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堂本印象(1891年-1975年)画家[日本]
印象は、京都で生まれ育った日本画家で、日本画家の西山翠嶂から絵を学び、帝国美術院展覧会をメインに活躍しました。 印象の作風は幅広く、日本画や西洋画、具象画、抽象画などを手がけています。 堂本印象とは 生没年:1891年-1975年 堂本印象は、1891年酒造業堂本伍兵衛と芳子の間に3男として誕生しました。 本名は三之助で、兄が2人おり、寒星は芸能研究家として、漆軒は漆芸家として活躍していたそうです。 弟の四郎は、後年印象が芸術に専念できるよう尽くしたといわれています。 また、妹は5人おり、そのうち3人はそれぞれ森守明、山本倉丘、三輪晁勢ら日本画家の元に嫁いでいきました。 日本画家を志す 堂本印象は、1910年に京都市立美術工芸学校を卒業してから、三越図案部に関係したのち、龍村平藏の工房で西陣織の図案描きの仕事をしていました。 その後、日本画家になると決意し、1918年に京都市立絵画専門学校に入学します。 1919年に初出品した『深草』が第1回帝展に入選すると、第3回帝展では『調鞠図』が特選を受賞。 また、第6回帝展に出品した『華厳』は、帝国美術院賞を受賞しており、一流の日本画家として認められ、画壇の花形にのぼりつめました。 1924年に京都市立絵画専門学校研究科を修了し、日本画家としての活躍を大きくしていった印象は、1936年に京都市立絵画専門学校の教授に就任しました。 1937年には、この年からスタートした新文展の審査員に就任しています。 和神社の分霊を祭るため日本画を製作 1940年ごろ、新しく製造される戦艦大和に大和神社の分霊を祭るために、海軍が奈良県に日本画の制作を依頼します。 堂本印象が制作を引き受け『戦艦大和守護神』を描きますが、印象自身は製造中の新戦艦に飾られるとは知りませんでした。 絵には、奈良県の大和神社の神殿が描かれており、戦艦大和の艦長室に飾られることに。 しかし、沖縄への海上特攻前に作品は大和から降ろされ、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館に所蔵されています。 多くの後進を育成 堂本印象は、自身が画家として活躍するだけではなく、後進の育成にも力を入れていました。 京都市立絵画専門学校の教授として多くの若い画家たちに絵を教えるとともに、私塾東丘社を開塾して、多くの後進を育成しました。 また、1944年には、これまでの功績が称えられて帝室技芸員に任命されています。 戦後は世界にも活躍の場を広げる 昭和初期までは、仏画や花鳥画、風景画などを繊細な筆使いで描き、伝統的な日本画を制作していた堂本印象でしたが、戦後約10年で画風が大きく変化していきました。 これまでは古典的なものに目を向けてきた印象ですが、戦後は一転して現代に注目するようになります。 1951年の第9回東丘社展に出品した『八時間』は、現代社会の風俗をモチーフにした作品です。 戦後に描かれた作品は、現代社会における不条理を象徴しており、その構成は徐々に伝統的な日本画の画風から、色面主体のものへと変化していきました。 海外の影響を大きく受けた印象の作品は、形態のデフォルメがされた洋画的表現が目立つようになっていきます。 1952年、61歳となった印象は、画家としての自分の道を再認識するために、日本画家として戦後初となる渡欧を実行し、パリをメインにイタリアやスペイン、ドイツ、スイスなどを約半年かけて旅しました。 渡欧中は、精力的に目で見た景色を数多くのスケッチや油絵として描き、帰国後に滞欧スケッチ展を開催しています。 西欧での学びは、1953年の第10回東丘社展に出品された『メトロ』や、翌年の第10回日展に出品した『疑惑』などに影響を与え、帰国後の制作活動に大きな変化を与えたといえるでしょう。 渡欧後に制作された作品は、渡欧直前までと同様に、風俗を題材にしながらも寓話的な社会画に仕上げられています。 渡欧前と異なるのは、色彩表現やよりシンプルになったデフォルメ表現などで、渡欧により日本画へ新しい風を吹き込んだといえるでしょう。 もともと信仰心が強かった印象は、仏教だけに捉われるのではなく、キリスト教を題材にした作品も手がけるようになっていきました。 1955年以降は、抽象表現の世界に足を踏み入れていきました。 多くの国際展覧会に作品を出品するようになり、1961年には文化勲章を受賞しています。 1966年には自身の作品を展示する堂本美術館を、自らがデザインして開館しました。 堂本印象の代表作 さまざまなジャンルの作品を描いた堂本印象の作品は、現代にも数多く残されています。 『木華開耶媛』 『木華開耶媛』は、古事記に登場する木の華のように麗しい女神をモデルに描かれた作品です。 木華開耶媛は、山をつかさどる大山祇神の娘であり、天照大神の孫である邇邇芸命の妻となった人物です。 また、安産の神や美しい花を咲かせる春の女神としても親しまれています。 『木華開耶媛』では、桜・タンポポ・ゼンマイ・ツクシなど春の草花が満開になっている野で、純白の衣を纏って座っている姿が描かれています。 その姿は、古代の情緒あふれる神秘性や官能性を漂わせているのが特徴です。 『疑惑』 『疑惑』は、渡欧後のパリ滞在中に目にした移動民族をモチーフにした作品です。 描かれている小屋は、車で引く移動住宅となっており、放浪生活の様子が描かれています。 小屋には「手相、カルタ、水晶球・恋愛、結婚、遺産、運勢占います。」と書かれており、占い小屋をしながら旅していると想像できるでしょう。 この作品で表現されているのは、戦後の社会状況を反映した中心の喪失であるといわれています。 『交響』 『交響』は、堂本印象が文化勲章を受章した年に制作された代表作です。 楽譜を印象なりに解釈して、絵の中には印象が捉えた交響曲が表現されています。 交わり、重なり、つながった線の濃淡により、画面に三次元的な空間を創り出しています。 墨や絵の具の飛沫や背後を彩る繊細な色彩が、交響曲の波動を感じさせてくれているようです。 情感あふれる墨線や、日本画特有の素材である紙本や顔料の質感なども楽しめる作品です。
2025.01.03
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小林古径(1883年-1957年)画家[日本]
大正から昭和にかけて活躍し、近代日本画の発展に貢献した小林古径。 継続的に院展へ作品を出品し高い評価を受けていました。 また、西洋の印象派やポスト印象派などからも大きな影響を受けていた古径の作品は、伝統的な日本画の形式に、西洋の新しい風が吹き込む新しい日本画として多くの人々を魅了しました。 新古典主義の画風を確立させた「小林古径」とは 生没年:1883年-1957年 小林古径は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。 新潟県の中頸城郡高田土橋町に生まれ、本名は茂といいます。 父は、元高田藩士であり、明治維新後は新潟県の役人をしていました。 古径が3歳になるころ、父の転勤により新潟市に引っ越しており、その後も県内で何度か移り住んでいます。 明治時代に、岡倉天心を中心に集まった日本美術院の画家らが新しい日本画の表現方法を模索していたとすると、小林古径はその意志を受け継ぎ、さらなる新境地へ日本画壇を牽引した人物といえます。 家族が相次いで亡くなる 6人家族であった古径ですが、子どものころに家族を次々に亡くしてしまいます。 4歳のときには母が亡くなり、9歳で祖母が、12歳で兄、13歳では父を亡くしており、最終的には妹と2人きりになってしまいます。 幼いころに両親を失った古径は、妹を養いながらも11歳のころから日本画を学び始めていました。 11歳のときに東京美術学校で横山大観と同期であった山田於菟三郎から、日本画について学びます。 そして、画家としての道を進みたいと強く思うようになったそうです。 半古塾に入門し画壇デビューを果たす 山田於菟三郎から日本画を学んだあとは、新潟で活動していた遊歴画家の青木香葩に教えを受け、歴史画を描きます。 このとき、画家としての人生を歩むと決意しました。 1899年、16歳のときに小林古径は上京します。 東京では、新聞小説の挿絵画家として有名であった梶田半古の画塾に入門します。 当時の半古は、新しい日本画を開拓する岡倉天心が中心となって結成された青年絵画協会の発起人でした。 また、絵画共進会審査員も務めていました。 小林古径は、毎日熱心に画塾へ通い、半古もまた古径の熱意にこたえ、手を取らんばかりに熱い指導を行います。 当時の半古塾には、古径のほかにも前田青邨や高木長葉など十数人の画家が入塾していました。 また、のちに奥村土牛も塾生となっています。 古径は、半古から「古径」の画号をもらっています。 古径は画塾で写生を学ぶとともに、絵の品格についても教えられました。 古径は、半古塾でその才能を開花させ、塾生の中でも塾長のような存在となります。 同時に、1907年には第1回文展に『闘草』を出品し、1912年の文展には『極楽井』、紅児会展には『住吉詣』を出品しています。 そして、次第に展覧会でも実力が認められ、評価を受けるようになっていきました。 岡倉天心とも交流を図る 半古塾で絵を学んでいた小林古径のもとに、岡倉天心は2度訪れています。 1度目の訪問は、古径にロンドンで開催される日英博覧会に出品する作品の制作を依頼するためでした。 2度目は、1912年の29歳のころで、第17回紅児会に出品された古径の作品を鑑賞して、改めてその素晴らしい才能を認識した天心が、古径の前途を祝すために訪問しました。 当時、古径は三好マスと結婚したばかりであり、天心は古径の新しい生活に気を配り、実業家の原三渓に生活の援助を頼んだそうです。 再興院展にて入選を果たす 小林古径が画家として活動していた時代、小堀鞆音の門下生が始めた紅児会と呼ばれる研究会が存在しました。 古径の才能を高く評価していた安田靫彦に勧められ、古径は1910年に紅児会に入会します。 紅児会展に出品した作品の画風は、自由でおおらかな印象を受けるものでした。 これはロマン主義的な古径の芸術のベースを築いているといえます。 