棟方志功は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本の版画家です。
文字や絵画に美を見出した独特の世界観は、世界的な評価を獲得しています。
書や木版画に見られる力強さ・静寂さは、今もなお多くの人を魅了しています。
人生のほとんどを芸術活動に打ち込んだ志功ですが、一体どのような生涯を送ったのでしょうか。
目次
「世界のムナカタ」で名高い版画家「棟方志功」
生没年:1903年〜1975年
代表作:『二菩薩釈迦十大弟子』『華狩頌』など
棟方志功は、板画を熱心に彫り続けた日本の版画家です。
生まれながらに視覚障害を抱えながらも、黒縁の厚い眼鏡と頭に鉢巻をつけて芸術活動に打ち込む志功の姿は、巨匠と呼ぶにふさわしいでしょう。
57歳で左目を失明、右目も半盲でしたが、その障害を乗り越えて生涯で1万点以上の作品を制作しました。
志功は、作品のアイデアが浮かぶと、何かに取り憑かれたようにすさまじい集中力で制作にあたっていたそうです。
志功の独創的で力強い作品は、国際的にも高く評価され、1952年のスイス・ルガーノの国際版画展で優秀賞を受賞したほか、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネチア・ビエンナーレ展では、最高賞を獲得しています。
日本だけにとどまらないその活躍ぶりから、「世界の棟方」と称されるほどの名声を獲得しました。
昭和45年には版画家として初めて文化勲章を授かっています。
72歳で亡くなった後も、世界各地の美術館には、志功の作品が展示されています。
道ばたの花に感動を覚えた幼少期
棟方志功の出生地は、青森県青森市です。
1903年の明治時代初期に生まれた志功は、幼少期は奔放な少年として過ごしていました。
しかし、小学6年生のとき、ふとした拍子に転んだ先にあった沢瀉(おもだか)という白い花の美しさに感動し、芸術の道に進みます。
小学校卒業後は家業を手伝っていましたが、のちに家業が廃業になってしまいます。
18歳近くまでは、裁判所の給仕として働いていました。
このころから志功は、時間を見つけては写生に打ち込んでいたそうです。
1921年、地元青森市の洋画家小野忠明によって紹介されたゴッホの『ひまわり』の原色版画を見て深い感動を覚え、「わだばゴッホになる」と叫んだといわれています。
志功は、熱狂的なゴッホファンだったのです。
このできごとは、志功の芸術家としての道を歩む決意を固める重要な転機といわれます。
また、地元の絵の仲間たちと共に展覧会を開き、その才能が竹内俊吉(後の青森県知事)に高く評価され、画家としての自覚と決意を一層強くしました。
ゴッホの作品に感銘を受け画家の道に進む
1924年、棟方志功は21歳のときに画家の志を立て上京します。
「帝展(いまの日展)に入選しなければ帰らない」と心に決め、靴直しの注文取りや納豆売りなどをしてお金を稼ぎ、苦労しながら絵の勉強を続けました。
しかし、志功の努力はなかなか実を結ばず、帝展の落選が4年続きました。
挫折を味わいながらも出品を続け、上京して5年目の1928年、第9回帝展に油絵『雑園』を出品し、初の入選に至りました。
川上澄生の版画作品に衝撃を受けた青年期
棟方志功が油絵に対して疑問を持ち始めたのは、『雑園』が帝展に入選する少し前のことでした。
志功は、西洋から伝わった油絵技術で西洋人を超えることが難しいと感じ、より日本固有の表現方法に興味を持ち始めます。
この時期に、志功はゴッホが高く評価していた日本の木版画に着目し、自らもその道を探求することを決意します。
1926年、第5回国画創作協会展で見た川上澄生の木版画『初夏の風』に深く感銘を受けた棟方は、その後版画の勉強に没頭。
1927年に自身初の木版画『中野眺鏡堂窓景』を制作しました。
これは、はがきサイズの風景版画で、志功の版画家としての第一歩を示す作品といわれています。
続く1928年、同郷の画家である下沢木鉢郎の紹介で版画家の平塚運一のもとを訪れ、直接指導を受ける機会を得ました。
その年の第6回春陽展に出品した7点の版画のうち、3点が入選し、これが志功にとって大きな自信につながったそうです。
入選は、志功の版画家としてのキャリアを本格的に確立させる重要なできごとになりました。
この成功を足がかりにして、志功はその後も独自の版画スタイルを追求し続けました。
作品がヨーロッパで認められ「世界のムナカタ」に
棟方志功は1932年、国画会展に出品した4点の版画のうち、3点がボストン美術館、1点がパリのリュクサンブール美術館に買い上げられ、国際的な認識を得る重要な転機を迎えました。
このとき、志功は29歳という若さで世界に飛び出すチャンスを得たのです。
1936年には、絵画技法と文字を融合した版画巻『瓔珞譜 大和し美し版画巻』を出品。
新設された日本民藝館に買い上げられるとともに、柳宗悦や河井寛次郎といった民藝運動の指導者たちとの交流が始まります。
棟方の国際的な評価はさらに高まり、1952年のスイス・ルガノで開催された国際版画展で、駒井哲郎と共に日本人初の優秀賞を受賞。
同年、フランスのサロン・ド・メェにベートーベンの交響曲第5番『運命』をイメージして制作された『運命頌』を中心に出品しました。
1955年、サンパウロ・ビエンナーレに釈迦の優れた10人の弟子を描いた『二菩薩釈迦十大弟子』を出品し、版画部門の最高賞を獲得。
