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民芸品は高く売れる?骨董品価値のあるものとは
各地域で手作りされた民芸品は、味わいや温かみがあり、魅力的にみえるものです。 身近な存在である民芸品も、製品によっては買取してもらえる可能性があります。 大切にしていた民芸品を手放すとき、ただ捨てるのではなく一度買取を検討してみるのもよいでしょう。 民芸品買取を相談しよう お土産として人気の高い民芸品は、地域によってさまざまな製品があり、購入した人やプレゼントされた人を楽しませてくれます。 バリエーションが豊富なため、コレクションするのも楽しみ方の一つです。 地域に根差した民芸品を手放すとき、価値をつけてもらえるのか気になっている人もいるでしょう。 民芸品とは 民芸品とは、民衆的工芸品の略称であり、各地域で暮らす民衆の手によって作り出された日用品で、生産地域と製品は切り離せない存在です。 ほかの骨董品とは異なり、一般の民衆が手作りしている製品が多い傾向で、製造方法が地域全体に代々受け継がれていることもあるため、地域住民の多くが制作できるケースもあります。 似たようなジャンルに工芸品がありますが、こちらは日用品として利用できる道具類の中でも、材料や技巧、意匠などにより美術的な価値を備えた製品を指します。 さらに、工芸品の中でも伝統的工芸品と呼ばれるものは、伝統的な原材料や技術、技法を用いて作られている工芸品のことです。 どれも地域に根差した製品ではありますが、民芸品は最も民衆に近い存在であり、工芸品や伝統的工芸品は、ものによって高い価値がつきやすい傾向があります。 自宅にあるコレクションや相続品を整理したい 自宅に眠っているもの、趣味で集めていたものなどで所有していた民芸品をどのように手放すか迷っている方もいるのではないでしょうか。 基本的に民芸品は、各地域に暮らす多くの民衆が制作を担っているため、ほかの骨董品よりも付加価値がつきにくく、高価買取が難しいとされています。 しかし、そのまま処分してしまうのはもったいないため、まずは正しい価値を判断できる買取業者に査定を依頼しましょう。 そもそも民芸品には価値がある? 民芸品というジャンルで価値のある製品があるのか気になっている方もいるでしょう。 工芸品や伝統的工芸品に比べると、価値がつきにくい民芸品ですが、買取してもらえるケースも、もちろんあります。 買取を依頼する前に、民芸品がどのようなものであるかを知り、高価買取を狙うためのポイントを理解しておくことが大切です。 民芸品=地域の伝統的なお土産? 民芸品とは、地域に根付いた製品であると先述しましたが、具体的にどのような製品があるのか気になる人もいるでしょう。 民芸品として有名なものは、木彫りの熊やこけしなどです。 こけしは、主に東北地方で作られている民芸品で、シルエットや表情などはその土地によって異なる特徴があります。 バリエーションが豊富なため、コレクターから人気の高い民芸品といえます。 木彫りの熊は、北海道みやげとして有名で、熊が鮭を加えている姿の製品を見かけたことがある人も多いでしょう。 お土産としてや一部のコレクターからは人気の高い民芸品ですが、骨董品としての価値は高くないものが多く、高価買取を狙うのは難しいといえます。 民芸品の中には骨董品価値のあるものも 民芸品の多くは、骨董品としての価値がほとんどありませんが、一部骨董品価値の高い民芸品も存在します。 有名作家が制作した歴史ある製品や、貴重な素材を用いて作られている製品は、高価買取が可能な場合もあります。 作家物の民芸品は、価値がつきやすいため、民芸品だからと買取をあきらめず、処分する前に査定依頼するのがお勧めです。 民芸品を高額買取してもらうには 民芸品の買取額をアップさせるためには、鑑定書や共箱、由来書、しおりなどの付属品もまとめて査定に出しましょう。 付属品がそろっていると高値がつきやすくなるため、捨てずに製品と一緒に保管しておきます。 また、民芸品に傷や汚れ、破損があっても査定前に修理するのは避けましょう。 きれいに修繕できなかった場合、価値を下げてしまうおそれがあります。 買取価格よりも修理費用の方が高くついてしまう可能性もあるため、まずは査定に出して価値を知ることから始めましょう。 民芸品を手放すにはどんな方法がある? 民芸品を手放す方法として、買取業者への依頼以外にも、ネットオークション、フリマ、リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者などを利用する方法があります。 リサイクルショップ、不用品回収業者、遺品整理業者では、民芸品に対する知識があるとは限らないため、民芸品本来の価値に見合った金額を提示してもらえない可能性があるでしょう。 ネットオークションやフリマは、金額を自由に設定できますが、個人間の取引となるため、やり取りの負担が大きくなります。 専門の買取業者であれば、民芸品の価値を把握し適切な価値をつけてくれると期待できます。 しかし、基本的に民芸品は高価買取が難しい製品のため、査定額がつかない可能性もあるでしょう。 その場合は、自分でネットオークションやフリマを利用して売却するのも一つの手段です。 大切にしてきた民芸品を売るなら、実績ある買取業者へ相談を 地域ごとの特徴を持ち合わせた民芸品は、お土産物としても人気が高く、知人や友人から贈られることもあるでしょう。 もし、大切にしてきた民芸品を手放すタイミングがきたら、まずは実績のある買取業者への相談がお勧めです。 民芸品は、高価買取が難しい製品ですが、価値がまったくないわけではありません。 正しい価値を判断してもらうためにも、査定士に相談しましょう。
2024.12.13
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1970年の大阪万博ってどんなものだった?
1970年に開催された大阪万博とは 1970年に開催された大阪万博は、日本初・アジア初の国際博覧会で、当時史上最大の規模を誇っていました。 当時の日本は終戦25周年で、戦後の高度経済成長を成し遂げてアメリカの次となる経済大国にまでのぼりつめた日本。 終戦記念として日本の象徴的な意義をもつイベントとして、大阪万博は開催されました。 大阪万博は、1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトで、企業や研究者、建築家、芸術家などさまざまジャンルの専門家が、パビリオン建設や映像・音響などのイベント・展示物制作に採用されました。 「人類の進歩と調和」をテーマとした博覧会 1970年に大阪で開催された万国博覧会は、「人類の進歩と調和」をテーマに、新しい発明品や未来の製品が展示されました。 1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会以降、さまざまな機械文明の発展が展開されていましたが、20世紀後半ごろからは、交通機関や情報手段が発達し、未来の製品として紹介されていたものが現実のものとなっていきました。 人類の創造的活動を単に展示するだけの博覧会では、魅力が薄れてきてしまったため、テーマに基づいた博覧会を設計する傾向が強まっていったのです。 大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」では、技術文明の進化を紹介するだけではなく、社会の発展が同時に自然や人間性にどのような影響をおよぼしているかを訴え、問題を解決するためにはどうするべきか、人と自然の調和をとった進歩をどのように実現するかを問いかけてします。 出展者に向けたテーマは、さらに具体的な展示内容を決めやすくするために、4つのサブテーマが設定されていました。 1.より豊かな生命の充実 生命の起源や神秘、医療、心理、出産・育児、趣味などの展示 2.よりみのりの多い自然の利用 栽培植物、養殖、開拓、エネルギー、海底資源の利用、気象などの展示 3.より好ましい生活の設計 食料、住宅、衣類、乗り物、時計、公害防止などの展示 4.よし深い相互の理解 報道、通信、言語、教育、家族、文化交流、芸術などの展示 シンボルマークは桜を表現している 1970年に開催された大阪万博では、日本を代表する花である「桜」がモチーフになっています。 マークを制作したのは、グラフィック・デザイナーかつ、日本グラフィックデザイナー協会の理事を務めたことのある大高猛で、万博テーマの「人類の進歩と調和」を視覚化したデザインが考えられました。 5つの花びらは、世界を表現しており、世界が手を取り合って日本の大阪万博へ参加しよう、という意味合いを表現しています。 中央の小さな円は、日本の日の丸を表しており、周辺の白抜き部分は発展と進歩への余裕を表現。 安定した全体の印象は、日本の品位と調和を示しており、大阪万博が世界的なイベントであると力強く表現されています。 大阪万博の象徴『太陽の塔』に込められた想い 大阪万博が開催された1970年、日本は当時高度経済成長期で、アメリカに次ぐ2位の経済大国でした。 さらに、世界の状況を見てみると、世界初の月面着陸に成功したアポロ11号空もわかるように、テクノロジーが大きく発展していた時代といえます。 さまざまな技術が発展して便利な世の中になっていくと同時に、大気汚染や水質汚染などの環境問題や、新幹線による騒音・振動などの問題も浮き彫りになっていきました。 目まぐるしく環境が変化していくとともに、解決すべき問題も山積みになっていったのです。 そのような世界的状況の中開催された大阪万博では、人類の知恵と協力を社会の発展だけではなく、地球規模の問題解決にも役立てるべく、さまざまな展示が行われました。 自然と進歩の調和を図る意志の象徴となったのが、現在万博記念公園に設置されている岡本太郎デザインの『太陽の塔』です。 『太陽の塔』は、内部がテーマ館と呼ばれるパビリオンの一部になっています。 高さ約41mの生命の樹をメインに、生物の進化の過程や生命の大切さ、人々の生き方の多様さなどを展示にて追求しています。 万博といえば、近未来的なテクノロジーの展示物が注目されがちですが、大阪万博は、人類の原点を振り返る高度経済成長期ならではの万博となりました。 準備から開幕までの軌跡 日本が国際博覧会条約に加盟したのは、1965年で、その年の9月には、大阪での万国博覧会の開催が正式に決定しました。 財団法人日本万国博覧会協会が発足し、1か月後には本格的な準備が始まりました。 高い理想を掲げ開幕した日本万国博覧会の式典に出席した内外の貴賓・招待者は約8000人で、開会式の感動は、宇宙テレビで全国に中継されましたのでした。 世界各国の子どもたちによるかわいらしい踊りによって、進歩と調和の願いが世界中に届けられました。 ナショナル・デー、スペシャル・デーの式典やイベントは、国境、宗教、民族、ことばの壁を越えて世界中の人類が一つとなる祭典であり、会期中のナショナル・デーは73回、スペシャル・デーは15回です。 6月29日の日本の日の式典には、皇太子や同妃両殿下もご出席され、各国の代表たちと会場を埋め尽くす約1万人の観客に、日本を強く印象付けました。 大阪万博開催にあたって、世界中から多くの貴賓が訪れ、その数は約4800人を超えていたそうです。 大阪万博で開催されていたもの 大阪万博では、「人類の進歩と調和」をテーマにしたさまざまな展示やイベントが行われており、訪れた多くの人に感動や衝撃を与えました。 過去・現在・未来をテーマにした展示 大阪万博では、77か国の国際機構や政庁、州、都市、企業などを含めた合計116の展示館が建設され、過去や現在、未来などのテーマに基づいて、さまざまな展示を繰り広げました。 各展示館では、入館者が長い列を作り大盛況となり、若い世代からお年寄りまでさまざまな人々が、万博で表現された新しい世界に感動。 世界のお祭りを再現 大阪万博の広場やホールでは、世界各国の祭りを再現したイベントが繰り広げられていました。 その公演数は、2880回にもおよび、人類交歓の場であったお祭り広場では、内外27万人が出演。 1000万人以上の観客が、イベントに感動し拍手や喝采を送りました。 大阪万博のお祭り広場では、「見たことのないものを創る」をコンセプトに、新しい表現方法を模索してきた具体美術協会もパフォーマンスを行っています。 大阪万博がクライマックスに近づいてきた8月末の3日間、具体美術まつりと称して、具体メンバーがアイデアを持ち寄り、いくつかのプログラムを上演しました。 真っ赤な衣装を着たメンバーが、バルーンを付けて飛び跳ねたり、オリジナリティあるパフォーマンスを披露したり、個性的な演出が行われたそうです。 ユニークなパフォーマンスに、子どもから大人まで、幅広い層の観客の喜ぶ姿がみられるイベントになりました。 