1914年、31歳のときに第1回再興日本美術展に『異端』を出品し、入選を果たします。 その後は、日本美術院展が制作した作品の発表の場となっていきました。 古径は展示会へ『阿弥陀堂』『竹取物語』『出湯』『麦』『芥子』と、次々に作品を出品していく中で、情緒的な表現から写実的な表現へと画風が変化していきました。 ヨーロッパ留学により作風が洗練される 1922年、小林古径は西欧美術を研究するべく、日本美術院留学生として前田青邨とともに渡米を果たします。 大英博物館で目にした中国の東晋時代の画家である顧愷之の作品『女子箴図巻』を、模写した経験は、その後の古径の作風に大きな影響を与えました。 東洋画の命は描線であると感じた古径は、描線の表現を極めることを自身のテーマとしました。 留学が終わり帰国した後は、描線へのこだわりをいかんなく発揮した『髪』を1931年の院展に出品しています。 髪を梳く姉妹を題材にしたこの作品では、髪の毛の1本1本が繊細に描かれており、柔らかい皮膚の感覚が伝わってくるかのような魅力があります。 繊細な描線の美しさを表現した作品は、社会的にも高く評価され、古径は1935年に帝国美術会員に、1944年には東京美術学校の教授に就任しました。 新古典主義とは 小林古径は、新古典主義の代表格とも呼ばれている画家です。 新古典主義とは、写生をベースにやまと絵や琳派などの日本の古画を研究し、近代的な感覚を組み合わせて成熟させた作風を描く人々を指します。 小林古径の品格ある画風 小林古径作品の最大の魅力は、端正な描線です。 無駄のない描線は、画面に緊張感を与えてくれ、描いた作品をさらに格調高く仕上げてくれるといわれています。 シンプルでありながらも、洗練された線や形、色彩のバランスが作品をより美しく引き立てています。 古径の描く伝統的な日本画と海外のモダンな感覚をあわせもった作品は、今もなお人々を魅了し続けているでしょう。 小林古径の代表作 小林古径は、代表作が多い画家としても知られています。 その中でも最も注目を集めたのが、『髪』ではないでしょうか。 2002年には重要文化財に指定された作品です。 裸婦画として初めて切手のデザインとして採用された作品でもあるため、一度は目にしたことがある人もいるでしょう。 丁寧に描かれた1本1本の髪の毛は、墨で何度も塗り重ねることで質感と量感を調整しています。 描かれた姉妹の表情からは、気品も感じられる作品です。 『異端』は、古径が31歳のときに制作した初期の作品です。 一つの絵の中で、キリスト教と仏教が交差する様子が、淡い中間色の彩色で美しく表現されています。 『阿弥陀堂』は、第2回再興院展に出品された作品です。 薄明かりが灯る中に平等院鳳凰堂が描かれている作品で、当時の古径には珍しく建物のみをモチーフにしています。 豊かな色彩が魅力的な作品です。 小林古径に惹かれた人々 小林古径の作品に惹かれた人々の中には、著名な方も多くいます。 特に古径のファンとして知られているのが、原三渓や志賀直哉です。 原三溪 原三渓は、実業家であり美術収集家で、横浜の三渓園を造園した人物です。 生糸貿易により財を成した人物でもあり、小林古径の支援者でもあります。 古美術の収集趣味があった三渓は、同じ時代に活躍する優れた画家を見出し、支援する美術界のパトロンでもありました。 古径は、三渓の招待を受けて仏画ややまと絵などの貴重なコレクションを直接鑑賞し、研究に役立てていきました。 この支援により、古径の芸術は大きく発展したといってもいいでしょう。 志賀直哉 志賀直哉は、白樺派の文豪で『暗夜行路』を書いたことで有名な人物です。 直哉もまた、小林古径の作品を大変高く評価していました。 古径は直哉が書いた作品の題字や挿絵をたびたび手がけています。 古径は画家として活動していたころから実業界や知識層の評価を受けていました。 当時から現代まで、多くの人々に親しまれてきた古径は、まさに近代日本画壇を代表する画家といえるでしょう。 また、描かれた作品は今もなお多くの人々の心を揺さぶっています。
2025.01.03
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尾形乾山(1663年-1743年)画家[日本]
尾形乾山とは 生没年:1663年-1743年 尾形乾山は、江戸時代に陶工や絵師として活躍していた人物で、琳派の画家として活躍していた尾形光琳を兄にもっています。 乾山は、呉服商である雁金屋の3男として生まれました。 複数の号を持っており、深省、乾山、霊海、扶陸、逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂などがあります。 一般的には、窯の名である乾山で知られています。 琳派を代表する画家である尾形光琳を兄にもっており、乾山が制作した器に光琳が絵付けした合作もいくつか残されていて、いまもなお高い評価を受けているといえるでしょう。 勉強熱心で読書家な質素な暮らしを送る 尾形乾山は、派手好きで遊び人だった兄の尾形光琳とは正反対で、勉強熱心で質素な生活を送っていました。 乾山は、日本の三禅宗の一つである黄檗宗に傾倒しており、質素な暮らしを好んでいたそうです。 生まれは裕福な呉服屋であったため、小さなころから多彩な芸術に触れる機会があり、自由に生活しながら文化的なセンスを養っていきました。 1687年、乾山が25歳のときに父が亡くなり、遺言により屋敷や書籍、金銀などの膨大な遺産を兄と折半で譲り受けています。 しかし、莫大な遺産が手に入っても質素な生活を続けていた乾山は、2年後に洛西双ヶ岡で習静堂と呼ばれる書店を構えて隠遁し、文人生活を送りました。 本格的に陶芸を学ぶ。そして人気を集める 乾山が構えた書店の近くには、京焼の祖と呼ばれていた陶工の野々村仁清の窯がありました。 もともと多くの芸術に触れていた乾山は、陶芸の心得もあったため、仁清から本格的に陶芸を学ぶことに。 1899年、公卿二条綱平から鳴滝泉谷の山荘を授かった乾山は、窯を開いて陶工として生計を立て始めました。 窯が京都の北西である乾の方角にあったことから、窯を乾山と名付け、制作した作品の商標となり、自分自身の雅号としても使用するようになりました。 乾山は、次第に陶工として名が知られるようになっていき、仁清の意思を引き継ぎ京焼を発展させていきます。 当時、画家として本格的に活動を始めていた兄の光琳は、琳派を代表する画家として屏風絵といった作品を制作し、人気絵師としての地位を築き上げていました。 乾山は、琳派の画風を意匠化し、焼きものへ反映させることに成功し、人気を高めていきました。 兄弟合作で多くの作品を制作 1712年、尾形乾山は鳴滝泉谷の山荘近くに立てていた窯を閉じ、二条丁字尾町に移住し、共同窯を借りて多くの作品を制作するようになりました。 また、乾山が制作した器に兄の尾形光琳が絵を描いていたのもこの時期といわれています。 乾山の器は、懐石道具を中心に制作されており、素朴な味わいの中に洗練されたデザインが光る作品に、光琳の自由な絵付けが合わさり、新しい京焼の世界を生み出していました。 1716年、光琳が亡くなったころ、乾山の陶芸家としての生活も不振に陥っており、20年ほど苦しい暮らしをしていたそうです。 1731年に入ると、輪王寺の宮に紹介され江戸の入谷に移り住んだ乾山は、窯を開いて陶芸活動を続けました。 1737年、下野国佐野に招かれ、陶芸指導を行ったそうです。 乾山の陶芸指導は熱心なもので、江戸で「陶工必用」、佐野で「陶磁製方」と呼ばれる陶法伝書を執筆しています。 もともと漢詩や書を好んでいた乾山は、陶磁器に優れた書を残しておりますが、晩年は絵画にも情熱を注ぎ、風情豊かな日本画を描きました。 尾形乾山のシンプルだが魅力のある作風 尾形乾山が陶芸家として活躍していた江戸の初期は、京都で焼きものが生産され始めた時代でした。 鳴滝泉谷の窯で制作された作品には、さまざまな種類がありますが、特に印象深いのが角皿と蓋物です。 角皿そのものを四角いキャンパスに見立てており、絵画をそのまま器に表現するという自由な発想のもと制作されていました。 また、蓋物は籠や漆器から着想を得たといわれており、丸みを帯びた形状が個性的です。 外側には琳派風の装飾的なデザインが施されており、ふたを開けると対照的なモノトーンで落ち着いた色合いの意匠が表現されている特徴的な作品といえます。 尾形乾山の代表作 京焼の祖と呼ばれる野々村仁清に師事した尾形乾山の作品は、素朴ながらも洗練されたデザインが目を引きます。 また、琳派風の絵付けも特徴の一つです。 『銹絵観鷗図角皿』 『銹絵観鷗図角皿』は、尾形乾山と尾形光琳の兄弟合作作品です。 乾山が得意としていた角皿の作品であり、1984年に重要文化財に認定されています。 外側には雲唐草が、内側には枠取りした牡丹文と雲唐草が描かれています。 兄弟合作の角皿作品は、現在20点ほどが見つかっていますが、その中でも『銹絵観鷗図角皿』は光琳の軽妙な筆致が光る作品であり、裏面に大書された乾山の銘文の見事さも相まって、兄弟作品の中でも代表格の一つといえるでしょう。 『銹絵寒山拾得図角皿』 『銹絵寒山拾得図角皿』は、光琳が京都に戻ってきてから亡くなるまでの7年間のどこかで制作されたといわれています。 正四方の一対の角皿で、縁は切立縁で、底部の周縁を面取りに仕上げているのが特徴です。 2つとも見込周縁を界線で囲んでおり、中には人物図が描かれています。 また、低い立ち上がりの内側には雲唐草文、外側には中央円窓内に五弁の花文が描かれており、両側に雲唐草文が描かれている構成です。 『色絵竜田川図向付』 『色絵竜田川図向付』は、皿の上に金彩で縁取られた赤や黄色、緑などの鮮やかな紅葉が重なり合って描かれており、銹絵で竜田川の流水文が描かれている特徴があります。 鮮やかな紅葉の色彩と、躍動感ある水しぶきが見る者の目を惹きつけます。 十客すべての高台に乾山の名が記されていますが、筆跡が明らかに異なっているものもあり、複数の職人によって制作された作品ではないかとする説もあるのです。 制作時期は明らかになっていませんが、工房形式をとっていた二条丁子屋町時代の作品と想定されています。 『花籠図』 『花籠図』は、日本画作品で、江戸に移住した晩年に制作された作品といわれています。 3つの籠が墨で描かれており、ススキや菊、桔梗、女郎花などが入れられていて、鮮やかな色彩で秋の草花が描かれているのが特徴です。 空にはうっすらと暗雲が立ち込めており、寂しげな風情が感じられる作品といえます。 画面上部には、三条西実隆の和歌が秋風に吹かれたような流れる筆致で書かれており、秋の華やかさと詫びた季節を巧みに表現しています。 乾山の日本画の中でも、代表作といえるもので、重要文化財にも認定されている作品です。
