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琳派を代表する画家「尾形光琳」とは
生没年:1658年-1716年
尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家で、琳派を代表する人物です。
伝統あるやまと絵に、大胆な構図や色彩を取り入れた斬新な画風が特徴で、背景には金箔がふんだんに使用された屏風絵作品が有名です。
琳派は、世襲制や師弟関係が存在しないため、直接絵を学ぶことはありませんでしたが、光琳は俵屋宗達をはじめとした先人の作品を手本に模倣を繰り返し、技術を学びながら独自の画風を築き上げていったと考えられています。
裕福な呉服屋の次男として生まれる
尾形光琳は、1658年に京都有数の呉服商である「雁金屋」の次男として生まれました。
父の尾形宗謙は、能楽や茶道、書、絵画などをたしなむ趣味人で、光琳は父の影響により幅広いジャンルの文化芸能に幼いころから親しみました。
陶工や絵師として活躍していた尾形乾山は、光琳の5歳下の弟です。
裕福な家柄で生まれ育った光琳でしたが、21歳のときに雁金屋の最大顧客であった東福門院が亡くなってしまいます。
東福門院は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の娘であり、後水尾天皇の后でもありました。
最大の顧客を失った雁金屋の経営状況は悪化の一途をたどり、30歳のときには父が亡くなります。
尾形光琳は、父の莫大な遺産を相続しましたが、まともに働かないまま遊び惚けており、早々に財産を使い果たしてしまったといわれています。
尾形光琳は遊び人だった?
数多くの名作を残している尾形光琳ですが、30代を迎えるまではかなりの遊び人だったといわれています。
亡くなった父の遺産で豪遊し、女性との交際も華やかなものだったそうです。
30歳前後で結婚したといわれていますが、トラブルは後を絶ちませんでした。
32歳のときには、女性から子どもの認知をめぐって訴えられたこともあり、家屋敷や財産を差し出して穏便に済ませようと交渉に持ち込んだ逸話も残されています。
また、光琳には、正妻を含めて6人の妻と7人の子どもがいたともいわれています。
このような話から、光琳は大変プレイボーイであったと予想できるでしょう。
本格的に画業をはじめたときも借金をしており、のちに画家として成功してからも派手な暮らしから離れられず、借金漬けの生活を続けていたそうです。
絵師としてデビューしたのは30代後半
尾形光琳が絵師として本格的にデビューしたのは30代後半ごろからだったといわれています。
江戸に移り住み、大名お抱え絵師として活躍し、雪舟の水墨画や狩野派、中国絵画などを学んでいきますが、江戸での暮らしになじめず5年ほどで京都に戻っています。
京都に戻ってからは、江戸で学んだ技術や経験と持ち前の絵画センスで、目覚ましい活躍をみせるようになりました。
幼いころから家業の影響で衣装文様の装飾美に多く触れていた光琳は、構図感覚や色彩感覚に優れていたと考えられます。
また、公家の名門である「二条綱平」という強力な後援者を得るとともに、富裕層が好む装飾的で豪華絢爛な作風を得意として、活躍の場を広げていきました。
1701年、尾形光琳が44歳のときには「法橋」の称号を授かっています。
そもそも法橋は、高僧に与えられる位ですが、優れた功績をおさめた絵師や仏師にも与えられるケースがありました。
制作年代を確定できる要素がなく、いつごろ制作されたものか判明していない作品もありますが、残されている多くの作品に「法橋光琳」の落款が押されていることから、本格的に絵画を制作し始めたのは、30代後半から40代以降と推察されています。
尾形光琳が活躍した元禄年間
尾形光琳が活躍した時代は、琳派が誕生してから約100年経った時代の京都です。
光琳が生まれた時代は、元禄年間と呼ばれており、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉がおさめていたころです。
江戸時代の最盛期ともいわれており、積極的な新田開発や農業技術、器具の改良などにより農業生産力が大幅に向上し、経済的にも発展を遂げていました。
商品流通の拡大もあり、貨幣経済が発展し、大阪や京都を中心に商業都市が栄えていきました。
絵画の世界では、幕府や大名のお抱え絵師である狩野派や、朝廷絵師の土佐派などが活躍していたそうです。
一方、琳派は新しい時代の作品を多く制作しており、数々の名品を生み出しています。
光琳は、琳派の中でも本阿弥光悦や俵屋宗達の技法を吸収し、琳派を発展させていった人物としても知られています。
