の豊富な査定士に依頼して適切な価値を知りましょう。
2024.09.14
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大阪の掛軸買取なら | 高額査定を狙うなら実績ある査定士へ
掛軸文化は鎌倉時代に中国から日本へ伝わったとされています。元は仏教仏画として利用されていましたが、その後、風景画や花鳥画、山水画などのような水墨画も多く描かれ、芸術性に富んださまざま作品が誕生していきました。 古くから商人の町として栄えた大阪(当時の「大坂」)でも文化が生まれ、多くの著名人が輩出されてきました。 大阪にゆかりのある作品や、生まれや育ちが大阪の作家も多くいます。また、大阪の街をテーマにした掛軸も制作されています。歴史上の有名な作家にも大阪生まれの人は何人もいるでしょう。 掛軸は、作家や作品によっては高価買取が期待できます。また、大阪生まれの方や大阪に思い入れがある方で、大阪にちなんだ掛軸を手に入れたいと思うこともあるのではないでしょうか。 大阪にゆかりのある作品や作家を知ることで、掛軸の楽しさをより味わいましょう。 大阪には価値の高い掛軸がたくさんあります 中国から日本へ仏教とともに入ってきた掛軸。当初は芸術作品や鑑賞としての目的ではなく仏教の教えを普及するために利用されてきました。その後時代が移り変わっていく中で、さまざまな掛軸作家が誕生し、芸術作品としての意味合いを持ち合わせた作品も多く生み出されました。また日本独自の画風も生み出され、特に水墨画は中国の作品では輪郭をはっきりと描くのに対して、日本の作品ではにじみやぼかしを利用している特徴があります。 大阪にお住まいで掛軸の買取を検討している方は、掛軸の買取を行っている業者への査定依頼をお勧めします。まずは、知識や実績の豊富な査定士に掛軸の価値を確認してもらいましょう。 大阪にゆかりのある、掛軸作家と代表作 日本の掛軸作品は、見るものを圧倒する迫力のある作品から、柔らかく繊細なタッチで描かれた優美な作品までさまざまです。掛軸を自宅に飾りたいと考えたとき、目的や自宅の雰囲気、好みなどで選ぶのも良いでしょう。 また、自分の思い入れのある地域出身やゆかりがある作家・作品を探してみるのもお勧めです。古くから日本の芸術として親しまれてきた掛軸には、京都にゆかりのある掛軸作家や作品も多く存在します。 赤松雲嶺 作家名:赤松 雲嶺(あかま つうんれい) 代表作:『金剛山の図』『高槻名所の図』 生没年:1892年-1958年 赤松雲嶺は、大阪生まれの日本画家です。 1899年、8歳のときに大阪の南画家である小山雲泉の門下となり、9歳で帝国南宗画会に出品を行い褒状を受けています。師である雲泉の没後、姫島竹外からも師事を受けました。 1915年に開催された第9回文展で『渓山清趣』が初入選を果たし、その後も文展・帝展・日展などの官展を中心に活躍しています。1923年には日本南画院同人で、また画塾墨雲社を主宰しました。1930年には、これまでの功績から帝展が審査・監査なしで出品できる無監査となりました。 戦後は、日展の出品依嘱者となり、1950年に開催された第6回日展に『香落湊』を出品しています。赤松雲嶺は、水墨の山水画を得意とし、掛軸作品も多く残しています。 生田花朝 作家名:生田 花朝(いくた かちょう) 代表作:『春日』『浪花天神祭』 生没年:1889年-1978年 生田花朝は、大阪市天王寺区生まれの女流の日本画家で、掛軸作品も多く残しています。父の生田南水は学者で、大阪を代表する文化人でした。1896年に大阪師範学校附属小学校へ入学し、このころから父南水より家学として俳句を学び、藤沢黄波から漢学を、近藤尺天から国学を学びました。1905年、16歳のころ父の俳句の弟子である四条派の画家喜多暉月から絵を学び、1913年の24歳ごろに菅楯彦の門下に入っています。師の楯彦からは大和絵や万葉集、国学、有職故実を学ぶとともに、師の許可を得て北野恒富から美人画の教えを受けました。1925年に開催された第6回帝展にて『春日』が初入選し、翌年には『浪花天神祭』が特選を受賞しています。その後も新文展・帝展・日展などの官展に多数の作品を出品し、1952年には大阪市民文化賞、1958年には大阪府芸術賞を受賞しました。 生田花朝の作品は、師である楯彦の逸脱な画格と女流特有の優雅さを兼ね備えた香り高い大和風画面が特徴です。大阪市の四天王寺の境内には俳句が書かれた石碑が残されています。 森周峰 作家名:森 周峰(もり しゅうほう) 代表作:『鍾馗図』『孔雀図屏風』 生没年:1738年-1823年 森周峰は、江戸時代後期の大坂画壇で活躍した大阪の森派の絵師であり、掛軸作品も多く手がけています。初めは画を吉村周山から学び、その後は月岡雪鼎からも教えを受けています。名は貴信、別号は鍾秀斎です。寛政2年造営の禁裡絵筆者の一人とされています。また、父の森如寒斎、兄の森陽信は大阪で狩野派系画家として活躍していました。 大阪の掛軸買取は実績ある査定士へ相談を 大阪府には日本三名城のある大阪市をメインに、昔から芸術や文化が育まれてきました。大阪にゆかりのある作家や作品にも高価買取が期待できるものもあります。 自宅を整理していたら作家のわからない掛軸が出てきた、価値のある掛軸だとして祖父から譲り受けたなど、買取だけではなく掛軸の価値を知りたい方も、まずは査定がお勧めです。古すぎて破れやシミがひどい場合でも作品によっては価値が付く場合もあります。自分で修理などを行わず、まずは実績のある査定士に査定を依頼してみましょう。
2024.09.14
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狩野派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
