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明治を代表する彫金師「加納夏雄」とは
生没年:1828年-1898年
加納夏雄は、幕末から明治にかけて活躍した京都出身の金工師です。
廃刀令により仕事が減る中、ビジネスセンスを活かして世界に名を知らしめた夏雄は、刀剣装飾以外にも、花瓶や置物、香合や根付などをメインに製作を続けていきました。
京都に生まれ7歳で養子に出される
夏雄は、京都御池通柳馬場で米穀商をしている伏見屋の子として生まれ、7歳で刀剣商・播磨屋の加納治助の養子となり、才能を開花させていきます。
幼いころから商売道具である刀剣の特に鍔をはじめとした金具の美しさに心惹かれた夏雄は、子どもながらに鑑識眼を養っていきました。
やがて、夏雄は自らも工具を使うようになり、製作に打ち込むようになっていきました。
夏雄の才能を見抜いた治助は、彫金師の奥村庄八のもとで本格的な技術を学ぶよう夏雄に勧め、12歳のころから奥村庄八に師事します。
庄八のもとで金工の基礎を学んだ夏雄は、その後、名金工・大月派の池田孝寿にも学び、夜は四条円山派の巨匠といわれている中島来章に絵を学び、朝には和歌や学術を儒学者である谷森善臣から習うなど、1日中学び続ける生活を送りました。
金工の技術だけではなく、絵や学問も学んだことが夏雄の今後の作風に大きな影響を与えたといえるでしょう。
19歳で独立し江戸に行く
19歳になると、夏雄は京都で開業して彫金の世界で独立を果たし、刀剣装飾をメインに事業を展開していきました。
自宅の2階にこもり、古くから作られてきた金工名作を模造したり、円山応挙や呉春の絵を学びなおしたり、古名作を自分流にアレンジして独自のデザインを探したりと、楽しみながら学びも忘れずに続けていたそうです。
夏雄が開業した1846年ごろは、幕末の動乱の真っ最中で、何人もの職人を抱えていた夏雄は、分業スタイルを導入して刀剣装飾の仕事をこなしていきました。
効率よく大量生産できるこの仕事の方法は、のちの事業にもプラスの影響を与えます。
25~27歳ごろ、夏雄は新たな地で事業をはじめようと、江戸に向かいます。
江戸は、金工の大家が多く、夏雄の生活はしばらくの間困窮しました。
1855年ごろから注文がようやく入りはじめたと思いきや、安政の大地震に見舞われてしまいます。
大地震により江戸の家を失ってしまった夏雄は、周囲の助けを借りながら2か月後には新居を建て直し、少しずつではありますが店も繁盛し、名声を高め確固たる地位を築いていきました。
明治の新貨幣づくりに携わる
徳川幕府が解体され新政府が樹立し、明治時代を迎えると夏雄の事業は大きく変化していきました。
廃刀令により、刀剣装飾の仕事は激減してしまいますが、明治政府から新貨幣の製造という大きな仕事の依頼が舞い込んだのです。
彫金師として高い評価を受けていた夏雄は、造幣寮で新貨幣の製造に携わるようになり、弟子たちとともに古今の資料を集めて研究し、官僚らと合議を重ねて、原型となる新貨幣を1870年に完成させました。
明治天皇御剣の拵金具を作る
1872年には、明治天皇御剣の金具製作の依頼が飛び込んできました。
正倉院に伝来していた聖武天皇御剣を明治天皇が大変気に入り、新たに製作するにあたって、夏雄の名があがったのでした。
明治天皇御剣には龍が刻まれていますが、夏雄はあまり龍や獅子を取り入れた作品は製作しておらず、夏雄の作品の中でも珍しいモチーフの作品です。
その後も、夏雄は御太刀製作にも携わっています。
帝室技芸員として若手育成にも努めた
ビジネスの才能があった夏雄は、造幣寮を去った後も精力的に製作活動を進め、手がけていた事業が軌道に乗ると、ウィーン万国博覧会や展覧会などでも高い評価を得るようになっていきました。