2025.01.03
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今泉今右衛門(-)陶芸家の名跡[日本]
有田焼の窯元である今泉今右衛門とは 今泉今右衛門とは、江戸時代から受け継がれている、現在の佐賀県である肥前国の陶芸家の名跡です。 名跡とは、代々継承される名前のことで、今泉今右衛門は現在14代まで続いています。 370年の歴史と伝統を誇る窯元で、江戸時代に鍋島藩から将軍家へ献上する品として造られた色鍋島の御用赤絵師を継承した家系です。 また、調合や技術は一子相伝の秘宝として保護されていました。 明治になると藩からの保護を失い、当時の当主である10代今泉今右衛門は、生地から赤絵付けまでを一貫して制作する体制を作り、経済的・技術的に苦しみながらも、12代まで3代かけて江戸時代の色鍋島の復興を成功させました。 そして、のちに今右衛門窯の技術は、国の重要無形文化財の保持団体として認定を受けています。 11代今泉今右衛門は、絵を描くのが得意であったため、10代までの伝統的な赤絵技法に加えて、色鍋島や古伊万里の復元に貢献しました。 10代を手伝い窯焼きを行う一方で、行商にも奔走していたそうです。 歴代今右衛門の中で、最も名工の誉れが高い人物で、絵付けにおいては右に並ぶ者はいないとまでいわれるほどです。 12代今泉今右衛門は、代々受け継がれてきた伝統や古典美を大切にしながらも、妥協を許さない職人気質な性格もあり、独自の視点で格調高い革新的な作品を制作しています。 古陶磁の目利きでは、右に出る者はいないといわれるほど、研究熱心な人物であったそうです。 13代今泉今右衛門の時代には、江戸時代から伝わる技術はそのままに、伝統工芸として現代の人々に広く知ってもらうためには、新しい仕事をしなくてはならないという考えのもと、色鍋島の技術に芸術性を見出していきました。 13代今泉今右衛門は、現代の色鍋島のもととなる吹墨や薄墨、緑地の技術を確立し、1990年に国の重要無形文化財保持者の認定を受けました。 現当主である14代今泉今右衛門は、江戸時代より継承され鍋島でよく使用されていた「墨はじき」と呼ばれる白抜きの技法を用いた作品で、現代の色鍋島の品格や風格を追い求めています。 焼き物・今右衛門窯の特徴 今右衛門窯は、日本が誇る有田焼の三大窯元の一つです。 今右衛門窯の特徴を知ることで、今泉今右衛門の魅力にも触れていきましょう。 歴史ある窯元が代々受け継いできた技術や作品を鑑賞することで知見を深められるでしょう。 今右衛門窯は佐賀藩鍋島の御用達がルーツ 今泉今右衛門は、代々鍋島焼の中でも色鍋島の伝統技術を継承してきた窯元です。 色鍋島とは、藍色の絵の具で下絵を描いて焼き、赤や黄色、緑色の色で上絵を描いた焼き物を指しています。 色鍋島を制作する今泉今右衛門は、もともと佐賀藩の御用赤絵師を務めていた家系で、技術を後世に残すために今泉今右衛門に代々継承していったのが始まりといわれています。 日本で初めて赤絵付けの技法を取り入れたのは、酒井田柿右衛門と呼ばれる人物です。 また、絵付けの柄をインテリアやアクセサリーなどに発展させたのが源右衛門です。 この2人は、有田の三右衛門と呼ばれており、有田焼の歴史において欠かせない人物とされています。 色鍋島の伝統技術を用いて作られた色絵磁気は、江戸時代ではほとんど市場に流通していなかったといわれています。 主に将軍家や宮中への献上品や、大名への贈答品として扱われていました。 伝統技術である色鍋島により制作された作品は、柞灰釉の青みのある釉薬を使用するのが特徴です。 今右衛門窯特有の「黒はじき」とは 黒はじきとは、白抜きと呼ばれる印刷や染色で文字もしくは模様の部分だけを白地で残す技術を指します。 江戸時代からある技術ですが、当時はあまり活用されていませんでした。 利用する人が少なかったこの黒はじきの技術を利用して色鍋島を作ったのが、今泉今右衛門家なのです。 黒はじきでは、まず文様の線画を墨で描いていき、その上から染付や薄墨の絵の具を乗せていきます。 墨は膠で固めているため、線画の部分だけ絵の具をはじくようになっています。 窯で焼くと墨は燃えてなくなり、磁肌の色が白抜きになる仕組みです。
2025.01.03
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鏑木清方(1878年-1972年)画家[日本]
品格のある美人画で名を広めた鏑木清方。 はじめは挿絵画家として活動を始めたのち、肉筆画の技術も高めていきます。 浮世絵をベースとしたはっきりとした姿や明るい色彩の美人画を手がけていきました。 清方は、繊細な美人画を得意としていましたが、自身が慣れ親しんだ庶民の暮らしや町並み、そこで暮らす人々、文学などさまざまなジャンルの作品も描いています。 美人画の名手「鏑木清方」とは 生没年:1878年-1972年 鏑木清方は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本画家です。 93歳で亡くなるまで、生涯絵を描き続けました。 上村松園と並び、美人画の名手として称され、最後の浮世絵師とも呼ばれています。 美人画以外にも、多くの風俗画や文学作品も手がけています。 どこか懐かしさを覚える作品は、庶民から大きな共感を得ました。 また、挿絵画家としても活動しており、泉鏡花や尾崎紅葉などの文豪たちとも親交がありました。 作風に苦悩する日々を送る 鏑木清方は、東京の神田に生まれました。 父の条野栽菊は、やまと新聞や東京日日新聞の創刊に携わった明治初期のジャーナリストです。 下町育ちであることや、父の仕事の関係上、清方は小さなころから噺家や浮世絵師などの文化人とかかわりがありました。 特に縁の深かった噺家・三遊亭円朝の勧めで、13歳のころに無残絵で有名な月岡芳年の弟子である浮世絵師の水野年方の門下となりました。 水野年方は、43歳で亡くなり短命ではありましたが、浮世絵の技術を生かし日本画壇でも高い評価を得ています。 清方は、のちに15歳で年方より「清方」の号を授かります。 年方は、17歳ごろからやまと新聞に掲載されている落語の口述筆記の挿絵画家としてデビューしました。 23歳のころ、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家の泉鏡花の『三枚續』の口絵と装幀を依頼され、清方と鏡花は親交を深めていきます。 これがきっかけで清方自身も文学への造詣を深めていき、随筆集を手がけています。 日本画への興味も高まり、文学から着想を得た日本画を多く制作しました。 25歳ごろには、文芸界で有名な文藝倶楽部の口絵を飾るまでになり、挿絵画家としての土台を固めていきます。 しかし、当時挿絵は、芸術とは認められていませんでした。 浮世絵の地位もさほど高くなかったため、絵画芸術とは何であるかに苦悩する日々を送っていました。 日本画壇で精力的に活動する 鏑木清方は、画壇にて積極的に作品を出展し、精力的な活動を続けていました。 37歳のときには、第9回文部省美術展覧会に『霽れゆく村雨』を出品。 みごと最高賞を受賞しています。 49歳のときには、帝国美術院展へ出品した『築地明石町』が、審査員から高い評価を受けて、帝国美術院賞を受賞しました。 この作品をきっかけに、清方の名が世に広まったといえるでしょう。 52歳のときには、第11回帝展に恩人である噺家を描いた『三遊亭圓朝像』を出品。 この作品は、2003年に重要文化財にも指定されました。 画家として活躍する一方、清方は審査員としても画壇に貢献していました。 41歳のころには、第1回帝展の審査員を、59歳では帝国芸術院会員、68歳で第1回日本美術展覧会の審査員を務めるなど、のちの画家を育てる取り組みにも積極的に参加しています。 鏑木清方の画風 鏑木清方は、気品あふれる美しい美人画が有名ですが、風俗画や文学にかかわる作品も制作していました。 優れた画力をもつ清方の作品は、繊細で美しい描写が魅力的です。 美人画の大家として人気を博す 鏑木清方は、美人画を得意とする画家でもあります。 西洋文化の影響を受け、新しい風俗や絵画表現も取り入れています。 浮世絵に見られる江戸時代の女性美を研究し、独自の風俗美人画を確立させました。 清らかで優美かつ、艶のある品格を備えた美人は、多くの人を魅了しています。 清方は、高い画力を兼ね備えていたため、繊細な筆致で女性の内面を引き出すような描写を実現できたといえるでしょう。 清方は、幼いころから多くの文化人に囲まれて育ったため、充実した教養を受けていたと考えられます。 その教養があったからこそ、洗練された気品のある女性を描けたのではないでしょうか。 地域や文学を題材にした作品も多く手がける 鏑木清方は、美人画だけではなく風俗画や文学を題材とした作品も多く手がけています。 芸術を模索し続ける中で、自分が生まれ育った江戸の下町の町並みや、庶民の暮らし、人情や風情などの日常も描きました。 また、関東大震災以後に失われつつあった明治の町並みを題材にした作品も多く制作しています。 挿絵を担当していたこともあり、文豪の泉鏡花とも親交があり、そこからつながり多くの小説家と交流を重ねていました。 愛読していた樋口一葉をはじめ、文学を取材して手がけた作品も多くあります。 ついに発見!鏑木清方の3部作 鏑木清方は、『築地明石町』を制作したのちに、姉妹作として『新富町』と『浜町河岸』の2作品を発表しており、全3部作として親しまれていました。 『築地明石町』 『築地明石町』は、3部作の中で最初に制作された作品です。 帝国美術院展にて帝国美術院賞を受賞している作品で、清方の名を日本を代表する画家として広めた作品でもあります。 1975年以降、所在がわかっていませんでしたが、2019年に東京国立近代美術館の捜索によって発見され、所蔵されました。 『築地明石町』に描かれている女性のモデルは、清方夫人の女学校時代の友人である江木ませ子です。 背景には、水色のペンキが塗られた洋館の垣根や朝顔が描かれています。 また、着物ではありますが髪をイギリス巻きにしている様子から、明治20年代から30年代の人々の生活の様子が目に浮かぶ作品です。 『新富町』 『新富町』は、『築地明石町』から2年後に描かれた作品です。 前作と同じく美人画で女性の全体像を描いています。 モデルは、つぶし島田の髪型から芸者であると推測できます。 新富町は、関東大震災が発生する以前までは、府内有数の三業地の一つでした。 そのため、町中は歌舞伎小屋があり賑わっていたそうです。 作品に描かれている女性は、雨が降る中、斜めに雨傘を差し、うつむき加減で歩いています。 うなじや雨傘を差す所作からは、上品な色気を感じさせてくれます。 『浜町河岸』 『浜町河岸』には、浜町河岸で暮らしているであろう庶民の娘が描かれています。 娘が扇を手に持っていることから、稽古の帰りの様子を描いたと考えられるでしょう。 銀杏返しの髪型に、白足袋と日和下駄。 振袖の文様はシンプルで町娘にふさわしい雰囲気で描かれている作品です。