子どもの国・エキスポランド エキスポランドとは、大阪万博開催時にアミューズメントゾーンとして作られた遊園地で、アメリカ館やソ連館、太陽の塔などと並んで人気を集めた施設の一つで、万博に訪れた約6400万人のうち、4割ほどにあたる2600万人ほどが入園したそうです。 エキスポランドは、子どもたちから大人気で、6つの地区に分かれた約17万2500㎡の遊園地は、連日若者や家族連れで賑わいました。 大阪万博で披露されたテクノロジー 大阪万博では、現在私たちが当たり前のように使用している技術や製品が、未来の製品として展示されていました。 大阪万博での発表を機に、開発や普及が進み、現在でも親しまれているものがたくさんあるのです。 ワイヤレステレホン 現在、多くの人々が当たり前に使用しており、日常に欠かせない製品となっているスマートフォンも、大阪万博で初めて一般の人々の目に触れました。 NTTのパビリオンであった電気通信館にて展示されていたワイヤレステレホンが、現在のスマートフォンの原型といわれています。 また、オンライン会議やオンライン飲み会などで利用されているビデオ通話は、大阪万博でテレビ電話として登場。 大阪万博では、迷子や落し物の確認にテレビ電話が用いられていました。 ピクトグラム ピクトグラムも大阪万博で注目を集めました。 ピクトグラムが初めて日本で活用されたのは、1964年の東京オリンピックといわれています。 しかし、当時はデザインが統一されておらず、大阪万博の際には、グラフィックデザイナーである福田繁雄がデザインしたピクトグラムが採用され、統一化が図られました。 現在日本や世界各国で使用されているピクトグラムは、大阪万博で福田繁雄がデザインしたものをベースにしているといわれています。 プレーンヨーグルト 日本でプレーンヨーグルトが普及するきっかけを作ったのが大阪万博であるといわれています。 それまでも日本でヨーグルト製品は販売されていましたが、本格的なプレーンヨーグルトはありませんでした。 大阪万博では、ブルガリア館が本場のヨーグルトの試食を提供しており、当時試食した明治の社員が本場の味に感動。 日本の食卓に本物のヨーグルトを届けたいという想いが生まれ、開発を決めたといわれています。 その後、試行錯誤を重ねプレーンヨーグルトは商品化され、現在販売されている製品のロゴは、大阪万博のブルガリア館のロゴにインスパイアされたものになっています。 人間洗濯機 大阪万博で、話題を集めた展示の一つに人間洗濯機があります。 直径2mほどのカプセルのような造りをしていて、上部から顔が出せるようになっており、超音波を使って発生させた気泡によって身体を洗い、最後に温風で全身を乾燥させる装置です。 乾燥させる際には、赤外線と紫外線によって血行を良くし、殺菌も行える仕組みであったそうです。 突起の付いたカラフルなマッサージボールによって、洗浄と同時に身体をほぐす効果もありました。 リニアモーターカー 現在、最高時速500kmで東京と大阪を約1時間で結ぶとして話題を集めているリニアモーターカー。 大阪万博では、日本の歴史や文化、技術を展示する日本館にて、未来の乗り物として紹介されました。 リニアモーターカーの模型が展示され、会場に設置されたレールを走行して注目を集めたそうです。 電気自動車 電気自動車は、大阪万博開催中に会場内の交通機関の一つとして活躍しました。 来場者用のタクシーや放送用機材を運ぶプレスカー、施設管理用のパトロールカーなど、万博内のあらゆる移動が電気自動車で行われました。 万博を通じてすぐに普及とはいきませんでしたが、現在の電気自動車につながる確かな歩みになっていたことでしょう。 エアードーム 大阪万博の展示物ではなく、会場そのものも訪れた人々が注目する展示となっていました。 その一つが、アメリカ館のエアードームです。 塩化ビニール樹脂製の膜材を建築物にかぶせて空気を送り込み、空気圧で支えて屋根にしたものです。 一般的な大型テントとは異なり柱が必要ないため、大きな空間を確保するために重宝されました。 大阪万博ではさまざまな記録が生まれた 1970年に開催された大阪万博は、日本だけではなく世界各国から大変注目された展覧会でした。 183日間の開催で会場に訪れた人は、約6421万人で、1日の平均入場者数は約35万人、最も多かった日には、83万5832人が訪れたそうです。 その日は、会場全体が大混雑となり、訪れた人々は身動きが取れないような状況でした。 消費電力は1日平均90万kw、排出されたごみの量は合計40万㎥、迷子は4万8190人、救急車の出動は1万664回など、さまざまな記録が残されています。
2024.12.13
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モネが晩年に描いた壮大な装飾画と彼の芸術への情熱に触れる『モネ 睡蓮のとき』展
フランス・パリで生まれ、「印象派」という美術運動の創始者としてあまりに有名な画家・クロード・モネ(1840年-1926年)。 自然の光と色彩を描くことに情熱を注ぎ、同じモチーフを異なる時間帯や天候で繰り返し描く「連作」という手法を用いた作品を多く残しています。 今回は、国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展に行ってきました! この企画展では、晩年のモネが情熱を注いだ大装飾画『睡蓮』をメインに、印象派として活躍した彼の世界に浸れる贅沢な内容が詰まっています。 パリのマルモッタン・モネ美術館の全面協力により、国内外から選りすぐりの名品が集結している点も見どころです! さらに、楕円形の地下展示室では壁面に配置された『睡蓮』の大作に囲まれる体験ができ、まるでモネの庭に足を踏み入れたような感覚を味わえます。 「モネ 睡蓮のとき」展は国立西洋美術館にて開催 国立西洋美術館で開催中の「モネ 睡蓮のとき」展は、その注目度の高さから平日でも多くの来場者で賑わっていました。 平日に訪れましたが、お昼過ぎであったこともあり、チケット売場には長い列ができていました。 モネの「睡蓮」という普遍的な人気を持つテーマが多くの人々を惹きつけているともいえますね。 午後の時間帯は、観覧チケットの購入だけでなく、ミュージアムショップのグッズ購入でも列ができ混雑しているため、空いている時間を狙うならなるべく午前中の早い時間がよさそうです。 「モネ 睡蓮のとき」展では、アンバサダーを務める石田ゆり子さんが音声ガイドを担当しています。 音声ガイドでは、モネの人生や作品にまつわるストーリーを彼女の温かな声で解説してくれます。 まるで彼女の案内でモネの世界を散策するような、特別な時間を楽しめるでしょう。 当日貸出価格:650円(税込) およそ50点!日本初公開も含めた、モネの名品がずらり 今回のモネ展では、世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館から、日本初公開となる作品を含む約50点のクロード・モネの作品が展示されています。 さらに、日本国内の美術館が所蔵するモネの名品も加わり、晩年におけるモネの創作活動を多角的に掘り下げる試みがなされています。 モネの人生後期に焦点を当てたこの展示は、彼が追い求めた光と色彩の世界を存分に味わえる内容です! なお、企画展は基本的に撮影が禁止されています。 ただし、地下展示室に展示されている3章の作品は写真撮影が可能です。 第1章:セーヌ河から睡蓮の池へ 1890年代後半、モネが繰り返し描いた主要なモチーフは、3年連続で訪れたロンドンの風景、そして彼の画業を通じて最も身近な存在であったセーヌ河の風景でした。 この時期に描かれたセーヌ河沿いの水辺の風景は、水面に映り込む鏡像が重要なテーマとなっています。 鏡のように穏やかな水面に映る光や景色を巧みに捉えたこれらの作品には、のちの代表作『睡蓮』を予見させる要素が随所に見られます。 反映された像が揺らぎながらも形を成すその表現には、彼の「見る」という鋭い観察眼と、自然の一瞬の美を捉えたいという情熱が感じられますね。 第1章では、そんなロンドンやセーヌ河を描いた名作が展示されており、モネがどのようにして『睡蓮』の世界観を築き上げていったのかを、時間を追いながら楽しめます! セーヌ川の支流であるエプト川を舞台にした作品『舟遊び』。 モネは、この川辺の風景を繰り返し描きながら、水面に映る光とその反映像の美しさを探求し続けました。 晩年に手がけた「睡蓮」のような、画面全体を水で覆う大胆な構図の片鱗がこの作品からも感じられますね。 らに、このセーヌ川を描いた他の作品も多く展示されており、それぞれ異なる「表情」を楽しめます。 寒色を基調とした作品は、空気の冷たさや透明感を巧みに表現し、暖色が差し込むものは陽光の温かさを感じさせてくれます。 同じセーヌ川を題材にしながらも、瞬間ごとに移ろいゆく光と空気を見事に捉えたモネの視点に驚かされるばかりです! また、モネはロンドンを訪れた際、テムズ川に架かるチャーリング・クロス橋を何度も描いていたようです。 この橋を題材とした一連の作品は、時間や天候、光の変化による風景の多様性を鮮やかに捉えています。 たとえば、朝日が昇りきり、川や空気が柔らかな黄色の光に包まれる情景。 モネは、光が水面をどのように照らすか、そして川辺の空気がその光をどのように拡散するかを細やかに表現しています。 一方、朝焼けや夕焼けのころ、川と煙が赤みを帯びた光に染まる作品も。 モネの、一瞬の移り変わりを見逃さない観察眼と光をどれほど巧みに操っていたかを間近で感じられる作品たちでした。 モネは、日本の美学に深く共感し、その影によって物の存在を暗示し、断片によって全体を感じさせる表現方法に強く影響を受けました。 その象徴的な作品が『睡蓮』であり、彼の作品の中ではしばしば、影や反射が重要な役割を果たしています。 『睡蓮』というと淡い色合いで幻想的な風景のイメージをもつ人も多いでしょう。 今回の展示では、赤をメインとした睡蓮の作品もいくつか鑑賞しました。 なかには、水平方向に広がる水面をあえて縦型のキャンバスに収めることで、黄昏時の赤く染まる空気と、その光の反射が水面に広がる様子を強調した作品も。 モネが追い求めた光や色の奥深さの新たな一面を見れたように感じます。 第2章:水と花々の装飾 大の園芸愛好家として知られるモネ。 彼の庭は、まるでキャンバスに絵具を載せるように、色鮮やかな花々で彩られていました。 その美しい庭は、彼の創作活動に大きなインスピレーションを与えた場所でもあります。 モネが構想しながらも実現することのなかった幻の装飾画に登場する植物たち。 池に架けられた太鼓橋を覆うように這う藤棚と、岸辺に咲くアガパンサスの花々が、この計画で重要な役割を担っていました。 紫や白の藤が揺れる橋と、青紫のアガパンサスが並ぶ風景は、モネが愛した自然そのものであり、彼が追い求めた色彩の世界を象徴する存在です。 また、モネが「睡蓮」に次いで多く描いた植物、それがアイリスです。 そのなかでも、作品番号25の『黄色いアイリス』はユニークな視点で描かれており、解説をみて驚きました。 この作品では、アイリスの花が真横から描かれ、その背後に広がる空と雲が水面に映り込んでいます。 一見すると、アイリスの花を下から見上げ、空と雲を同時に捉えているように感じられます。 しかし、解説を見ると、この作品は真横からアイリスを見た視点と、水面に反射する空と雲を上からみた視点の2つで構成されているとのことでした! まるで、モネが寝転がりながら花を見上げて描いたかのような自然な構図の中に、計算された構図の妙がありますね。 モネの庭に咲く植物たちは、彼の作品の重要なモチーフとなり、「アイリス」以外にも「アガパンサス」や「藤」なども題材にされています。 それぞれが異なる視点や光の演出で描かれており、植物を通して自然の豊かさや多様性を感じ取れます。 モネの作品は、単なる植物画を超え、その花々がある場所や時間の空気感までも描き出している点に、何度も引き込まれてしまいますね。 第3章:大装飾画への道 第3章では、まるでパリのオランジュリー美術館にある楕円形の部屋を彷彿とさせるような特別な空間が広がっています。 白を基調としたシンプルな楕円形の展示空間では、鑑賞者が睡蓮の池に囲まれるような感覚を味わえます。 水面に映り込む木々や空の柔らかな表現が、まるでその一部になったかのような没入感を与え、ただ「見る」だけでなく、「感じる」絵画体験を楽しめるでしょう。 また、旧松方コレクションの『睡蓮、柳の反映』も今回の企画展で注目したい作品の一つです。 モネが生前に唯一売却を認めた4メートルを超える巨大な装飾パネルであり、そのスケール感と芸術性に圧倒されます。 しかし、2016年に再発見された際には、上部の大半が欠損している状態だったとのこと。 今回の企画展では、この作品とともに、欠損前の姿を想像させる類似の作品も並べて展示されています。 これにより、かつての『睡蓮、柳の反映』がどのような壮麗な姿をしていたのかに思いを馳せることができますね。 失われた部分を想像しながら鑑賞する体験は、モネの創作の背景や彼が求めた芸術の理想に触れる貴重な機会となりました。 