室町時代~江戸時代にかけて幕府の御用絵師として活躍した狩野派と呼ばれる絵師集団がいました。歴史上でも最も大きな絵師集団とされています。狩野派絵師が手掛けた作品は金色を多く使い、迫力のある豪華絢爛な作品が多い傾向です。 血縁関係者を中心に集まった狩野派は幕府の命を受けて大量の作品を制作するために独自の学習方法や工房制作スタイルを生み出し、日本画界に大きな影響を与えました。狩野派の掛軸の価値を知るためにも、歴史や画風などについて理解を深めましょう。 日本絵画史上最大の画派、狩野派とは 狩野派とは、幕府の御用絵師として室町時代~江戸時代にかけて約400年にわたり襖や障壁画を手掛けてきた絵師の流派を指します。 創始者は室町時代に活躍した絵師の狩野正信(かのうまさのぶ)。狩野派は、幕府の名を受けて数多くの作品を描いています。狩野正信から始まり、狩野家の血縁者を中心に集まった狩野派は、家の格式や序列によってどの城や寺院の障壁画を手掛けるかが決められていました。戦国時代が明けて江戸時代に入り安定した社会が訪れると、狩野家は幕府から障壁画の制作を数多く依頼されるようになり、狩野正信は一門を率いて任にあたりました。 また、狩野派の絵師や作品は近代日本画へも大きな影響を与えています。 各所で壁画や屏風絵を大量に制作するために構築された、工房制作の体制と学習方法は日本絵画史において画期的な変革であったといえるでしょう。工房制作となっても現存する作品からも見て取れるよう、狩野派の技術はとても高かったとうかがえます。 狩野派の歴史や主要な絵師たちを知り、それぞれの作品に込められた思いを想像して楽しみましょう。 狩野派の歴史 狩野派は、室町時代に狩野正信の手によって誕生しました。 室町幕府から始まり織田信長、豊臣秀頼、江戸幕府と御用絵師として約400年もの間、数多くの歴史的な作品を作り続けました。これほど長く幕府の下で絵の制作を行った流派はほかにありません。 伝統的なスタイルを守り続けるもの、革新的な画風を確立するものなど、さまざまな絵師を輩出しながら長く制作を行い続けました。 江戸幕府が始まったころには、京都から江戸へ移転し、京都に残った京狩野と江戸に移り住んだ江戸狩野に分かれることもありました。京狩野は独自の画風を確立し幕末まで独自のスタイルを継承しています。江戸狩野は幕府の命を受けたり、分家や門人筋の仕事を請け負ったりと幅広く活躍していました。全国各地に広がる巨大企業のような様相で、幕末の狩野芳崖(かのうほうがい)や橋本雅邦(はしもとがほう)などが明治維新後に横山大観(よこやまたいかん)らを育成することになります。 狩野派の有名絵師や作品 狩野正信 作家名:狩野正信(かのうまさのぶ) 代表作:『周茂叔愛蓮図』『崖下布袋図』 生没年:1434年-1503年 狩野正信は狩野派の始祖とされる室町時代に活躍した絵師です。第8代将軍の足利義政の下で幕府御用達絵師として絵を描いていました。中国から伝わった水墨画を学び、足利義政や禅寺の要望に合わせて好みの絵師の画風を真似して絵を描きあげていました。 これまで将軍家に仕えた絵師たちは禅の修行を積んだ画僧とよばれる人たちでしたが、狩野正信は僧の修行を積まずに幕府御用達絵師に抜擢された革新的な人物です。 狩野元信 作家名:狩野元信(かのうもとのぶ) 代表作:『四季花鳥図屏風』『瀟湘八景図』 生没年:1476年-1559年 狩野元信は室町後期に活躍した絵師です。狩野派の始祖である狩野正信の長男と次男のどちらかであるといわれています。誕生した狩野派の基礎を確立させ発展に貢献した人物として有名です。1513年頃に大徳寺大仙院客殿襖絵を制作。水墨でありながらも随所に濃彩を施した障壁画で、桃山期障壁画の先駆となる作品といえます。 狩野元信は、幕府だけではなく宮廷や公武、町衆など幅広い層からの需要に応えるため多くの門人とともに障屏画や絵馬、扇画面などさまざまな作品を制作しました。 狩野永徳 作家名:狩野永徳(かのうえいとく) 代表作:『唐獅子図』『檜図屏 風』 生没年:1543年-1590年 狩野永徳は狩野正信のひ孫にあたる人物で、狩野派の御曹司として幼いころから絵師としての才能を幕府に期待されていました。9歳になる頃には室町幕府将軍に拝謁しています。また、公家との関わりも深く、五摂家の障壁画も描いています。当時の戦国武将は狩野永徳を高く評価しており、織田信長が天下統一を目指して建てた安土城や豊臣秀吉の邸宅である聚楽第の障壁画を手掛けるなど、権力者たちから人気を集めていました。 狩野永徳が唐獅子や大樹を題材に描いた『唐獅子図屏風』は、織田信長が本能寺で襲撃されたとき、豊臣秀吉が備中高松城で攻めていた毛利氏に対して和睦の証として贈呈したものといわれています。しかし、近年の調査によると元から屛風図だったものではなく、豊臣秀吉の城の障壁画を屏風のように仕立てた作品であることが分かってきました。 狩野探幽 作家名:狩野探幽(かのうたんゆう) 代表作:『雪中梅竹遊禽図襖』『富士山図』 生没年:1602年-1674年 狩野探幽は、狩野永徳の次男「狩野孝信」の長男として、江戸時代に活躍した絵師です。狩野探幽は、狩野永徳が築き上げてきた安土桃山時代を象徴するような豪華絢爛で迫力のある画風とは打って変わり、軽淡瀟栖な画風を確立させました。余白を存分に生かした繊細で詩情あふれる数多くの作品は、狩野派一族の地位を不動のものにしました。 狩野探幽が作り上げた画風はその後の規範となり、狩野派だけではなく光琳や応挙をはじめとする江戸時代の絵画界に大きな影響を与えたとされています。狩野探幽は1662年に60歳で画家としての最高位である法院を授かり、その後も晩年まで精力的に作品を描き続けました。 狩野芳崖 作家名:狩野芳崖(かのうほうがい) 代表作:『不動明王』『悲母観音』 生没年:1828年-1888年 狩野芳崖は明治時代に活躍した絵師で、家は長府藩の御用絵師を担っていました。江戸木挽町の狩野勝川院雅信に教えを受け、雪舟を中心に諸派絵画の研究を行います。 明治10年代半ばに米国人哲学者のアーネスト・フェノロサと出会い、西洋絵画の空間表現や色彩などを学び、日本画の革新に努めました。