絵画や蒔絵に新しい風を吹き込み、多くの人々から人気を集めました。
300年後も評価されるデザインセンスを持っていた
尾形光琳は、デザインセンスに優れており、俵屋宗達の画面構成にならい独自の画風を確立しました。
『紅白梅図屏風』でも、その天才的なセンスが発揮されており、大きな水流を中央に描き、左右の金地には紅白の花を咲かせた梅の老木と若木を配置しています。
自然の景観をモチーフにしていますが、本来の自然界では存在しない構成であり、光琳のセンスが光る作品です。
印象的な構図で、当時の日本美術のイメージとはかけ離れている作品であるにもかかわらず、一つの作品としてまとめられているのは、光琳のデザインセンスがあったからこそであるといえるでしょう。
また、『燕子花図屏風』では、燕子花のモチーフが繰り返されているデザインが印象的で、光琳のクリエイティブさがうかがえます。
尾形光琳は美意識も高かった
尾形光琳は、美意識も高く、優れたファッションアドバイザーでもありました。
光琳は、後援者だった中村内蔵助と公私問わず親交を深めており、蔵助の妻が茶会に出かけるときにどのような衣装を着ていくべきかを光琳に相談したそうです。
当時、富裕層の妻たちが集まって行われていたお茶会は、衣装の豪華さを競う場でもありました。
光琳はそのような場で、あえて白と黒のシンプルな色使いの衣装を提案します。
アドバイスを受けて、シンプルな衣装を着て出かけた蔵助の妻は、豪華な装いをしたほかの妻たちから絶賛されたそうです。
このエピソードから、光琳が優れたファッションセンスも身につけていたことがわかるでしょう。
尾形光琳はアール・ヌーヴォーの火付け役?
尾形光琳は、19世紀の終わりから20世紀のはじめごろのフランスを中心としたヨーロッパ全体で流行していたアール・ヌーヴォーの火付け役であったともいわれています。
国際的な美術運動であるアール・ヌーヴォーは、植物の文様や流れるような曲線のデザインが特徴的で、その後のジャポニズムにつながっていきました。
アール・ヌーヴォーが誕生したきっかけは、琳派の絵画であったといわれています。
当時欧米では、シーボルトが持ち帰った酒井抱一の『光琳百図』や、フェノロサによって紹介された琳派の俵屋宗達や光琳が注目されており、光琳文様の自然表現がクリムトやミュシャなどの画家に大きな影響を与え、西洋絵画に新しい風を吹き込んだのでした。
尾形光琳と俵屋宗達
俵屋宗達は、江戸時代の初期に活躍していた絵師で、尾形光琳とは生きていた時代が異なります。
直接的な師弟関係はありませんでしたが、光琳の作品からは宗達が描いた『風神雷神図』『槙楓図』のような様式がみられるものもあり、光琳が宗達の作品から学びを得ていたのではないかと考えられています。
光琳は宗達を目標にしていたといわれていますが、決して越えられない壁であると気付いた光琳は、独自の画風を生み出していったのでした。
尾形光琳と尾形乾山
尾形光琳には、尾形乾山という5歳離れた弟がいました。
乾山も芸術家としての道に進んでいますが、絵ではなく焼きものの制作を選び、二条家から譲ってもらった窯で乾山窯を開いていました。
初期のころに制作していた焼きものの絵付けは、すべて兄である光琳が行っていたそうで、兄弟の仲は良好であったと考えられるでしょう。
また、派手好きで遊び人であった光琳とは正反対に、乾山は勤勉で読書好きだったといわれています。
年表:尾形光琳
西暦 | 満年齢 | できごと |
1658年 | 0歳 | 京都で呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。幼名は惟富、通称は市之丞。 |
1678年 | 20歳 | 雁金屋の経営が東福門院の崩御により傾き始める。 |
1687年 | 29歳 | 父・宗謙が死去。兄・藤三郎が雁金屋を継ぎ、光琳は遊興にふけ、借金をつくる。 |
1692年 | 35歳 | 「光琳」の名が史料に初めて登場する。収入の為に画業に専念し始める。 |
1701年 | 44歳 | 法橋の位を得る。これ以降、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られるようになる。 |
1704年 | 47歳 | 江戸へ下る。裕福あった中村内蔵助を頼り、経済的に困窮しつつも活動を続ける。 |
1709年 | 51歳 | 京都に戻る。 |
1711年 | 53歳 | 京都の新町通りに新居を構え、創作活動を行う。 |
1713年 | 55歳 | 長男・寿市郎に遺言書に相当する書を残す。自身の画業を「家業」とは見なしていないことを述べる。 |
1716年7月20日 | 59歳 | 死去。代表作『紅白梅図』などを残す。 |