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信長の新たな一面や性格が垣間見れる「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」

戦国時代を駆け抜けた武将「織田信長」。
信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した日本の武将であり、天下統一を目指した人物です。
信長の性格は、一般的に冷酷とされることが多いですが、実際には複雑な側面を持っていました。
永青文庫で開催中の「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」では、そんな信長の意外な一面を感じ取れるかもしれません。

今回は、永青文庫で開催中の「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」展に行ってきたので、その魅力をお伝えします!
歴史好きの方だけではなく、ちょっと信長に興味がある人でも心をぐっと掴まれる内容でした。

永青文庫(建物)(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
永青文庫(建物)(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」展は永青文庫にて開催中

「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」は永青文庫にて開催されています。
今回は、江戸川橋駅から15分ほど歩いて、会場まで向かいました。

「信長の手紙」の看板(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
「信長の手紙」の看板(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

永青文庫につく手前、胸突坂と呼ばれる傾斜が急な坂があるため、体力に自信がない方はバスで向かうとよいかもしれません。
バスはJR山手線の目白駅や東京メトロ副都心線の雑司ヶ谷駅などから出ています。

永青文庫近くの胸突坂(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
永青文庫近くの胸突坂(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

胸突坂をのぼると永青文庫に到着します。
外観は白い壁とシンプルなデザインが印象的です。
周囲の閑静な住宅街に溶け込むように建てられており、一見すると美術館とは気づきにくい造りになっています。
また、館内全体は、展示されている貴重な美術品や歴史資料の保護を目的として撮影禁止となっています。
さっそく、歴史を読み解くヒントにもなるであろう信長の手紙を鑑賞していきましょう。

 

「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」の概要

戦国乱世を駆け抜けた織田信長、その名を聞いて思い浮かぶのは「革新者」「破天荒な戦国武将」など、さまざまなイメージでしょう。
そんな信長の知られざる一面に触れられる特別な企画展が永青文庫で開催中の「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」です。
永青文庫が所蔵する細川家伝来の信長の手紙は、重要文化財に指定されている貴重なコレクションで、その数なんと59通!

さらに2022年に新たに発見された1通を加え、合計60通が今回の企画展で公開されています。
一人の武将に関するこれだけの書状がまとまって残っている例は他になく、質・量ともに圧巻の内容です!
この企画展では、長の手紙を通じて、室町幕府滅亡や一向一揆との戦い、長篠合戦、荒木村重の謀反、そして本能寺の変に至るまでの激動の10年間を、配下の細川藤孝らとのやり取りを交えてじっくり紐解いていきます。

ポスター(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
ポスター(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

革新的で残虐、時に超人的とも評される信長像は果たして事実なのでしょうか。
本展は、信長自身の言葉から、その真実に迫る絶好の機会です。
これまで漠然と抱いていた信長のイメージが覆されるかもしれません。

 

当時の武将たちが書いた手紙…その姿を想像するだけですごい!

会場は4階から2階までと広く、まさに信長の人生の一部を辿る旅のような企画展でした。
4階では、新発見の手紙や、今回の展示の目玉となる文書が並び、まさに「信長ファン必見」の空間ともいえるのではないでしょうか。
3階には、戦国時代の重要な出来事が歴史順に展示されており、歴史の流れを感じながら鑑賞を楽しめます。

展示されている手紙たちには、詳細な解説と現代語訳が添えられていました。
戦国時代の言葉に疎い私でも意味が伝わり、手紙の重要性や歴史的背景が理解でき、より感動が深まりました!