1889年には東京美術学校が開校し、夏雄は彫金科の教授として教鞭をとり、後世の育成に励みました。
翌年の1890年には、帝室技芸員に任命され、彫金師としてさらに注目を集めていきます。
加納夏雄が製作した作品の特徴
夏雄は、刀装具や硬貨だけではなく、時代に合わせて花瓶や置物、シガレットケースなどさまざまな作品を製作しています。
夏雄が手がけた作品は、伝統的な美を継承しつつも現代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせていること、片彫りによる写実性の高さなどが特徴です。
伝統的な美と現代のスタイリッシュさ
従来の技法を用いて伝統的な美を重んじながらも、時代に合わせたスタイリッシュさを持ち合わせているのが夏雄作品の大きな特徴です。
このようなデザインセンスは、幕末から明治という変化の大きい時代を過ごした夏雄ならではの感覚であったといえるでしょう。
片切彫りによる写実的なデザイン
夏雄は、片切彫りと呼ばれる手法を得意としており、モチーフの片側の線を垂直に刻み、ほかの線を斜めに彫っていくスタイルを指します。
江戸時代中期の彫金師が生み出した技法で、この彫り方を用いるとモチーフが立体的に見えるのが特徴です。
夏雄は、卓越した技術力により、片切彫りで人物や花、鳥、鯉などを精巧かつ美しくデザインしています。
また、夏雄は若いころに円山派の絵を学んでいたため、絵画で培った写実的センスが、作品にも大きく反映されたと考えられるでしょう。
真面目で寛容な性格から弟子たちに慕われていた
真面目で寛容な性格であった夏雄は、多くの弟子たちから慕われていたといいます。
ある日、夏雄の古希を祝おうと弟子たちが計画を立てていたとき、幹事を務めたいと申し出る門下が50人ほどもいたそうです。
実直で探求心旺盛な夏雄は、何事も軽率に扱うことがなかったため、いつまでも金工の技術と目を養うことを怠らなかったといわれています。
年表:加納夏雄
西暦(和暦) | 満年齢 | できごと |
1828年(文政11年)5月27日 | 0歳 | 京都柳馬場御池の米屋に生まれる。本姓は伏見。 |
1835年(天保6年) | 7歳 | 刀剣商の加納治助の養子となり、彫金に興味を持つ。 |
1840年(天保11年) | 12歳 | 彫金師奥村庄八の元で修行を始め、線彫り、象嵌などの技法を習得。 |
1842年(天保13年) | 14歳 | 円山四条派の絵師・中島来章に師事し、写実を学ぶ。 |
1846年(弘化3年) | 19歳 | 金工師として独立。 |
1854年(安政元年) | 26歳 | 江戸へ移り、神田に店を構える。 |
1855年(安政2年) | 27歳 | 安政の大地震により家を失う。 |
1869年(明治2年) | 41歳 | 皇室御用を命じられ、明治天皇の太刀飾りを担当。
7月には、新政府から新貨幣の原型作成を依頼され、門下生と共に試鋳貨幣を作成。 |
1872年(明治5年) | 44歳 | 正倉院宝物修理に携わる。 |
1873年(明治6年) | 45歳 | 明治天皇の命により『水龍剣』の拵えを完成させる。 |
1876年(明治9年) | 48歳 | 廃刀令により多くの同業者が廃業するが、煙草入れや根付を作り続ける。 |
1890年(明治23年) | 62歳 | 第三回内国勧業博覧会で『百鶴図花瓶』が一等妙技賞を受賞し、宮内省に買い上げられる。 |
1890年(明治23年) | 62歳 | 東京美術学校の教授に就任。 |
1890年(明治23年) | 62歳 | 第1回帝室技芸員に選ばれる。 |
1896年(明治29年) | 68歳 | 明治天皇の下命により『沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵』を完成。 |
1898年(明治31年)2月3日 | 69歳 | 逝去。 |