その後、東京美術学校の創立に尽力し、教授に任命されるものの開校を前に亡くなっています。 狩野派の画風、特徴 狩野派が描く作品は、現代美術のようにひとり一人の個性が生きた作品ではなく、これまでの伝統的な粉本や筆の使い方を忠実に再現し、描かれていました。現代の個性あふれる芸術に触れていると、芸術性や創造性が欠けていると指摘されることもありますが、忠実に再現する学びの方法は当時ほかの流派でもみられる一般的な学習方法でした。 狩野派の始祖である狩野正信が描く作品は、中国の水墨画とやまと絵のやわらかい表現を併せ持つ日本人の感性に響く画風です。この画風を幕府が気に入り御用絵師としての歴史がスタートしたといえるでしょう。 2代目である狩野元信が描く作品は、狩野正信同様に中国と日本の水墨画を融合させたものです。狩野元信は、狩野派として多くの作品を手掛けていくために、工房制作の体制づくりを本格的に進めます。武家や公家、有力寺院などからも依頼を受けるようになり、狩野派としての地位を確立させました。 江戸の狩野派を代表する狩野探幽は、これまでの画風を覆し、瀟洒で枯淡な作品を多く描いていきました。江戸の平和な世界を制作に反映させていたといわれています。 狩野派の基本に忠実な画風とは一線を画す制作をしていたのが狩野山雪。京都に残った狩野派は京狩野とよばれ、その一人である狩野山雪は狩野派としては異端的表現で制作を行い、奇想画家の一人にも数えられています。 また、明治時代に活躍した狩野芳崖もこれまでの伝統を打ち破り、新しい日本画の制作に打ち込みました。伝統的な狩野派の画風に西洋画の技法を応用し、近代日本画の確立に貢献したとされています。古くから日本画に用いられてきた技法である輪郭線を描かず、対象物と背景を自然に融合させる画風を確立しました。 狩野派の作品は掛軸としても残されている 幕府の御用絵師として、障壁画や屛風絵を多く描いてきた狩野派絵師たちですが、掛軸作品も多く残されています。 工房制作スタイルで大量生産を行ってきたため作品数は多い傾向ですが、その分、贋作も多く出回っています。このため、掛軸が本物であるかどうかを自身で見極めるのは難しいでしょう。 倉庫や蔵から発見した狩野派と思われる掛軸の真贋を見極めるには、プロの査定士への査定依頼がお勧めです。 狩野派の掛軸作品は高値で買取が可能なものも多くあります。汚れや傷みがひどい場合でもそのままお持ちください。修復を行ってしまうと、かえって掛軸を傷つけてしまったり、修理費用の方が高くついてしまう可能性があります。もし、狩野派掛軸と思われる作品をお持ちであれば、まずは査定を依頼してみましょう。
2024.09.14
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- 掛軸の種類
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土佐派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
日本独特の様式美を持つやまと絵を継承し、伝統的な日本画を描いた土佐派。 宮廷絵師として活躍し、狩野派と同じく大きな流派として今でも知られています。 このため、土佐派の作品には掛軸も多く残されています。土佐派についてより理解を深め、土佐派作品の魅力をより感じましょう。 美しい大和絵を描いた、土佐派とは 土佐派は狩野派とともに絵師の流派における日本の二大流派として挙げられます。 土佐光信(とさみつのぶ)や土佐光茂(とさみつもち)などを代表とする室町時代に活躍した土佐派は、やまと絵を継承した画風で宮廷の絵画制作を管理する責任者である宮廷絵所預までのぼりつめています。しかし一方で、伝統形式の維持に重きをおき転落の一途を辿った、鎌倉時代以前のやまと絵には及ばないなどと、低い評価を受けることもありました。 これは一説に、狩野永納(かのうえいのう)が書いた『本朝画史』が関係していると考えられています。 『本朝画史』にて、土佐派は古代から続く伝統を継承し集大成としているだけの前時代の流派として語られています。こちらの記述の印象を受け、低い評価がなされていることも考えられるでしょう。しかし、作品の中で狩野派は土佐の倭と雪舟(せっしゅう)の漢を兼ねた画風と表している点から、土佐の伝統的な倭の画風は狩野派にとっても、魅力的なものであったとも捉えられます。 さまざまな評価が飛び交う中、土佐派はどのようにその地位を築き上げ活躍していったのでしょうか。土佐派の歴史を読み解いていくとともに、代表的な絵師や作品、土佐派の画風を知り、土佐派の魅力に迫りましょう。 土佐派の歴史 土佐派とは、室町時代の初期から伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承していた流派です。 その始まりは15世紀初めに土佐行広(とさゆきひろ)が土佐の家名を称したこととされています。行広の本来の姓は藤原でしたが、絵所預に任命された際に土佐の姓を名乗り始めました。しかし、一説には14世紀半ばの藤原行光までさかのぼるともいわれています。 土佐行広の手により始まった土佐派はその後、多くの画人を輩出した土佐派は、1469年に土佐光信が宮廷絵所預と呼ばれる宮廷の屏風や障子などの絵画制作を任された公的機関である絵所を取りまとめる最高責任者に任命されました。そして、画壇での主導的立場を確立しています。 家系としては土佐光茂、土佐光元(とさみつもと)と続いていきますが狩野派の活躍や、1569年の土佐光元の戦死により土佐派は劣勢となり、宮廷絵所預の地位は失われてしまいました。その後は、弟子の土佐光吉(とさみつよし)が大阪府南西部の和泉国堺で絵師としての家系の維持に努めました。 江戸時代に入ると、土佐光則(とさみつのり)がお家再興のために子の土佐光起(とさみつおき)とともに京都に戻っています。土佐光則が亡くなった後、土佐光起は絵所預の地位を再び授かり、土佐派の再興を実現しました。