永青文庫に信長からの手紙が集結している理由

企画展に訪れてみて気になったのが、どうして永青文庫にこんなにも多くの信長の手紙が伝わっているのかということです。
実は、そのカギを握っているのが細川家の当主たちなのです。

まず注目したいのが初代当主・細川藤孝。
信長からの手紙の多くは藤孝宛てで、内容もさまざまあります。
戦功を称える感状(戦功を報いる書状)や日常的な贈答の礼状、さらには戦況報告などがあり、信長と藤孝の信頼関係が感じられます。

その後、2代当主・細川忠興宛ての手紙もあり、現存する唯一の信長直筆の手紙も忠興へのもの。
藤孝と息子の忠興が信長から大変大きな信頼を受けていたことが、これほど多くの信長の手紙が細川家に伝わる一因だといえます。

また、信長からの手紙たちが現代まで細川家に伝わる背景には、3代当主・細川忠利の努力も大きく関わっています。
忠利は、祖父である藤孝の功績を証明するため、手紙の保護に尽力したそうです。
信長の書状は一時、細川孝之(藤孝と正妻・麝香の末子)の元に渡ってしまっていたのですが、忠利はなんとその書状を自分の手元に戻すため、父・忠興を通じて回収を試み、成功しています。
忠利の熱い思いがあったからこそ、信長の貴重な手紙が現在もこうして残り、私たちが触れることができるのです。

新発見となった信長の手紙から読み取れる歴史的背景

今回新たに発見されたのは、元亀3年(1572年)の信長から藤孝宛ての書状。
この年は室町幕府が滅亡する前年で、信長の政治的な動きが激しく変わっていく時期にあたります。
永青文庫が所蔵する手紙の中でも最も古い年代のものとなり、その貴重さもひとしおです。

信長が藤孝に宛てたこの手紙では、信長は、足利義昭を将軍として擁立していたものの、その関係が崩壊し始めていたことに言及しています。
「元亀3年の年頭から、将軍の側近たちは誰も手紙や贈り物を寄こさず、絶交状態になっているが、そんな中で藤孝、あなただけは毎年のように音信をくれる。本当に嬉しい」と手紙の中で感謝の気持ちを表現。
そして、「大事な時期になった今、あなたの働きかけにかかっている」と、藤孝に対して信長派への支持を拡大するよう頼んでいるのです。
これは信長がその時期、いかに藤孝を信頼していたかを示すエピソードであり、当時の政治的な緊張感をひしひしと感じさせます。

新発見の手紙をはじめ、手紙の内容からは、信長の周囲との細やかなコミュニケーションが垣間見えます。
信長のイメージはしばしば攻撃的で冷徹なものとして語られますが、これらの手紙からは、周囲の武将たちとの協力や信頼関係の構築に積極的に努めていた様子がうかがえます。
信長の人間性や政治的な手腕を深く掘り下げる貴重な資料が揃っており、展示を見ていると、これまでの信長のイメージが少しずつ変わっていくかもしれませんね。

織田信長自筆の手紙は60通中たった1通のみ

「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」展では、信長が藤孝らに宛てた数多くの手紙を見られますが、実際には信長がすべて自ら筆を執っていたわけではありません。
当時の武将たちの多くは、右筆(書記官)が内容を口頭で聞き取って文書を作成し、武将はそれを確認して最後に花押(署名)を押す形でした。
それでも、信長が用いた「天下布武」印や、豪快な花押は、彼の力強い個性を感じさせてくれますね。

そんな中、特に目を引いたのは、15歳ごろの忠興(細川忠興)に宛てた信長自筆の感状です。
松永久秀追討のための軍に参加し、軍功を挙げた際に信長が忠興に送った手紙で、その筆跡はまさに「天下を治める者」の風格を感じさせる堂々としたものでした!
45歳の信長の自筆の字は、力強く、筆圧が強く、右筆(書記官)が書いたものと比べると、その豪快さに圧倒されました。

意外な関係性が垣間見える石田三成が細川忠興に宛てた自筆書状

2021年に紙背文書として新たに発見された、石田三成が細川忠興に宛てた自筆の書状も、歴史を知っている人からすると貴重な手紙なのではないでしょうか。
この書状は、関ヶ原の戦い(1600年)で二人が敵対する関係となる前、1586年ごろのものです。
まだ20代の若き武将である三成と忠興が「茶会」を巡って気軽にやり取りをしている内容が綴られています。
書状の中で、27歳の石田三成が24歳の忠興に対し、「いいことがあったから金を貸し付ける。忠興もいくらか金子を出資しないか?」と提案しています。
三成らしい鋭い金銭感覚が垣間見えるもので、当時の彼の性格や考え方をうかがわせますね。

