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多彩な才能で活躍した「北大路魯山人」とは
生没年:1883年-1959年
北大路魯山人とは、多彩なジャンルの芸術に精通していた人物で、篆刻家や画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家などさまざまな顔を持っていました。
魯山人が手がけた陶芸作品は、20万~30万点にもおよぶといわれています。
この点数は、プロの陶芸家が生涯で手がける制作総数を優に上回っており、ほかの芸術作品も制作していた魯山人がどれほど優れていたかを物語っているでしょう。
魯山人は、書や篆刻、絵画などでも優れた作品を多く残しており、現在でも美術市場で高い人気を誇っています。
士族の家柄に生まれるが貧しい幼少期を過ごす
北大路魯山人は、上賀茂神社の社家である北大路清操と、同じく社家である西池家の出身の登女との間に次男として生まれました。
士族の家柄ではありましたが、生活は貧しかったといわれています。
魯山人が生まれた時代は、今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止になったタイミングで混乱期にありました。
父の清操は、職を探しに東京へ出向いたり、京都に戻ってきたりという生活を送っていました。
しかし、魯山人が生まれる4か月前に自殺してしまい、のちに母の登女も滋賀の坂本村にいる農家に魯山人を預け失踪してしまいます。
農家に残された魯山人は放置状態にあり、1週間後、母に農家を紹介した巡査の妻が連れて帰ることになりました。
このとき、魯山人はまだ出生から5か月後の赤ん坊でした。
巡査の服部家の戸籍に入った魯山人でしたが、巡査の失踪と妻の病死をきっかけに、養家を転々とすることに。
ときには、激しい虐待を受けることもあり、少しでも環境をよくするために、小学校に上がってからは食事係を買って出ました。
食事係として、小さいころからさまざまな食材に触れた魯山人は、食材がもつ多彩な持ち味や旬の食材がもつ魅力などを実感し、料理の基本を学ぶとともに、食にこだわれば心が豊かになると学びます。
10代にして書の才能が開花
北大路魯山人が書と出会ったのは10代のころでした。
ある日、御池油小路西入ル森ノ木町にあった仕出し料理屋の「亀政」の行灯看板を見かけ、そこに描かれていた一筆書きで描かれた亀の絵と、あわせて書かれていた字に心を奪われます。
その絵を描いたのは、亀政の店主の長男であり、のちに京都画壇の総帥として帝展文展で活躍する竹内栖鳳でした。
その後、魯山人は、こづかい稼ぎもかねて一筆書きの書の懸賞に応募を繰り返していきました。
懸賞には、毎回何千何万もの応募が集まっていましたが、魯山人の作品は決まって優秀作に選ばれており、10代ですでに書の才能を開花させていたのです。
また、魯山人は西洋看板の仕事も手がけるようになり、近所では先生と呼ばれていたそうです。
20歳になると、実母がいる東京へ移り住み、母が四条男爵家で女中頭をしていたこともあり、男爵から有名な書家を紹介してもらうといった縁にも恵まれました。
東京で書家を目指す決意をした魯山人は、翌年上野で開催された日本美術協会展の書の部に作品を出品。
隷書の千文字を書いた作品は、見事、褒状一等二席を受賞しました。
弱冠21歳での受賞であり、前代未聞の快挙として注目を集めたのでした。
その後は、朝鮮で1年ほどを過ごし、篆刻や芸術一般を学び、30代に入るころには文人や数寄者、陶芸家、資産家、趣味人などさまざまなジャンルの専門家と知り合うように。
須田菁華窯で陶器の絵付けに挑戦し始めたのも、古美術に精通する金沢の細野燕臺の世話になったこのころでした。
会員制の「美食倶楽部」を立ち上げる
北大路魯山人が37歳になったころ、友人である中村竹四郎と共同で、古美術骨董品店である大雅堂美術店を開きました。