土佐光起は、狩野派をはじめとする漢画系流派の水墨表現や中国絵画の写実表現をも取り込み、やまと絵を一気に発展させたのです。その後、土佐派は幕末まで活躍しました。 土佐派の有名絵師や作品 土佐行広 作家名:土佐行広(とさゆきひろ) 代表作:『仏涅槃図』『融通念仏縁起絵巻』 生没年:不詳 土佐行広は、土佐派の祖と呼ばれる人物です。一説には、藤原行光のやまと絵を継承し、土佐の姓を名乗って土佐派の基盤を作ったとされています。朝廷と足利将軍家どちらの絵画制作も任され活躍しました。やわらかな筆使いと穏やかで落ち着きのある色彩が特徴の作品が残されています。 土佐光信 作家名:土佐光信(とさみつのぶ) 代表作:『北野天神縁起絵巻』『清水寺縁起絵巻』 生没年:1434年-1525年頃 土佐光信の生没年は定かではありません。一説によると1525年に92歳で亡くなったとされています。肖像画の名手とうたわれた土佐光信は、室町時代後期の宮廷絵所預と足利幕府の御用絵師として、土佐派の権威を確立しました。主に絵巻や扇面画、肖像画、仏画などの作品を幅広く描いています。土佐派において、古くからの伝統的なやまと絵に漢画に用いられる線描法を取り入れた人物ともされています。晩年の土佐光信は枯淡な画風が特徴的です。 土佐光則 作家名:土佐光則 (とさみつのり) 代表作:『源氏物語画帖』『鷹図屏風』 生没年:1583年-1638年 土佐光則は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。父である土佐光吉とともに堺に移り住み制作を続ける一方で、正月に仙洞御所へときどき扇絵を献上していましたが、官位を得るまでにはいたりませんでした。1629年から1634年にかけては、狩野山楽、山雪、探幽、安信などの狩野派を代表する絵師とともに『当麻寺縁起絵巻』の制作に参加しています。 また、土佐光則は、平安時代の細画と呼ばれるミニアチュアール絵画技法を継承し、繊細な絵画制作を行っていました。一ミリの幅に三本の線を描き、その線の間に彩色の顔料をのせてもはみ出して左右の線に重なることはなかったといわれるほど高度な技法を身に付けていたとされています。細かく繊細すぎて人間の目では識別できないといわれる土佐光則の表現を、美術史学者・小林忠は「ミクロンの絵画世界」と評しました。 土佐派の描くミニアチュール画法は、土佐光則によってピークを迎えたといえるでしょう。 土佐光起 作家名:土佐光起(とさみつおき) 代表作:『源氏物語絵巻』『春秋花鳥図屏風』 生没年:1617年-1691年 土佐光起は、江戸時代初期に活躍した絵師です。父は土佐光則、子は土佐光成。衰退していた土佐派を復興させ、宮廷の絵所預に再度任命されるなどの活躍を見せました。繊細で筆使いと巧緻な彩色で伝統的なやまと絵として花鳥を描いていましたが、江戸時代初期の流行りに方向性を変え、狩野派が描く宋元画や技法を取り入れています。やまと絵の伝統的な画風と克明ではっきりとした写生描法を融合させ、江戸時代の土佐派の画風を確立しました。 土佐光起が描いた『源氏物語絵巻』は紫式部が書いた長編物語である源氏物語を絵画として表現しています。作品の中では雪が降っていて、建物の外に出て遊ぶ女性と邸内には光源氏と紫の上が描かれています。 土佐光貞 作家名:土佐光貞(とさみつさだ) 代表作:『雪月花図』『井出玉川図』 生没年:1738年-1806年 土佐光貞は、江戸時代中期から後期にかけて土佐派の別家として活躍した絵師です。土佐派別家の創設者とされています。別家を創設した土佐光貞は、従六位上から従四位上に昇叙を果たし、内匠大属、左近衛将監、土佐守などを歴任しました。土佐派の中でも絵師としての才能が優れており、別家の評価の高さから土佐派の歴史における後半は、本家より別家の方が繁栄することになります。 土佐派の画風、特徴 土佐派の画風は、古くからの伝統的なやまと絵を継承したものです。 やまと絵とは、四季折々の自然やそこに生きる人や生き物を繊細かつ優美に描いた日本の伝統的な絵画様式を指します。大和絵とも書き、さらに古くは倭絵と記されていました。中国の伝統的な「唐絵」に対をなすものとして、「やまと絵」という言葉が用いられています。唐絵は、漢詩文の教養に基づいて描かれていたのに対し、やまと絵は和歌や日本古来の物語と密接に関わりを持っています。 やまと絵は、平安時代の貴族文化の中で障子や屏風に描かれたり、物語の挿絵や絵巻の形で描かれたりして発展していきました。 公家社会を中心に制作をしていた土佐派が題材としていたものは、絵巻物や風俗画、似絵などです。繊細で丁寧な筆使いを特徴とする土佐派は、武家社会で好まれていた大型で迫力のある動物はあまり描かず、小さな鳥といった小動物を取り入れ、風景と調和させたような構図を描く特徴があります。 そのような古くからの伝統があるやまと絵を継承する土佐派の描いた作品から、その画風や特徴を見ていきましょう。 『清水寺縁起絵巻』 『清水寺縁起絵巻』は1517年に土佐光信によって描かれました。清水寺の建立について描かれており、詞書は三条実香他が書いた作品です。土佐光信の晩年の作品で、円熟した画風が特徴で、古くからの伝統的絵画やまと絵の絵巻の最後を飾る作品といえるでしょう。 『春秋花鳥図屏風』 『春秋花鳥図屏風』は17世紀後半、土佐光起によって描かれた作品です。向かって右側には満開の桜に柳が芽吹く春の景色を描き、左側に松と紅葉した楓の大樹を重ねて秋の景色を描いています。金色の屏風に鮮やかな色彩で描かれたこの作品は、狩野派にも共通する大画面形式を構成に取り入れながらも、やまと絵らしい繊細で美しい造形感覚を反映させた土佐光起の代表作です。 『斎宮女御像』 もう1点、土佐光起によって描かれた『斎宮女御像』を紹介します。平安時代中期の皇族であり、三十六歌仙の一人である斎宮女御を描いた作品です。几帳と呼ばれる屏障具とともに気品と憂愁を感じさせる姿を描いています。やまと絵の本領を発揮した歌仙像とされています。 土佐派の作品は掛軸としても残されている 土佐派は狩野派とともに、宮廷絵所預や幕府の御用絵師として多くの作品を輩出してきた日本の二大流派のひとつです。 宮廷絵所預として活躍していたと思ったら任を解かれ、その後もう一度宮廷絵所預に任命されるなど大きく制作環境が変化している土佐派。宮廷の絵師として長い間制作に取り組み、数多くの作品を残しています。土佐派の作品が多い分、贋作はどうしても出回ってしまうでしょう。 自宅で見つけた土佐派の掛軸が偽物か本物か確認しておきたい場合は、掛軸の知識や査定経験の多い査定士に依頼することをお勧めします。 真作かどうかの見極めは自分で簡単に行えるものではありません。自己判断せずプロの目を頼りましょう。絵師や作品によっては高い価値が付くものもあります。汚れやしわなどは無理に修復せず、まずはそのまま査定してもらいましょう。