なお、企画展のなかで第3章は唯一写真撮影が可能な空間です。 ぜひ、モネが描いた『睡蓮』を写真に収め、後から余韻に浸るのもまたよいでしょう。 また、地下展示室を抜けるとサシャ・ギトリによるドキュメンタリーも放映されていました。 モネをはじめ、同時代に活躍したオーギュスト・ロダンやピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガといった著名な芸術家たちを記録した貴重な無声の映像作品です。 また、当時の舞台女優サラ・ベルナールや作曲家カミーユ・サン=サーンスなども登場し、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化的な空気感がリアルに伝わってきます。 中でも印象的なのは、立派な白ひげを蓄えた貫禄あるモネの姿。 タバコのようなものをくわえながら、パレットから色を取り、力強くキャンバスに向かうその姿は、まさに芸術家そのものでした。 モネがどのような思いで自然と向き合い、色を重ねていったのか、その一端を垣間見ることができる貴重な映像作品です。 第4章:交響する色彩 第4章では、モネが晩年に大装飾画の制作と並行して描いた小型の連作群が展示されています。 彼の庭に架けられた日本風の太鼓橋や、バラが咲き誇るジヴェルニーの庭が描かれ、モネが愛した自然の一部が色鮮やかに表現されているのが特徴的でした。 モネの晩年の作品には、白内障の影響が色濃く反映されています。 そのころの色彩は以前に比べて濃く、原色に近い鮮やかな色合いが多く見られ、暖色系が頻繁に使われるようになったと感じられました。 たとえば、作品番号49の『日本の橋』では寒色が中心でありながらも、そのトーンは深く、濃密な色彩が印象的です。 白内障という視覚障害を抱えながら、モネが何を思い絵筆を握っていたのか。 これまでのような繊細な色使いができなくなったことに対する失望や、描きたいものを思うように表現できない無念さがあったのかもしれません。 それでもなお、彼は新たな作品を生み出し続けました。 その中で、過去の自分とは異なる表現を模索し、新たな芸術の境地に挑戦していたのではないかとも考えられます。 作品番号65の「ばらの庭から見た家」では、白内障を患う中で描かれたとは思えないほど淡い色調とともに、ピンクや紫が幻想的に溶け合い、まるで夜の夢の中の風景を切り取ったかのようです。 視覚の制限を超えて、モネが自らの心に映る情景を描き続けたことが伝わってきます。 そして、実はこの作品は、モネが白内障の手術を受けた後に描かれたものだそうです。 白内障の手術を受けた後、モネの視界は片目は寒色系を認識できるようになったものの、もう片目はこれまで通り白内障の影響で暖色系に見えるという状態だったのです。 このような複雑な視覚の条件下で生まれた作品だからこそ、現実とモネ自身の内面が交錯した独特の色彩が生まれたのかもしれません。 白内障という逆境の中で、モネは新たな視点と色彩を見出しました。 それは、彼の芸術家としての情熱が尽きることなく、むしろハンデを乗り越えて新しい芸術の可能性を切り開いた証といえるのではないでしょうか。 モネが追い求めたものは、変わりゆく自然の美しさだけではなく、自らの限界を超えた先にある新たな表現の世界だったのかもしれません。 彼の晩年の作品を通じて、私たちは「見ること」「描くこと」の深い意味をあらためて考えさせられます。 エピローグ:さかさまの世界 1914年、モネは〈睡蓮〉を含む大装飾画の制作に着手しました。 同年、第一次世界大戦が始まり、人々が未曽有の悲劇に直面していた最中のことです。 そんな時期に彼はこう綴っています。 「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです。」 モネが筆を取り続ける理由、それは単なる絵画制作を超えた、生きるための行為であり、苦難の中にあって自身を保つための術だったのかもしれません。 モネが目指したのは、鑑賞者が無限の水の広がりに包まれ、静かに瞑想できる空間。 その発想は、西洋絵画の伝統である遠近法を否定し、人間中心主義的な視点から脱却しようとする挑戦ともいえるものでした。 これを「森羅万象が凝縮されたさかさまの世界」と称したクレマンソーは、モネの死後も彼の志を支え続け、1927年に大装飾画がオランジュリー美術館に設置される運びとなったそうです。 うっとりするようなデザインのグッズがあるのは、モネ展ならでは 「モネ 睡蓮のとき」展では、モネの世界観を五感で体験できるユニークなグッズが充実しています。 企画展の記念やお土産としてぴったりなアイテムをいくつかご紹介します。 食べてひたるモネ:ヴォヤージュサブレ Sablé MICHELLEが手がける焼き菓子「ヴォヤージュサブレ」。 美味しいだけでなく、缶には大人気の《睡蓮》がプリントされています。 この特製缶は食べ終わった後も使えるので、展覧会の思い出として長く楽しめます。 触れてひたるモネ:シュニール織ハンカチ 歴史と伝統あるFEILER(フェイラー)がデザインしたシュニール織ハンカチは、グリーンとピンクの2色展開。 柔らかな手触りと上品なデザインが特徴で、今回の企画展だけの特別なアイテムです。 普段使いはもちろん、ギフトとしてもおすすめ。 歩いてひたるモネ:オールスター スニーカー 「White atelier BY CONVERSE」が手がけたオールスターは、左右の外側とタン部分に『睡蓮』をプリントしたデザインが特徴的。 鮮やかな色彩で描かれたこのスニーカーは、履くたびにモネの世界を感じられる特別な一足です。 展覧会限定のこれらのグッズは、モネの名画をさまざまな形で楽しめる貴重なアイテムばかりです。 この機会に、ぜひお気に入りを見つけてみてください。 モネの『睡蓮』と彼が紡ぎ出した芸術の世界を体感できる「モネ 睡蓮のとき」展 同じ場所でも、一秒たりとも同じ景色は存在しない。 それを感じさせてくれたのが、今回の企画展で展示されていたモネが描き続けたセーヌ川や睡蓮の風景です。 水面に映る光と影、風の動きや空の色。 絵画を通じて、時間の流れを感じつつも、その一瞬の尊さを教えてくれるモネの作品は、日常の何気ない景色すら特別に思えるきっかけを与えてくれるでしょう。 ぜひ、企画展に足を運んで、モネの『睡蓮』を間近で感じてみてください。 水面に映る美しい風景とともに、あなた自身もその絵画の一部となったような感覚を楽しめるはずです。 開催情報 『モネ 睡蓮のとき展』 場所:国立西洋美術館 住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園7番7号 期間:2024年10月5日~2025年2月11日 公式ページ:https://www.nmwa.go.jp/jp/ チケット:一般2,300円、大学生1,400円、高校生1,000円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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草間彌生の死生観を辿る「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展
皆さんは、草間彌生(1929年-)を知っていますか? 1957年に渡米した彼女は、自己消滅をテーマにした網目模様の絵画で注目を集めました。1960年代には水玉模様を人体に描くパフォーマンスで生命の美を反戦と絡めて表現。 1970年代に帰国後、死をテーマにした暗い作品が中心となりますが、80年代後半には輪廻転生や永劫回帰を描き始めます。 2000年代以降は、迫り来る死への意識を創作のエネルギーに変え、生きる喜びをカラフルに描き続けています。 今回は、草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を運びました! この展覧会では、1940~50年代の戦争の影響が反映された絵画から、近年の最新作に至るまで、多様な作品を通して草間彌生の死生観の変化を感じ取れる内容となっています。 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は草間彌生美術館にて開催中 新宿区弁天町に位置する草間彌生美術館。 外観は縦長で、白を基調としたシンプルかつ洗練されたデザインが特徴的です。 カラフルで独創的な草間作品とは正反対の印象を受けました。 今回の企画展「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」は、日時指定の完全予約制(各回90分)でゆっくり鑑賞できるのがうれしいポイントです。 入口でQRコードを提示すればスムーズに入館できます。 今回、訪れた際は海外からの観光客が多く、国際的な人気を感じる空間でした。 館内1階には荷物を預けるロッカーがありますが、その数が少ないため混雑時には利用できない可能性があります。 大きな荷物は避け、身軽な状態で訪れると安心です。 また、展示会場は1~5階の全5フロアに分かれています。 一つの階ごとにテーマが分かれており、スムーズに鑑賞が進められる工夫がされています。 1~3階では写真撮影が禁止されているため、作品を心でしっかり楽しむことに集中しましょう。 一方、4階の映像作品と5階屋上の「かぼちゃ」の作品は撮影OKです。 屋上のかぼちゃは、草間ワールドの象徴ともいえる作品で、多くの人が記念撮影を楽しんでいました。 生命力あふれる作品に圧倒される展示が… 草間彌生美術館で開催中の「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展に足を踏み入れると、まず1階のエントランスから大きな作品が私たちを迎えてくれました。 生命力を感じさせる立体作品『生命(REPETITIVE VISION)』(1998)と、草間が生と死をテーマにした絵画シリーズ「わが永遠の魂」からの2点、『永遠に生きていきたい』(2017)と『自殺の儀式』(2013)が展示されています。 『生命(REPETITIVE VISION)』は、黒地に黄色の水玉模様が描かれ、植物のように上へ上へと伸びようとする姿が印象的です。 この作品は、草間が60年代に性的な強迫観念を表現したソフト・スカルプチュアの延長ともいえる作品です。 しかし、強迫観念からくる抑圧的な印象を超えて、生命が力強く伸びようとする力強さを感じさせます。 どこか生命のエネルギーを感じるこの作品に、思わず息を呑んでしまいました。 また、後方に展示された2点の絵画『永遠に生きていきたい』と『自殺の儀式』も印象的です。 この2つの作品は、生と死という相反する感情を常に持ち合わせながら創作に向かった草間の姿勢を感じさせ、彼女がどれほど内面的な葛藤を抱えながら作品を生み出してきたのかを想像させてくれるような作品です。 2階では、1950年代から80年代にかけて、さまざまな方法で死に向き合いながら生まれた草間の作品が並び、彼女の創作における真摯な探求心が感じられます。 まず、注目すべきは初期の代表作『残夢』(1949)。 赤く荒れ果てた大地に枯れたひまわりが描かれており、戦争の死の記憶が生々しく残る当時の空気を感じさせます。 この作品には、草間が生きた時代背景と、戦争がもたらした深い影響が色濃く反映されているのでしょう。 続いて、草間が1957年に渡米し、60年代に「自己消滅」というテーマのもとで創作した作品やヌード・パフォーマンスにも注目したいところです。 ベトナム戦争を背景にした反戦運動と呼応する形で生み出された草間のパフォーマンス作品は、死と向き合わせることで生まれた芸術的表現の一端を垣間見ることができます。 そして、70年代に恋人や父などの身近な人の死や心身の不調に直面して帰国した草間は、より直接的に死をテーマにした作品に取り組むように。 フロアの中央に展示された『希死』(1975-76)は、生命力に満ち溢れた1階の作品『生命(REPETITIVE VISION)』とは正反対の印象を与えるソフト・スカルプチュアです。 冷たく輝く銀色のファルスが死のイメージを強く印象付けます。 無機的な表現が、草間が直面した深い絶望と向き合う姿勢を象徴しているかのように思えました。 また、草間自身の言葉による詩も強く印象に残っています。 帰国後の彼女の作品には、死への強い意識が表れたものが多くあります。 詩とともに展示されている作品が、草間の内面的な葛藤や創作への情熱をより一層深く感じさせてくれるでしょう。 3階では、最新作のインスタレーション『再生の瞬間』(2024)が展示されています。 この作品は、天井まで伸びる樹木のような巨大な構造で、生命の力強さを感じさせてくれます。 筒状に縫い合わせた水玉模様の布に綿を詰めたその形は、まるで枝を四方に伸ばしているようで、周囲に広がる生命のエネルギーをイメージさせるものです。 