2025.01.03
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北大路魯山人(1883年-1959年)画家・陶芸家・書道家[日本]
多彩な才能で活躍した「北大路魯山人」とは 生没年:1883年-1959年 北大路魯山人とは、多彩なジャンルの芸術に精通していた人物で、篆刻家や画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家などさまざまな顔を持っていました。 魯山人が手がけた陶芸作品は、20万~30万点にもおよぶといわれています。 この点数は、プロの陶芸家が生涯で手がける制作総数を優に上回っており、ほかの芸術作品も制作していた魯山人がどれほど優れていたかを物語っているでしょう。 魯山人は、書や篆刻、絵画などでも優れた作品を多く残しており、現在でも美術市場で高い人気を誇っています。 士族の家柄に生まれるが貧しい幼少期を過ごす 北大路魯山人は、上賀茂神社の社家である北大路清操と、同じく社家である西池家の出身の登女との間に次男として生まれました。 士族の家柄ではありましたが、生活は貧しかったといわれています。 魯山人が生まれた時代は、今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止になったタイミングで混乱期にありました。 父の清操は、職を探しに東京へ出向いたり、京都に戻ってきたりという生活を送っていました。 しかし、魯山人が生まれる4か月前に自殺してしまい、のちに母の登女も滋賀の坂本村にいる農家に魯山人を預け失踪してしまいます。 農家に残された魯山人は放置状態にあり、1週間後、母に農家を紹介した巡査の妻が連れて帰ることになりました。 このとき、魯山人はまだ出生から5か月後の赤ん坊でした。 巡査の服部家の戸籍に入った魯山人でしたが、巡査の失踪と妻の病死をきっかけに、養家を転々とすることに。 ときには、激しい虐待を受けることもあり、少しでも環境をよくするために、小学校に上がってからは食事係を買って出ました。 食事係として、小さいころからさまざまな食材に触れた魯山人は、食材がもつ多彩な持ち味や旬の食材がもつ魅力などを実感し、料理の基本を学ぶとともに、食にこだわれば心が豊かになると学びます。 10代にして書の才能が開花 北大路魯山人が書と出会ったのは10代のころでした。 ある日、御池油小路西入ル森ノ木町にあった仕出し料理屋の「亀政」の行灯看板を見かけ、そこに描かれていた一筆書きで描かれた亀の絵と、あわせて書かれていた字に心を奪われます。 その絵を描いたのは、亀政の店主の長男であり、のちに京都画壇の総帥として帝展文展で活躍する竹内栖鳳でした。 その後、魯山人は、こづかい稼ぎもかねて一筆書きの書の懸賞に応募を繰り返していきました。 懸賞には、毎回何千何万もの応募が集まっていましたが、魯山人の作品は決まって優秀作に選ばれており、10代ですでに書の才能を開花させていたのです。 また、魯山人は西洋看板の仕事も手がけるようになり、近所では先生と呼ばれていたそうです。 20歳になると、実母がいる東京へ移り住み、母が四条男爵家で女中頭をしていたこともあり、男爵から有名な書家を紹介してもらうといった縁にも恵まれました。 東京で書家を目指す決意をした魯山人は、翌年上野で開催された日本美術協会展の書の部に作品を出品。 隷書の千文字を書いた作品は、見事、褒状一等二席を受賞しました。 弱冠21歳での受賞であり、前代未聞の快挙として注目を集めたのでした。 その後は、朝鮮で1年ほどを過ごし、篆刻や芸術一般を学び、30代に入るころには文人や数寄者、陶芸家、資産家、趣味人などさまざまなジャンルの専門家と知り合うように。 須田菁華窯で陶器の絵付けに挑戦し始めたのも、古美術に精通する金沢の細野燕臺の世話になったこのころでした。 会員制の「美食倶楽部」を立ち上げる 北大路魯山人が37歳になったころ、友人である中村竹四郎と共同で、古美術骨董品店である大雅堂美術店を開きました。 ただ古美術を販売するのではなく、お店で扱っている古美術の器に高級食材を使用した手料理を盛り付けてふるまったところ、財政界で大変話題になったそうです。 これが会員制食堂「美食俱楽部」の始まりであったといわれており、会員数は200人ほどにもなりました。 その後、関東大震災の被害に遭い、大雅堂美術店を失ってしまいますが、2年後に会員制の高級料亭となる「星岡茶寮」を立ち上げます。 料亭は大盛況で、多くの人々が訪れたため、食器が足りなくなる事態に。 魯山人は、美味しい料理にはそれにふさわしい美しさをもつ食器が必要と考え、自ら新しい器の作成に取り組み始めました。 星岡茶寮の会員には、貴族院議長の徳川家達や電力王の松永安左エ門、男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立、作家の志賀直哉、画家の鏑木清方など各界を代表するメンバーの名が連なっていました。 1930年には料亭の会員が1000人を超えるほどの大人気店となりますが、1936年、魯山人の厳しいやり方や態度に不満を募らせた人々によって、魯山人は茶寮を追放されてしまいます。 陶芸家としても活躍を見せる 星岡茶寮を追放されてしまった北大路魯山人は、星岡窯にこもって陶芸家として活動するようになりました。 戦後は、経済的に苦しい日々もありましたが、それでもなお熱心に制作を続けています。 魯山人は、その生涯でおよそ20万~30万点の陶芸作品を制作しました。 陶芸家として活発に制作を進めるようになった魯山人は、銀座に作品を直接販売するための「火土火土美房」を開店させました。 日本人のみならず、在日欧米人からも高く評価され、アメリカ各地で展覧会や講演会が開かれるようになり、世界的に活躍する陶芸家となったのです。 1954年に、ロックフェラー財団の招聘でアメリカ各地を回った際は、パブロ・ピカソやマルク・シャガールを訪問しています。 グローバルに活動する魯山人を高く評価した文部省は、2度、重要無形文化財認定を要請していますが、魯山人は芸術は位階勲とは無縁であるべきという信念を貫き断り続けました。 北大路魯山人は毒舌だった 偉大な芸術家であった北大路魯山人は、歯に衣着せぬ物言いで自分の意見を口にする性格から、不満を持つ人も多かったようです。 美を厳しく追及する姿勢をもち、ときには人を人として扱わない一面もあったといわれています。 しかし、それは魯山人自身が常に高みを目指し続けていたがゆえの厳しさともいえるでしょう。 魯山人の毒舌っぷりは、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄など、有名な芸術家を容赦ないまでに批判するほどでした。 芸術を突き詰め他人に対しても厳しかった魯山人ですが、子どもに対しては優しくコミュニケーションをとっていたそうです。 ある少年が路地に咲いた雪柳を、竹竿で払い落として遊んでいたとき、魯山人が近づいてきて、花にも命があるからそのようなことをしたらかわいそうだと優しく諭したといいます。 魯山人は、自然や小さな生き物が好きで、いつもスケッチをしていました。 少年が、魯山人に対して「昨日も同じものを描いていましたよね?」と話しかけると、魯山人は「すすきも、すすきに寄ってくる虫も毎日違うのだよ」と教えてくれたそうです。 多彩なジャンルの芸術に精通していた魯山人は、毒舌ぶりから周囲に煙たがられてしまう面がありながらも、人間性を凌駕するほどの優れた作品を作り続けました。 魯山人は、1959年に横浜の病院にて76年の生涯に幕を閉じましたが、現在でもその作品や芸術家としての高い評価は揺るがないものとなっています。 北大路魯山人は海原雄山のモデルとなった人物 北大路魯山人とは、多彩な才能を持った芸術家で、稀代の美食家としても知られています。 さまざまな料理が登場するマンガ『美味しんぼ』に登場する美食家「海原雄山」のモデルは、実は北大路魯山人であるといわれています。 『美味しんぼ』は、原作が雁屋哲、作画が花咲アキラによって描かれた有名グルメ漫画です。 累計発行部数は1億3500万部を突破しており、アニメやドラマ・映画化もされ、グルメブームを巻き起こした漫画ともいわれています。 『美味しんぼ』の中でも重要人物の一人とされているのが、主人公・山岡士郎の父であり最大のライバルである美食家・海原雄山です。 海原雄山は、陶芸や書道、絵画、文筆の才能があり、食も芸術の一つと捉えている美食家伽羅として描かれています。 そのキャラクター背景は、まさに魯山人そのものといえるでしょう。 陶芸家としての北大路魯山人 陶芸家として数多くの優れた作品を制作した北大路魯山人。 魯山人が制作する陶芸作品は、自由闊達な絵付けが魅力の一つです。 左右対称に作られた鉢や、美しい正円の皿には、中国の明時代によく描かれていた図柄や日本画家の流派の一つである琳派の意匠が表現されています。 美しく形作られた器の絵付けから、絵の背景にある芸術の歴史を感じられます。 また、魯山人の作品は、豪快な造形美も魅力的です。 俎板皿や木葉皿などのようにろくろを使わずに作られた器のデザインからは、魯山人の激しさが伝わってくるようです。 