ただ古美術を販売するのではなく、お店で扱っている古美術の器に高級食材を使用した手料理を盛り付けてふるまったところ、財政界で大変話題になったそうです。
これが会員制食堂「美食俱楽部」の始まりであったといわれており、会員数は200人ほどにもなりました。
その後、関東大震災の被害に遭い、大雅堂美術店を失ってしまいますが、2年後に会員制の高級料亭となる「星岡茶寮」を立ち上げます。
料亭は大盛況で、多くの人々が訪れたため、食器が足りなくなる事態に。
魯山人は、美味しい料理にはそれにふさわしい美しさをもつ食器が必要と考え、自ら新しい器の作成に取り組み始めました。
星岡茶寮の会員には、貴族院議長の徳川家達や電力王の松永安左エ門、男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立、作家の志賀直哉、画家の鏑木清方など各界を代表するメンバーの名が連なっていました。
1930年には料亭の会員が1000人を超えるほどの大人気店となりますが、1936年、魯山人の厳しいやり方や態度に不満を募らせた人々によって、魯山人は茶寮を追放されてしまいます。
陶芸家としても活躍を見せる
星岡茶寮を追放されてしまった北大路魯山人は、星岡窯にこもって陶芸家として活動するようになりました。
戦後は、経済的に苦しい日々もありましたが、それでもなお熱心に制作を続けています。
魯山人は、その生涯でおよそ20万~30万点の陶芸作品を制作しました。
陶芸家として活発に制作を進めるようになった魯山人は、銀座に作品を直接販売するための「火土火土美房」を開店させました。
日本人のみならず、在日欧米人からも高く評価され、アメリカ各地で展覧会や講演会が開かれるようになり、世界的に活躍する陶芸家となったのです。
1954年に、ロックフェラー財団の招聘でアメリカ各地を回った際は、パブロ・ピカソやマルク・シャガールを訪問しています。
グローバルに活動する魯山人を高く評価した文部省は、2度、重要無形文化財認定を要請していますが、魯山人は芸術は位階勲とは無縁であるべきという信念を貫き断り続けました。
北大路魯山人は毒舌だった
偉大な芸術家であった北大路魯山人は、歯に衣着せぬ物言いで自分の意見を口にする性格から、不満を持つ人も多かったようです。
美を厳しく追及する姿勢をもち、ときには人を人として扱わない一面もあったといわれています。
しかし、それは魯山人自身が常に高みを目指し続けていたがゆえの厳しさともいえるでしょう。
魯山人の毒舌っぷりは、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄など、有名な芸術家を容赦ないまでに批判するほどでした。
芸術を突き詰め他人に対しても厳しかった魯山人ですが、子どもに対しては優しくコミュニケーションをとっていたそうです。
ある少年が路地に咲いた雪柳を、竹竿で払い落として遊んでいたとき、魯山人が近づいてきて、花にも命があるからそのようなことをしたらかわいそうだと優しく諭したといいます。
魯山人は、自然や小さな生き物が好きで、いつもスケッチをしていました。
少年が、魯山人に対して「昨日も同じものを描いていましたよね?」と話しかけると、魯山人は「すすきも、すすきに寄ってくる虫も毎日違うのだよ」と教えてくれたそうです。
多彩なジャンルの芸術に精通していた魯山人は、毒舌ぶりから周囲に煙たがられてしまう面がありながらも、人間性を凌駕するほどの優れた作品を作り続けました。
魯山人は、1959年に横浜の病院にて76年の生涯に幕を閉じましたが、現在でもその作品や芸術家としての高い評価は揺るがないものとなっています。
北大路魯山人は海原雄山のモデルとなった人物
北大路魯山人とは、多彩な才能を持った芸術家で、稀代の美食家としても知られています。
さまざまな料理が登場するマンガ『美味しんぼ』に登場する美食家「海原雄山」のモデルは、実は北大路魯山人であるといわれています。