インスタレーションとセットで展示されているのが、1988年の平面作品『命の炎―杜甫に捧ぐ』です。 背景の赤いキャンバスに描かれた白い無数の水玉模様にはしっぽのようなものが生えており、まるで精子のようにも見え、生命の根源的な存在を象徴しているようにも感じられます。 ほかの平面作品からも生命の動的な力が感じられ、2階の展示とは対照的に、展示室全体にあふれる生の躍動感が伝わってきました。 4階に展示されている、2010年制作のヴィデオ・インスタレーション『マンハッタン自殺未遂常習犯の歌』は、視覚的にも感覚的にも非常に強い印象を残す作品です。 こちらは草間彌生自身が出演する映像作品で、詩を歌う姿が強く印象に残っています。 映像が合わせ鏡によって無限に増殖していくという構造も特徴的でした。 詩の内容は、死というテーマに深く根ざしており、「去ってしまう」「天国への階段」「自殺(は)てる 現在は」といった言葉が散りばめられています。 これらのフレーズには、草間自身の内面の葛藤や死への衝動がにじみ出ているように感じられます。 一方で、「花の煩悶(もだえ)のなかいまは果てなく」「呼んでいるきっと孤空(そら)の碧さ透けて」といった清涼さがあり、どこか永遠を感じさせる言葉も見受けられました。 草間は死と向き合いながらも、それを単なる終わりとして捉えることなく、むしろ新たな何かを生み出す力として表現しているのだと感じられました。 この映像作品で詠われている詩の両義的な言葉は、見る者の心に強く訴えかけ、死というテーマの深さを改めて考えさせられます。 5階にある屋外ギャラリーでは、最新作の「かぼちゃ」をモチーフにした作品『大いなる巨大な南瓜』(2024)が展示されています。 草間の代名詞ともいえるアイコニックな作品で、美術や芸術に詳しくない人も見たことがあるのではないでしょうか。 展示全体を通じて、草間の死生観を感じたあとに最新作の「かぼちゃ」を鑑賞すると、生命の象徴としての力強さが伝わってきます。 屋外ギャラリーでの作品鑑賞後、観賞者はエレベーターで1階のロビーに戻る順路になっていますが、この動線自体が、生と死の輪廻を思わせるようでした。 美術館限定のグッズやあの水玉模様のグッズまで 草間彌生美術館のショップスペースでは、草間彌生の作品を象徴する水玉模様や網目模様のグッズがずらりと並んでいます。 例えば、アイコニックな水玉デザインの缶が目を引く「プティ・ゴーフル」は、上野風月堂とのコラボレーションで、サクサクの生地にバニラ風味のクリームがサンドされています。 さらに、「かぼちゃ缶」のプティ・シガールは、ヨックモックとのコラボ商品で、美術館限定アイテムとして大人気です。 どちらも美術館限定の商品なので、アート鑑賞を楽しんだ後はぜひお土産として手に入れてください。 また、企画展の図録も販売されているため、草間彌生の世界観にいつでも触れていたいという方は、購入を検討するのもよいでしょう。 死と生を見つめる『私は死を乗り越えて生きてゆきたい』展 草間彌生美術館で開催されている「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展は、草間彌生がどのように創作によって「死を乗り越えてきたのか」というテーマに迫る展覧会です。 草間の作品は、死を意識させるものもあれば、逆に色彩豊かでエネルギッシュな作品が並び、命の力強さを感じさせます。 その両面を見つめることで、彼女がどのように内面的な葛藤を創造的なエネルギーに変えてきたのか、少しだけその答えに触れることができるかもしれません。 展示空間自体も非常に魅力的で、外観と内観、そして作品の大胆さと繊細さが見事に融合しています。 アートに包まれるような感覚を味わえるだけでなく、美術館そのものが一つのアート作品のような印象を与えてくれます。 草間の作品を観賞するだけでなく、美術館全体の雰囲気を楽しむことができるので、ぜひ一度足を運んでみてください。 開催情報 「私は死を乗り越えて生きてゆきたい」展 場所:草間彌生美術館 住所:〒162-0851 東京都新宿区弁天町107 期間:2024/10/17~2025/03/09 公式ページ:https://yayoikusamamuseum.jp/ チケット:一般 1,100円、小中高生 600円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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竹久夢二のスタート地点を鑑賞する「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」に行ってみた!
皆さんは、「大正ロマンの画家」と呼ばれる竹久夢二(1884年-1934年)という画家を知っていますか? 夢二は、その独特な画風と美人画で広く知られていますが、彼のキャリアは画家だけにとどまりません。 実は、1907年の4月に読売新聞に入社し、記者としての道を歩んでいたのです。 22歳の彼が手掛けた瑞々しい時事スケッチや紀行文の連載は、紙面を彩り、読者を魅了しました。 今回は、竹久夢二美術館で開催されている「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展に行ってきました! 企画展では、記者としての夢二の仕事や、当時の読売新聞の記事も紹介されています。 夢二がいかにして社会に影響を与えたか、その軌跡をたどっていきましょう。 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」は竹久夢二美術館にて開催 竹久夢二美術館は、大正ロマンの画家として知られる竹久夢二の作品を中心に展示する美術館で、東京都文京区弥生に位置しています。 夢二の描いた女性像「夢二式美人」をはじめ、挿絵やデザイン、詩作など多岐にわたる彼の活動を紹介しています。 また、美術館の隣には明治・大正・昭和の挿絵画家に関連する展示を行う弥生美術館もあり、入場券が共通のため1枚で両方の美術館を楽しめるのが魅力です。 開催中の展覧会「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」は、竹久夢二の生誕140年と読売新聞の創刊150周年を記念して開催されています。 なお、竹久夢二美術館内は、写真撮影が禁止されています。 展示会場の出口にあるフォトスポットのみ撮影が可能です。 竹久夢二展の見どころ 竹久夢二美術館で開催中の「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展は、夢二が記者として活動していた時代に焦点を当てた、これまでにない新たな取り組みによる展覧会です。 若き日の夢二が描いた新聞記事や挿絵、スケッチを通じて、アーティストとしての彼の初期の足跡をたどれます。 夢二展史上初めての試みで、彼の多才ぶりと成長の過程を深く知れる貴重な機会となるでしょう。 夢二は読売新聞を退社後、画家や詩人、デザイナーとして活躍し、文化界で広く注目される存在となりました。 今回の企画展では、夢二が新聞記者から取材対象となり、紙面にたびたび登場するようになった様子も紹介されています。 夢二が文化人として時代を彩った軌跡が、読売新聞との関係を通して鮮やかに浮かび上がります。 さらに、夢二が活躍した当時の銀座に関連する展示も見どころの一つです。 当時、読売新聞社は銀座に本社を構えており、夢二が手掛けた銀座千疋屋や資生堂ギャラリーのデザイン仕事を通じて、彼と銀座の関わりを再発見できるでしょう。 戦前の銀座を中心とした夢二の活動を知ることで、彼の芸術が時代の商業デザインや文化にどのように影響を与えたのかがわかります。 新聞記者としても活躍した竹久夢二 竹久夢二の記者時代の足跡をたどる貴重な作品が展示された企画展のスタート地点ともいえるのが、劇作家・島村抱月が読売新聞の社会部長である小剣に宛てた手紙です。 手紙の中で、抱月は夢二の才能を高く評価し、特に「小さい写生画が得意で文も書ける」という点が新聞記者として適していると推薦していました。 抱月の後押しがあって夢二が新聞記者としてのキャリアを歩み始めることになったのです。 入社後に夢二が初めて掲載した作品「江戸川のさくら」は、彼の記者活動の象徴ともいえる一枚です。 また、入社時期が4月ということもあり、花の名所を巡って描いたスケッチも多数並んでいます。 春の息吹を感じさせる作品群は、夢二の新たな挑戦に対する情熱が伝わってくるようです。 また、夢二が東京勧業博覧会を取材した際のスケッチも展示されています。 この一連の作品は、当時の人々の様子を風刺を交えつつユーモラスに描いており、彼の観察力と表現力が光ります。 シンプルな線で描かれていながらも、一目で情景が分かる巧みさは、夢二の特徴ともいえるでしょう。 夢二は大人向けの記事だけでなく、子ども向け新聞にも多くの挿絵を提供していました。 動物や少年少女を描いたこれらの作品は、親しみやすさと温かみを持ち、子どもたちの心を掴む魅力に溢れています。 これらの挿絵は、夢二が記者としてだけでなく、画家としても多才であったことをあらためて感じさせてくれますね。 展示室内には、竹久夢二が読売新聞社での記者活動と並行して手掛けていた雑誌のイラストも展示されています。 これらのイラストは、彼の画家としての出発点を示す大切な作品群です。 夢二は美術学校に進学していないにもかかわらず、その独自の感性とタッチで雑誌に寄稿したイラストが読者の間で人気を博しました。 夢二独特の柔らかい線や淡い色彩で描かれた人物や情景は、多くの人々の心を掴み、画家としての名声を築くきっかけとなったのです。 雑誌イラストの人気が高まる中で、夢二の活躍の場は次第に広がり、やがて彼の画風は「夢二式美人」として多くの人々に認知されるようになりました。 このように、雑誌というメディアが彼のキャリアを大きく後押ししたことが、今回の展示からもはっきりと伝わります。 今回の企画展では、竹久夢二が描き続けた「夢二式美人」の魅力も存分に堪能できます。 彼の妻である岸他万喜らをモデルにした作品が多数展示されており、夢二が抱く理想の女性像が感じられる内容となっていました。 彼が描く女性たちは、優しそうなまなざしやもの憂いげな表情が特徴的で、その繊細な表現は見る人を惹きつけます。 空想から生まれた美しい娘たちを表現することに注力した夢二の女性像が、どのように発展していったのかをたどれる魅力的な展示でした。 夢二の才能が発揮されたのは女性像をメインにした絵だけにとどまりません。 彼は松井須磨子や浅草オペラの関連作品を手掛け、楽譜や歌劇の絵を担当するなど、多岐にわたる芸術分野に携わりました。 また、大正時代に注目された「モダンガール」のイメージを描いた夢二の作品群も展示されています。 婦人グラフの表紙や少女世界の口絵などの商業作品では、当時の女性たちの新しい生き方や価値観を表現しており、夢二のアーティストとしての柔軟さと時代感覚が光ります。 夢二が読売新聞社を退社してからの活動には、日本画やデザイン、詩作など幅広い分野があります。 新聞時代の延長線上にある寄稿活動も行っており、読売新聞の文芸欄や婦人欄では、彼の絵画論や女性美への考察、さらには生活を豊かにする趣味についてのエッセイが展開されました。 これらの寄稿から、夢二がどれほど多才で視野が広かったかがうかがえますね。 また、今回の特別展示として油彩画「モントレーの丘から」も展示されていました。夢二が海外旅行中に描いた風景画で、彼の色彩感覚や異国への憧れが感じられる一枚です。 普段はあまり見られない油彩技法による作品は、彼の新たな一面を知る絶好の機会といえるでしょう。 夢二のデザインセンスは、商業広告にも顕著に現れていました。 なかでも千疋屋の広告は、シンプルでモダンなデザインが目を引きます。 夢二のデザインは洗練された都会的なセンスを持ち合わせており、その新しさが際立ちます。 また、今回の展覧会で初公開となる日本画『白桃や』と『南枝王春』は、見どころの一つです。 友人への贈答品として描かれた日本画で、どちらも大変丁寧に描かれたことが分かる色使いや仕上げが目を引きます。 レトロモダンでかわいいグッズも見逃せない 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展を楽しんだ後は、ぜひミュージアムショップにも立ち寄ってみてください。 ショップでは、夢二をはじめ、大正ロマンを象徴する中原淳一や竹久夢二の商品が多数揃っています。 商品ラインナップ ・ポスター(B3サイズ・カラー):展示作品を自宅で楽しむのにぴったりです。 ・絵はがき:夢二の繊細なタッチが手軽に楽しめるアイテム。 ・ぽち袋やクリアファイル:日常使いに便利で、実用性も高いアイテムが揃っています。 ・マグネットやタオル:夢二のデザインが生活に彩りを添えてくれる雑貨も人気です。 ・メモ帳やレターセット:夢二の世界観を手紙やメモに活かせます。 ミュージアムショップの受付時間は、10:30~16:30です。 展示を楽しんだ後の余韻に浸りながら、ぜひお気に入りの商品を手に入れてください。 夢二の功績とその道筋を堪能しよう 「竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~」展では、新聞記者としての夢二がどのようにして文化の旗手へと成長していったのか、その道筋を堪能できる貴重な機会が提供されています。 新聞記事や取材スケッチを通じて、夢二の行動力や好奇心に満ちた姿が浮かび上がり、歴史とアートの交差点に立つような知的なひとときを楽しめます。 新聞記者としての夢二がどのようにして文化の旗手へと成長していったのか、その道筋を楽しむことができる展示となっています。歴史とアートの交差点に立つような、知的好奇心を満たすひとときが待っています! 展覧会を満喫した後は、美術館併設のカフェ「港や」でひと休みするのもおすすめです。 このカフェの名前は、竹久夢二が大正3年に開店した「港屋絵草紙店」にちなんで名づけられました。 コーヒーや紅茶、ケーキセットやカレーなど、アート鑑賞の余韻に浸りながら楽しめるメニューがそろっています。 竹久夢二の新しい一面に触れ、彼の作品世界に深く浸れる本展。 アートファンや歴史好きな方だけでなく、夢二を知らなかった方にとっても、新たな発見が待っていることでしょう。 開催情報 『竹久夢二と読売新聞 ~記者・夢二の仕事とそれから~』 場所:竹久夢二美術館 住所:〒113-0032 東京都文京区弥生2-4-2 期間:2024/09/28~2025/01/26 公式ページ:https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/outline.html チケット:一般1,000円、高校生900円、中・小学生500円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.11
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うっとりするガラス工芸の美しさ…「没後120年・ガレ展」
美術館「えき」KYOTOにて開催されている、「没後120年 エミール・ガレ展 美しきガラスの世界」。 アール・ヌーヴォーの中心人物であり、ガラス工芸を芸術の域にまで高めたフランスのガラス工芸家エミール・ガレの没後120年を記念して開催されたもので、ガレの偉業を振り返る約70点の美しいガラス作品が展示されています。 ガラスで表現された美しく繊細なガレの作品たちは、見る者をうっとりとさせずにはいられません。貴重な作品たちが間近で鑑賞できるこの「エミール・ガレ展」、堪能してきました。 パリ万博で有名になった、エミール・ガレ エミール・ガレも出品したパリ万博とは パリ万国博覧会(パリ万博)は、19世紀から20世紀にかけてフランスの首都パリで複数回開催された国際的な大規模イベントです。 1855年に第1回が開催され、その後も定期的に開催されました。パリ万博は、世界中の国々が参加し、最新の技術や文化、芸術を展示する場となりました。 特に1889年の万博は、フランス革命100周年を記念して開催され、エッフェル塔が建設されたことでも有名です。この万博では、シャン・ド・マルス公園やトロカデロの丘などが会場となり、機械館や自由芸術館など、当時の最新技術を駆使した建築物が展示されました。 その翌年、1900年の万博は19世紀最後の国際博覧会として開催され、第2回近代オリンピックと同時開催されるなど、世界的な注目をいっそう集めました。 世界の文化や技術の発展に大きく貢献したパリ万博は、国際交流の場として機能しただけでなく、建築や芸術の分野で革新的なアイデアが生まれる契機となり、パリの都市計画や観光産業にも大きな影響を与えました。 例えば、1889年の万博で建設されたエッフェル塔。 当初は一時的な建造物として計画されましたが、その後はパリのシンボルとして、現在に至るまで世界中から多くの観光客を集めるパリ随一の名所となっています。 このように、パリ万博は、その時代の科学技術や芸術、文化の粋を集めた国際的なイベントとして、世界中から注目を集め、現代のグローバル社会の基礎を築いたと言えるでしょう。 パリ万博での受賞がガレを一躍有名に エミール・ガレもパリ万博で有名になった芸術家の1人。 ガレは、1889年のパリ万博に、ガラス工芸品300点、陶器200点、家具17点を出品しました。 彼のガラス作品には、複雑な層状技法や酸腐食技法を用いた花や昆虫のモチーフが施された繊細な作品が多く施されており、これらの陶器作品は、日本の影響を受けた装飾技法や自然主義的なデザインが特徴的でした。 また、家具作品は、木材の自然な風合いを生かしつつ、繊細な象嵌細工や彫刻を施した芸術性の高いものでした。 その結果、ガレはガラス部門で大賞、陶器部門で金メダル、家具部門で銀メダルを受賞するという輝かしい成績を収めました。この功績により、ガレはレジオン・ド・ヌール勲章四等を受章し、国際的な名声を得ることとなりました。 その後、ガレは1900年のパリ万博にも出品し、69点の家具と73点のガラス器を展示しました。 この万博では、「ラ・マイン・オ・アルジャン(銀の手)」と呼ばれる象嵌細工を施した家具や、複雑な層状技法を用いた「風景画」ガラスなど、より洗練された作品を発表。ガラスと家具の両部門で大賞を獲得し、レジオン・ド・ヌール勲章三等に昇格しました。 1889年から1900年のパリ万博までの11年間は、ガレ工房が最も隆盛を極めた時期とされています。ガレの作品は、その芸術性と技術の高さで多くの人々を魅了し、アール・ヌーヴォーを代表する作家としての地位を確立していくこととなり、そのきっかけがパリ万博だったのです。 ガレのガラス製品と「アール・ドゥ・ヴィーヴル(Art de Vivre)」 フランスに息づく考え方「アール・ドゥ・ヴィーヴル(Art de Vivre)」は「暮らしの美学」とも訳され、日常を豊かにする工夫を大切にする考え方です。 この考えはガレの作ったガラス製品にも根付く考え。ガレは優れた芸術性を備えながらも日用品として使用することができるガラス製品を多く残しています。 例えば、美しいランプやテーブルウェア、香水瓶など。 日用品としての機能を備え、そして生活を豊かに彩る高い芸術性も同時に持ち合わせたガレの作品は、当時の人々を魅了しました。特に、アール・ヌーヴォー様式に魅了された芸術愛好家や洗練された趣味を持つ上流階級や裕福な中産階級の人々に好んで使用されていました。 今回の展示でも、「生活を彩るガラス」として数多くの作品が展示されていました。 例えば、飾っておくだけでも美しく、うっとりとした気分にさせてくれるような香水瓶や、来客を迎えた際にそこにあるだけで華やかになるテーブルウェアの数々。 眠りを誘うオレンジの光がともされたランプは、明かりが灯ることでぼんやりと浮かび上がる模様にうっとりとさせられます。 実際にこれほど間近に、ガレの作品を鑑賞できる機会もなかなかないのではないでしょうか。 美しいガラスに囲まれていると、まるで当時のフランスの宮殿に暮らす人になったような、優雅で贅沢な気分になります。 ガレとジャポニズム さて、展示の終盤になると、これまでの作品とは少し趣の異なるテイストのガラス製品が複数展示されています。 私たち日本人にとっては、どこか懐かしくなじみある風景が描かれた作品たち。 山水風景が描かれたこれらの作品は、ガレがいわゆる「ジャポニズム」に深く感銘を受けたことの現れと言えるでしょう。 ガレは1867年のパリ万博で日本文化に触れ、日本美術に強い関心を抱いたといわれています。特に、自然の姿をそのまま描写する日本美術の特徴に魅了されたガレは、植物や昆虫などの繊細な表現を自身の作品に取り入れました。さらに、ナンシーの国立林業専門学校へ派遣されていた日本画家の高島北海との交流も、ガレの作品に日本的要素を取り入れるきっかけとなったといわれています。 山水風景だけではなく、トンボや蝶などの昆虫たちや、美しい花々、そして水墨画のようなぼかし表現も、ガレがジャポニズムから受けた影響は随所に見受けられます。 こういった作品が、ガレの作品が日本人にとっては親しみやすく、かつ新鮮さを感じさせるのでしょう。 展示作品には、トンボをモチーフにしたものも多くありました。 優雅な姿と、透き通った羽…ガレの高い技術だからこそ表現できる美しいトンボの姿は、アール・ヌーヴォーを効果的に表現したものといえるでしょう。 高い技術を駆使した美しい作品たち エミール・ガレの作品には、さまざまな高度な技術が用いられています。 代表的なものとして、被せガラス技法、エッチング、パチネなどの技法があげられますが、特に私が感銘を受けたのが、「スフレ」という技法が取り入れられた作品でした。 スフレとは「ガラスを吹くこと」を意味しており、作品は立体的な仕上がりとなっています。 あらかじめ型の中に果実、人物、動物などのレリーフを凹刻していたものを型の中に熱いガラスを吹き込んで成形するのがこの技法で、ガラスの表面に文様や模様を浮き立たせることができます。 ガレはこの技法を巧みに使い、繊細な図柄やよりリアルな描写を実現しています。 これまでにも写真や映像で彼の作品を目にしたことはありましたが、やはり実物を近くでみると、その精巧さと美しさには、思わずため息が出てしまうほどです。 実際に展示会場でも、さまざまな角度から作品を眺める人や、近くで見たり少し離れてみたりしながら楽しんでいる人も多くいました。 よりリアル、より幻想的なガレの世界を楽しんでほしい ガレの作品を充分に堪能できる、「没後120年 エミール・ガレ展」。 細部までリアルに描かれた描写と、ガラスだからこその幻想的な雰囲気――そして私たち日本人だからこそ感じるであろう、ガレへの親近感。 ゆったりとじっくりと眺めながら、当時、こうしたガラス製品が使用されたシーンやその室内を想像しながらタイムスリップしてみるのも、この展示の楽しみ方かなと思います。 美しきアール・ヌーヴォーの世界へ浸りたい方、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。 開催情報 「没後120年 エミール・ガレ展 美しきガラスの世界」 場所:美術館「えき」KYOTO 期間:2024/11/22~2024/12/25 公式ページ:https://www.mistore.jp/store/kyoto/museum.html チケット:一般1100円 高大生 900円 小中学生 700円 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.09
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「TORIO」展…3つ並べてみる感動と新たな発見 | 大阪中之島美術館