表面に、加工された凹凸や粘土を切り取った跡があり、大胆な芸術性が見え隠れしています。 美しく形作られた陶磁器とはまた違った力強さが魅力です。 『織部釉長板鉢』 『織部釉長板鉢』は、長さが約50cmにもおよぶ大きな板状の器で、まるで本物の俎板のような見た目をしています。 魯山人にとっては、器全体がキャンパスのようなものであり、このような大作の板皿に本領を発揮しました。 大胆かつ典雅な絵付けや、櫛目の技法が特徴的で、縦横無尽に魯山人独特の世界を展開しています。 釉薬の新緑により奥深さが増しており、波模様の濃淡が複雑な味わいをもたらし、造形や釉薬の変化を楽しめる作品です。 戦後の1946年以降は、織部と同じような器が多く制作されるようになり、大変人気を集めていました。 それまでは、器の表面を滑らかに仕上げるのが一般的とされていましたが、あえて波形に削ったり細かい凹凸をつけたり、変化がもたらされています。 食器の裏側には、おしゃれな切り込みが施されており、食器の裏の底までもが芸術として楽しめます。 底部分にまで見どころを作ったのは、魯山人以外にはいないといわれており、魯山人が美を追求し続けていたことがわかるでしょう。 『雲錦鉢』 雲錦模様とは、春に咲く満開の桜と秋の鮮やかな紅葉を描いた色絵のことです。 日本画の流派である琳派の作品によく描かれていた柄で、京焼の尾形乾山や仁阿弥道八などが、多くの作品に取り入れてきた模様です。 北大路魯山人は、伝統的な雲錦模様を自身の中で再解釈し、作品で表現していました。 鉢の内側は桜の割合がやや多く、外側は小さな紅葉が鋭くそこに向かって描かれています。 その絶妙なバランスから、魯山人が大変近代的なバランス感覚を持っていたことがわかるでしょう。 制作にあたって、美しい正円の鉢や壺、皿などは、ろくろを得意とするほかの職人に制作を任せ、魯山人は絵付けに専念していたそうです。 魯山人は、絵付けを得意としており、描き方に迷いがないといわれています。 絵付けの器には、発色がきれいで入手しやすい信楽土をよく使用していました。 『染付楓葉平向五人』 『染付楓葉平向五人』は、楓の葉をかたどった5枚セットの皿作品です。 お皿全体は薄い青色をしており、表面には顔料の呉須で群青色の葉脈が生き生きと描かれています。 一直線に伸びた模様は迷いのない美しさがあり、軽やかさが魅力の一つです。 余計な柄は一切描かれておらず、料理を引き立たせる造りをしています。 器の裏側は三つ足になっており、中央には「呂」の署名が入っています。 北大路魯山人の評価 多彩な才能を持ち合わせていた北大路魯山人は、さまざまな芸術活動を行っており、中でも陶芸家としての才能が高く評価されていました。 現在でも、全国各地にファンや収集家がおり、魯山人が制作した作品だけを使って料理を提供する料理店があるほどです。
2025.01.03
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酒井田柿右衛門(-)陶芸家[日本]
酒井田柿右衛門とは 酒井田柿右衛門とは、江戸時代から続く肥前国有田の陶芸家で、代々子孫や後継者が襲名している名称です。 柿右衛門の作品は、1640年代に初代酒井田柿右衛門が赤絵を開発し、白磁の美しさと調和性を追求し、1670年代に柿右衛門様式として確立しました。 この美意識は、以降15代にわたって現代まで途絶えることなく受け継がれてきています。 作風を確立した初期柿右衛門 初代から4代までの酒井田柿右衛門を、初期柿右衛門といいます。 初代は、乳白色の地肌に赤系統の上絵を焼き付ける柿右衛門様式という作風を確立させました。 柿右衛門様式の作品は、日本だけではなくヨーロッパにも輸出され、その人気ぶりからマイセン窯などで模倣品も制作されていたそうです。 また、磁器の発祥地ともいわれている中国の景徳鎮窯にも影響を与えており、柿右衛門様式に似せた作品を制作し、ヨーロッパに輸出されていました。 2代と3代は活動時期が重なっており、作風にも大きな変化は見られません。 初代から3代は、ともに大変技量が高かったといわれています。 高水準の量産に成功した中期柿右衛門 5代から7代までの酒井田柿右衛門を、中期柿右衛門といい、17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間活動していました。 5代は、これまでの柿右衛門と比較すると技量が劣っており、鍋島藩からの継続的な発注が差し止められてしまいます。 6代は、意匠や細工に優れていた叔父の渋右衛門の助けもあり、食器類や花器、香炉などのさまざまな磁気製品を高水準で量産することに成功し、のちに6代は中興の祖とも呼ばれるように。 また、1724年になると嘆願書を藩に提出し、臨時発注の一部を酒井田家が引き受けることになりました。 量産に成功し活躍する一方で、濁手作品は高い技術を要するとして、7代以降は制作されなくなってしまいます。 染付の磁器を製作した後期柿右衛門 8代から10代までの酒井田柿右衛門を、後期柿右衛門といい、この時代は染付の磁器をメインに制作していました。 7・8代では、四角い枠の中に福の字が入った角福と呼ばれるマークを施した作品が多く制作されています。 この作品はもともと、明清の陶磁器にあったものといわれています。 11代のころ、角福のマークの商標登録の可否をめぐって争う訴訟が発生し、一時は経済的に困窮してしまいます。 しかし、日本だけではなく海外にも積極的に輸出して耐え忍び、1919年には12代が出資をしてくれている事業家と共同で、柿右衛門合資会社を設立。 一時は美術品制作を志向する12代と会社の経営方針が合わなくなり、関係を解消し、それぞれが柿右衛門作品を制作していましたが、1969年に和解しました。 12・13代は、高い技術を要する濁手作品を復活させるべく活動に取り組んでおり、1953年に初めて濁手作品を発表します。 独自の技術である「濁手」 酒井田柿右衛門が制作する作品に活用されていた「濁手」と呼ばれる独自の技術は、柿右衛門の特徴の一つでもあります。 柔らかくもあり温かみもある乳白色の素地が特徴で、柿右衛門様式の赤絵に最も調和する素地として扱われ、1670年代にその製法が確立されました。 しかし、江戸時代の中期ごろからは、柿右衛門様式に変わって赤や金をふんだんに使う金襴手様式がメインになり、技量不足も相まって濁手の制作は、ストップしてしまいました。 その後、明治・大正と濁手が復活することはなく、昭和に入ってようやく復興の兆しが見え始めます。 12代酒井田柿右衛門と、その子である13代は、長い期間途絶えてしまっていた濁手を復活させるために、柿右衛門家に代々伝わる『土合帳』といった古文書を研究し、試行錯誤を重ねていきました。 そして1953年、ついに濁手の技法復活に成功し、国からも高く評価され、1971年には重要無形文化財に認定されました。 柔らかくて暖かみのある柿右衛門様式 柿右衛門様式は、やまと絵風の花鳥図をモチーフにして、暖色系の色彩で描かれている点と、非対称で乳白色の豊かなスペースがある構図が特徴的です。 上絵のカラーには、赤や黄色、緑をメインに、青や紫、金などが使用されています。 器の口縁には、「口銹」と呼ばれる銹釉が施されている作品も多くあります。 温かみのある柔らかい雰囲気が柿右衛門様式の魅力の一つといえるでしょう。 絵柄は、岩梅に鳥、竹に虎、粟に鶉、もみじに鹿などの典型的なパターンがよく使われています。 絵柄は時代により移り変わっていき、初期のころは明赤絵の影響を大きく受けていましたが、その後は狩野派や土佐派、四条派、琳派などの影響も受けていきました。 近年においては、写生に基づいた現代的な画風が多い傾向です。 柿右衛門を題材とした歌舞伎が作成される 陶芸家として活躍していた酒井田柿右衛門は、歌舞伎の題材にもなっています。 1912年『名工柿右衛門』と呼ばれる演目が、榎本虎彦により制作され、十一代片岡仁左衛門が主演を務めました。 仁左衛門は、11代柿右衛門と親交があり、はまり役であったと評判で、ほかの俳優が演じたころより上演回数が多かったそうです。 なお、『名工柿右衛門』の物語については、史実に基づいたものではなく、フィクションでした。 また、初代酒井田柿右衛門が、夕日に照らされる柿の実をみて赤絵磁器を作ったとする逸話を、友納友次郎が『陶工柿右衛門』、『柿の色』のタイトルで作成し、小学校の教科書にも掲載されました。 しかし、この話は柿右衛門本人のエピソードではなく、オランダにおける陶工の琺瑯彩にまつわるエピソードを柿右衛門にあてはめただけのもので、歌舞伎の『名工柿右衛門』と同様に創作の話です。 人間国宝に認定された14代目酒井田柿右衛門 14代目酒井田柿右衛門は、佐賀県立伊万里高等学校に入学後、祖父の12代柿右衛門に勧められて美術部に所属しました。 高校で絵付けの基礎を習得すると、多摩美術大学日本画科に入学し、日本画を学びます。 卒業後は、地元に戻り父に弟子入りして下積みを重ねていきます。 1982年、父が亡くなり14代目を襲名すると、翌年アメリカ合衆国のクローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフランシスコにて海外で初出品を果たし、サンフランシスコ市長から名誉市民号を授かりました。 14代は日本だけではなく、海外からも高い評価を受けたといえます。 2001年には、重要無形文化財である「色絵磁器」の保持者として、人間国宝にも認定されました。
2025.01.03
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棟方志功(1903年-1975年)版画家[日本]