2024.09.14
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琳派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
琳派は桃山時代から続く有名な日本画の流派です。 江戸時代中期に活躍した尾形光琳(おががたこうりん)の名をとって琳派と呼ばれていますが、当時からこの流派の名前で呼ばれていたわけではありません。尾形光琳が生きた時代では彼らに対して特別な名称はなく、それぞれが尊重しあい私淑し、絵を描いていました。 近代に入ってから、尾形光琳に通じる画風や特徴を持つ絵画を描いていた絵師たちをまとめて琳派と呼ぶようになったようです。 装飾性やデザイン性の高さが特徴の琳派の作品。ヨーロッパの印象派や現代の日本画にも大きな影響を与えたとされています。そんな琳派の歴史や作品を通してより日本画や掛軸などへの興味を深めていきましょう。 高いデザイン性で人気を博した、琳派とは 桃山時代後期から近代まで約400年間継承されてきた琳派。 私淑と呼ばれる独自の継承スタイルにより長い間受け継がれてきました。私淑は、同じ流派の家のもとに生まれたり、その流派で絵を制作している人物に弟子入りしたりして、流派の画風や技法を学ぶことを求められません。誰かの師事を必要とせず、個人的に尊敬する人を模範として学ぶことで、琳派を名乗ることが可能でした。 とはいえ、琳派という呼び名は近代になってから過去を振り返り名づけられたものです。 そのため、当時はただ尾形光琳らの画風に憧れ、参考にして作品の制作にあたっていた画家が多くいたというだけのことでしょう。私淑により琳派では流派の特徴を継承しつつも絵師ひとり一人の個性が大きく反映された作品が数多く生み出されています。そして、近代までに多くの偉大な作家を輩出しています。 琳派の歴史 琳派は桃山時代に始まったとされる流派で、豊臣秀吉が天下を取り徳川家康に敗れるまでの戦乱の世にて始まったといわれています。 当時、戦乱の世ではあったもののヨーロッパや琉球、朝鮮、明などの文化との接触が多くあり、戦国の簡素な機能美が好まれる一方で、芸術や工芸には豪華絢爛で鮮やかなテイストも求められました。混沌とした時代の中で、当時画家としての芸術的センスの高さで有名だった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に才能を認められた俵屋宗達(たわらやそうたつ)は、二人で共同制作を行い、数多くの大作を手掛けていました。 その後、二人の作品に感銘を受けて俵屋宗達を師と呼び模写したのが尾形光琳です。 尾形光琳が生きた時代は俵屋宗達らのおよそ100年後の世界。つまり、同じ時代に生き師事を受けたわけではありません。ここに尊敬する絵師の作品を模範として学ぶ、私淑の流れが生まれたと考えられるでしょう。尾形光琳が生きた時代からさらにときがたち、酒井抱一(さかいほういつ)が尾形光琳らの作品を支持し、琳派としての画風が受け継がれていきました。 琳派の名前の由来にもなっている尾形光琳は、京都の裕福な呉服屋で生まれています。 のちに実家の経営が傾き、経済的に困難な状態を迎えてしまいます。苦境を脱するために芸術活動を始め、俵屋宗達に私淑しました。俵屋宗達の作品や画風を基礎としながらも尾形光琳としてのアレンジも加えていき、独自の画風を確立していきました。その後、尾形光琳とその作品が公家や大名などの目に留まり、第一線で活躍する絵師にまでのぼりつめたのです。尾形光琳が亡くなったあとも、その画風や作品は多くの人の興味を引き、私淑する絵師も多くいました。その一人が酒井抱一です。 酒井抱一は江戸時代後期に江戸にて活躍した絵師で、尾形光琳の作品に尊敬を抱き私淑し、京都で始まった琳派を江戸でも広めた人物です。酒井抱一には鈴木其一(すずききいつ)という弟子がいました。琳派としては珍しく直接手ほどきを行っていました。このように琳派は私淑により自由な広がりを見せ、長くそして大きく日本画へ影響を与えています。 琳派の有名絵師や作品 俵屋宗達 作家名:俵屋宗達(たわらやそうたつ) 代表作:『風神雷神図屏風』『狗子図』 生没年:不詳 俵屋宗達は本阿弥光悦とともに琳派のきっかけになった人物とされています。 江戸時代初期に京都で活躍した絵師ですが、経歴や生没年などの伝記資料がまったく残っていません。 当時、俵屋宗達は絵屋を営んでおり扇絵や屏風絵、色紙、水墨画などの制作を行い人気を集めていました。俵屋宗達の名が広く知れ渡ったのは本阿弥光悦との出会いがきっかけとされています。俵屋宗達は当時多彩な才能を持つ芸術家であった本阿弥光悦に腕を見込まれ、広島の厳島神社の平家納経の修繕作業を手伝いました。 その後、本阿弥光悦に才能を認められ、ともに数多くの共同作品を制作するようになっていきます。 共同作品はダイナミックかつ巧みな筆使いでありながらも余白を活かす斬新な構図で制作され、日本画の新たな境地を開拓していきました。多くの共同作品は話題を集め、ついには皇室や江戸幕府の将軍家からも声がかかるほどでした。1630年に俵屋宗達は僧侶に与えられる法橋と呼ばれる高い位を授かります。