パリ・東京でも大人気だった「TORIO」展、大阪でも開催中 大阪中之島美術館で開催中の「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」展は、パリ、東京、大阪の3都市を代表する美術館のコレクションが一堂に会する展覧会。 この展覧会の最大の魅力は、各美術館のコレクションから厳選された作品が34のテーマに基づいてユニークなトリオ形式で展示されている点です。 20世紀から現代に至るまで活躍した日本と西洋のアーティスト総勢110名による約150点の作品が展示されており、その中には初来日となる32点の作品も含まれています。 モダンアートを象徴する巨匠たちから、現代の気鋭アーティストまで、幅広い作家の作品を一度に楽しめる貴重な機会といえるでしょう。 この展覧会は、パリ、東京、大阪の学芸員が1年以上にわたって自由な発想で議論を重ねて構成したもので、アート初心者から熱心なファンまで「見る」「比べる」「語る」という楽しさを私たちに提供してくれます。 大阪中之島美術館は、構想から40年・2022年に開館したばかりの新しい美術館。大阪にある美術館のなかでも最大級の広さで、国内外の作品を数多く展示しています。また、写真には写っていませんが、美術館前の定番写真としてよく撮影されているのは、ヤノベケンジによる作品『SHIP'S CAT(シップス・キャット)』。大阪中之島美術館のシンボルともいえるアート作品ですので、ぜひ見てみてくださいね。 https://daruma3.jp/kottouhin/381 時間も場所も超えて…魅力的な作品たちが展示されている「TORIO」展 私たちを迎えるのは、佐伯祐三の『郵便配達夫』を含む3作品 佐伯祐三 作品名:『郵便配達夫』 制作年:1928年 中之島美術館がオープンしたときにも展示されていた『郵便配達夫』(佐伯祐三)を含む3作品がお出迎え。 大阪に住んでいる方ならお分かりかもしれませんが、中之島美術館がオープンした2022年当初、この作品はポスターにも使用されていました。それもあってか、「ついに会えた!」という感動。 意図してかせずか、このはじまりに嬉しい驚きを覚えた来場者の方も多いのでは…!と思いました。 大阪の街並みにも出会える 展示作品には、大阪にゆかりのあるものもいくつかありました。 小出楢重 作品名:『街景』 制作年:1925年 たとえば、小出楢重の『街景』は、大正時代の大阪・中之島周辺を描いた作品。 ビルの上から見下ろす中之島の風景には、モダンな建物と工場の煙が眼下に広がり、商業の街として発展しつつある当時の大阪の様子が伺えます。 河合新蔵 作品名:『道頓堀』 制作年:1914年 また、大阪出身の河合新蔵も大阪の街を描いています。 この『道頓堀』では、現在はネオン輝く観光地となった大阪ミナミの中心地にかつてあった懐かしい光景が広がっています。 作品の新たなストーリーに出会えるのはTORIOだからこそ このほかにも、「TORIO」展ならではの視点で展示されたさまざまな作品を鑑賞することができます。 ダリやシャガール、ピカソ、岡本太郎などの誰もが知る有名画家の作品から、一般的には著名ではないかもしれませんが、独自の魅力が宿る作品まで、あらゆるTORIO作品を堪能できるのが、なんといってもこの美術展の魅力と言えるでしょう。 左: マリー・ローランサン 作品名:『プリンセス達』 制作年:1928年 中: 藤田嗣治(レオナール・フジタ) 作品名:『五人の裸婦』 制作年:1923年 右: ジャン・メッツァンジェ 作品名:『青い鳥』 制作年:1912-1913年 個人的に、特に感動したのが、マリー・ローランサンと藤田嗣治(レオナール・フジタ)を一緒に鑑賞できたこと。 美しく柔らかな曲線と陶器のような肌を持つ女性たちの絵を、こうして見ることができ、あたたかな幸福感を感じざるをえません。 ちなみに、この藤田嗣治(レオナール・フジタ)の『五人の裸婦』、実は人間の”五感”をあらわしているのだとか。 また、パリでの深い親交があったとされる岡本太郎の絵画と、ジャン・アルプの彫刻作品も、TORIO展では同じテーマの作品として楽しむこともできます。 「これはただ抽象ではないんだ。これらは生きているんだ。生活なのだ」 ― ジャン・アルプの言葉 (大阪中之島美術館:音声ガイダンス内での紹介) 抽象的でありながら、有機的な何かを感じさせる二者の作品をこうして同じ場所で鑑賞することができます。 パリ・東京・大阪を巡った「TORIO」展ももうすぐフィナーレ 普段ならなかなかお目にかかることのできない作品を、しかもこんなにたくさん鑑賞できるなんて、なんと贅沢な時間! 最終日まであとわずかのタイミングで来れたのは良かったですが、正直なところ「もっと早く来ておけば良かった…」というのが本音。 前期・後期で展示替えもあり、また、学芸員の方の解説が聞ける機会も何度かあったようで、もったいないことをしたな、と思いました。 しかし!ラッキーなことに、最終日間近ということで、グッズが少しお得になっていました。 セット価格で販売されている商品もありましたし、私は3,300円以上購入でもらえるミント缶をプレゼントしてもらいました。 https://daruma3.jp/kaiga/212 美術館の帰りは、近くのカフェで、目録やお気に入り作品のポストカードを眺めながらゆったりとしたひとときを過ごしました。グッズは、クリアファイルやポストカードなどの定番のものから、Tシャツやポーチ(3つの絵柄が現れる!)など実に多彩で、ついつい手に取ってしまいますね。 最終日まであとわずか! パリ・東京・大阪の3都市と、近代から現代までの時間を旅行したような満足感のある「TORIO」展は、大阪中之島美術館で開催中です。 開催情報 場所:大阪中之島美術館 期間:2024/09/14~2024/12/08 公式ページ:https://nakka-art.jp/exhibition-post/trio-2024/ チケット:一般 2100円 高大生 1500円 中学生以下 無料 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください https://daruma3.jp/kottouhin/441
2024.12.03
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「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」展:時を越えて鬼才たちの日本画の革新に迫る
皆さんは、「尾竹三兄弟」という名前を耳にしたことがありますか? 彼らは明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家、尾竹越堂(おたけ・えつどう)、竹坡(ちくは)、国観(こっかん)の三兄弟のことです。 新潟県出身の彼らは、かつて文展(文部省美術展覧会)など数々の舞台で脚光を浴び、「展覧会芸術の申し子」とも呼ばれる存在でした。 しかし、その反骨精神と大胆な挑戦は、時に議論を巻き起こし、次第に画壇の主流から外れてしまうことに。 世間の興味が彼らの型破りな生き様ばかりに注がれたことで、肝心の画業は長い間、見過ごされてきたのです。 そんな尾竹三兄弟の「革新」と「情熱」にスポットを当てたのが、現在泉屋博古館東京で開催中の「オタケ・インパクト」展。 この展覧会では、三兄弟の作品が再評価され、彼らの真の魅力が日本画の歴史の中で再び輝きを取り戻しています。 一風変わった兄弟の絵画世界、そのインパクトを肌で感じるべく、展覧会を訪れた体験をお届けします! 「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」は泉屋博古館東京にて開催中 泉屋博古館東京は、六本木のビジネスエリアにありながら、緑に囲まれた静かな環境に位置しており、訪れる人々に落ち着いた雰囲気を提供しています。 都市の喧騒から離れた隠れ家的な美術館であり、アートを楽しむための静かな空間です。 そんな泉屋博古館東京で開催されている「オタケ・インパクト ―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」は、尾竹三兄弟の個性が詰まった作品が一堂に会する、見逃せない内容となっています。 尾竹三兄弟のアナーキーな創作魂を、ぜひ会場で体感してみてはいかがでしょうか? 日本画好きなら必見!尾竹三兄弟の作品を一挙に鑑賞 泉屋博古館東京で開催中の「オタケ・インパクト ―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」は、革新性にあふれた尾竹三兄弟の作品と生涯に迫る、日本画好き必見の企画展です。 見どころの一つは、三兄弟それぞれの代表作が一堂に集結し、彼らの独特な画風や創作の背景を深く知れること。 越堂の大胆で力強い輪郭線、竹坡の洋画風の挑戦、国観の繊細な筆致など、どれも一見の価値ありといえます。 彼らがどのように「展覧会芸術の申し子」として名を馳せたのかが、作品から感じ取れます。 特に注目なのが、明治43年に国画玉成会へ出品されながらすぐに撤去されてしまった伝説の作品『絵踏』。 今回の展示が、初公開となるそうです! また、新たに発見された作品や東京初公開のものも多く、彼らの画業を再評価する貴重な資料がそろっています。 三兄弟は、美術界の重鎮だった岡倉覚三(天心)との対立を経て、従来の枠組みにとらわれないアナーキーな創作活動を展開しました。 今回の企画展では、そのエキセントリックな作品や活動を通じて、既存の美術史では語られなかった多様な視点を浮き彫りにしてくれます。 新旧の作品が織りなす多彩な表現を通じて、彼らが日本画に残した影響や革新性をぜひ感じてみましょう。 第1章:「タツキの為めの仕事に専念したのです」 ―はじまりは応用美術 尾竹三兄弟の画家としての歩みは、幼少期から始まりました。 彼らの父・倉松は文筆や絵画に親しみ、兄弟たちに創作の楽しさを教えた人物。 竹坡と国観は、幼少期に尾竹家に滞在していた南画家・笹田雲石から基礎を学び、雅号まで授かるという早熟ぶりを見せます。 しかし、家業の経営悪化により、兄弟は絵を「家計を助ける手段」として本格的に取り組むことに。 まず越堂が富山に移住し、続いて竹坡と国観が合流し、売薬版画の下絵や新聞挿絵の制作に携わるようになります。 この経験は、単なる生活費を稼ぐためのものにとどまらず、物語を的確に絵画化する技術や、注文主の意図を汲む力を育む貴重な経験の場となっていたことが、展示されている作品からも感じ取れます。 越堂の作品には、対角線を活用した大胆な構図が早くも見られ、竹坡・国観の作品には幼い頃からの絵画への卓越した才能が表現されており、後の活躍の礎となった確かな技術と情熱が垣間見えるでしょう。 当時の社会背景とともに、三兄弟の若き日の努力と成長を感じられる展示でした。 第2章:「文展は広告場」―展覧会という乗り物にのって 尾竹三兄弟の画業が本格的に花開いたのは、展覧会という「舞台」に立ったときからでした。 三兄弟はそれぞれ異なる流派で研鑽を積み、国観は歴史画の巨匠・小堀鞆音に、竹坡は円山派の名手・川端玉章に師事して腕を磨きます。 そして、明治30年代には展覧会で次々と入選を果たし、若くして名を馳せることになるのです。 国観が歴史画『油断』で、竹坡が『おとづれ』で二等賞を受賞し、刺激を受けた越堂も、43歳という遅咲きながら文展デビューを飾り、見事三兄弟そろっての快挙を達成しました! 展覧会という「広告場」をフルに活用し、画壇での地位を確立していった三兄弟でしたが、大正2年(1913)の第7回文展がターニングポイントとなりました。 このとき、三兄弟そろってのまさかの落選。 明確な理由は分かっていませんが、画壇における評価基準や、人間関係の複雑さが影響したのではないかといわれています。 当時、竹坡は国画玉成会の審査員をめぐって岡倉覚三と衝突しており、文展批判が結果に影響した可能性もあるようです。 展覧会に祝福される一方で呪詛される、そんな画壇の過酷な一面が浮き彫りになったできごとといえます。 第2章では、屏風や掛軸など壮麗な展示を通じて、三兄弟が展覧会という舞台で生み出した数々の名作を鑑賞できます。 国観の歴史画は、緻密な構図や人物表現の臨場感が圧巻です。 竹坡の作品には、写実と独創が見事に融合した美しさが宿ります。 また、華やかな弟たちに隠れがちですが、静かに画壇の中心に挑んだ意志が感じられる越堂の大胆な構想力にも注目です。 さらに見逃せないのが、幻の作品『絵踏』。 岡倉覚三との対立の末、わずか数日で撤去され、長らく秘蔵されていた本作が、修復を経て初公開されています。 緊張感あふれる構図と、個性豊かに描き分けられた人物像が語る物語を間近で体感できます。 第3章:「捲土重来の勢を以て爆発している」 ―三兄弟の日本画アナキズム 尾竹三兄弟が文展やその他の公式展覧会から離れ、独自の道を模索する中で活動の中心となったのが、門下生たちとの共同展覧会「八火社展」でした。 この試みは、既存の画壇の枠を超え、自らの美術理念を存分に表現する場として重要な役割を果たしたのです。 もともと1912年に竹坡が設立した「八火会」は、越堂や国観が加わり、「八華会」そして「八火社」と名前を変えながら、展覧会を開催し続けました。 1920年から始まった八火社展は、帝展(文展の後身)と開催時期や会場をぶつけるという挑発的な手法を採り、三兄弟の反骨精神が存分に現れたものとなっています。 なかでも注目すべきは竹坡の作品群です。 彼は総出品数79点のうち50点以上を一人で制作し、未来派やキュビスムといった西洋の最先端の影響を受けた挑戦的なスタイルを展開しました。 大胆な色面構成を主体とした抽象表現や、従来の日本画の枠組みから大きく逸脱した新感覚の作品は、当時の観衆に大きな衝撃を与えたそうです。 ナビ派や素朴派を思わせる装飾性豊かな描法や彩色、そして自由奔放な創造力が爆発するような迫力は、現代の目で見ても新鮮で驚きに満ちています。 実際に、西洋画風に描かれた作品が掛軸という日本の伝統的な形式に飾られている様子は、非常に新鮮で印象的でした。 西洋画のように遠近法や明るい色彩を強調する作品は、キャンバスや額縁に飾られることが一般的ですが、竹坡はあえてその西洋画的な要素を掛軸という日本の伝統的な形式に持ち込むことで、まったく異なる感覚を生み出しているようでした。 竹坡が伝統と革新をどのように融合させ、独自の美を作り上げてきたかを感じさせてくれます。 八火社展自体はわずか3回で終了してしまいますが、その短い活動期間に三兄弟が放ったインパクトは絶大なものであったと展示作品からも感じ取れました。 「数年来の忍黙不平がここに捲土重来の勢を以て爆発している」という当時の評は、彼らのエネルギーや画壇への挑戦を見事に言い表していますね。 