棟方志功は、明治から大正、昭和にかけて活躍した日本の版画家です。 文字や絵画に美を見出した独特の世界観は、世界的な評価を獲得しています。 書や木版画に見られる力強さ・静寂さは、今もなお多くの人を魅了しています。 人生のほとんどを芸術活動に打ち込んだ志功ですが、一体どのような生涯を送ったのでしょうか。 「世界のムナカタ」で名高い版画家「棟方志功」 生没年:1903年〜1975年 代表作:『二菩薩釈迦十大弟子』『華狩頌』など 棟方志功は、板画を熱心に彫り続けた日本の版画家です。 生まれながらに視覚障害を抱えながらも、黒縁の厚い眼鏡と頭に鉢巻をつけて芸術活動に打ち込む志功の姿は、巨匠と呼ぶにふさわしいでしょう。 57歳で左目を失明、右目も半盲でしたが、その障害を乗り越えて生涯で1万点以上の作品を制作しました。 志功は、作品のアイデアが浮かぶと、何かに取り憑かれたようにすさまじい集中力で制作にあたっていたそうです。 志功の独創的で力強い作品は、国際的にも高く評価され、1952年のスイス・ルガーノの国際版画展で優秀賞を受賞したほか、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネチア・ビエンナーレ展では、最高賞を獲得しています。 日本だけにとどまらないその活躍ぶりから、「世界の棟方」と称されるほどの名声を獲得しました。 昭和45年には版画家として初めて文化勲章を授かっています。 72歳で亡くなった後も、世界各地の美術館には、志功の作品が展示されています。 道ばたの花に感動を覚えた幼少期 棟方志功の出生地は、青森県青森市です。 1903年の明治時代初期に生まれた志功は、幼少期は奔放な少年として過ごしていました。 しかし、小学6年生のとき、ふとした拍子に転んだ先にあった沢瀉(おもだか)という白い花の美しさに感動し、芸術の道に進みます。 小学校卒業後は家業を手伝っていましたが、のちに家業が廃業になってしまいます。 18歳近くまでは、裁判所の給仕として働いていました。 このころから志功は、時間を見つけては写生に打ち込んでいたそうです。 1921年、地元青森市の洋画家小野忠明によって紹介されたゴッホの『ひまわり』の原色版画を見て深い感動を覚え、「わだばゴッホになる」と叫んだといわれています。 志功は、熱狂的なゴッホファンだったのです。 このできごとは、志功の芸術家としての道を歩む決意を固める重要な転機といわれます。 また、地元の絵の仲間たちと共に展覧会を開き、その才能が竹内俊吉(後の青森県知事)に高く評価され、画家としての自覚と決意を一層強くしました。 ゴッホの作品に感銘を受け画家の道に進む 1924年、棟方志功は21歳のときに画家の志を立て上京します。 「帝展(いまの日展)に入選しなければ帰らない」と心に決め、靴直しの注文取りや納豆売りなどをしてお金を稼ぎ、苦労しながら絵の勉強を続けました。 しかし、志功の努力はなかなか実を結ばず、帝展の落選が4年続きました。 挫折を味わいながらも出品を続け、上京して5年目の1928年、第9回帝展に油絵『雑園』を出品し、初の入選に至りました。 川上澄生の版画作品に衝撃を受けた青年期 棟方志功が油絵に対して疑問を持ち始めたのは、『雑園』が帝展に入選する少し前のことでした。 志功は、西洋から伝わった油絵技術で西洋人を超えることが難しいと感じ、より日本固有の表現方法に興味を持ち始めます。 この時期に、志功はゴッホが高く評価していた日本の木版画に着目し、自らもその道を探求することを決意します。 1926年、第5回国画創作協会展で見た川上澄生の木版画『初夏の風』に深く感銘を受けた棟方は、その後版画の勉強に没頭。 1927年に自身初の木版画『中野眺鏡堂窓景』を制作しました。 これは、はがきサイズの風景版画で、志功の版画家としての第一歩を示す作品といわれています。 続く1928年、同郷の画家である下沢木鉢郎の紹介で版画家の平塚運一のもとを訪れ、直接指導を受ける機会を得ました。 その年の第6回春陽展に出品した7点の版画のうち、3点が入選し、これが志功にとって大きな自信につながったそうです。 入選は、志功の版画家としてのキャリアを本格的に確立させる重要なできごとになりました。 この成功を足がかりにして、志功はその後も独自の版画スタイルを追求し続けました。 作品がヨーロッパで認められ「世界のムナカタ」に 棟方志功は1932年、国画会展に出品した4点の版画のうち、3点がボストン美術館、1点がパリのリュクサンブール美術館に買い上げられ、国際的な認識を得る重要な転機を迎えました。 このとき、志功は29歳という若さで世界に飛び出すチャンスを得たのです。 1936年には、絵画技法と文字を融合した版画巻『瓔珞譜 大和し美し版画巻』を出品。 新設された日本民藝館に買い上げられるとともに、柳宗悦や河井寛次郎といった民藝運動の指導者たちとの交流が始まります。 棟方の国際的な評価はさらに高まり、1952年のスイス・ルガノで開催された国際版画展で、駒井哲郎と共に日本人初の優秀賞を受賞。 同年、フランスのサロン・ド・メェにベートーベンの交響曲第5番『運命』をイメージして制作された『運命頌』を中心に出品しました。 1955年、サンパウロ・ビエンナーレに釈迦の優れた10人の弟子を描いた『二菩薩釈迦十大弟子』を出品し、版画部門の最高賞を獲得。 翌1956年には、ヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、「世界のムナカタ」としての地位を確立しました。 1959年には、ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招待でアメリカに渡り、大学での講演や各地での個展を開催しています。 夏休みには、ヨーロッパを訪れてゴッホの墓を訪ねるなど、志功は生涯で4回のアメリカ訪問とインド旅行も経験し、国際的なアートシーンで高い評価を受け続けました。 棟方志功が手がけた版画の魅力 棟方志功本人は、版画のことを「板画」と表現します。 「板が生まれた性質を大事に扱わなければならない」「木の魂というものを直に生み出さなければダメだ」といった思いから、「板」という文字にこだわったそうです。 そのような版画で有名な棟方志功ですが、実は水墨画の肉筆画(1点ものの作品のこと)の作品も多数手がけています。 後述する『無事』を始め、多数の作品を制作しました。 版画と同じく棟方志功にとって水墨画は、得意な画法の1つだったそうです。 志功が編み出した水墨画の絵画技法を「倭画」と呼び、従来の水墨画より活発で自由度の高いタッチで描かれているのが特徴です。 生涯をかけて作り上げた代表作たち 棟方志功は、国際的な展覧会であるヴェネツィア・ビエンナーレを始めとした、国内外の美術展で高い評価を獲得しています。 日本を代表する版画家として活躍し、1970年には文化勲章を受章しました。 なお、1945年、第二次世界大戦中の東京大空襲で、棟方志功が制作した作品の大半が失われました。 住居も同じく失ってしまったため、富山県福光町に疎開します。 この間に、多数の代表作を制作したといわれています。 二菩薩釈迦十大弟子 棟方志功の代表作『二菩薩釈迦十大弟子』は、1948年に制作された版画です。 志功は、この作品を「私が彫っているのではありません。仏様の手足になって、ただ転げ回っているのです」と表現しました。 下絵なしでわずか1週間で仕上げたとされるこの大作は、釈迦の優れた10人の弟子を指し、両端に普賢延命菩薩と文殊止利菩薩が配されています。 文殊菩薩と普賢菩薩の姿とともに、釈迦の十大弟子が彫られており、棟方志功の芸術的才能と独創性が存分に表現されています。 この作品は、1955年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で、版画部門最高賞、翌31年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で国際版画大賞を受賞し、志功の代表作とみなされました。 「世界の棟方」としての地位を確立した、決定的な作品といえます。 流離頌板画柵 棟方志功は、富山県八尾町に疎開していた歌人・吉井勇の歌集『流離抄』の短歌から31首を題材とし、歌から感じた思いを板画にした作品を制作しました。 これが『流離頌板画柵』です。 志功は、江戸時代から日本が板画の国であり、板画なくしては成り立たないと確信し、油彩画から木版画に転じて制作に没頭したそうです。 その過程で、「この道より我を生かす道なし、この道をゆく」という言葉が志功の座右の銘に決まったとのこと。 棟方は文字を絵と同次元に扱い、統合させた独自の板画を確立し、歴史と伝統を踏まえた温故知新的な作品を生み出しました。 無事 1945年、空襲により東京の自宅や版木のほとんどが失われた棟方志功は、疎開先の富山県福光町にて、水墨画の作品も手がけます。 福光町では民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦が感銘を受け、日本民芸館のコレクションにと所望したそうです。 なお、無事の文字は本来「大事に至らない」といった意味を持ちますが、禅における解釈では「人間はすべて仏性を本来そなえている身であり、それに気づけば外へ向かって仏を求める心が止む」とも捉えられています。 棟方志功の師である柳宗悦が思想家であった背景から、当作品は後者の意味を含めて作られたのかもしれません。 華狩頌 『華狩頌』とは、馬上の3人が狩のポーズをとっているさまを描いた木版画です。 弓矢を構えるポーズをしていますが、その手には何も持っていません。 これは獣を狩るのではなく、心で花を狩り、美を射止めることを表現した作品といわれています。 版画いっぱいに施された装飾とユニークな鳥獣のポーズから、華やかさと躍動を感じられます。 運命頌板画柵 『運命頌板画柵』は、棟方志功がベートーベンの交響曲第5番『運命』をイメージして制作した版画作品です。 ニーチェの詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を4題に構成し、版木を墨で真っ黒に塗り、丸刀だけを使って直接彫り進めたもので、下絵がそのまま板画になる方法で制作されています。 当作品は、パリで開催されたサロン・ド・メェにおいて招待された4連で構成される作品で、別名『美尼羅牟頌板画柵』とも呼ばれました。 棟方志功の作品は今もなお世界的な評価を得ている 棟方志功の作品は、文字と絵画の融合、宗教観の取り入れなど、独自の世界観を展開した作品が多数存在します。 志功の生涯は戦火や試練に満ちていましたが、その創作意欲が揺るがなかったからこそ、世界的な成功を収めたといえるでしょう。 志功は、後世の版画に多大な影響を与えた世界的な偉人です。
2025.01.03
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草間彌生(1929年-)アーティスト[日本]