町人として異例の大出世を成し遂げた俵屋宗達はその後も町絵師として制作を続け生涯を終えたといわれています。 本阿弥光悦 作家名:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ) 代表作:『扇面月兎画賛』『舟橋蒔絵硯箱』 生没年:1558年-1637年 本阿弥光悦は1558年に京都で生まれ、家は日本刀の査定や研磨を家業とする裕福な町衆でした。刀剣の製造では木工や金工、漆工、革細工、染色、貝細工など、さまざまな工芸技術が必要となるため、本阿弥光悦は幼いころから芸術に対する審美眼や技術を培っていったと考えられます。 また、工芸だけではなく書や和歌などにも興味を抱き、多くの教養を身に付けていきました。父親が分家するのをきっかけに刀剣家業から離れ、芸術作品の制作に取り組むようになりました。本阿弥光悦が総合芸術家としての才能を開花させたのは40代に入ってからとされています。当時、画家として名が広がらないことに悩んでいた俵屋宗達に平家納経の修繕を手伝わせ、見事才能を開花させました。 本阿弥光悦は57歳のとき、徳川家康より京都の最北部に位置する鷹ヶ峯に約9万坪の広大な土地をもらいました。この地に多彩な芸術家たちが制作に専念できるよう光悦村と呼ばれる芸術村を築きます。村内には56もの家屋敷が軒を連ね、画家だけにとどまらず蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋、金工、陶工など多くの芸術家たちが昼夜創作活動に明け暮れました。 尾形光琳 作家名:尾形光琳(おがたこうりん) 代表作:『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』 生没年:1663年−1743年 尾形光琳は江戸時代中期に活躍した絵師です。 1658年、京都有数の呉服商である雁金屋の次男として誕生し、書や絵画、茶道、能楽などをたしなむ趣味人であった父の影響を受け、小さいころから幅広い文化芸能に触れていきます。 その後、雁金屋の経営が傾き、30歳のころに父が亡くなります。莫大な遺産はあったものの尾形光琳はまともに働きもせず遊びまわっていたため、あっという間に底が尽きてしまいました。そのため、40歳を目前にして画家として生計を立てていく覚悟を決めました。尾形光琳は絵画制作において、小さいころから文化芸能に触れてきたこともあり、優れた構図感覚や色彩感覚を発揮します。 尾形光琳は装飾的な作品を得意としており、特に富裕層に好まれました。 44歳のときに法橋の称号を得てからも精力的に絵画制作に取り組み、47歳のころ江戸に拠点を移しています。大名や豪商に向けた屏風絵制作を行っていたこの時期には、水墨画の巨匠とされる雪舟や雪村の模写も取り入れ画風研究を進めました。5年後には京都へ戻り晩年期を過ごしたとされています。 また、尾形光琳以降も彼らを私淑する画家は多く、酒井抱一や鈴木其一などの絵師も生み出しました。鈴木其一は琳派には珍しく酒井抱一に直接師事を受け技法を学んでいます。 琳派の画風、特徴 琳派の作品は、たらしこみや金箔・銀箔を使ったきらびやかな背景、大胆な構図設定が特徴的です。 琳派の作品として有名なのが俵屋宗達の『風神雷神図屏風』。 雨風を起こす風神と稲妻を起こす雷神が対になって屏風に描かれた作品です。金箔できらびやかな背景に二曲一双の屏風の左端と右端にそれぞれ風神と雷神が描かれています。画題を両端に描く構図は俵屋宗達が工房仕事で手掛けていた扇子のデザインから構想を得たものともいわれています。 国宝である『燕子花図屏風』は尾形光琳が描いた作品で、金色の背景に気高く咲き誇るカキツバタの群生を描いた鮮やかなこの作品は、六曲一双の対の屏風として日本の美術界を代表する存在です。凛と咲いているカキツバタの美しさはもちろん、計算された余白のバランスがより一層作品の魅力を引き立て見る者を魅了しています。 琳派の作品は掛軸としても残されている 琳派は私淑により広がっていった日本画の流派です。 作品から自身で学ぶことはあっても基本的には直接師事を受ける必要がないことから、琳派の伝統を継承しつつも絵師それぞれ個性を生かした作品が多く制作されている特徴があります。そのため、琳派の作品は現代でも多く残されています。 人気の絵師や作品も多いことから贋作が出回っていることに注意が必要です。 祖父母が大切に飾っていた掛軸を譲り受け、調べてみたところ琳派だった、倉庫から琳派の掛軸が見つかったなどさまざまな理由で、手元に琳派と思われる掛軸をお持ちの方もいるでしょう。自身で真贋を見極めるのは難しいため、本物の作品であるか知りたい方や掛軸の価値を知りたい方は、掛軸の査定経験のある査定士への依頼をお勧めします。 査定してもらうまでは掛軸の本当の価値がわかりません。修理や修繕を行わずまずは気軽に相談してみましょう。
2024.09.14
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住吉派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