三兄弟の描く世界は、単なる日本画の枠を超えて、画壇そのものへの挑戦状だったともいえるでしょう。 第4章:「何処までも惑星」―キリンジの光芒 尾竹三兄弟は一時期画壇の寵児として脚光を浴びたものの、その後の型破りな活動や言動によって次第に周縁へと追いやられました。 中央の舞台から姿を消し、美術史の語りからも次第に忘れ去られていった彼らの晩年。 その軌跡を振り返ると、なおも彼らの芸術家としての揺るぎない情熱と進化が浮かび上がります。 昭和時代に入ると、長兄・越堂は展覧会から距離を置くようになりましたが、竹坡と国観は再び官展への返り咲きを目指して作品制作を続けました。 竹坡は「何処までも惑星」と評されるように、その多才ぶりを最後まで示し続けました。 彫刻や洋画の分野に挑戦する一方、晩年の作品ではその奔放なエネルギーが次第に抑えられ、写実性と精緻な構成を追求した日本画へと向かいます。 華やかさの裏に垣間見える静かな深みは、竹坡の芸術家としての熟成を感じさせます。 国観は一貫して歴史画を探求し続け、生来の卓越した構図力や人物描写のスキルをさらに研ぎ澄ませていきました。 その作品には、壮麗な物語性だけでなく、歴史の中に生きる人々の息遣いまで感じられるようなリアルさがあります。 国観の歴史画は、彼の探求心と美術への情熱が結晶した成果といえるでしょう。 三兄弟の晩年の作品は、それぞれの道を歩んだ結果として結実した個性の結晶ともいえるものです。 越堂の静謐な視点、竹坡の溢れる創造性、国観の丹念な探求。 それぞれが異なる輝きを放ちながらも、どこかで互いに響き合っています。 第4章を通じて、彼らの「光芒」に再び目を向けてみると、その輝きはいまもなお美術の世界に新たなインスピレーションを与え続けているのであろうと感じさせてくれました。 特集展示:清く遊ぶ―尾竹三兄弟と住 特集展示では、明治末から大正にかけて尾竹三兄弟と深い交流を持った住友吉左衛門友純(号春翠)が収集した作品が展示されています。 三兄弟と春翠の関係は、単なる画家と注文主を超えた文雅の交わりが特徴。 彼らの絵画作品を通して、芸術と親交が織り成す世界が垣間見えます。 春翠は、岡倉天心との対立や文展落選など三兄弟にまつわる騒動に動じることなく、自らの審美眼に基づいて作品を購入し続けた人物です。 その姿勢は、どんな風潮にも左右されない強い信念を感じさせます。 今回展示されている作品群には、春翠が見抜いた三兄弟の芸術的価値が表現されており、当時の作品購入が単なる商業的行為ではなかったことがよく分かります。 展示には、雅会で三兄弟が即興で描いた作品も。 即興の場で軽やかに筆を走らせた三兄弟の腕前は、参加者にくじ引きで分けられるほど人気だったそうです。 席画における彼らの達筆ぶりは、単なる技術の披露ではなく、その場を楽しませるための芸術的サービス精神が感じられます。 春翠との交流のエピソードとして印象的なのが、1927年、春翠の死去後に越堂が贈った『白衣観音図』です。 これは仏前に届けられたもので、三兄弟と春翠の絆が、単なる購入者と画家の関係ではなく、深い文雅の友情にもとづくものであったことを物語っていますね。 インパクト大な尾竹グッズも見逃せない 泉屋博古館東京で開催中の「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」展、見応えのある展示だけでなく、お土産コーナーも充実しています。 尾竹三兄弟の作品がデザインされたグッズは、どれも展覧会のテーマ「インパクト」を感じられる仕上がりです。 グッズの王道ともいえるクリアファイルは、三兄弟の代表作が細部にまで再現されており、絵画そのものを手元で楽しめる魅力があります。 デスクワークに取り入れると、なんだか作業もアーティスティックな気分になりますね。 絵はがきは、展覧会で気に入った作品を気軽に持ち帰れるアイテムとして大人気です。 今回の展示では、通常サイズに加えて、長形サイズもラインナップされています。 独特な構図や色彩を活かしたデザインは、尾竹三兄弟ならではの魅力。 大切な人への手紙にも、自分のインテリアとして飾るのにもぴったりです。 展示を楽しんだ後、もっと深く知りたいと思った方には公式図録がお勧めです。 三兄弟それぞれの個性や画業、波乱に満ちた人生をじっくり振り返れるでしょう。 図録を片手に展示を振り返れば、彼らのアナキズム精神がより一層心に響くはずです。 伝統を超えていく、尾竹三兄弟 泉屋博古館東京で開催されている「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」展は、約80年の時を超えて、尾竹三兄弟による革新的な日本画の魅力を伝えてくれる貴重な企画展です。 越堂、竹坡、国観という個性豊かな画家たちがどのようにして日本画の伝統を超え、新たな表現の道を切り開いていったのか、その鬼才ぶりが感じられました。 彼らが残した作品には、日本画の枠にとらわれない自由な発想とアナキズム的なエネルギーが込められており、観る者に強い印象を与えてくれます。 この展覧会を通じて、80年の時を経ても色褪せることなく輝く独特な世界観に触れられました。 泉屋博古館東京で開催されている「オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム―」展は、約80年の時を超えて、尾竹三兄弟による革新的な日本画の魅力を伝えてくれる貴重な企画展です。 越堂、竹坡、国観という個性豊かな画家たちがどのようにして日本画の伝統を超え、新たな表現の道を切り開いていったのか、その鬼才ぶりが感じられました。 彼らが残した作品には、日本画の枠にとらわれない自由な発想とアナキズム的なエネルギーが込められており、観る者に強い印象を与えてくれます。 この展覧会を通じて、80年の時を経ても色褪せることなく輝く独特な世界観に触れられました。 また、展示をじっくり楽しんだ後には、美術館内にある「HARIO」の直営カフェで一息つくのもおすすめです。 このカフェでは、美術館の落ち着いた雰囲気の中で、こだわりのコーヒーやスイーツを楽しめます。 展覧会の感想を胸に、香り高い一杯とともにゆったりとした時間を過ごせる贅沢な空間です。 企画展とともに、泉屋博古館東京でのひとときをぜひお楽しみください。 80年の時を経ても色褪せない尾竹三兄弟の世界観と、美味しいコーヒーのひとときが心に深く響く時間を演出してくれるでしょう。 開催情報 『特別展 オタケ・インパクト 越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム展』 場所:泉屋博古館東京 住所:〒106-0032 東京都港区六本木1丁目5-1 期間:2024/10/19~2024/12/15 公式ページ:https://sen-oku.or.jp/tokyo/ チケット:一般1,200円、高大生800円、中学生以下無料 ※詳細情報や最新情報は公式ページよりご確認ください
2024.12.01
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海の宝石・珊瑚の装飾品や置物は高額買取が期待できる?!
海の宝石と呼ばれている珊瑚は、古くから祈祷や装身具として利用され、富や権力、生命力を象徴するものとして人々に大切にされてきました。 珊瑚は、色や産地によって種類が分類され、なかでも赤珊瑚と呼ばれる種類の珊瑚は、大変貴重で、高価買取が狙えるものとして注目を集めています。 珊瑚の買取依頼を検討中ですか? 現在、珊瑚は個体数が減少し、さらには採取規制がかかり希少性が大変高まっています。 珊瑚を所有している方で、処分に困っている方がいましたら、捨てる前にまずは査定に出してみるのがお勧めです。 見た目の美しさから、ジュエリーやアクセサリーとして実際に使用する人もいれば、コレクションして鑑賞を楽しむ人もおり、種類や状態によっては高価買取が期待できます。 珊瑚の価値を知りたい方は、専門の買取業者に相談してみましょう。 いつの時代も珊瑚は人気 珊瑚は、美しい色彩とツヤが魅力的な宝石で、古くから装飾品として親しまれてきました。 もともと地中海で採れていた珊瑚は、シルクロードを通して日本に伝わり、江戸時代以降から日本産の珊瑚が注目されるようになりました。 明治時代になると、主な産地であった高知県で原木のオークションが開催されるようになり、現在まで続く日本の宝石珊瑚産業の中心地となります。 現在も高知県には、伝統的な珊瑚の採取と加工の技術が伝承されており、土佐の職人が一つひとつ丁寧に磨き上げて作った宝石珊瑚は、世界的にも高い評価を受けています。 このように、珊瑚は古くから現在まで、多くの人々に親しまれてきたのです。 自宅に眠る珊瑚はありませんか 珊瑚は、年々産出量が減り希少性が高まっており、価格も高騰している宝石の一つです。 もし、自宅を整理していて珊瑚が出てきたり、相続で受け取った珊瑚が自宅にあったりする場合は、一度査定に出してみてはいかがでしょうか。 種類や品質によっては高額買取も期待できるでしょう。 アクセサリーをあまり身に付けない、自宅のデザインとマッチしないため飾る場所がない、など扱いに悩んでいる方は、査定をして価値を知り、買取に出すのも一つの手段です。 まずは一度、実績豊富な買取業者に相談しましょう。 高額買取が狙える珊瑚は? 珊瑚の評価や買取価格を決めるポイントは、形状や状態、付属品などです。 自宅に眠っている珊瑚にどのくらいの価値がつくのか事前に予測するためにも、高額買取が狙える珊瑚の特徴を知っておくとよいでしょう。 日本の珊瑚は価値が高い 日本産の珊瑚は、ほかの場所で採れた珊瑚よりも価値が高いとされています。 特に、高知県土佐湾で採れる血赤珊瑚は、世界中から高い評価を受けており、最高級品の珊瑚として取引されています。 また、日本近海で採れる桃色珊瑚も人気が高く、高価買取が狙えるでしょう。 ほかには、地中海の紅珊瑚、沖縄近海や東シナ海の白珊瑚も、比較的高値で取引されている珊瑚です。 日本産の珊瑚は、品質がよく高い評価を受けやすいため、お手持ちの珊瑚が日本産であれば査定に出して価値を調べてみましょう。 また産地が分からなくても、日本産の可能性はあるため、あきらめず専門家に見てもらうことをお勧めします。 形状がよいか 珊瑚は、原木のほかに、丸珠、半球(ラウンドカット)、カポションカットなどの形状があります。 10mm以上のサイズの丸珠は、大変希少性が高く、高価買取が狙える形状といえます。 また、宝石珊瑚の中には、彫りが施されているものもあり、芸術性の高さから、美術品や骨董品としての価値がプラスとなり、査定額が上がるものもあるようです。 ダメージが少ないか 珊瑚は、水や湿気、酸、熱に弱い性質をもっており、汗や酢、果汁などにも酸が含まれており、珊瑚にダメージを与える原因となります。 アクセサリーとしての珊瑚を気温の高い時期に身に付けていると、汗により劣化してしまうおそれがあります。 また、適切に保管できていないと変色してしまい、一度変色してしまった部分は元に戻せません。 表面のツヤがなくなった程度の場合は、研磨により輝きを取り戻せますが、変色は修繕ができないため、価値を大きく下げてしまう可能性があるでしょう。 付属品はそろっているか 珊瑚には、鑑定書や産地証明書が付属している場合があり、セットで査定に出すとプラスの評価をつけてもらえるケースがあります。 また、ブランド品の宝石珊瑚であれば、ギャランティカードや購入時の包装もとっておくと査定でプラスに働く可能性があるでしょう。 作られた年代が古いものは、歴史的価値や美術品的価値があるものも多く、箱や箱の表書きがあれば査定額がアップする場合もあります。 珊瑚を購入したり譲り受けたりした際の付属品は、すべて捨てずにとっておくようにしましょう。 珊瑚を手放すとき、どんな方法がある? 珊瑚を手放したいと考えていても、どのような方法があるか分からない方も多いでしょう。 珊瑚を手放す方法の種類と特徴を知り、自分にあった方法で手放せるようにするのがお勧めです。 ネットオークションやフリーマーケットで売却 珊瑚は、ネットオークションやフリーマーケットでの売却が可能です。 自分で自由に価格を設定できるため、希望価格やそれ以上の価格で販売できるメリットがあります。 珊瑚の価値を把握している場合は、価格設定で損をすることが少なくなるため、お勧めの方法です。 ただし、珊瑚の正しい価値を知らない場合、本来の価値よりも低い価格をつけてしまい、損をしてしまう可能性があります。 また、ネットオークションであれば自分で出品・配送などの手続きを行う必要があるため、慣れていないと手間に感じるでしょう。 フリーマーケットでは、直接お客さんとコミュニケーションを取りながら販売するため、時には値下げ交渉をされるケースもあるため注意が必要です。 リサイクルショップで売却 リサイクルショップでも、珊瑚の買取を受けてくれる場合があります。 