翌1956年には、ヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、「世界のムナカタ」としての地位を確立しました。
1959年には、ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招待でアメリカに渡り、大学での講演や各地での個展を開催しています。
夏休みには、ヨーロッパを訪れてゴッホの墓を訪ねるなど、志功は生涯で4回のアメリカ訪問とインド旅行も経験し、国際的なアートシーンで高い評価を受け続けました。
棟方志功が手がけた版画の魅力
棟方志功本人は、版画のことを「板画」と表現します。
「板が生まれた性質を大事に扱わなければならない」「木の魂というものを直に生み出さなければダメだ」といった思いから、「板」という文字にこだわったそうです。
そのような版画で有名な棟方志功ですが、実は水墨画の肉筆画(1点ものの作品のこと)の作品も多数手がけています。
後述する『無事』を始め、多数の作品を制作しました。
版画と同じく棟方志功にとって水墨画は、得意な画法の1つだったそうです。
志功が編み出した水墨画の絵画技法を「倭画」と呼び、従来の水墨画より活発で自由度の高いタッチで描かれているのが特徴です。
生涯をかけて作り上げた代表作たち
棟方志功は、国際的な展覧会であるヴェネツィア・ビエンナーレを始めとした、国内外の美術展で高い評価を獲得しています。
日本を代表する版画家として活躍し、1970年には文化勲章を受章しました。
なお、1945年、第二次世界大戦中の東京大空襲で、棟方志功が制作した作品の大半が失われました。
住居も同じく失ってしまったため、富山県福光町に疎開します。
この間に、多数の代表作を制作したといわれています。
二菩薩釈迦十大弟子
棟方志功の代表作『二菩薩釈迦十大弟子』は、1948年に制作された版画です。
志功は、この作品を「私が彫っているのではありません。仏様の手足になって、ただ転げ回っているのです」と表現しました。
下絵なしでわずか1週間で仕上げたとされるこの大作は、釈迦の優れた10人の弟子を指し、両端に普賢延命菩薩と文殊止利菩薩が配されています。
文殊菩薩と普賢菩薩の姿とともに、釈迦の十大弟子が彫られており、棟方志功の芸術的才能と独創性が存分に表現されています。
この作品は、1955年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で、版画部門最高賞、翌31年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で国際版画大賞を受賞し、志功の代表作とみなされました。
「世界の棟方」としての地位を確立した、決定的な作品といえます。
流離頌板画柵
棟方志功は、富山県八尾町に疎開していた歌人・吉井勇の歌集『流離抄』の短歌から31首を題材とし、歌から感じた思いを板画にした作品を制作しました。
これが『流離頌板画柵』です。
志功は、江戸時代から日本が板画の国であり、板画なくしては成り立たないと確信し、油彩画から木版画に転じて制作に没頭したそうです。
その過程で、「この道より我を生かす道なし、この道をゆく」という言葉が志功の座右の銘に決まったとのこと。
棟方は文字を絵と同次元に扱い、統合させた独自の板画を確立し、歴史と伝統を踏まえた温故知新的な作品を生み出しました。
無事
1945年、空襲により東京の自宅や版木のほとんどが失われた棟方志功は、疎開先の富山県福光町にて、水墨画の作品も手がけます。
福光町では民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦が感銘を受け、日本民芸館のコレクションにと所望したそうです。
なお、無事の文字は本来「大事に至らない」といった意味を持ちますが、禅における解釈では「人間はすべて仏性を本来そなえている身であり、それに気づけば外へ向かって仏を求める心が止む」とも捉えられています。
棟方志功の師である柳宗悦が思想家であった背景から、当作品は後者の意味を含めて作られたのかもしれません。
華狩頌
『華狩頌』とは、馬上の3人が狩のポーズをとっているさまを描いた木版画です。
弓矢を構えるポーズをしていますが、その手には何も持っていません。
これは獣を狩るのではなく、心で花を狩り、美を射止めることを表現した作品といわれています。
版画いっぱいに施された装飾とユニークな鳥獣のポーズから、華やかさと躍動を感じられます。
運命頌板画柵
『運命頌板画柵』は、棟方志功がベートーベンの交響曲第5番『運命』をイメージして制作した版画作品です。
ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を4題に構成し、版木を墨で真っ黒に塗り、丸刀だけを使って直接彫り進めたもので、下絵がそのまま板画になる方法で制作されています。
当作品は、パリで開催されたサロン・ド・メェにおいて招待された4連で構成される作品で、別名『美尼羅牟頌板画柵』とも呼ばれました。
棟方志功の作品は今もなお世界的な評価を得ている
棟方志功の作品は、文字と絵画の融合、宗教観の取り入れなど、独自の世界観を展開した作品が多数存在します。
志功の生涯は戦火や試練に満ちていましたが、その創作意欲が揺るがなかったからこそ、世界的な成功を収めたといえるでしょう。
志功は、後世の版画に多大な影響を与えた世界的な偉人です。