草間彌生は、世界的な知名度を誇る、近代アートの芸術家です。 独創的な技法とテーマで知られ「前衛の女王」とも呼ばれています。 代表作は、水玉やかぼちゃをモチーフにした作品たちで、現在も多数の作品を出品しています。 今もなお芸術の精をだしている彼女ですが、芸術家への道のりは長く険しいものだったそうです。 世界的な芸術家「草間彌生」の半生 生年:1929年〜 代表作:『かぼちゃ』『赤い靴』など 草間彌生は、長野県松本市出身の近代アーティストです。 幼少期を日本で過ごし、1957年にニューヨークへ渡米、1973年に日本へ帰国するなど、行動力とアクティブさがあることでも有名です。 草間彌生の作品といえば、水玉やかぼちゃをモチーフにした絵画やモニュメント。 見る人に衝撃を与える個性的な作品たちは、世界的な評価を獲得しています。 今も現役の芸術家として活動しており、有名ブランドとコラボしたアイテムも発売されています。 幻視・幻聴に悩まされた幼少期 草間彌生は幼少期よりスケッチを好んで描いていましたが「統合失調症」という精神病に悩まされ、頻繁に幻聴や幻覚の症状が起こっていたそうです。 彌生が絵を書いていたのは、そういった不安や恐怖を紛らわすためだったともいわれています。 幼少期から描き続けた彌生は、16歳になるとその才能が開花し始めます。 京都市立美術工芸学校に入学して日本画を学びましたが、彼女の前衛的な作品は、当時の画壇たちに理解されず、彼女もまたそのことに納得していませんでした。 もともと彼女の憧れは、女性画家の「ジョージア・オキーフ」。 憧れの人がいるところに行きたい気持ちと日本画壇たちへの失望もあいまって、27歳のころには単身でニューヨークへ飛び立ちます。 渡米により前衛芸術塚として開花する 今でこそ世界的な評価を受けている彼女ですが、渡米直後は苦労が多かったようです。 制作活動には旺盛でしたが、生活は困窮を極め、寒さと飢えをしのぎながら制作を行っていたといいます。 1959年には初の個展を開催しており、当時彼女は30歳でした。 『無限の網』という作品名の大型絵画を中心に計5枚を展示し、これがきっかけで芸術家としてのキャリアがスタートします。 その後、反戦運動を模した作品や男根状のオブジェなど、衝撃的なテーマを持った作品たちは、著名な評論家の目にも止まり、一躍有名芸術家として取り上げられていきます。 彼女自身も、このころに「単一のモチーフによる反復と増殖」という独自の芸術性を確立し始めたそうです。 その後、ニューヨークやヨーロッパを中心に数々の展覧会に参加、数々の受賞を果たします。 1960年代には「前衛の女王」の2つ名で呼ばれ、近代アートの代表格にまで上り詰めました。 帰国後は活動の幅を広げる 制作活動の全盛であった彼女ですが、1973年にパートナーのジョゼフ・コーネルが逝去したことに大きなショックを受け、体調を崩し帰国します。 しかし、当時の日本で彼女の作品は理解されず、不遇の時代を過ごしたそうです。 また、帰国は療養も目的の1つでしたが、当時のマスコミからスキャンダル的な扱いを受けていたといいます。 そのような中でも芸術活動が衰えることはなく、コラージュ作品や版画など別ジャンルにまで幅を広げ始めます。 また、このころから小説家として活動を開始し、1978年にデビュー作『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表しました。 80年代には東京を中心に定期的な個展を開き、作品を発表。 理解ある人たちが徐々に増え、また海外の評判が日本にも浸透し始めたことから人気を獲得していきます。 当時、彼女は50代でした。 1989年にはニューヨークで大規模なギャラリーを開催。 この個展をきっかけに、海外人気が再燃し始めます。 1993年には、国際美術展覧会「ヴェネツィア・ビエンナーレ」で初の日本代表として個展を開き、一躍世界的な芸術家に。 その後も数々の国際展に出品し、彼女の芸術家としての地位が決定付けられました。 なお、彼女の象徴ともいわれる野外彫刻作品『南瓜』が登場し始めたのは、1994年のことです。 彼女の野外彫刻が評価されるきっかけともいえる作品で、現在でも世界各地で彼女の野外彫刻が展示されています。 2017年に自身の作品を揃えた美術館を開館 2017年には、東京新宿に「草間彌生美術館」が開館。 こちらでは、彼女の主要な作品たちや制作資料が展示されており、芸術活動に精をだしていたその半生を見られます。 2024年現在、草間彌生当人は御年95歳です。 今も精神病院に通いながら、アトリエで制作に励んでいるといいます。 歴史的な芸術家の中には、晩年まで作品を作り続けた人物も珍しくありません。 草間彌生本人もまた、歴史に名を刻む生涯現役の芸術家といえるでしょう。 草間彌生の作品が見られるアートスポット 「前衛の女王」と呼ばれるほど独特な世界観・衝撃的なテーマ性で人々を魅了する草間彌生ですが、著名な作品は『南瓜』だけではありません。 この作品は彼女が60歳以降のときに制作されたもので、作品類の中でも比較的新しい部類といえます。 そのような彼女の作品が見られるのは、東京新宿の「草間彌生美術館」や国際展だけではありません。 例えば、東京都庁舎に設置してあるグランドピアノは、草間彌生監修で黄色と黒の水玉模様のデザインがあしらわれています。 また、千葉の木更津にある「クルックフィールズ」には、彼女の空間芸術の代表作である『無限の鏡の間- 心の中の幻』が展示されています。 野外彫刻作品においては、青森県十和田市現代美術館・長野県松本市美術館・三重県TAOYA志摩でもその作品を閲覧可能です。 草間彌生の作品たち 草間彌生の作品は、絵画・空間芸術・野外彫刻など、幅広いジャンルのものが存在します。 水玉やかぼちゃを始めとした彼女の作品たちは、見る人に衝撃を与えるほどの独創性が魅力です。 特に、水玉のデザインは有名ブランドアイテムのデザインに用いられることもあり、高い価値を誇っています。 南瓜 1994年以降、全国各地に展示されている『南瓜』は、草間彌生を象徴するともいわれる作品です。 水玉模様である点は共通していますが、デザインやカラーリングは各地のかぼちゃによって違います。 『南瓜』が野外彫刻として初めて登場したのは1994年ですが、実はかぼちゃの作品自体はこれが初めてではありません。 そのルーツは、京都市立美術工芸学校時代に全信州美術展覧会へ出品したものともいわれています。 草間彌生本人もかぼちゃに対して強い愛着があり、そのフォルムに芸術的要素を見出したそうです。 どこかの施設で水玉模様のかぼちゃを発見したら、まず草間彌生の作品とみてよいでしょう。 ナルシスの庭 『ナルシスの庭』は、1966年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレにゲリラ参加したときの空間芸術作品です。 突如として会場に現れて作品を展示し、その後通行人へ作品に使ったミラーボールを販売したとのこと。 展示だけでなく販売も作品の内と解釈されており、これは芸術を商業化する世間の風潮に対する批判がテーマだったといわれています。 当時の草間彌生は、反戦運動を始めとした挑戦的なテーマを扱うことが多く、ナルシスの庭はメディアでも大きな話題を呼びました。 これをきっかけに彼女の名がヨーロッパ中に広まったともいわれています。 ナルシスの庭はゲリラ的に作られたため、現在では見られない作品です。 しかし、2000年代に何度か披露されたこともあるため、今後、国内もしくは海外で見られる機会があるかもしれません。 黄樹 『黄樹』は、1994年に長野県信濃美術館で展示された絵画作品です。 鈍い黄金色の根と思わしき物体が、複雑に絡み合っています。 細部をよく見ると、根の一つひとつにこまかな水玉模様が。 不気味な雰囲気と生命力を感じさせる本作品は、何をモチーフにした作品なのかは、いまだ明かされていません。 『黄樹』という作品名からおそらく根っこであると予想されますが、実際のところは判明していないのです。 本作品は、思慮をめぐらすものではなく、直感的に眺める作品といえるでしょう。 赤い靴 『赤い靴』は、2002年に制作された彫刻作品です。 鹿児島の「霧島アートの森」に、今もなお展示されています。 赤いハイヒールをモチーフにした本作品は、大人ほどの高さがある巨大なアートです。 赤と水玉のカラフルな模様は、ガラス張りの施設内で一際目立ちます。 草間彌生にとってハイヒールは「女性の象徴」として扱われることが多く、アクリル画作品にもいくつか登場します。 単身でニューヨークに行き波瀾万丈の人生を歩んできた彼女にとって、ハイヒールは強い思い入れのあるモチーフといえるでしょう。 今もなお現役で活動し続ける草間彌生 草間彌生は、今もなお現役の芸術家です。 90歳を超えてなお芸術に人生を捧げる彼女は、歴史に名を刻む人物といっても過言ではありません。 彼女の作品は全国の美術館で見られますが、代表作や新作を見るのなら草間彌生美術館に行くのがよいでしょう。 気になる方は、全国にある数々の前衛的な作品を見て回ってはいかがでしょうか。 年表:草間彌生 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1929(昭和4年) 0 長野県松本市に生まれる。幼少期から水玉模様や幻覚的なイメージに魅了される。 1948(昭和23年) 19 京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)絵画科に入学。 1957(昭和32年) 28 渡米し、ニューヨークを拠点に活動開始。前衛的な作品で注目される。 1962(昭和37年) 33 ソフトスカルプチャー作品『無限の網』シリーズを発表。ミニマリズムやポップアートの先駆者として評価される。 1973(昭和48年) 44 日本に帰国し、松本市に移住。執筆活動や文学的作品にも挑戦。 1993(平成5年) 64 ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表として出展。 2000年代(平成期) 70代 国際的に評価が高まり、多くの回顧展が開催される。代表作『南瓜』シリーズやインスタレーション『魂の灯』を発表。 2016(平成28年) 87 東京・新宿に草間彌生美術館を設立。 2020年代(令和期) 90代 世界各地で大規模展覧会が開催され、現役アーティストとして活動を続ける。