土佐派から派生した住吉派。 土佐派同様に伝統的なやまと絵を継承した作品が多く残されています。住吉派は代々幕府に仕え、多くの作品を制作しました。屏風絵や障子絵などを担うかたわら、絵巻や掛軸作品も描いています。日本の伝統様式であるやまと絵をベースとしていますが、土佐派や漢画に影響を受けている作品もあります。 掛軸作品はその芸術の裏にある背景や歴史を知ることで、当時の出来事や心情に思いを馳せることができ、より作品を楽しめるでしょう。住吉派の作品を楽しんだり価値を知ったりするにあたって、その歴史や特徴、活躍した絵師たちへの理解を深めていきましょう。 繊細な作風で一世を風靡した、住吉派とは 住吉派とは、江戸時代に土佐派から枝分かれした流派を指します。 きっかけとなった住吉如慶(すみよしじょけい)は、土佐派の正系土佐光吉(とさみつよし)の子どもとも弟子とも言われています。如慶が後西天皇の勅によって住吉家を名乗ったのが住吉派の始まりです。如慶の長男である住吉具慶(すみよしぐけい)の時代に江戸に招かれ、幕末まで幕府に仕えることになりました。 住吉派は京都で活躍する土佐派のやまと絵を江戸に広める役割を果たしています。18世紀後半には門人が派生させた板谷派や粟田口派が作られています。住吉派は、土佐派の画風と狩野派や琳派の技法の両方を取り入れた表現方法が特徴です。 住吉派の歴史 住吉派の歴史をたどると土佐派が枝分かれしたのが始まりといわれています。 土佐派とは、室町時代の初期から始まった流派で、伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承しています。土佐派は、宮廷絵所預として宮廷の屏風や障子の絵画制作を任されていましたが、その後土佐光元の戦死をきっかけに宮廷絵所預の地位を失ってしまいます。 家系維持に努めた弟子の土佐光吉の子もしくは弟子が、住吉派を作ったとされる住吉如慶です。土佐光吉の下で絵を学んでいるときは、土佐光陳と名乗っていました。日光・和歌山・岡山・川越喜多院の各東照宮に奉納された4点の『東照宮縁起絵巻』を描き、この活動ぶりが幕府との関係を深め、住吉如慶は後西天皇の勅によって住吉派の再興を担い、住吉派を名乗り始めました。その後、代々幕府の御用絵師を務め、住吉派は明治時代まで続いていきました。 住吉派の有名絵師や作品 住吉如慶 作家名:住吉如慶(すみよしじょけい) 代表作:『東照社縁起』『堀河夜討絵巻』 生没年:1599年-1670年 住吉如慶は江戸時代前期に活躍した絵師で、住吉派を作った人物です。 旧姓は土佐で、画風は土佐派の様式。堺で土佐光吉や土佐光則のもとで学び、その後京都に移っています。後西天皇の勅によって住吉絵所の再興を行い、1662年に住吉派の祖となった。天海僧正に仲を取り持ってもらい徳川家康に拝謁。江戸にやまと絵を広める役割を務めました。 住吉具慶 作家名:住吉具慶(すみよしぐけい) 代表作:『筥崎八幡宮縁起』『洛中洛外図』 生没年:1631年-1705年 住吉具慶は江戸時代前期に活躍した絵師で、如慶の長男です。京都から江戸に移り住み、幕府の奥絵師となります。やまと絵を江戸に広める役割を果たしました。また、やまと絵系統の画家で幕府に仕えた最初の1人といわれています。これ以降住吉派は幕末まで代々幕府の御用絵師を務めました。 住吉廣行 作家名:住吉廣行(すみよしひろゆき) 代表作:『御屏風之記』『源氏物語須磨絵巻』 生没年:1755年-1811年 住吉廣行は江戸時代後期に活躍した絵師で、住吉派の板谷桂舟の長男にあたります。住吉廣守の養子となり、1781年に幕府の御用絵師となりました。寛政の内裏新造のため、急逝した狩野典信に代わり最も格式の高い紫宸殿の賢聖障子を描いた。この功績により住吉派の名がより高まっています。 住吉弘貫 作家名:住吉弘貫(すみよしひろつら) 代表作:『太平記図屏風』『秋草鶉図』 生没年:1793年-1863年 住吉弘貫は江戸時代後期に活躍した絵師で、廣行の次男といわれています。兄の広尚が亡くなった後に跡を継ぎ、住吉家の7代目当主となります。幕府の御用絵師として活躍する中、1842年に奥絵師下命を願い出て承認されました。禁裏御所造営で紫宸殿の賢聖障子を修繕し、小十人格となります。優れた技術や才能により、幕府の御用絵師が旗本と同格になりました。住吉弘貫は江戸時代後期の住吉派の名手と呼ばれ、オランダをはじめとする外国の国王への贈答屏風の制作も担いました。 住吉派の画風、特徴 住吉派の画風は土佐派から受け継がれており、線密画法が特徴的です。さらに鎌倉時代の絵師である高階隆兼から構想を得た構築的な画面構成や濃密な色彩も目を引きます。これらを掛け合わせて住吉派独自の画風が作り上げられていきました。 一方、漢画を学び描かれたであろう作品も存在します。 住吉広通が描いた『東照宮縁起絵巻 』は、東照大権現としてまつられた徳川家康の伝記を絵画にした作品です。紀伊藩初代藩主徳川頼宣が命じて描かせた作品で、全部で5巻制作されています。 『洛中洛外図巻 』は住吉具慶が描いた作品です。前半に春夏の市中を描き、後半に秋冬の郊外を描き、その風景を細密な筆致で描いたとして有名です。 住吉派の作品は掛軸としても残されている 住吉如慶から始まった住吉派。後西天皇の勅によって再興を任せられ、江戸にやまと絵を広める役割を果たしています。 代々幕府の御用絵師として多くの作品を制作し、その中には掛軸作品も存在します。住吉派は江戸時代から明治時代まで長く続いた流派のため、掛軸作品が多く残されていますが、有名な作品が多い分、贋作も存在します。 自宅の倉庫や蔵を整理していて掛軸作品が見つかることがあるでしょう。また、祖父母が大切にしていた掛軸を譲り受けることもあります。そのようなときに、掛軸にどのくらいの価値があるのか知っておくことが大切です。価値を知ることで、さらに自分の子どもや孫に受け継いでもらうために大切に保管する意識がもてたり、買取をしてもらう際に適切な金額での売却ができたりします。 もし、住吉派の作品と思われる掛軸が手元にある場合、まずは掛軸に関する知識や経験が豊富な査定士に査定を依頼してみましょう。贋作の多い住吉派の掛軸の真贋を自分で見極めることは難しいといえます。偽物に高い費用の修繕を行ってしまったり、本物に対して適切な方法での保管を怠ったりと不都合が生じてしまう可能性があります。そのため、プロの査定士にお願いして本来の価値を知ることが大切です。 あるいは、掛軸作品の価値をより高めようと、査定前に修繕に出してしまうケースをよく耳にします。しかし、修繕によって現状より掛軸が傷んでしまう場合や、贋作で作品の価値より修繕費が高くついてしまう場合などのリスクが発生してしまうでしょう。そのため、発見したりもらい受けたりした状態のまま査定に出すことをお勧めします。
2024.09.14