一般的に、石田三成と細川忠興は関ヶ原で敵対関係にあったとされ、その後の歴史で不仲だったことはよく知られています。
しかし、この文書からは、まだ両者が若かったころに、冗談を交えた気楽なやり取りをしていたことがわかります。
のちの展開を知っている人たちにとっては、少し切なさが感じられる一通です。
また、この書状は細川忠興が記した「風姿花伝」の裏紙に書かれていたことが発覚し、その発見エピソードもとても興味深いものでした。

藤孝・忠興父子に協力を仰いだ明智光秀の直筆書状

本展では、明智光秀の直筆書状も展示されていました。
この手紙は、本能寺の変からわずか7日後に書かれたもので、信長を討った理由が書かれた貴重な史料です。
光秀の心情が率直に綴られており、藤孝・忠興父子が信長の死を受けて剃髪し弔意を示したことに対して「当初は立腹したが思い直した」という言葉を残しています。

そして、この手紙では信長を殺した光秀が藤孝と忠興父子に対して、「自分に味方してほしい」と切実に訴えているのです。
実際、藤孝と光秀は非常に密接な関係にあり、光秀の娘・玉(後のガラシャ)を忠興が妻に迎えるなど、家族ぐるみでの繋がりがありました。
しかし、光秀がこの手紙を送ったときには、藤孝・忠興父子はすでに豊臣秀吉側についており、光秀の申し出には応じませんでした。
このことが光秀にとってどれほど大きな痛手となったかは言うまでもなく、その後、光秀は秀吉に敗れることとなります。

本展では、秀吉と細川家が通じていたことを示す資料も紹介されています。
「杉若藤七書状写」では、秀吉の家臣である杉若藤七が藤孝の家臣である松井康之に宛てた手紙の写しで、細川家が謀反に関与していないことを秀吉が理解していると記されています。
この手紙は光秀の書状が書かれる前日に送られたものです。
これらの書状を通して、本能寺の変という戦国時代最大の事件における人物たちの複雑な思惑や微妙な立場が浮かび上がります。
光秀、秀吉、そして細川家の三者がどのように絡み合っていたのかを知ることができ、歴史の渦中で繰り広げられたドラマを感じることができました。

 

歴史のリアルを感じる、「信長の手紙」展

「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」展を訪れた後、感じたのは、書状が持つ力強いリアルさでした。
信長が部下に宛てた戦功を称える言葉や、細川家と信長の両者がどれだけ互いの絆を大切にしていたか、光秀が本能寺の変の後に書いた心情など、どれも一瞬一瞬の感情が切り取られた貴重な資料です。

文字の背後には、織田信長や細川家、そして時代を生きた武将たちの生々しい感情が宿っているのだと感じられる企画展でした。
また、展示を通して、ただの歴史の一部を学んだのではなく、信長の時代を生きた人々の心の動きに触れたような気がしました。
「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」は、歴史的な出来事を俯瞰するだけでなく、その時代を生きた人々の思いに寄り添うことができる貴重な企画展です。

肥後細川庭園(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
肥後細川庭園(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

永青文庫で開催されている「信長の手紙」展をじっくり鑑賞した後は、ぜひ徒歩1分の場所にある「肥後細川庭園」へ足を運んでみてはいかがでしょうか。
熊本藩主・細川家の下屋敷跡として整備されたこの庭園は、池泉回遊式庭園の美しさが楽しめる癒しのスポットです。
歴史と自然が融合したこの空間で、展覧会で感じた時代の息吹を静かに振り返りながら、のんびりとしたひとときを楽しんでみてください。
織田信長や戦国時代に興味のある方には、企画展へぜひ一度足を運んで、この書状に込められた歴史の重みを直接感じてほしいと思います。

永青文庫の門(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)
永青文庫の門(「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」永青文庫)

開催情報

『信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―』
場所:永青文庫
住所:〒112-0015 東京都文京区目白台1-1-1
期間:2024年10月5日~2024年12月1日
公式ページ:https://www.eiseibunko.com/
チケット:一般1,000円、シニア(70歳以上)800円、大学・高校生500円、中学生以下は無料

※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください

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