店舗に持ち込んで最短即日売却が可能なため、できるだけ早く売却してお金を受け取りたい場合にお勧めの方法です。 しかし、リサイクルショップの店員が、珊瑚の価値に詳しいとは限らないため、適切な価格をつけてもらえない可能性があります。 自分自身も価値を把握していなければ、大きく損をしてしまうおそれがあるでしょう。 不用品回収業者や遺品整理業者へ相談 不用品回収業者や遺品整理業者は、複数のものをまとめて引き取ってくれるため、遺品整理で珊瑚のほかにも回収してほしいものがたくさんある場合に便利な方法です。 しかし、まとめて買取となるため、1点1点の価値を確認しづらく、本来よりも低い価格で珊瑚を買い取られてしまう可能性があります。 骨董品買取業者へ相談 適切な価格で珊瑚を売却したい場合は、珊瑚に関する専門知識をもつ査定士のいる骨董品業者の利用がお勧めです。 専門家が査定してくれるため、価値に見合った買取額をつけてもらえる可能性が高いでしょう。 ただし、業者によって買取実績は異なるため、骨董品全体の実績だけではなく、珊瑚の実績があるかどうかを事前にチェックしておくのがお勧めです。 査定は無料で実施している業者も多いため、複数の業者に査定を依頼して比較するのもよいでしょう。 珊瑚を高額買取してもらうためのチェック項目 大切な珊瑚を手放すなら、なるべく高値で買い取ってもらいたいと感じる人も多いでしょう。 お手持ちの珊瑚が高価買取の対象となるか判断するためには、種類・カラー・フラクチャーなどをチェックする必要があります。 種類 代表的な珊瑚の種類には、赤珊瑚、紅珊瑚、桃色珊瑚、白色珊瑚などがあり、種類によって高価買取を狙えるかが異なります。 色味の濃い赤珊瑚は、人気が高く高額で取引されやすい種類の珊瑚です。 黒色に近い深い赤で、5段階ある色の評価で「5」をつけられた珊瑚は、大変価値が高く高価買取が期待できます。 赤味が薄く、色ムラが発生しているものは価値が下がってしまいます。 カラー 珊瑚の買取市場で最も高値で取引されやすいのが、血赤珊瑚と呼ばれる赤黒い色合いが特徴の珊瑚です。 血液に近い深い赤色であるほど重量感があり、宝石として加工した際に奥深さが感じられるとして、高い価値がつきます。 血赤珊瑚のカラーまでいかずとも、美しい赤色の紅珊瑚は、高額買取されやすいといえます。 色合いが濃く、きれいな赤色の発色をしている珊瑚は、高額査定が期待できるでしょう。 珊瑚といえば、赤色やピンクを想像する人も多いと思いますが、実は白珊瑚も人気があります。 白と一口にいっても、純白や乳白色など、色味に若干の違いがあり、珊瑚自体が貴重になっている現在では、白珊瑚も高値で取引される傾向です。 フラクチャー フラクチャーとは、傷やひび割れ、虫食いなど自然にできたダメージを指します。 珊瑚の傷やひび割れは「ヒ」と呼ばれ、この「ヒ」や虫食いが少ないほど、査定額がアップします。 また、一部の珊瑚には「フ」と呼ばれる白い筋が内部にあり、宝石として加工された際にこの「フ」が表面に出てきてしまうと、査定額にマイナスの影響を与えてしまうでしょう。 珊瑚の買取は実績ある買取業者へ相談を 珊瑚の買取を検討している方は、実績豊富な買取業者へ相談しましょう。 珊瑚の価値は、専門知識と技術がなければ正しく判断するのが難しいといえます。 そのため、専門家のいない業者を利用してしまうと、適切な価値をつけてもらえないかもしれません。 珊瑚の買取実績のある骨董品買取業者であれば、珊瑚の価値に見合った適切な価格を提示してもらえるでしょう。
2024.12.01
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勲章は買取してもらえる?高額査定のポイントとは
明治時代に創設され、国や公共のために尽力を尽くした人や、社会分野で優れた功績を残した人に贈られる勲章。 国が与える名誉の標章で、現在も運用されています。 勲章は、特定の人しか受け取れないもののため、希少価値が高くコレクターが多くいます。 勲章の買取依頼を検討中ですか? 「親族の遺品整理で勲章を譲り受けた」、「勲章はどこで買い取ってもらえるのだろう」など、勲章を手放す方法に悩んでいる方は多いのではないでしょうか。 勲章の処分方法にお困りの方は、専門業者による買取を検討しましょう。 勲章は、誰でも手に入れられるものではなく、貴重なものであるため、そのまま捨ててしまうのはもったいありません。 勲章を収集する熱心なコレクターもいるため、買取査定に出して売却するのがお勧めです。 いつの時代も勲章は人気 勲章は、特定の人物を讃えるために与えられるもののため、一般の人が簡単に手に入れられるものではありません。 その希少価値の高さから、一部のコレクターから人気の高いものでもあるのです。 数が少なく限定感がある点や、見た目の美しさから収集しているコレクターも多く、人気を集めています。 自宅に眠る勲章はありませんか もらった勲章を本人が手放すことはあまりありませんが、親族や家族から相続された際、扱いに悩む人も多いのではないでしょうか。 勲章は、もらった本人以外が着用するのを禁止されています。 また、祖父母や親族から譲り受けても、自分が功績を挙げたわけではないため、その栄誉を得られるわけでもありません。 そのため、手放したいと考える人も多いでしょう。 もし、譲り受けた勲章の扱いに困っているのであれば、専門の買取業者に相談してみませんか。 勲章の買取実績のある業者であれば、勲章の価値を正しく判定して適切な価格で買い取ってくれるでしょう。 勲章を高額買取してもらうには 勲章の買取価格は、状態や付属品の有無、セットになる軍服や軍装品の有無などによっても変動します。 どのようなものが高価買取されやすいのかを知り、所有している勲章に該当する条件があるかを確認してみましょう。 傷や変色などのダメージがないか 勲章に限らず、骨董品全般にあてはまることですが、傷や変色、欠けなどがない新品に近い状態のものほど高く買取してもらえる傾向です。 勲章は、七宝製が多く釉薬が剥げてしまったり、突起部分が折れてしまったりする可能性があります。 また、綬という勲章用のリボンは汚れやすいため、適切に保管する必要があります。 むき出しのまま置いておくと、汚れや傷がつきやすくなるため、ケースに入れて保管しておくのがお勧めです。 買取査定を依頼する際は、お手持ちの勲章の状態を事前にチェックしておきましょう。 付属品はそろっているか 勲章には、箱や勲記などいくつかの付属品がついています。 勲章の保存用の箱は、漆で塗られた専用のケースが用意されており、勲章の種類と勲等が箱に書かれています。 箱があるかないかで、査定額が大きく変わるため、勲章を受け取った際は箱があるか必ず確認しましょう。 また、勲記とは勲章の証明書のことで、勲章と勲記はセットで授与されるケースがほとんどです。 そのため、セットで査定に出すと買取額がプラスになる可能性が高いでしょう。 勲記は紙で作られており劣化しやすいため、シミや破れなどに十分注意し、勲章とセットで保管しておくことをお勧めします。 あわせて軍服や軍装品がないか 勲章を買取査定に出す際、軍服や軍装品なども所有していれば、あわせて査定に出しましょう。 勲章は、勲等や保存状態によっては1点のみでの買取ができない可能性があります。 その際に、旧日本軍の軍服や軍装品、軍刀などがあれば、あわせて買取査定してもらえる場合があります。 遺品整理や相続では、勲章や軍服、軍装品をセットで譲り受けるケースも多いようです。 もし関連するものをセットで受け取ったら、すべてまとめて保管しておくことをお勧めします。 勲章を手放すとき、どんな方法がある? 勲章を手放す方法としては、ネットオークションやフリーマーケット、リサイクルショップ、不用品回収業者や遺品整理業者、骨董品買取業者などがあります。 それぞれ特徴が異なるため、自分と手放したいアイテムにあった方法を選ぶことが大切です。 ネットオークションやフリーマーケットは、自由に価格を決められるメリットがあります。 勲章の価値を知っていれば、希望価格やそれ以上の価格で売却が可能です。 しかし、正しい価値を知らなければ相場よりも低い価格で販売してしまい、損をしてしまう可能性があります。 また、すぐに買い手がみつかるとは限らず、時間が経てば値下げ交渉が行われる場合もあるでしょう。 リサイクルショップでの売却は、早くて当日中に換金できるメリットがあります。 急いで手放したいと考えている方に向いている方法といえますが、買取価格が相場より低くなる傾向です。 勲章に関する専門知識をもつスタッフが在籍しているとは限らないため、適切な価値を判断できない可能性が高いでしょう。 不用品回収業者や遺品整理業者は、ほかの遺品や相続品もまとめて回収してもらえるメリットがありますが、リサイクルショップ同様に専門家がいる可能性は低いため、買取価格が安くなってしまう可能性があります。 また、まとめて買取となるため一つひとつの価格がわからないのもデメリットの一つといえます。 骨董品買取業者であれば、勲章の買取実績があったり、勲章に詳しい査定士が在籍していたりする可能性が高いでしょう。 高価買取を狙うのであれば、価値を正しく判断できる専門業者への査定依頼がお勧めです。 ただし、業者によって実績はバラバラなため、勲章の買取実績が豊富な業者を選ぶとよいでしょう。 査定を無料で実施している業者も多いため、複数の業者に依頼して相場を確認することも大切です。 高価買取が狙える勲章の種類 勲章の中には、旧日本軍時代に功績が評価され授与されたものもあるでしょう。 勲章の中でも、そのような明治時代や大正時代、昭和時代に授与された勲章には、希少価値や歴史的価値の高いものも多くあります。 旭日章 旭日章は、1875年に制定された日本で初めての勲章です。 日章を中心に、光線を配し、鈕には桐の花葉が用いられているデザインが特徴的です。 社会のさまざまな分野の功績に着目し、優れた功績を挙げた人を表彰する際に授与される勲章として用いられました。 勲一等から勲八等までの8等級に分けられており、ほかの勲章よりも上位に位置するといわれています。 瑞宝章 瑞宝章は、1888年に制定された勲章で、社会や公共のために功労がある人物を讃えるために授けられる勲章です。 男女共通して、国または地方公共団体の公務や公共的な業務に長年従事して、功労を積み重ねた人を表彰するために授与されます。 古代の宝である宝鏡を中心に、大小16個の連珠、四条や八条の光線を配し、桐の花葉が用いられたデザインです。 制定時は8等級ありましたが、2003年の改正により現行の6等級に変更されています。 宝冠章 宝冠章は、1888年に制定され、女性に限定した唯一の勲章です。 科学技術や芸術といった文化の分野で優れた功績を挙げた人に授与されるもので、天皇の名をもって皇后から授与される勲章です。 2003年の改正により、それまで男性にのみ授与されていた旭日章・桐花章・菊花章が、女性にも授与されるようになったため、現在宝冠章は、女性皇族や外国人に向けた儀礼的な運用にのみ使用されています。 金鵄勲章 金鵄勲章は、陸海軍人や軍属に授与される終身年金付きのもので、日本で唯一の武人勲章です。 日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、志那事変、太平洋戦争までの間に、約83万人の軍人に授与されましたが、戦後、1947年に勲章自体が廃止されました。 金鵄勲章は、神武天皇東征時に天皇の弓にとまった金鵄がデザインされており、綬はエメラルドグリーンで白い線が左右に一本ずつ入った構成になっています。 景雲章 景雲章は、旧満州国で授与されていたもので、13年半しか運用されなかったため数の少ない勲章です。 日本の旭日章に相当する勲章で、勲一位から勲八位まで8等級ありました。 白地に赤線が左右に一本ずつ入る綬で、綬の下には満州国皇室の紋章である蘭花紋を意匠化したデザインが施されています。 記章 記章は、日本政府や日本赤十字社などの主宰者から従軍や寄付などの功労が認められた人に渡されるバッジやメダルを指します。 勲章とは異なり、栄誉や功績を讃えて授与されるものではなく、発行枚数も多いものですが、種類が大変多いことから、コレクター人気の高いアイテムです。 勲章の買取は実績ある買取業者へ相談を 親族や祖父母の遺品整理で受け取った勲章の扱いに悩んでいる方は、買取実績豊富な専門業者に査定の相談をするのも一つの手段です。 価値の高い勲章は、レプリカも多く流通しているため、適切に判断してもらうためにも、知識のある専門家に確認してもらう必要があります。 歴史的な意味合いもあり、コレクションとしての需要も高い勲章は、高価買取が狙えるアイテムの一つです。 自宅で保管していた勲章を手放すなら、勲章に詳しい査定士が在籍する買取業者に相談しましょう。
2024.12.01
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