『美味しんぼ』は、原作が雁屋哲、作画が花咲アキラによって描かれた有名グルメ漫画です。
累計発行部数は1億3500万部を突破しており、アニメやドラマ・映画化もされ、グルメブームを巻き起こした漫画ともいわれています。
『美味しんぼ』の中でも重要人物の一人とされているのが、主人公・山岡士郎の父であり最大のライバルである美食家・海原雄山です。
海原雄山は、陶芸や書道、絵画、文筆の才能があり、食も芸術の一つと捉えている美食家伽羅として描かれています。
そのキャラクター背景は、まさに魯山人そのものといえるでしょう。
陶芸家としての北大路魯山人
陶芸家として数多くの優れた作品を制作した北大路魯山人。
魯山人が制作する陶芸作品は、自由闊達な絵付けが魅力の一つです。
左右対称に作られた鉢や、美しい正円の皿には、中国の明時代によく描かれていた図柄や日本画家の流派の一つである琳派の意匠が表現されています。
美しく形作られた器の絵付けから、絵の背景にある芸術の歴史を感じられます。
また、魯山人の作品は、豪快な造形美も魅力的です。
俎板皿や木葉皿などのようにろくろを使わずに作られた器のデザインからは、魯山人の激しさが伝わってくるようです。
表面に、加工された凹凸や粘土を切り取った跡があり、大胆な芸術性が見え隠れしています。
美しく形作られた陶磁器とはまた違った力強さが魅力です。
『織部釉長板鉢』
『織部釉長板鉢』は、長さが約50cmにもおよぶ大きな板状の器で、まるで本物の俎板のような見た目をしています。
魯山人にとっては、器全体がキャンパスのようなものであり、このような大作の板皿に本領を発揮しました。
大胆かつ典雅な絵付けや、櫛目の技法が特徴的で、縦横無尽に魯山人独特の世界を展開しています。
釉薬の新緑により奥深さが増しており、波模様の濃淡が複雑な味わいをもたらし、造形や釉薬の変化を楽しめる作品です。
戦後の1946年以降は、織部と同じような器が多く制作されるようになり、大変人気を集めていました。
それまでは、器の表面を滑らかに仕上げるのが一般的とされていましたが、あえて波形に削ったり細かい凹凸をつけたり、変化がもたらされています。
食器の裏側には、おしゃれな切り込みが施されており、食器の裏の底までもが芸術として楽しめます。
底部分にまで見どころを作ったのは、魯山人以外にはいないといわれており、魯山人が美を追求し続けていたことがわかるでしょう。
『雲錦鉢』
雲錦模様とは、春に咲く満開の桜と秋の鮮やかな紅葉を描いた色絵のことです。
日本画の流派である琳派の作品によく描かれていた柄で、京焼の尾形乾山や仁阿弥道八などが、多くの作品に取り入れてきた模様です。
北大路魯山人は、伝統的な雲錦模様を自身の中で再解釈し、作品で表現していました。
鉢の内側は桜の割合がやや多く、外側は小さな紅葉が鋭くそこに向かって描かれています。
その絶妙なバランスから、魯山人が大変近代的なバランス感覚を持っていたことがわかるでしょう。
制作にあたって、美しい正円の鉢や壺、皿などは、ろくろを得意とするほかの職人に制作を任せ、魯山人は絵付けに専念していたそうです。
魯山人は、絵付けを得意としており、描き方に迷いがないといわれています。
絵付けの器には、発色がきれいで入手しやすい信楽土をよく使用していました。
『染付楓葉平向五人』
『染付楓葉平向五人』は、楓の葉をかたどった5枚セットの皿作品です。
お皿全体は薄い青色をしており、表面には顔料の呉須で群青色の葉脈が生き生きと描かれています。
一直線に伸びた模様は迷いのない美しさがあり、軽やかさが魅力の一つです。
余計な柄は一切描かれておらず、料理を引き立たせる造りをしています。
器の裏側は三つ足になっており、中央には「呂」の署名が入っています。
北大路魯山人の評価
多彩な才能を持ち合わせていた北大路魯山人は、さまざまな芸術活動を行っており、中でも陶芸家としての才能が高く評価されていました。
現在でも、全国各地にファンや収集家がおり、魯山人が制作した作品だけを使って料理を提供する料理店があるほどです。