2025.01.03
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ジュール・シェレ(1936年-1932年)画家・リトグラフ家・イラストレーター[フランス]
ポスターの大家と呼ばれた「ジュール・シェレ」とは ジュール・シェレは、フランス出身の画家・リトグラフ家・イラストレーターであり、リトグラフの技法を駆使したポスター芸術で知られる人物です。 彼はアール・ヌーヴォーの先駆者の一人とされ、その作品には躍動感と明るさがあふれる女性たちが描かれています。 この「シェレット」と呼ばれる女性像は、軽やかで優雅な動きといった彼独自のスタイルを象徴する存在です。 彼の作品は、視覚的に一瞬で人々を引きつける力を持ち、ポスター芸術の世界で多大な影響を与えました。 家計を支えるために石版画職人の見習いに ジュール・シェレは、1836年5月31日、パリの貧しい職人の家庭に生まれました。 家計の苦しい中で育った彼は、義務教育を13歳で終え、すぐに家族を支えるために働き始めました。 1849年、13歳から16歳の間、シェレは石版画職人の見習いとして勤務し、技術を学びながら次第に絵画に興味を持つようになります。 石版画の仕事を続ける中で、シェレは美術への学びを深めようと、国立デッサン学校(後に国立高等装飾美術学校)に入学。 ここで基礎を学び、腕を磨きながら、パンフレットやチラシ、ポスターなどの制作に関わるようになりました。 また、音楽出版社向けにカバーのスケッチを販売するなど、さまざまな分野で経験を積みます。 18歳の時にはロンドンに渡り、「Maple & Co.」という家具メーカーでカタログ用の挿絵を担当しましたが、半年後には再びパリに戻り、その後も多くの作品を生み出し続けることになります。 パリで大規模なポスター制作を行う パリに戻ったジュール・シェレは、1858年に大きな転機を迎えます。 この年、フランスの作曲家ジャック・オッフェンバックが手掛けたオペレッタ『地獄のオルフェ』のポスター制作を依頼され、彼の初の大規模なポスター制作が実現しました。 この作品は後に日本でも「天国と地獄」という邦題で知られ、序曲第3部は運動会で流れる曲としても人気があります。 シェレが手掛けたポスターは、登場人物が劇的なポーズで配置され、色鮮やかで視覚的に引き付ける仕上がりとなりました。 大胆な色彩の使い方と生き生きとした構図により、当時のパリで大きな注目を集めることに成功します。 このポスターの成功により、シェレはポスター芸術の分野で名を広め、パリでポスターの第一人者として評価されるきっかけとなりました。 パトロンの援助を受けてリトグラフ会社を設立 1859年、再びロンドンに渡ったジュール・シェレは、そこでポスターや本のカバーなどを手掛けながら経験を積みました。 その中で、香水メーカーの創業者ウジェーヌ・リンメルと出会い、リンメルは彼のパトロンであり友人ともなる重要な人物となります。 シェレはリンメルのために香水のラベルやパッケージデザインを手掛け、互いに良好な関係を築きました。 1866年にはリンメルの資金援助を得て、シェレは念願のリトグラフ会社をパリに設立します。 自らの会社を持ったことで、彼は自身の芸術スタイルをより自由に表現できるようになりました。 設立後の最初の大成功は、1866年に制作した「La Biche au Bois」という劇のポスターで、このポスターによりシェレの名声はさらに高まりました。 彼が制作したポスターは、商業用デザインとしての新しい基準を打ち立て、本の表紙や出生通知書、音楽の表紙、招待状、メニューなど、幅広い分野にインスピレーションを与え続けました。 作風を変化させながら活躍を広げていく 1870年代から1880年代にかけて、ジュール・シェレの作風は次第に変化を見せ、従来のヴィクトリア朝風の繊細なデザインから、より大胆で躍動感のあるスタイルへと進化していきます。 彼の新しいスタイルでは、背景をシンプルにし、視覚的に強いインパクトを与える大きなロゴを配置し、中央には優雅にポーズを取る女性を大胆に描くことが特徴的です。 これにより、作品は鮮やかな色彩と華やかな雰囲気にあふれ、多くの人々を魅了しました。 シェレが影響を受けたのは、ロココ様式の画家であるアントワーヌ・ワトーやジャン=オノレ・フラゴナール、バロックの巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの作品でした。 また、日本の木版画も彼の色使いや構図にインスピレーションを与えたといわれています。 シェレはこうした多様な影響を取り入れることで、独自のスタイルを築き、パリの街中を彩る鮮やかなポスターを通じて、その芸術性を広く人々に浸透させていきました。 万国博覧会でメダルを受賞する ジュール・シェレは、その鮮やかな色彩と陽気な雰囲気で描かれたポスターにより徐々に認知度を高めていきました。 その功績は1879年のパリ万国博覧会で銀メダルを受賞したことで一層評価され、さらに1889年の万国博覧会では金メダルを受賞しています。 シェレの作品は商業的なアートを一段高め、芸術として認められる契機となり、翌年にはフランス政府からグラフィックアートへの貢献が評価され、レジオンドヌール勲章を授与されました。 シェレはポスター制作においてカラーとモノクロの両方で1000枚以上を手がけましたが、1900年以降はポスターから距離を置き、絵画やパステル画に注力するようになります。1912年にはその功績を称えルーヴル美術館から表彰され、パヴィヨン・ド・マルサンでは回顧展が開催されました。 1920年代に入り、シェレは視力の低下により絵を描くことを断念。 緑内障の影響で失明したとされており、1932年に96歳でフランスのニースで静かにその生涯を閉じました。 彼の死後、1933年にはパリのサロン・ドートンヌで遺作展が行われ、シェレの作品は世界中でコレクターに愛され続ける存在となり、その影響力は今なお色褪せることがありません。 さまざまな画家に影響を与えた近代ポスターの父 ジュール・シェレは、従来のモノクロで地味な印象だったポスターとは一線を画し、鮮やかな色彩と躍動感あふれる女性像(通称「シェレット」)を描き出すことで、ベル・エポック期の華やかさと自由な雰囲気を見事に表現しています。 これによりシェレはパリで瞬く間に人気を博し、彼の作品は当時の象徴的な存在として愛されました。 シェレの斬新なスタイルや配色は、後に登場するロートレックやミュシャなどのポスター作家だけでなく、スーラなど油絵画家にも大きな影響を与え、アート界に新たな風を吹き込みました。 さらに、日本でもシェレの影響は多くのポスターやイラストに取り入れられ、彼の華やかなデザインは今もなお人々を魅了し続けています。 また、シェレのもう一つの大きな功績は、ポスターを単なる広告としてだけでなく芸術品として位置づけ、コレクター向けに販売した点にあります。 軽やかさと動きのあるポスター ジュール・シェレのポスターデザインには、軽やかさと動きが重要な特徴として表れています。 彼の作品に登場する女性キャラクターは、陽気で優雅であり、常に動きのある姿で描かれています。 これらの女性は「シェレット」と呼ばれ、シェレが描く女性像の象徴となりました。 しかし、「シェレット」という言葉は特定のモデルを指すものではなく、シェレが描いた軽やかで活気に満ちた女性全般を指す呼称です。 シェレのポスターは、キャラクターたちが画面から飛び出すかのような遠近感を巧みに使い、華やかな舞踏会のシーンを活気づけ、大衆に親しみやすく伝えることに成功しています。 その色彩は鮮やかで、人物の運動性や空気遠近法を駆使して、立体感や奥行きを誇張することで、視覚的に観る者の目を引きつけます。 このように、シェレのポスターはその明るくダイナミックな表現を通して、時代の精神を具現化した芸術作品として評価されています。 ジュール・シェレが描いた2つのムーラン・ルージュ 「ポスターの父」と称されるジュール・シェレは、1889年にキャバレー「ムーラン・ルージュ」の開店を告げるポスター『ムーラン・ルージュ』を手がけました。 この年はエッフェル塔が完成した年でもあり、パリの文化が華やかさを増した時期です。 ポスターには、フランス語で「赤い風車」を意味するムーラン・ルージュの象徴である赤い風車を中心に、人々が軽快に向かっていく様子が描かれており、パリの夜の賑やかさが見事に表現されています。 そして、シェレは1891年に再びムーラン・ルージュを題材にした作品を発表しました。 このポスターに描かれているのは、当時ムーラン・ルージュで絶大な人気を誇ったダンサー「ラ・グーリュ」だと考えられます。 同年に制作されたトゥールーズ・ロートレックの『ムーラン・ルージュ・ラ・グーリュ』にも同じダンサーが登場しており、彼女の人気ぶりがうかがえる点も興味深いところです。 この二つのポスターは、シェレがいかに時代の流行を反映しながら作品を手がけていたかを示すとともに、当時のパリの活気を今に伝える貴重な芸術作品として評価されています。 年表:ジュール・シェレ 西暦 満年齢 できごと 1836 0 フランス、パリにて誕生。父は植字工で、リトグラフ技術に興味を持つ。 1849 13 リトグラフ工房で修業を開始し、宗教画制作にも従事する。 1859 23 ロンドンに渡り、カラーリトグラフ技術を習得。 1866 30 パリに戻り、ポスター制作を本格的に開始。『オルフェ』を制作し注目を集める。 1870年代 30代 華やかで躍動感のある女性像「シェレット」を確立し、ポスター界で名声を得る。代表作『モン・サン・ミッシェル』などを制作。 1890 54 代表作『カカオ・ララ』を制作。ポスターアートを芸術の一形態として確立する。 1890年代 50代 アール・ヌーヴォーの先駆者として活躍。リトグラフ技術の革新と普及に貢献。 1932 96 南仏ニースにて死去。ポスター芸術の父として広く認知される。
2025.01.03
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