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大和絵の掛軸買取 | 人気の絵師なら高額査定も
日本の伝統的な絵画様式である大和絵。 平安時代から日本独自の発展を遂げ古くから現代にかけてまで多くの人に愛されてきている芸術品です。大和絵は日本だけではなく海外からも人気の高い作品で、絵師や作品によっては効果買取が期待できます。大和絵の歴史や特徴を知り、大和絵の価値や魅力を探っていきましょう。 大和絵とは 大和絵とは、中国風の絵画である唐絵に対する呼び名であり、9世紀後半から10世紀初めごろの平安時代において誕生した伝統的な日本画の様式です。当初は貴族が暮らす屋敷の屏風や障子などに描かれていました。 一方の唐絵とは、中国(唐)風の絵画を指します。大和絵の対義語として存在し、中国人によって制作された作品だけではなく、日本人が描いた中国風の絵画も該当する点がポイントです。 中国から伝わった唐絵に代わり、大和絵は日本独自の発展を遂げ、自然や風俗を画題とした作品として確立しました。大和絵は日本的な線描彩色画全般を指しており、その定義は時代ごとに変化していき、特徴や内容にも多様性があります。 初めは貴族社会から生まれた大和絵。 鎌倉時代に入ると武家社会になったことで、武士の暮らしぶりや源平合戦をテーマにした作品や、仏教や寺社、僧侶などにまつわる作品も多く描かれていきました。 鎌倉時代終わりの大和絵に対するイメージは、平安時代に確立された絵画様式で描かれた作品と認識されていたようです。江戸時代以降には武士階級まで広がり、さらに商人や町人など庶民からも支持され国民的な様式となりました。 大和絵の歴史と有名作家・作品 平安時代の貴族社会から生まれ今日まで親しまれてきた大和絵。 日本古来の生活や文化、行事、歴史などを画題とした絵画全般を指しており、その画風や特徴は時代によって少しずつ変化を遂げています。 時代ごとの絵師や作品の特徴を知ることで、より大和絵に対する興味が湧くでしょう。また絵画鑑賞においての魅力も増すといえます。ただ芸術として楽しむだけではなく、時代背景を知って歴史的な価値や魅力にも迫りましょう。 平安時代 平安時代、これまで続いていた遣唐使が停止になり中国から入ってきていた文化の影響が薄まっていきました。日本の文化が重んじられるようになり和歌や物語文学が人気となり、この時代に和様書道が成立しています。大和絵もこの時代に始まったとされているようです。また、大和絵という言葉が初めて使われたのは藤原行成の日記『権記』であるといわれています。平安時代の大和絵は貴族の邸宅内にある障子や屏風などに描かれました。 平安時代に描かれた大和絵には、『源氏物語絵巻』、『伴大納言絵詞』、『信貴山縁起』などが有名でしょう。 鎌倉時代 鎌倉時代に入ってからも、平安時代より制作されていた絵巻が盛んに描かれていました。鎌倉時代はそれまでの貴族中心の社会から武士中心の社会に大きく転換を迎えた時代でもあります。そのため、合戦や武士の暮らしを画題とした作品が多く制作されました。また平安時代末期から鎌倉時代にかけて広まった仏教の影響を受け、高僧や寺社、仏教の説話などを画題とした作品も多く描かれています。 鎌倉時代に描かれた大和絵には、『平治物語絵巻』、『蒙古襲来絵詞』、『法然上人絵伝』など、教科書などで一度は見たことがあるような有名作品もあります。 室町時代 室町時代の大和絵は日本でも有数の絵師集団である土佐派によって広められていきました。土佐派とは室町時代の初期に形成された流派で、日本伝統の絵画様式である大和絵を伝承しています。大和絵の技法を継承した土佐行広は、宮廷絵所預として宮廷の屏風や障子などの絵画制作を行っていました。さらに土佐派は、土佐光信の時代に宮廷だけではなく足利将軍家ともつながりをもち、多くの大和絵を描いていきました。 室町時代に描かれた大和絵には、『浜松図屏風』、『松図屏風』(絵師:土佐光信)、『松図屏風』(絵師:土佐光信・土佐光茂)などがあります。 戦国時代・安土桃山時代 戦国時代・安土桃山時代では、大和絵を継承して宮廷や将軍家で仕事を請け負って多くの作品を制作していた土佐派が衰退していきます。土佐派に変わり活躍を見せていたのが狩野派です。天下人と深く結びつき支援を受けていた狩野派の宮廷進出を抑えることができず、土佐光茂は足利義昭邸の障壁画を描いた晩年に京都へ移り亡くなっています。子の土佐光元(とさみつもと)も戦死してしまい、土佐派は宮廷絵所預の地位を失ってしまいました。そして、漢画の技法と大和絵の倭を融合させた狩野派が活躍する時代となります。 江戸時代 江戸時代に入ると土佐光起(とさみつおき)が再び絵所預の地位に就き、土佐派の再興が実現しました。土佐光起は、伝統的な大和絵の様式だけではなく狩野派らの漢画系統の技法も学び、独自の大和絵を発展させていきます。その後、土佐派が描く大和絵は幕末まで制作が続けられました。また、江戸時代では土佐派以外の流派でも大和絵風の絵画を描いています。 色彩豊かな大和絵の掛軸作品は今でも人気 江戸時代に流行した浮世絵や明治以降に誕生した日本絵画にも大きな影響を与えた大和絵。大和絵は日本の美しい四季折々の風景やそこで生きる人や動物たちを題材として描かれています。日本の感性や美意識により描かれた優美な大和絵は、現代でも人気の高い美術品です。 さまざまな流派や絵師たちにより描かれてきた大和絵は歴史的価値のある作品です。遺品整理や倉庫の掃除などで出てきた大和絵の掛軸。せっかくなら価値を知りたいという方も多いのではないでしょうか。 買取を検討している場合も同様に、まずは一度、大和絵や掛軸など日本の美術品の知見がある査定士に査定を依頼してみましょう。破れやシミなどの傷みがあってもそのままで問題ありません。修繕などは行わず気軽に査定士に相談してみてください。
2024.09.14
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